第十二話 死神夫人
毎週水曜日更新です。次回は11/11更新予定です。
「……エマさん」
領地に着いて三週間目の夜、レオンは寝台の上で、小さな声を出した。
「はい」
「ぼくのそばに、こんなに長くいて、うつりませんか」
エマは手を止めた。枕元の水差しを取り替えるところだった。
「誰かに、何かを言われましたか?」
「いいえ。でも、気になって……」
レオンは、毛布の端を握っていた。叱られるのを待つ子供の顔だった。
「ぼく、エマさんにうつしてしまいませんか?だったら、あんまり、近くに来ないほうが」
エマは椅子を引いて座り直した。
「ご心配くださって、ありがとうございます」
それから、静かに続けた。
「確かに肺病はうつるといわれています。目に見えない小さな小さな病気のもとが鼻や口から体に入ることで、うつるそうです。このマスクは、肺病も他の病気もお互いにうつさないようにするために大切なものです。でもマスクをしたらうつらないというわけではありません。あとは部屋に『病気のもと』がこもらないよう換気もします」
「……だから、窓を開けるのですね」
「はい。それだけで、うつりにくさはずいぶん変わります。それでもゼロにはなりませんから、常に気をつけています」
レオンはしばらく黙っていた。
「エマさんは、どうしてそんなに詳しいのですか」
「前にも、同じ病の方のそばにいたことがあるからです」
「その人は、いまは」
エマは一瞬、言葉に詰まった。
「……今日はその話はやめておきましょう。いつかお話しします」
レオンは小さく頷くと、それ以上は尋ねなかった。賢い子だった。賢すぎるほどに。
灯りを落として、エマは隣室の扉を半分開けたまま寝台に入った。
天井を見ていると、遠い声が、聞こえた気がした。
『うつってしまうよ。だから、もう、来なくていい』
あの人はそう言った。
◆
四人目の縁談が持ち込まれたのは、ローレンス卿の葬儀から一か月もたたない頃だった。
「今度の方はお若いの。しかも支度金は、五千バルクよ」
母はそう言って、釣書を卓の上に滑らせた。
アルヴィン・ハーシェル。二十六歳。男爵家の三男。エマより、三つだけ年上だった。これまではエマの倍どころか祖父と同じ世代の人ばかりだったのに。
「……お若い方が、なぜわざわざ私などを」
「お体が、あまり丈夫ではないそうなの」
母の笑顔は、変わらなかった。
「肺を患っておられるそうよ。余命は、一年と」
エマは釣書から目を上げなかった。
「看護人が次々に辞めてしまうそうなの。病がうつるのを恐れて。ですからあなたのような慣れた人が、ちょうど、ね?」
――慣れた人。
その言葉をエマは黙って飲み込んだ。二十三歳で四度目の結婚。もう嫌だとも言わなくなっていた。
けれど一つだけ、母の言葉の中に引っかかるものがあった。
肺の病。
エマの中のもう一人の自分が、考えを巡らせる。今、生きているこの世界では『肺病』とひとくくりにされているが、その多くは肺がんと肺結核だと考えられる。
肺がんであれば人にはうつらない。でも肺結核なら――
エマはそれを知っていることが怖かった。知らなければ何も考えずに頷けたのに。でもエマには断るという選択肢はなかった。
釣書を、ゆっくりと畳んだ。
「……お受けします」
母は嬉しそうに手を叩いた。
ハーシェル家は郊外の小さな屋敷だった。通されたのは、日当たりのよい南向きの部屋だった。
窓辺の安楽椅子に一人の青年が座っていた。毛布を膝にかけ、片手に本を持っている。栗色の髪は柔らかく、少し伸びていた。頬は削げていて肌は透き通るように白い。灰青の目が、本からゆっくりとエマに向けられた。
その顔を見て、エマは少しだけ息を呑んだ。
きれいな人だった。死を宣告された人の顔というには、あまりに静かで整っていた。
「……エマ・チャーチルです」
「アルヴィンです。ようこそ」
青年は本を閉じた。それから手近な卓の上から薄い布を取り上げ、自分の口元に当てた。
「失礼。ご挨拶はこのまま」
そう言って、申し訳なさそうに笑う。
「お気遣いなく」
「もう少し、離れて座ってくれるかな。椅子はそちらに」
指されたのは部屋の反対側の隅だった。エマは言われたとおりに腰を下ろした。距離は五歩ぶんあった。
「君の噂は聞いています」
アルヴィンは、布の――マスクの下から静かに言った。
「死神夫人、と呼ばれているそうだね。三人の夫を看取った、と」
「……はい」
「使用人たちが青い顔で話していたよ。『死神夫人が来る』ってね」
目元が緩む。口元は見えていないが、笑っているようだ。
エマは膝の上で手を重ねた。
「気味が悪ければ、お断りいただいても構いません」
「断る?」
アルヴィンは、不思議そうに首を傾げた。それから、小さく声を上げて笑った。
「僕の方が断られる側のはずなんだけどな」
その笑い声は軽やかだった。軽やかすぎて、エマはかえって胸が痛んだ。
「それに、死神夫人だなんて異名は似つかわしくないな。君はとてもかわいらしい女性なのに」
「……え」
「噂で想像していた顔とずいぶん違っていたな。もっと、冷たい人かと思っていた。なんと言っても『死神』だから」
エマは何も答えられなかった。そんなふうに言われたのは初めてだった。
アルヴィンは、すぐに視線を窓の外へ移した。咳が一つ出た。マスクの下で。それからもう一つ。止まらなくなった。
エマは立ち上がり、近寄ろうとした。その時――
「来ないで」
鋭い声だった。けれど、すぐに柔らかい声が続いた。
「……大丈夫。そのまま……座って……いて」
アルヴィンは咳き込みながら途切れ途切れに言う。
咳はしばらく続いて、やがて静まった。アルヴィンはマスクを外して畳み、手の中に隠した。その布が赤かったことをエマは見逃さなかった。
「君にうつしたくないんだ。だから、部屋も食事も別にしてほしい。僕の世話は使用人に任せる。君は屋敷にいてくれるだけでいい。それが結婚の条件だ」
エマはすぐには答えなかった。
「アルヴィン様」
「何?」
「お部屋は別にいたします。お食事も別にします」
「そうか。助かる」
「ですがお世話は私がいたします」
アルヴィンの目が見開かれた。
「聞いていたかい?うつるんだよ?」
「承知しております」
エマは真っ直ぐに、彼を見た。
「私はうつりにくくするやり方を知っています。手の洗い方、マスクの扱い方、換気。それを守れば危険はずっと小さくなります。もちろん、お世話の全てを私一人ではできません。使用人とも分担いたします。ですが、妻として精一杯、お世話させていただきます」
アルヴィンは、しばらく黙っていた。
「……変わった人だね」
「よく言われます」
アルヴィンはまた少し笑った。
エマは、屋敷の暮らしを一つずつ整えていった。
手を洗う石鹸と洗面の水を各部屋に置かせた。食器は別の籠にまとめ、毎回湯で煮る。寝具は天気のよい日に必ず外に干す。それは通常の、どんな病気でも行う感染予防。
それに加えて自分の分のマスクを作り、定期的に換気を行う。肺結核だとしたら心許ない感染予防だ。でも、それくらいしかできることがなかった。
アルヴィンは毎日、距離を取るように言った。
「もう少し離れてくれ」
何度もそう言われた。エマはそのたびに「はい」と答えて、それから同じように世話を続けた。
ある夜、咳の音が止まらなくなった。
エマは寝間着の上に肩掛けを羽織って廊下へ出た。アルヴィンの部屋の扉の前に立つ。中から苦しそうな息が聞こえた。
「アルヴィン様。入ってもよろしいですか」
「来るな!」
その声は掠れていて、苦しそうだった。
「頼むから来ないでくれ……」
「では、入りません」
エマは扉の前に腰を下ろした。扉に背中をつけ、扉越しに声をかけた。
「ここにおります。咳が止まるまで」
「……何をしている」
「座っております」
しばらく返事はなかった。咳の音が何度か繰り返された。エマは独り言のように話し続けた。
「先日、庭を見ました。花はまだですけれど、小さな芽が出ていました。窓から見えますか」
「……」
「明日も窓を少し開けます。風は冷たいですが、窓から見てみませんか」
咳はやがて止まった。
扉の向こうで衣擦れの音がした。それから疲れた声が扉のそばから聞こえた。
「……いつまでそこにいるつもりだ」
「アルヴィン様が眠るまで」
「風邪をひくぞ」
「ひきません。肩掛けを持ってきました」
扉の向こうからかすかに笑う気配がした。
「君は本当に変わっている」
エマは膝を抱えながら言った。「よく言われます」
二人の笑い声が重なった。
その夜、二人は扉一枚を挟んで夜が明ける前まで、静かに話し続けた。顔は見えないけれど、声だけの会話は不思議と近かった。
数日が過ぎたあたたかい午後のことだった。
アルヴィンは窓辺の安楽椅子で本を読んでいた。エマは、部屋の隅のいつもの椅子で自分用のマスクを縫っていた。二人の間には五歩の距離。お互いの顔にはマスク。いつの間にかそれが二人のいつもの姿になっていた。
「エマ」
あの夜から、名前で呼ばれるようになった。
「はい」
アルヴィンは、本を膝の上に置いた。「ひとつ、聞いてもいいかな」
「どうぞ」
灰青の目が、まっすぐにエマを見ていた。
「君は三人の夫を看取ったのだろう。そしていま、四人目の僕の前にいる。病がうつるかもしれないのに」
エマは針を持つ手を止めた。
「どうして、君はそんなに平気でいられるんだ」
問いは責めるようでも、からかうようでもなかった。ただ本当に知りたがっている声だった。
エマは口を開いた。
何かを答えようとした。「慣れておりますから」そう言えばいつものように、微笑んで済ませられたはずだった。これまで何度もそう答えてきた。
けれどその言葉は、喉の奥で動かなくなった。
――平気。
(私は平気なのだろうか)
エマは針を持ったまま、何も言えなかった。膝の上の布がひとりでに少し濡れた気がして、慌てて目を伏せた。
アルヴィンは急かさなかった。ただ、黙って待っていた。
その沈黙が不思議とあたたかかった。
◆
エマは目を開けた。
隣の部屋からレオンの静かな寝息が聞こえていた。
あのとき、自分は結局何も答えられなかった。
(……あの問いに、今なら答えられるだろうか)
天井を見つめながら、エマは考えたが答えは出なかった。けれど、かつてのように「慣れているから」とはもう言えない気がした。
エマは目を閉じた。隣の部屋から聞こえる寝息を数えながら眠りに落ちた。
第一章はここで終わり。
来週から第二章に入ります。




