第十話 領地へ
雪解けの水が側溝を流れる朝、馬車は侯爵邸の門を出た。
御者席には老執事が選んだ年嵩の男が座り、馬は二頭。速さより揺れの少なさで選ばれた馬車だった。座席には厚い毛布が重ねられ、足元には湯を入れた陶器の壺が三つ並んでいる。窓は、指一本ぶんだけ開けてあった。
「寒くありませんか」
「はい。あったかいです」
レオンは、エマと並んで座っていた。向かいにはマーサがいる。マスクを付け、膝の上に記録用の紙束と鉛筆を抱えていた。
門の前にはディルクが立っていた。
「私は仕事を片づけてから行く」
「承知いたしました」
「無理はするな。少しでも悪ければ、宿で何日でも休んでいい」
「はい。行程は三日見ております」
ディルクは馬車の窓に近づいた。レオンの顔を見て何かを言いかけた。けれど、結局出てきたのは短い言葉だった。
「……行ってこい」
「はい、叔父上」
馬車が動き出した。レオンは振り向いて後ろの窓から、小さくなっていく叔父の姿を見ていた。ディルクは馬車が角を曲がるまで、そこに立っていた。
◆
旅はゆっくりと進んだ。
朝、馬車に乗り、一時間ごとに休憩を取る。まだ日が高い頃に宿を取り、横になって休ませる。エマは宿に着くたびに、まず窓を確かめ、寝具を確かめ、湯を頼んだ。
レオンの病がもし肺結核なのであれば、寝具や食器などから感染することはない。
ただ肺病に対する忌避感の強いこの世界では、肺病患者を泊めることが宿の悪評につながるおそれがある。
エマは宿代とは別に心付けを宿の主人に渡した。
「もし必要であれば、私たちの使った寝具や食器の交換をこれで」
「いいえ、奥様。そこまでなさらなくても」
宿の主人が、困ったように言った。
「お受け取りください」
押し付けるようにして受け取らせる。
エマはただ決めたことを一つずつ、淡々と行った。二日目の夜、レオンが軽く咳き込んだとき、マスクを縫っていたマーサは、青い顔で立ち上がった。
「奥様、これは」
「回数を数えましょう」
エマは落ち着いていた。三度、四度。五度で止まった。額の温度は少し高い気がする。ここには体温計がないからわからない。脈は少し早い。
「明日は出発を遅らせます。昼まで寝かせましょう」
「でも、領地まで、あと」
「急ぎません。着くのが一日遅れても問題ありません。レオン様の体調を見て判断します」
マーサは頷いた。その手は、もう震えていなかった。
◆
四日目の昼、馬車は、坂を登りきった。
「坊ちゃま、見えますよ」
マーサの声に、レオンが窓の隙間に顔を寄せた。
高台のなだらかな斜面の向こうに、石造りの屋敷が見える。屋敷の裏手には、まだ葉をつけていない林が広がり、その先に薄く光る川が一筋、細く流れていた。
空がとても広く感じた。
レオンは何も言わなかった。マスクをはずし窓の隙間から入る風を、深く、ゆっくりと吸い込んだ。そして、一瞬くしゃりと表情が歪む。咳き込むかと思ったが、咳き込まず、笑顔になった。
「……においが、違います」
「どんな、においですか」
「土と、木の……あと、草みたいな」
エマはその横顔を見つめた。
(この子は匂いを思い出しているのかもしれない)
たった八年の記憶の中に、薬と暖炉の匂い以外のものがどれほど残っているだろう。
領地の屋敷は、王都のそれよりずっと質素で、ずっと明るかった。
迎えに出た家令は六十前の穏やかな男で、手紙で受けていた指示をすべて整えていた。エマは案内された二階の部屋を一つずつ確かめた。
南向きの角部屋。窓は二つ。床は板張りで絨毯は薄いものに替えさせた。厚いカーテンは外し、レースと必要なときに閉められる薄手の布だけにした。寝台は窓から日の差す位置に置かれた。
「それから、もう一つ」
エマは家令に頼んだ。
「隣の部屋を私が使います。扉は開けておけるように」
「奥様がそちらで?」
「はい。夜に、何かあればすぐ分かりますので」
家令は一瞬、目を丸くした。それから深く頭を下げた。
「かしこまりました」
荷が運び込まれた。エマの古いトランクも、その中に混じっていた。底の小さな袋のことを、エマは一瞬だけ思い出して、そのまま蓋を閉めた。
◆
その夜、レオンは新しい寝台に横になっていた。
窓はを開けると、夜の空気は王都よりずっと冷たく澄んでいた。星がいくつも見える。
「……エマさん」
レオンが小さく呼んだ。
「はい」
「ぼく、ここで、何をすればいいですか」
エマは寝台の脇に腰を下ろした。
「何もなさらなくていいのですよ。休んで、食べて、眠ること。それが、いまのお仕事です」
「それは病気だからですよね」
「はい。そして、これから元気になるための準備でもあります」
レオンは少し考えるように天井を見ていた。
「じゃあ、元気になったら?」
「はい?」
「元気になったら、ぼくは何をすれば」
エマはその問いにすぐには答えられなかった。八歳の子が自分の未来を、仕事のように尋ねる声だったからだ。
「……レオン様」
「はい」
「何が、したいですか」
レオンは、エマを見た。それから、目を逸らして、毛布の端を、指でつまんだ。
「……分かりません」
「どんな小さなことでも、構いません」
「でも、ぼくがしたいって言ったら、みんなが」
「困りません」
エマは静かに遮った。
「困るかどうかは、あとで大人が考えます。レオン様は、レオン様がしたいことだけ考えてくだされば」
レオンは唇を噛んだ。
「……ほんとうに、分からないんです」
声がかすれていた。
「したいことってどうやって見つけるんですか」
エマは、息を詰めた。エマもわからなかった。
三人目の夫に問われて「何を諦めたのかも、思い出せません」と答えたあの日の自分とレオンが重なった。
エマは、レオンの頭に、そっと手を置いた。
「では、見つかるまで一緒に探しましょう」
「……いっしょに?
「はい。急ぎません。春は始まったばかりです」
レオンはしばらくエマの顔を見ていた。そして小さく頷いた。
「……はい」
エマはレオンの呼吸が深くなるのを待って、静かに部屋を出た。隣の部屋へ入り、扉を半分だけ開けておく。
寝台に座って自分の手を見た。
(探す、と言ってしまった)
それはあの子に向けた言葉であり、同時に自分にも向けた言葉だった。
(私に探せるのだろうか)
エマは寝台に横になり、隣の部屋の寝息に耳を澄ませながら眠りに落ちた。




