第9話:夜勤ワンオペの女帝
現代日本、東京・杉並区。
太陽が沈み、人間たちが一日の労働を終えて眠りにつく深夜。それは本来、闇に生きる魔族たち、とりわけ吸血貴族である神埼麗華にとって、もっとも自由で優雅な時間となるはずであった。
しかし、現在の彼女が立たされている現実は、優雅さとは程遠い、極めて過酷な資本主義の荒波のど真ん中であった。
「……信じられない。なんで誇り高き吸血貴族であるこの私が、人間どものために額に汗して(実際には冷や汗だが)働かなければならないのよ……!」
コーポ日ノ出、一階の大家部屋。
煌々と灯る丸型蛍光灯の下で、麗華は黒いゴスロリ調のドレスの裾を握りしめ、ワナワナと肩を震わせていた。
彼女の目の前には、腕を組み、冷徹な大家の顔をした真木征司(元魔王ヴァルザード)と、バインダーを手にした元首席補佐官の佐伯凛花が立ち塞がっている。
「不満を口にする前に現実を見ろ、麗華」
真木は容赦なく言い放った。
「お前は現在、初期費用の敷金・礼金を分割払いにしており、さらに我が部屋のWi-Fiを無断使用した通信費、および202号室の電気代という多重債務を抱えている。家賃月額五万五千円に加え、これらの返済を毎月行わねばならんのだ」
「ううっ……だ、だからって、労働なんて……!」
「お前自身が言ったのだろう。『日光に当たると灰になるから、昼間は外に出られない』と。ならば話は簡単だ。太陽が昇っていない深夜帯に、室内で稼げる仕事をすればいい。余が大家としてのコネクションを最大限に活かし、お前のために完璧な職場を見つけてきてやったぞ」
真木がドヤ顔で一枚のチラシをちゃぶ台に叩きつけた。
そこには、ポップなフォントでこう書かれていた。
『駅前コンビニエンスストア「スマイルマート」深夜スタッフ大募集! 時給1,300円(深夜割増含む)! 未経験歓迎、シフト自由! あなたも笑顔で働きませんか?』
「こんびにえんす、すとあ……? 何よそれ。人間の血でも売ってるの?」
「バカを言え。人間たちの生活必需品や食料、さらには遊戯のための電子マネーまでを二十四時間休むことなく供給し続ける、現代日本の最重要インフラ拠点だ」
凛花が眼鏡をくいっと押し上げ、補足説明に入る。
「真木様が店長と交渉したところ、現在スマイルマートは深刻な人手不足に陥っており、特に深夜の『ワンオペ(一人での店舗運営)』を任せられる人材を血眼になって探していたそうです。そこに、夜行性で深夜22時から翌朝6時までのシフトに毎日でも入れる麗華殿の存在は、まさに救世主。即日採用が決定いたしました」
「そ、即日採用!? ちょっと待ちなさいよ、私の意志は!?」
「拒否権はない。初出勤は明日からだ。だが、お前のような傲慢な吸血鬼をそのまま店頭に立たせれば、三分で客とトラブルを起こしてクビになるのは目に見えている。ゆえに、今夜はここで徹底的な『接客シミュレーション』を行う」
真木が指を鳴らすと、部屋の襖が開き、巨漢の元重装歩兵隊長・黒木鉄心が入ってきた。
黒木はなぜか、首から段ボールで作られた手作りの『ネクタイ』を下げ、片手には丸めた新聞紙をカバンのように抱えている。どうやら『深夜にコンビニを訪れる疲れたサラリーマン』のコスプレらしい。
「真木様! 客の役、この黒木にお任せくだされ! 解体現場で培った『疲労困憊の肉体労働者』のリアルな哀愁を、完璧に演じてみせましょう!」
「うむ、頼んだぞ黒木」
真木はちゃぶ台の上に、電卓と、空になったティッシュ箱を並べた。これがレジの代わりである。
「さあ麗華。お前はレジカウンター(ちゃぶ台)の向こう側に立て。凛花、指導を頼む」
「承知いたしました。では麗華殿。お客様が来店した際の、基本の挨拶から。入店を告げるチャイムが鳴ったら、相手の目を見て、口角を上げ、ワントーン高い声で『いらっしゃいませ!』と発声してください」
凛花が「ウィーン、ポロロロロン」と自動ドアの音を口で再現した。
黒木が肩を落とし、疲れた足取りで六畳間に入ってくる演技を開始する。
麗華は不満げに唇を尖らせながらも、大家の圧に屈し、ゆっくりと客(黒木)の方を向いた。そして、吸血貴族としての威厳をたっぷりと込め、深紅の瞳を細めて口を開いた。
「よくぞ来た、愚民ども。私の足元に貢物を置きなさい」
スパーーーンッ!!
直後、真木が丸めた求人チラシで、麗華の後頭部を容赦なくひっぱたいた。
「あいたっ! なにするのよ!」
「バカ野郎! どこの世界に客を愚民呼ばわりするコンビニ店員がいる! お前はレジ打ちであって、玉座に座る女王ではないのだぞ!」
「だ、だって仕方ないじゃない! 私、何百年も人間を見下して生きてきたのよ!? 人間に頭を下げるなんて屈辱、DNAが拒絶するわ!」
「DNAを書き換えろ! 家賃のために! いいか、コンビニにおける客とは、お前の玉座を維持するための『年貢の運び手』だ。つまり、金を落としてくれるありがたい存在なのだ! もう一度!」
真木のスパルタ指導が飛ぶ。
凛花が再び「ポロロロロン」と入店音を鳴らす。
「……い、いらっしゃい……ませ……」
「声が低い! 呪いをかける魔女かお前は! もっと愛想良く、スマイルマートの名に恥じぬ笑顔を見せろ!」
真木に怒鳴られ、麗華はギリィッと牙を剥き出しにしながら、頬の筋肉を無理やり引きつらせた。
「い、いらっしゃい、ませぇ……ッ!」
ギロリと睨みつけるような深紅の瞳と、無理やり作られた凶悪な笑み。
客役としてレジ(ちゃぶ台)の前に立った黒木は、そのあまりにも恐ろしい形相と、全身から漏れ出る捕食者のオーラを至近距離で浴び、思わず「ヒッ!」と短い悲鳴を上げて後ずさった。
「く、黒木!? どうした、客の演技を続けろ!」
「む、無理であります、真木様! 神埼殿の笑顔、まるで喉笛を掻き切る直前の暗殺者のごとき殺気! いかに重装歩兵の私とて、あの笑顔の前に進み出ることは命の危機を感じます!」
「情けないぞ黒木、たかがコンビニのレジだぞ!」
「ならば真木様が客役をやってくだされ! 私はちびりそうです!」
半泣きになる黒木をどかし、真木が自ら客役に回る。
「いいか麗華、客が商品をレジに置いたら、バーコードを読み取る動作だ。商品を手に取り、『ピッ』と言いながら値段を読み上げろ。ほら、このティッシュ箱だ」
真木がティッシュ箱を差し出す。
麗華はそれを親指と人差し指でつまむように持ち上げ、極めて汚いものを見るような目で一瞥した。
「……ピッ。貴様のような下賎の者に相応しい、安物の紙束ね。百五十円よ。さっさと払いなさい」
「だからなぜ上から目線なのだ!!」
再び求人チラシのハリセンが麗華の頭に炸裂する。
「痛ぁいっ! もう嫌ぁっ! やっぱり無理よ、私に接客なんて!」
「諦めるな! 家賃五万五千円、さらには光熱費の支払いが滞れば、お前の居場所はベランダの物干し竿(直射日光)だと言ったはずだぞ!」
「うううっ……魔王のくせに、人間の資本主義に染まりやがってぇ……!」
深夜の六畳間。
元魔王と元首席補佐官による、吸血鬼への容赦なき『接客用語特訓』は、夜が明ける寸前まで延々と繰り返された。
「お弁当温めますか? だ! 『この供物を灰燼に帰してやろうか』ではない!」
「年齢確認ボタンのタッチをお願いします、だ! 『死へのカウントダウンを押せ』ではない!」
泣き叫ぶ麗華と、容赦なくダメ出しをする真木たち。
コーポ日ノ出の夜は、今日も騒がしく更けていくのであった。
* * *
そして数日後。
駅前の二十四時間営業コンビニエンスストア『スマイルマート』。
深夜二時を回った店内は、蛍光灯の青白い光に照らされ、しんとした静けさに包まれていた。
レジカウンターの中に立つのは、神埼麗華である。
彼女の服装は、普段のゴスロリドレスの上に、スマイルマートの規定である『緑と白のストライプ柄の制服』を無理やり羽織った、なんともアンバランスな姿であった。胸元には『研修中 かんざき』というネームプレートが輝いている。
「……はぁ。なんで私が、こんな蛍光灯の下で突っ立ってなきゃいけないのよ」
麗華はため息をつきながら、レジ横のホットスナックのケースを見つめた。揚げ鶏やアメリカンドッグが、オレンジ色の保温ランプの下で油を光らせている。
本来であれば、深夜帯のワンオペは品出しや清掃などやることが山積みである。しかし、真木と凛花から『まずはレジに立ち、客から金を確実に回収することに全霊を注げ』と厳命されているため、彼女は微動だにせずカウンターの奥に鎮座していた。
ウィーン、ポロロロロン。
自動ドアが開き、一人の客が入店してきた。
足取りはおぼつかず、顔は真っ赤。安いスーツを着崩し、ネクタイを緩めた中年サラリーマンである。彼からは、アルコールのツンとした匂いと、日々の労働のストレスから来るイライラとした空気がプンプンと漂っていた。
(……来たわね、愚民)
麗華は内心で舌打ちをしながらも、真木のハリセンの痛みを思い出し、マニュアル通りの言葉を口にした。
「い、いらっしゃいませ」
声のトーンは低いが、かろうじて言葉自体はまともである。
酔っ払いのサラリーマンは、ふらふらと酒のコーナーへ向かい、ストロング系の缶チューハイを三本、さらにスナック菓子を鷲掴みにしてレジへと歩いてきた。
ドンッ!
乱暴に商品をレジカウンターに叩きつける。
「おい、ねーちゃん! とっとと会計しろや!」
サラリーマンは呂律の回らない声で怒鳴った。
「あとよぉ、そこの揚げ鶏! 二つくれや! はやくしろよ、こっちは疲れてんだよ!」
「……申し訳ありません。揚げ鶏は先ほど売り切れました。現在ケースにあるのは、アメリカンドッグのみとなっております」
麗華は表情を変えずに淡々と答えた。事実、深夜の廃棄ロスを防ぐため、この時間のホットスナックの補充は終わっていたのだ。
しかし、酔っ払いにはそんな理屈は通じなかった。
「あぁ!? ねえなら今すぐ揚げろや! 客が食いてぇって言ってんだろが! お前、研修中か? 使えねえ店員だな、店長呼べよ店長!」
バンバンとカウンターを叩き、唾を飛ばしながら喚き散らす男。
普通のアルバイトであれば、恐怖で萎縮するか、泣き出してしまうかもしれない厄介極まりないクレーマーである。
しかし、相手が悪かった。
カウンターの向こう側に立っているのは、ただのアルバイトではない。
数百年の時を生き、闇に潜む魔物たちを恐怖で支配してきた『吸血貴族』である。
「…………」
麗華はゆっくりと、前髪の隙間からサラリーマンを見据えた。
魔力は使わない。ただ、己の魂の根底にある『圧倒的な上位捕食者としての矜持』を、視線に乗せて放っただけだ。
室内の温度が、急激に数度下がったかのような錯覚。
薄暗い前髪の奥で、深紅の瞳が怪しく、そして冷酷に光る。
麗華は、サラリーマンの顔の数十センチ手前までスッと身を乗り出した。
「いらっしゃいませ。お客様」
その声は、鈴の音のように美しく、そして背筋が凍るほどに冷たかった。
「お酒とスナック菓子ですね。お会計は、八百五十円になります。……それとも、これ以上この店で騒ぐというのであれば……貴方から直接、八百五十円分の『対価(血)』を搾り取らせていただきましょうか?」
接客用語としては完璧な敬語。
しかし、その声に込められた凄みと、人間という種族を見下す本能的な威圧感は、サラリーマンの酔いを一瞬にして消し飛ばした。
「ヒッ……!」
男の顔面から一気に血の気が引いた。
目の前にいるのは、ただのコンビニ店員ではない。何か得体の知れない、絶対に逆らってはいけない『バケモノ』だ。人間の本能が警鐘を鳴らし、全身から脂汗が噴き出す。
「あ、あの……そ、その……」
「お・か・い・け・い、は?」
麗華がニッコリと、しかし全く目の笑っていない笑みを浮かべた。
「ひぃぃぃっ! は、払います! 払いますからぁっ!」
サラリーマンは震える手で財布から千円札を引き抜くと、それをレジのコイントレーに叩きつけるように置いた。
「お釣りはいりません! 失礼しましたぁっ!」
男は缶チューハイを引ったくるように袋に詰め込むと、脱兎のごとく自動ドアを抜け、夜の街へと逃げ去っていった。
ウィーン、ポロロロロン。
再び静寂が戻った店内。
麗華はコイントレーに残された千円札を指先でつまみ上げ、ヒラヒラと振った。
「……なによ。案外チョロいじゃない、人間って」
彼女の胸の内に、不思議な高揚感が芽生え始めていた。
レジという名の『玉座』に立ち、近づいてくる愚民ども(客)を冷たい眼光でひれ伏させ、商品を差し出すだけで、彼らは自ら進んでお金という『貢物』を置いていく。
自分が手を下すまでもなく、彼らはルールに従い、自らの意志で富を献上していくのだ。
「ふふっ……ふふふふっ!」
麗華の深紅の唇が、妖しく吊り上がった。
「悪くないわね。この『こんびに』という名の私の新しい領地。愚民どもを睥睨しながら、ただ立っているだけで金貨が手に入るなんて……魔界の税の取り立てよりもずっと効率的じゃない!」
接客態度は最悪(に見えて、実はクレームを物理的に封殺しているだけ)だが、結果として、スマイルマートの深夜帯はかつてないほどの平和と秩序を保つこととなった。
不良や酔っ払いがたむろすることはなくなり、麗華の放つ『絶対零度の眼光』に恐れをなした客たちは、皆一様に礼儀正しく、お釣りの受け取りすら辞退して足早に帰っていくようになったのである。
* * *
その様子を、スマイルマートのガラス窓の外から、少し離れた電柱の陰で見守っている二つの影があった。
ジャージ姿の大家・真木と、スーツ姿の凛花である。
「……どうやら、なんとか様になっているようですね、魔王様」
凛花が安堵の息を吐きながら眼鏡を押し上げた。
「ああ。接客業というよりは、関所の見張り番か処刑人のようだがな。まあ、レジの金が合っていて、クレームが本部にいかなければ、店長も文句は言わまい」
真木は缶コーヒーをすすりながら、レジカウンターで偉そうに腕を組む吸血鬼の姿を見つめた。
「あいつはプライドが高いからな。『レジ打ち』という労働を、『玉座での貢物の受け取り』と脳内変換させるのが一番の近道だと思っていたが……まさかここまでハマるとはな」
「流石は魔王様。部下の性格と適性を知り尽くした、見事な人員配置です」
「ふっ。すべては家賃のためだ。あいつが稼いでくれなければ、我がコーポ日ノ出の満室経営と黒字化は成し遂げられんからな」
真木は満足げに頷き、きびすを返してアパートへの帰路についた。
夜勤ワンオペの女帝。
のちにスマイルマート駅前店で「深夜に行くと、めちゃくちゃ綺麗だけど死ぬほど怖いお姉さんがいて、酔いが一瞬で覚める」という都市伝説として語り継がれることになる彼女の伝説は、こうして幕を開けた。
コーポ日ノ出の住人たちは、それぞれが独自の適性を見出しながら、現代日本の過酷な労働社会に、着実にその根を張りつつあった。
大家・真木征司の通帳の残高が、少しだけ温かさを増す日が、すぐそこまで来ている。




