第十一話 スープと林檎
仕事が繁忙期に入ってしまったため、こちらの連載は毎週水曜日の更新とさせていただきます。
領地に着いて十日が過ぎても、レオンの食は細いままだった。
朝の粥は三分の一。昼の煮込みは二口。夕方の卵料理は匙を持ったまま、じっと見つめて終わる日もあった。
厨房の料理人は腕のいい男だった。王都の侯爵邸から連れてきた者ではなく、領地で長く勤めている五十がらみの寡黙な人だ。彼の料理は丁寧で、味も申し分なかった。ただどれも、病人のために作られた皿だった。薄く、柔らかく、色も少ない。
エマは残された皿を下げながら思った。
(食べたくないのではない。食べたいものがないのだ)
◆
その日の午後、エマは厨房の扉を叩いた。
「少し、お借りしてもよろしいでしょうか」
料理人は手を止めた。目を見開いたが、何も言わずに半歩下がった。
「奥様が、ご自分で?」
「はい。お邪魔にならないようにいたします。竈の端を、少しお借りできれば」
エプロンを借りて、袖をまくった。竈の前に立つのはいつ以来だろう。三人目の夫の家では料理人に任せていた。四人目のときも。けれど、手は覚えていた。
最初に作ったのは、鶏と根菜のスープだった。
骨付きの肉を時間をかけて煮る。浮いた脂は丁寧にすくう。人参、蕪、玉葱は、舌でつぶせるほどに柔らかく。塩はほんの少し、味を調える程度に振る。そして最後に、乾燥させた香草を指でひとつまみ。
料理人は、黙って横に立っていた。そしてぽつりと言った。
「香草は刺激が強くありませんか」
「毎日刺激があるのは困りますが、何も刺激がないのも飽きてしまいます。食欲を促すためのひとつまみです」
「なるほど」
それだけ言って、彼はスープが出来上がるまでじっと見ていた。
◆
夕食に、エマはそのスープを自分で運んだ。
「今日のスープは私が作りました」
レオンは、寝台の上で、盆を見つめていた。
「……エマさんが作ったのですか」
「はい」
「どうして」
「私が、作りたかったからです」
レオンは、匙を握った。
「……いい匂いがします」
ゆっくりすくって口に運ぶ。一口食べ、そこで止まった。
エマは何も言わずにただレオンの様子を見ていた。
また残すだろうか。それでも構わない、と思っていた。けれど、レオンは匙を置かずに、もう一口すくった。三口、四口……五口目で手が止まった。
「……」
「お口に、合いませんか」
「いえ」
レオンは、スープの表面を見つめていた。
「あったかいです。……それから」
言葉が、途切れた。
「それから?」
「なんだか、おばあさまのにおいがします」
「おばあさま、ですか」
「ぼくの、本当のおばあさま。父様と叔父上のお母様です。小さいとき風邪をひくと、いつもこんな……」
レオンは、そこで口を閉じた。唇が、小さく震えた。
「おばあさまは亡くなってしまったけど……こんな……」
エマは、何も言わなかった。ただ、盆を支える手を、そっと添えた。
「……おいしい、です」
小さな声だった。
「おいしいです。エマさん」
エマは微笑んだ。うまく笑えたかは、分からなかった。
「それはよかった。もう少し召し上がれますか」
「はい」
レオンは、その夜、碗の半分を、自分の手で食べた。この領地に来てから、いちばん多かった。
◆
翌日から、エマは毎日一品だけ、自分で作ることにした。
二日目は卵と牛乳の柔らかい蒸し物。レオンは半分食べて、「もう少し、甘いほうが好きかもしれません」と言った。
エマは手を止めた。
「甘いほう、ですか」
「あ……ごめんなさい」
「いいえ。教えてくださって、ありがとうございます」
三日目は同じ卵と牛乳の蒸し物に蜂蜜を少し垂らした。レオンは全部食べた。
四日目は焼き林檎。五日目は麦のミルク粥に干し葡萄を入れたもの。六日目は白身魚の煮付けに柔らかい人参を添えた。残される日もあった。それでも、エマは同じ顔で皿を下げた。
「これは、お好みではありませんでしたね」
「ごめんなさい」
「謝ることはありません。これで一つ分かりました」
「何がですか」
「レオン様は魚の煮付けより、林檎のほうがお好きだということが」
レオンはぽかんとして、それから小さく噴き出した。
エマは、その声をしばらく忘れられなかった。
◆
十日が経つと、マーサが、帳面を持ってきた。
「奥様。食事の量です。ご覧ください」
紙には、日ごとのメニューが並んでいた。領地に着いた日から三日間は、料理の横に「ひとさじ」「なし」などの文字が並ぶ。その後、食べた量は少しずつ増え、今週は、毎日いくつかの料理名の横に「完食」の文字が並んだ。
そして、紙の端に、マーサの字で、短い書き込みがあった。
『坊ちゃまが、林檎の皮を自分でむいてみたいとおっしゃった』
エマは、その一行を、二度読んだ。
「……むいていただきましょうか」
「でも刃物は」
「柄の短い小さな果物ナイフがありますでしょう。それならレオン様でも扱いやすいのではないかしら」
「刃を少し鈍らせましょうか」
「いいえ、逆です。鈍い刃では余計に力が入ります。力が入ると、もしもの時に思いがけず大きな怪我となります」
マーサは、一瞬迷った顔をした。それから深く頷いた。
「お手伝いします。ただし、手は出さずにということですよね」
「はい。見守るだけで」
その午後、レオンは窓際の小さな卓で林檎の皮をむいた。
手は出さなかったが口は出した。刃の前に指を置かない、ゆっくりと刃を押す……。
皮は途中で何度も切れた。身はいびつに削れた。最後には拳ほどの林檎が、三分の二ほどの大きさになった。
「……ぼろぼろです」
「ええ。ぼろぼろですね。でも、むけました」
「食べてもいいですか」
「もちろんです。どうぞ」
レオンは、ぼろぼろの林檎をかじった。
「おいしい」
その言い方はスープのときと少し違っていた。無邪気な、子供らしい声だった。
マーサがそっと目頭を押さえた。エマは気づかないふりをして、窓の外を見た。
◆
その夜、エマは一人、厨房にいた。
明日のための下ごしらえをしていた。薬草茶の葉を乾かし、干し果物を蜂蜜に漬ける。料理人は先に休ませた。
竈の火だけが、赤く、小さく、揺れていた。
(ここまで、来た)
ほんの十日。けれど領地に着いた日の、あの「分かりません」と言った顔を思うと、遠い道のりのような気がした。
そのとき、扉が小さく軋んだ。
「……エマさん」
寝間着姿のレオンが廊下に立っていた。毛布を引きずっている。
「どうなさいました。眠れませんか」
「喉が、乾いて」
「では水を」
エマは杯に水を注いだ。レオンは両手で受け取り、一口飲んだ。それから、竈の火をじっと見ていた。
「……エマさん」
「はい」
「明日も、作ってくれますか」
エマは一瞬、手を止めた。それからいつもの声で答えた。
「はい。何がよろしいですか」
「……林檎の、あの、焼いたの」
「かしこまりました」
レオンは満足そうに頷いて、毛布を引きずりながら部屋へ戻っていった。
エマはその背中をじっと見つめた。
竈の火が、ぱち、と小さくはぜた。




