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第11話:排水管の詰まりは誰の罪

木造アパート『コーポ日ノ出』の平穏は、目に見えない強敵によって突如として破られた。

それは、微かな、しかし決定的な『異臭』から始まった。


「……む? なんだ、この臭いは。生ゴミの処理は完璧にやらせているはずだが」

午後八時。一階の大家部屋で、月次の帳簿付けを行っていた真木征司(元魔王ヴァルザード)は、鼻腔を突く奇妙な臭いに顔をしかめた。

ドブ泥と、酸化した油と、何かが腐敗したような強烈な悪臭。

真木が立ち上がり、換気扇を回そうとしたその時である。

「ま、真木様ぁぁぁっ! 一大事にございます!」

大家部屋のドアが、蝶番が吹き飛ぶほどの勢いで叩かれた。

転がり込んできたのは、101号室の住人である元重装歩兵隊長・黒木鉄心だった。解体現場の泥と汗にまみれた作業着姿の彼は、これまでにないほど青ざめた顔で真木にすがりついてきた。

「どうした黒木! また可燃ゴミの日にプラごみを捨てて、主婦の結界に捕まったのか!」

「違います! 流しシンクが……我が部屋の流し台が、突如として汚水を吐き出し始めたのです! 排水口から、ドス黒い水が逆流してきております!」

「なんだと!?」

真木は血相を変えて立ち上がり、黒木とともに101号室へと駆け込んだ。


101号室の小さなキッチンスペース。

そこはまさに地獄の様相を呈していた。シンクの排水口から、ボコッ、ゴボボボッという不気味な音とともに、茶色く濁った水がジワジワとせり上がってきている。そして、その水面からは、先ほど真木が嗅いだ強烈なドブの悪臭が漂っていた。

「な、なんという光景だ……。まるで魔界の『腐海の沼』ではないか……!」

「真木様! これはもしや、勇者軍の残党による毒水テロでは!? このままでは我が部屋が汚水に沈んでしまいます!」

「落ち着け! これはテロではない、『排水管の詰まり』だ!」

真木はシンクの状況を即座に見極めた。

「コーポ日ノ出は築三十八年の老朽化アパートだ。一階の排水管は、各部屋の生活排水が合流する構造になっている可能性がある。つまり、配管の奥深くで長年蓄積されたヘドロや油汚れが限界を迎え、完全に行き場を失った水が一番低い位置にあるお前の部屋に逆流してきているのだ!」

「はわわ……っ! では、この汚水は私が出したものではないと!?」

「おそらくはな。……む?」

真木が顔を上げると、いつの間にか102号室の元首席補佐官・佐伯凛花が、鼻をつまみながら部屋の入り口に立っていた。

大家マスター。我が102号室のシンクも、水の引きが極端に悪くなっています。おそらく共用排水管のメインパイプが詰まっているのでしょう。このまま放置すれば、一階は全滅しますよ」

凛花は冷静に状況を分析しつつ、手元にある一枚のマグネットシールを真木に差し出した。

「至急、専門業者を呼びましょう。郵便受けによく投げ込まれている『水のトラブル、電話一本ですぐ解決!』のマグネットです。ここに『基本料金五千円〜』と書いてあります」

「馬鹿を言えッ!」

真木はそのマグネットシールを奪い取り、床に叩きつけて叫んだ。

「お前は資本主義の罠を何もわかっていない! この『〜(から)』という記号こそが、現代社会におけるもっとも凶悪な魔法陣だ! 基本料金が五千円でも、深夜割増、高圧洗浄機使用料、薬剤投入費などと適当な理由をつけられ、最終的には三万円、いや五万円もの大金を請求されるのがオチだ!」

「ご、五万円……ッ!? 私の家賃一ヶ月分が、たった一本の管を通すだけで吹き飛ぶというのですか!?」

黒木が絶望の声を上げる。

「そうだ。我がコーポ日ノ出の財政に、そんな余裕は一円たりともない! 業者など呼ばん、この問題は我々自身で解決する!」

真木は大家としての威厳と、極限のケチ精神を爆発させ、二人に向かって高らかに宣言した。

「まずは、誰がこの排水管の致命的な詰まりを引き起こしたのか、原因を究明する。全員、大家部屋に集合だ! 202号室の吸血鬼も叩き起こして連れてこい!」


* * *

十分後。大家部屋のちゃぶ台を囲むようにして、緊急の『事情聴取会議』が開かれた。

集められたのは、101号室の黒木、102号室の凛花、そして深夜コンビニバイトの出勤前で不機嫌極まりない202号室の神埼麗華である。

真木は腕を組み、三人の店子たちを鋭い眼光で睨みつけた。

「いいかお前たち。排水管が詰まる最大の原因は、無自覚に流された『油』と『固形物』だ。長年の蓄積もあるだろうが、ここ数日でトドメを刺した戦犯がこの中に必ずいる。正直に名乗り出れば、今月の管理費千円増しで許してやる」

「増額してるじゃないのよ!」

真っ先に反発したのは麗華だった。

「だいたい、私は二階の住人よ! 一階の排水管が詰まったのなら、一階に住んでる黒木か凛花のせいに決まってるじゃない! なんで私が疑われなきゃいけないのよ!」

「甘いぞ、吸血鬼」

凛花が眼鏡を光らせ、手元のメモ帳を叩いた。

「真木様も仰った通り、このアパートの配管は下で合流しているのです。二階から流された汚れは、重力に従って一階のパイプへと降り注ぎ、そこに蓄積されます。むしろ、物理的な水圧がかかる二階の住人こそ、最も怪しいと言えるでしょう」

「な、なによ! いちゃもんつけないでよ!」

「ではお聞きします、麗華殿。あなたは普段、自室のシンクに何を流していますか?」

凛花の尋問官のような冷たい視線に、麗華は少しだけ視線を泳がせた。

「な、何も流してないわよ! 私は吸血鬼よ? 料理なんてしないし、せいぜいコンビニで買ってきたカップラーメンの余ったスープとか、飲み残した特濃トマトジュース(※血の代用品)をドバッと捨ててるくらいよ!」

「それだァァァァァッ!!」

真木がちゃぶ台をバンッと叩いて立ち上がった。

「カップラーメンのスープだと!? あれは純度百パーセントの『液体脂』だぞ! 熱いうちは液体でも、排水管の奥で冷やされれば、たちまち白いラードの塊となってパイプの壁面にこびりつく! それを日常的に流していたとなれば、完全にギルティだ!」

「ひっ……! そ、そんなの知らないわよ! 人間どもが食べてるジャンクフードの構造なんて、吸血鬼の私が知るわけないじゃない!」

「人間の食い物を主食にしているくせに何を言うか!」

麗華が青ざめて言い訳をする中、今度は凛花の矛先が黒木へと向かった。

「しかし、黒木隊長。あなたの食生活も褒められたものではありません。最近、大田組の解体現場で筋肉を酷使しているためか、海外製の安価な『プロテインパウダー』を大量に消費していますよね?」

「むっ!? た、確かに、筋肉の超回復のためにはタンパク質の摂取が不可欠。それが何か問題でも?」

「大ありです。プロテインの粉末は冷水ではダマになりやすく、シンクにこぼれた粉をそのまま水で流すと、配管の奥で水分を吸って粘土状に固まる性質があります。おまけに、あなたはシェイカーを洗うのが雑だ。配管の中にプロテインのセメントを形成しているのは、あなたではありませんか?」

「な、なんという言いがかり! プロテインは筋肉の友であり、配管の敵ではない!」

黒木は必死に反論したが、その声は心なしか震えていた。

「あら、黒木の筋肉粉末の方がよっぽど怪しいじゃない! 私のラーメンスープなんて可愛いものよ!」

「神埼殿! 貴様の特濃トマトジュースとやらも、果肉がたっぷりでドロドロではないか! あんなものを流せば配管が血栓を起こすに決まっている!」

「なによ! 筋肉ダルマのくせに口答えする気!?」

「なんだと、このヒキニート吸血鬼め!」

かつて魔界の王城で、人類殲滅の軍議を戦わせていた最高幹部たちが。

今や築三十八年の木造アパートの六畳間で、『プロテインの粉』と『ラーメンの残り汁』のどちらが排水管を詰まらせたかで、醜極まりない責任の擦り付け合いを演じているのである。

「……ええい、黙れ貴様ら!!」

真木の怒声が、ちゃぶ台を震わせた。

ピタリと口論を止める元幹部たち。大家の逆鱗に触れた恐怖で、三人は直立不動の姿勢をとった。

「犯人探しは後回しだ。今重要なのは、このままでは一階の床が汚水に沈み、修繕費という名の破滅が余の財布を直撃するということだ。……こうなれば、あれを使うしかない」


真木は大家部屋の押し入れを開け、奥から二つの『武器』を取り出した。

一つは、黄色いプラスチックボトルに入った、業務用の強力パイプクリーナー『パイプ・ユナイト(仮名)』。

そしてもう一つは――先端にお椀型の黒いゴムがついた、長い木の棒。

「な、なんですか、それは……。トイレに置いてある、あの……スッポン、というやつでは?」

凛花が眉をひそめて尋ねた。

「正式名称は『ラバーカップ』だ。これはトイレ専用ではない。シンク用の小型サイズを、昨日ホームセンターで特売三百円で買っておいたのだ。まさかこんなに早く出番が来るとはな」

真木はタオルを頭に巻き、ゴム手袋を両手にはめた。その姿は、魔王の鎧を纏っていた頃よりも、ある意味で強烈なプロフェッショナルのオーラを放っていた。

「いいかお前ら。現代の物理科学と、水圧という自然の法則が交わる奇跡の瞬間を見せてやる。黒木、101号室のシンクへ戻るぞ!」


* * *

再び101号室。

シンクの中には、依然としてドブ臭い濁水がたゆたっていた。

真木はマスクを二重に装着し、シンクの前に仁王立ちした。

「見よ。これが人間の叡智、化学兵器の力だ!」

真木は『パイプ・ユナイト』のキャップを開け、高粘度のアルカリ性液体を、排水口の隙間からドロドロと流し込んだ。

「次亜塩素酸塩と水酸化ナトリウムの混合液。こいつが、配管の奥にこびりついた油汚れと髪の毛、そして黒木のプロテインのダマを強力に溶かす。……本来なら三十分ほど放置するのだが、今は緊急事態だ。物理攻撃で一気に貫通させる!」

真木はラバーカップ(スッポン)を両手に構え、排水口の真上にセットした。

「いいか黒木、よく見ておけ。この武器の真髄は『押し込む』ことではない。『引く』ことにあるのだ!」

真木はゴム製のカップを排水口に密着させ、ゆっくりと体重をかけて押し込んだ。

グググッ、とゴムが潰れ、中の空気が抜けて真空状態が作られる。

「そして……ここだァァァッ!!」

真木は全身のバネを使い、一気に木の柄を引き抜く方向に引っ張った。

ゴッ! ボコンッ!!

配管の奥から、重苦しい空洞音が響いた。

水圧と真空の力が、配管の奥で固着していた汚れのヘドロを強烈に吸い上げたのだ。

「おおっ! 水面が揺れましたぞ!」

「まだだ! 敵は長年蓄積された強固な要塞! 一撃で崩れるほどヤワではない!」

真木は再びラバーカップを押し込み、そして力強く引き抜く。

ズボボッ! ガボッ!

「押し込みは優しく……引く時は親の仇のように強く! これがラバーカップの極意! うおおおおおっ、余の不労所得を脅かす脂の塊め、粉砕されろォォォッ!」

額に大粒の汗を浮かべ、必死の形相で便所スッポン……いや、ラバーカップをピストンさせる元魔王。

かつて勇者と剣を交えたその筋力は、今や排水管のヘドロとの戦いに全振りされていた。

ゴボッ! ボババババッ!

十数回のピストンの後、排水口の奥から、ついに限界を迎えたような破裂音が鳴り響いた。

その瞬間。

シンクに溜まっていた濁水が、まるで巨大な渦潮のように回転を始め、ズズズズズズーッ!という豪快な音を立てて、一気に排水管の奥底へと吸い込まれていった。

「なっ……! 水が……汚水が引いていく!」

黒木が目を見開いて叫ぶ。

「見事です、魔王様! 配管の閉塞へいそくが完全に突破されました!」

凛花が拍手を送り、麗華は「く、臭かったぁ……」と鼻をつまみながら安堵の息を吐いた。

数秒後、シンクの中には水一滴残らず、ただスムーズに空気が流れる『コーーッ』という音だけが響いていた。真木は水道の蛇口を全開にして水を出しっぱなしにし、それが全く滞ることなく流れていくのを確認して、ようやくラバーカップを置いた。

「……ふぅ。勝ったぞ」

真木はゴム手袋を外し、汗だくの顔で振り返った。

「業者のマグネットなどに頼らずとも、大家の意地と三百円の道具で、見事に危機を乗り越えてみせた。これぞアパート防衛戦の完全勝利だ」

「おおおおっ! 流石は真木様! その勇姿、魔王城の城門を単機で打ち破るがごとき迫力にございました!」

黒木が感極まって拍手喝采を送る。


だが、真木の顔はすぐに厳しい大家のそれへと戻った。

「喜ぶのは早い。今回の詰まりは、業者を呼ばずに済んだ運の良いケースだ。もしメインパイプの奥深くで完全に石灰化していたら、数十万の工事費が飛んでいたところだった」

真木は三人の店子を前に立たせ、大家としての絶対的な命令を下した。

「これより、我がコーポ日ノ出の『住人規定』に新たなルールを追加する」

「新たなルール、ですか?」

「第一。すべての部屋のシンクの排水口には、必ず百円ショップで売っている『水切りネット』を被せること。生ゴミの微細なカスすら、配管に流すことを禁ずる」

「第二。ラーメンのスープや揚げ物の油などの液体脂は、絶対にシンクに流してはならない。必ず『油固め剤』を使って可燃ゴミとして捨てるか、キッチンペーパーに吸わせてから捨てること」

「第三。プロテインパウダーを洗う際は、確実にダマを溶かし切り、大量の水と一緒に流すこと」

真木はビシッと指を突きつけ、三人を睨み据えた。

「この三ヶ条を破り、再び排水管を詰まらせた者は……その修繕にかかる全額を、ペナルティとして家賃に上乗せして請求する! わかったな!」

「「「は、ははぁっ!!」」」

修繕費の自己負担という最も恐ろしい脅迫の前に、元魔界の最高幹部たちは一糸乱れぬ動きで平伏した。


こうして、コーポ日ノ出を襲った『排水管の詰まり』という大事件は、真木の泥臭い物理攻撃と、新たなルールの制定によって幕を閉じた。

深夜の騒動が落ち着き、麗華が「あーもう、バイト遅刻しちゃう!」と慌ててコンビニへ走っていくのを見送った後。

真木は大家部屋に戻り、洗面所で綺麗に洗ったラバーカップを、まるで名剣を扱うかのように丁寧に押し入れの奥へと収納した。

「……頼もしい武器(相棒)だ。だが、二度と出番が来ないことを祈るぞ」

大家の苦労は、魔界の統治よりも遥かに細かく、そして生活感に溢れている。

東京・杉並区の夜空の下、真木征司はかすかに残る漂白剤の匂いを感じながら、再び眠りにつくのであった。

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