第10話:家賃回収の夜と課金履歴
木造アパート『コーポ日ノ出』の廊下に、厳粛かつ重々しい足音が響いていた。
日付が変わる直前の深夜十二時。日本社会における多くの人々がベッドの中で夢の中にいる時間帯、しかしこのアパートの大家である真木征司(元魔王ヴァルザード)にとって、この日の深夜十二時は一ヶ月の中で最も神聖で、かつピリピリとした緊張感に満ちた「決戦の時」であった。
そう、本日は月末。
すなわち、資本主義社会における絶対の真理――『家賃回収の夜』である。
「ふう……」
真木はジャージ姿のまま、大家部屋のちゃぶ台に座り、分厚いバインダーと領収書綴りを広げて深呼吸をした。
魔王時代、城の玉座で諸部族から上納金を受け取っていた頃とは、重みが全く違う。あの頃は暴力と恐怖で無理やり巻き上げていたが、今の彼は日本の法律と賃貸借契約書という正当な権利を武器に、店子たちから合法的な対価を受け取る立場だ。
「家賃の滞納はギルティ(重罪)。我がコーポ日ノ出の財政基盤を揺るがす不法行為は、いかなる理由であれ絶対に許さん……!」
真木が目を血走らせながらブツブツと呟いていると、コトコトと軽やかな足音が廊下から聞こえてきた。
ノックが二回。そして、丁寧な声が響く。
「真木様、夜分遅くに失礼いたします。102号室の佐伯凛花です。家賃の納付に参りました」
「入れ、凛花」
ドアを開けて入ってきたのは、黒のスーツをきっちり着こなした凛花だった。彼女は手元に持っていたクリアファイルを両手で恭しく差し出した。
「今月の家賃、月額五万五千円に管理費三千円、合計五万八千円の現金となります。併せて、先月分の共用部電気代の精算金も同封いたしました。内訳のレシートとエクセルで作った集計表も添付してありますので、ご確認をお願いします」
真木は差し出された封筒を受け取り、中身を確認した。ピン札の五千円札と一万円札が、寸分の狂いもなく綺麗に揃えられている。
「うむ、完璧だ。流石は首席補佐官……もとい、我がアパートの優秀な経理担当だな。不備はない」
「当然です。我が軍……いえ、我がコーポ日ノ出の財務管理に一分の隙もありません。今月の収支黒字化は確実に達成されております」
凛花は満足げに眼鏡をくいっと押し上げ、ちゃぶ台の前に上品に腰を下ろした。
その直後、今度はドスッ、ドスッという重厚な足音が廊下を揺らしながら近づいてきた。
「失礼する! 101号室の黒木、家賃の納付に参った!」
ガラリと勢いよく開けられたドアの向こうに立っていたのは、元重装歩兵隊長の黒木鉄心だった。彼は作業着のポケットから、大田組の日当からコツコツと貯めた現金の束を取り出し、真木の前にドンと置いた。
「今月の家賃、五万二千円にございます! 解体現場での労働の対価、一円の遅滞も、不正もなく全額ここに納めます!」
「おお、黒木か。ご苦労だったな」
真木は封筒の中身を確認する。こちらも綺麗に揃った現金だった。
「先月はゴミの分別でトラブルを起こしかけたお前が、今や誰よりも正確に家賃を納める優良店子になるとはな。感慨深いものがある」
「ははっ! 日々の労働と、杉並区のゴミ出しルールの暗記の賜物にございます! 家賃の納入こそ、今の私の最大の誉れにございます!」
黒木は胸を張り、晴れやかな笑みを浮かべた。
これで全六室中、すでに契約を済ませている二部屋――101号室と102号室からの回収は完璧に完了した。
真木は領収書にハンコを押し、二人に手渡した。
「よし。これで今月の前半戦は終了だ。……だが」
真木の表情が、スッと真剣なものに変わった。
彼の視線は、大家部屋の壁に掛けられた、コーポ日ノ出の全室の鍵が掛かっているボードに向けられていた。その中で、一箇所だけ『202号室』の鍵がぽっかりと空いている。
「残るは……問題児の部屋だな」
「ああ、神埼麗華の部屋ですね」
凛花が冷ややかにため息をついた。
「彼女は駅前コンビニ『スマイルマート』の深夜ワンオペバイトで初給料を手に入れているはずです。しかし、今日がその家賃支払いの期限であるにもかかわらず、一切の連絡がありません」
「ふっ……。あの吸血鬼め、初給料の浮かれ気分で家賃を踏み倒すつもりか。我が城の掟を舐め腐っているな」
真木は立ち上がり、ちゃぶ台の上の『マスターキーの束』から、202号室の合鍵をガチャリと抜き取った。
「行くぞ、お前たち。我が帝国の秩序を守るため、不届き者の部屋へと突入する!」
* * *
202号室の前に立った三人は、しばらくじっと耳を澄ました。
中からは、何やらブツブツと呪詛のような呟きと、めそめそと泣き叫ぶ声が漏れ聞こえてくる。
『ううっ、うそ……なんで……。どうして天井(天井保証)まで回したのに、すり抜けちゃったのよぉ……! 私の労働の結晶が、一瞬で紙くずに……!』
「……おい。完全に何かをやらかしているな、あれは」
「はい。経済的な破滅の匂いがプンプンします」
「突入しますか、真木様?」
「うむ。合鍵を使う」
真木はマスターキーを鍵穴に差し込み、ガチャリと音を立ててドアを押し開けた。
ギィ……と開いたドアの隙間から、澱んだ空気がフワリと流れ出してきた。
遮光カーテンが画鋲でガチガチに止められた真っ暗な部屋の中。わずかな光源であるスマートフォンの画面が、青白く部屋を照らし出している。
そして、その中央。
床に額を擦り付け、完全に五体投地のエラー状態のまま、ガタガタと震えている女がいた。
神埼麗華、その人である。
「……神埼麗華」
真木の低く冷たい声が部屋に響く。
その声を聞いた瞬間、麗華はビクッと全身を跳ね上げ、泣き腫らした赤い目を向けて這いずるように真木たちの足元にしがみついた。
「ま、魔王様ぁぁぁっ!! ち、違うの! 聞いて! 私悪くないのよ!」
「何が違うだ。本日は月末、家賃の納付日だぞ。五万五千円の用意はできているのだろうな?」
「そ、それが……その……」
麗華はブルブルと震えながら、手元のスマートフォンを恐る恐る差し出した。
画面には、とあるスマートフォン向けゲームの『ガチャ召喚履歴』の画面が表示されていた。
「見て……。これ見て……。私、今月のコンビニの夜勤で稼いだ給料の全額を……この期間限定の『吸血姫ピックアップガチャ』にブッ込んだのよ……!」
「全額、だと……?」
「そうよ! 最初は単発で出ると思ったの! でも気づいたら天井まで回してて、財布の中の現金をすべてアプリの課金石に変換して、それでも出なくて、最後の手段でクレカの枠まで使って……気づいたら、今月の家賃分の現金が、全部この画面のなかの『デジタルデータのゴミ』に消えてたのよぉぉぉっ!!」
麗華は再び床に突っ伏し、おいおいと声を上げて泣きじゃくった。
彼女の周囲には、空になったエナジードリンクの缶と、コンビニの唐揚げの空き容器が散乱しており、まさに「ソシャゲ課金で破滅した人間の成れの果て」という完璧な情景を作り出していた。
静まり返る202号室。
黒木は呆れ果てて口をポカンと開け、凛花は冷たい目でスマホ画面の数字を見つめて言った。
「……見事なまでの依存症ですね。確率〇・五パーセントの排出率に全財産を溶かすとは、兵站管理の観点から見てももっとも愚劣な行為です」
「い、言わないでぇ! 頭では分かってるのよ! でも、『次こそは出る』っていう悪魔の囁きが私の理性を焼き尽くしたのよ!」
「……麗華」
真木の声は、怒鳴るのすら面倒くさいと言わばかりに、どこまでも冷ややかだった。
「お前、先週私に何を言ったか覚えているか?」
「え……?」
「『家賃と生活費は確実に管理します。大家様にご迷惑はおかけしません』と、そう宣誓してスマイルマートの深夜シフトに入ったはずだ。その結果がこれか。初給料を全額デジタルギャンブルのガチャに溶かし、大家への家賃を踏み倒す――これ以上のギルティ(重罪)が、この世のどこにある」
「ひっ……!」
真木の目が、数百年前に数多の魔族を震え上がらせた『覇王の眼光』へと変わった。
怒鳴り散らすわけではない。しかし、その圧倒的な重圧と、社会的な正論の刃が、麗華の精神をズタズタに切り裂いていく。
「いいか、麗華。これから二時間、余がお前に『資本主義社会における家計の優先順位』について徹底的に教育してやる。一歩も外に出るな。覚悟を決めろ」
* * *
それからの二時間、地獄のような説教タイムが展開された。
場所を大家部屋に移し、ちゃぶ台の前に正座させられた麗華に対し、真木はホワイトボード(ゴミ捨て場で拾ってきたもの)を駆使して、容赦ない経済学の講義を行った。
「まず第一条! 『衣食住の確保は、あらゆる趣味や娯楽に優先する』。人間が生きるための基盤は、まず雨風を凌ぐ家(家賃)であり、次に腹を満たす食料だ。ソシャゲのキャラクターの着せ替えなど、路頭に迷った人間にとってはただの贅沢品にすぎん!」
「はい……すみません……」
「第二条! 『可処分所得の管理』。お前が得た給料の中から、まず最初に家賃と光熱費、食費を天引きし、残った額の中で生活するのが社会人としての基本中の基本だ。なぜ給料が入った瞬間に全額をガチャのサーバーに送金するのだ! お前の胃袋はサーバーのデータで満たされるのか!」
「満たされません……ごめんなさい……」
「第三条! 『課金の制限設定』。今日のこの失態を二度と繰り返さぬよう、今すぐそのスマートフォンの設定を開け。アプリストアの課金上限を『月額ゼロ円』に固定設定してやる。二度とガチャのボタンを押せぬよう、余の手でしっかりとロックをかけておこう」
真木は容赦なく麗華のスマホを奪い取り、親指でパスワードを打ち込んで『ペアレンタルコントロール(利用制限)』の鉄壁の枷をはめ込んだ。
これで、彼女が再びガチャを回そうとしても、エラー画面が出るだけで二度と課金できない仕組みが完成したのである。
「あぁ……私の……私の可愛い限定姫様が……もう二度と画面に現れないなんて……」
「自業自得だ。反省しろ」
二時間に及ぶ説教とスマホの改造(制限)を終え、真木は大きく息を吐き出した。
しかし、これだけで終わらせるわけにはいかない。家賃未払いの事実と、アパート全体の秩序を乱した罰を与えなければ、他の店子に対して示しがつかないのだ。
「……でだ、麗華」
「ひっ……まだ何かあるの……?」
「当然だ。今月の家賃五万五千円は、来月の給料日まで分割払いの特別猶予を認めてやる。ただし、その代わりの『ペナルティ労働』を課す」
真木は押し入れから、使い古されたグレーのモップとバケツを取り出し、ちゃぶ台の上にドンと置いた。
「今から夜が明けるまでの間、コーポ日ノ出の全共用部分――一階から二階に至るすべての廊下、階段、そして玄関周りを、一木一草、埃一つ残さぬようピカピカに磨き上げろ。それが今夜の貴様の『更生プログラム』だ」
「そんなぁっ! 私、深夜コンビニでワンオペして、そのあと説教されて、さらにこれから掃除の肉体労働なんて……吸血鬼が過労死しちゃうよぉっ!」
「吸血鬼なら死なん! さっさと行け、家賃滞納者!」
真木の冷徹な一喝により、麗華は涙を拭いながら、すごすごとモップとバケツを抱えて大家部屋から追い出された。
* * *
午前四時。
静まり返ったコーポ日ノ出の共用廊下に、シャカシャカとモップが床を擦る音が響いていた。
「ううっ……ちくしょう……。あのガチャの確率絶対におかしかったんだから……天井まで回して出ないとか消費者庁に通報してやるんだから……」
麗華はゴスロリドレスの裾をまくり上げ、膝を床につきながら、一生懸命に階段の隅の汚れをモップで拭き取っていた。
その姿は、かつて魔界の夜を支配していた吸血貴族の面影など微塵もなく、ただの「深夜残業を命じられた疲弊したアルバイト店員」そのものである。
しかし、不思議と彼女の心に絶望だけがあったわけではない。
自分の給料をすべて溶かしてしまった愚かさに対する後悔と、冷徹ではあるが自分を見捨てず、きっちりと社会のルールへと導いてくれる大家(真木)の存在。
(……まあ、あんなに厳しく説教されたのは生まれて初めてだけどさ……)
麗華はふっと小さく苦笑し、ピカピカに磨き上げられた手すりに目をやった。
(でも、ネットの画面の向こうのデータより、こうして自分の手で綺麗にした廊下の方が、何だか少しだけ誇らしく見えるかも……って、何考えてるのよ私! 私は吸血貴族よ!)
顔を真っ赤にして首を振る麗華の背後から、二階の自室の窓を少しだけ開けた真木が、冷ややかな視線を向けながら声をかけた。
「おい麗華。手と口が止まっているぞ。まだ階段の隅にホコリが残っている。やり直しだ」
「もーっ! わかってるわよ、今やるわよ大家さん!」
夜明け前の東京の空に、吸血貴族の威勢の良い返事と、モップを擦る音が響く。
家賃回収の夜は、こうしてドタバタのうちに過ぎ去っていった。
資本主義の荒波に揉まれながらも、魔王の城は、今日も一歩ずつ着実に、平和と秩序への道を歩み続けているのであった。




