第12話:大家の義務・消防点検
大家業において、郵便受けを開ける瞬間というのは、常に一抹の緊張を伴うものである。
木造アパート『コーポ日ノ出』の若きオーナーである真木征司(元魔王ヴァルザード)は、一階の共用ポストから自分宛ての郵便物を取り出し、その中の一通の茶封筒に目を止めた。
表には、角張った厳格なフォントで『杉並消防署』と印字されている。
「……消防署、だと? これは、我が領地に対する国家権力からの宣戦布告か?」
真木が物騒なことを呟きながら封筒を睨みつけていると、ちょうど派遣の仕事から帰ってきた102号室の佐伯凛花(元首席補佐官)が、呆れたようにため息をついた。
「魔王様、早まらないでください。それは宣戦布告などではありません。アパートのオーナーに課せられた、法的な義務の通知です」
「法的義務?」
「はい。中を開けてみてください。おそらく『消防設備点検』のお知らせでしょう」
凛花の言う通り、封筒の中には数枚の書類が入っていた。それによれば、数日後に所轄の消防署から委託された点検員が訪れ、アパート内の火災報知器や消火器、および避難経路が適切に維持されているかをチェックする『定期点検』が行われるという。
「点検だと? 余の所有物であるこの城に、見ず知らずの人間が土足で上がり込んで隅々まで調査するというのか! なんという傲慢な制度だ!」
「傲慢ではありません。ここは『日本』です。消防法という絶対的なルールが存在するのです」
凛花は眼鏡をくいっと押し上げ、ビジネスバッグから六法全書(中古で買ったもの)を取り出す勢いで解説を始めた。
「賃貸住宅の所有者は、入居者の命を守るために、消防設備を定期的に点検し、その結果を消防署長に報告する義務があります。これを怠った場合、どうなるかお分かりですか?」
「ど、どうなるのだ?」
「最悪の場合、消防法違反として行政指導を受け、悪質な場合は三十万円以下の罰金、または拘留。さらに『消防法令違反対象物』としてインターネット上で公表されます」
「こ、公表……ッ!?」
「はい。つまり『このアパートは火事になっても逃げられませんよ』と世界中に宣伝されるわけです。そうなれば、新たな入居者は絶対に寄り付きませんし、資産価値は地の底まで暴落します。大家としての不労所得生活は、その時点でジ・エンドです」
資産価値の暴落。不労所得生活の終焉。
その二つのキーワードは、かつての勇者の聖剣よりも鋭く、真木の心臓を貫いた。
「……いかん。それは絶対に避けねばならん。罰金でキャッシュ(現金)を持っていかれるのも死活問題だ」
真木は顔面を蒼白にしながら、手元の通知書を握りしめた。
「点検日は……明後日の午前十時だと!? 猶予がないではないか! 凛花、至急、現在入居している全店子を大家部屋に招集しろ! 緊急アパート防衛会議を開く!」
* * *
「――というわけで、明後日、このアパートに国家権力(消防署)の査察が入る」
大家部屋のちゃぶ台を囲むように正座させられた店子たちを前に、真木は重大発表を行った。
集められたのは、101号室の黒木鉄心(元重装歩兵隊長)と、202号室の神埼麗華(元吸血貴族)。他の部屋(久世や乃愛)は現在仕事に出ているため、追って通達することになっている。
「査察……! 真木様、ついに人間どもの治安維持部隊が我が軍の動向に勘付いたという事ですか! 直ちに迎撃の陣形を……!」
「違うと言っているだろうが、黒木! これは火災という物理的な厄災から命を守るための、極めて平和的かつ合法的なチェックだ。我々が善良な市民であることを証明する絶好の機会でもある」
真木はホワイトボード(ゴミ捨て場で拾ってきたもの)に、『避難経路の確保』と大きく書き殴った。
「点検員が最も厳しくチェックするのは、火災報知器の動作確認と、ベランダなどの『避難通路』に障害物がないかどうかだ。いざ火事が起きた時、ベランダを通って隣の部屋へ逃げたり、避難はしごを下ろしたりできなければならない。いいかお前たち、ベランダに不要な私物を置いていないだろうな?」
その言葉を聞いた瞬間。
黒木と麗華の二人が、ビクッと肩を震わせ、あからさまに目を泳がせた。
「…………」
「…………」
「おい。なぜ目を逸らす、貴様ら」
真木のドスの効いた声に、黒木が脂汗を流しながら口を開いた。
「あ、あの……真木様。ベランダというのは、我が部屋の外にある、あの小さな空間のことですよね?」
「そうだ。洗濯物を干す場所だ」
「じ、実は……大田組の解体現場で出た鉄骨の廃材を、少々持ち帰っておりまして……」
「は?」
「さらには、麗華」
真木が鋭い視線を向けると、麗華はツインテールをいじりながら口をとがらせた。
「わ、私だって、夜のコンビニのバイトのストレスを発散するための、ちょっとした趣味の道具を置いてるだけよ! 部屋の中には入りきらないんだもの!」
「……嫌な予感しかしない。今すぐ貴様らの部屋に立ち入り検査を行う! 案内しろ!」
真木と凛花が最初に踏み込んだのは、一階角部屋、101号室の黒木の部屋であった。
「失礼するぞ。……って、なんだこれはァァァッ!!」
真木はベランダの窓を開けた瞬間、絶叫した。
本来であれば、物干し竿と室外機があるだけのさっぱりとした空間のはずのベランダが、まるで『違法建築のトレーニングジム』と化していたのである。
解体現場から拾ってきた太い単管パイプがジャングルジムのように組まれ、その中央には、コンクリートブロックと鉄筋で作られた総重量百キロはありそうな『手作りバーベル』が鎮座している。
そして何より最悪なのは、隣の部屋との境目にある『隔て板(蹴破り戸)』――緊急時に突き破って隣へ逃げるための薄いボード――の真ん前に、巨大なトラックの廃タイヤが山積みにされていることだった。
「く、黒木ィィィッ! これは一体何の真似だ!」
「はっ! 我が肉体を維持するための修練場にございます! 真木様から『部屋の中の畳を傷つけるな』と厳命されておりましたので、ならば屋外であるベランダで筋トレを行えばよいのだと、天才的なひらめきに至った次第で!」
「馬鹿野郎!! 天才的なのはお前の筋肉の増量スピードだけだ! その隣の部屋との境目にある板はなんだと思っている!」
真木は隔て板を指差して激怒した。
「そこには『非常の際には、ここを破って隣戸へ避難できます』と親切に日本語で書いてあるだろうが! その前にこんな巨大なタイヤを積んだら、火事の時に隣の住人が逃げられずに丸焼きになるだろうが!」
「な、なんと!? 私はてっきり、敵の侵入を防ぐための脆い防壁だと思い、強化(補強)しておいた方が良いのかと……!」
「強化するな! ここは戦場ではない、杉並区のアパートだ! 今すぐこの鉄骨とタイヤをすべて撤去し、大田組の現場の産廃コンテナに捨ててこい! 明後日までにベランダにホコリ一つ残すな!」
「は、ははぁっ!!」
雷を落とされた黒木は、半泣きになりながら鉄骨を解体し始めた。
頭痛をこらえながら、真木と凛花は続いて二階へと上がり、202号室の麗華の部屋へ踏み込んだ。
「さて、吸血鬼。お前は一体何をベランダに……」
ガラッ、と窓を開けた瞬間。
真木は絶句した。
麗華のベランダには、禍々しい赤黒い塗料で描かれた『巨大な魔法陣』のようなものが、ブルーシートの上にデカデカと展開されていた。その周囲には、ドクロの置物(百円ショップのハロウィングッズ)、謎の水晶玉(ドン・キホーテで購入)、そして大量の盛り塩が配置されている。
さらには、黒魔術の儀式でも行ったのか、お香の燃えカスが山のように積まれた香炉まで置かれていた。
「……麗華。これは、なんだ」
真木の声が、文字通り絶対零度まで冷え込んだ。
麗華は引きつった笑いを浮かべ、モジモジと指を絡ませた。
「え、えーっとね。これはその……ソシャゲのガチャで、どうしても欲しいSSRの吸血姫様をお迎えするための『召喚の儀式』の祭壇でして……」
「ガチャの、祭壇だと?」
「そ、そうよ! ネットの掲示板で『ベランダで月光を浴びながら儀式を行うと排出率が上がる』っていうオカルト情報を見たから、藁にもすがる思いで……って、キャアアアアッ!?」
麗華の悲鳴が二階の廊下に響き渡った。
真木が無言のまま、ドクロの置物と水晶玉を四十五リットルの可燃ゴミ袋(杉並区指定)の中に、次々と放り込み始めたからである。
「ああっ! 私の大切な儀式用具が! それ、全部で三千円くらいしたのにぃっ!」
「黙れ! こんな怪しげなカルト宗教の祭壇のようなものを、消防署の点検員に見られてたまるか! 『このアパートにはヤバい狂信者が住んでいる』と警察に通報され、我がコーポ日ノ出の風評被害がマッハで広がるわ!」
真木はブルーシートごと魔法陣を丸め込み、ゴミ袋の口を固く縛った。
「そもそも、この祭壇のせいで、二階から一階へ降りるための『避難はしご』のハッチが完全に塞がっているではないか! 火災時にここが開かなければ、二階の住人は全員焼け死ぬことになるんだぞ! 命とガチャ、どちらが重いと思っている!」
「ううっ……そ、それは……ガチャ……いえ、命です……」
「わかればいい! このゴミ袋は明日の可燃ゴミの日に確実に出せ。それから、ベランダの床をデッキブラシで水洗いしておけ。お香の匂いが染み付いていてドブ臭いからな!」
「ひどいっ! 魔王のくせに、すっかり大家の顔になっちゃってぇっ!」
泣き崩れる吸血貴族を尻目に、真木と凛花は次なる点検項目へと移った。
各部屋の天井に設置されている『住宅用火災警報器』のチェックである。
真木は脚立を持ち込み、報知器のテストボタンを一つずつ押して回った。
『ピピピピッ、火事です、火事です』
機械的な電子音声が部屋に響く。
「うおおおっ!? 天井の白い円盤が喋りましたぞ、真木様! 中に小人が閉じ込められているのですか!?」
黒木が驚愕して腰を抜かす。
「小人などいない。煙や熱を感知して、自動で警告を発する現代の魔導具だ。……よし、黒木の部屋は正常だな」
真木は続いて共用廊下に出ると、隅に設置されている真っ赤な『消火器』を手に取った。
製造年月日を確認すると、使用期限はまだ数年残っている。真木は持参した雑巾で、消火器の赤いボディについた埃を、まるで愛馬を労わるようにピカピカに磨き上げた。
「いいかお前たち。もし本当に火事になったら、この黄色いピンを抜き、ホースを火元に向けてレバーを強く握るのだ。中から強力な消火剤が噴射される」
「なるほど。この重く硬い鉄の筒で、敵の頭部を直接殴りつけて物理的に鎮火するわけではないのですね」
「黒木、お前は絶対に消火器に触るな。器物破損で余の敷金が吹き飛ぶ」
大家・真木征司による、スパルタ消防設備の清掃と確認作業は、深夜まで続いた。
すべては、明後日に迫る国家権力の査察を完璧に乗り切るためである。
* * *
そして運命の日。午前十時。
コーポ日ノ出の前に、一台の軽バンが停まった。
中から降りてきたのは、グレーの作業着に身を包み、ヘルメットを被った初老の点検員だった。彼はクリップボードを手に、鋭い眼光でアパートの外観を見上げている。
「……おはようございます。杉並消防設備センターの者です。コーポ日ノ出の定期点検に伺いました」
点検員が声をかけると、大家部屋から、まるで一流ホテルのコンシェルジュのような完璧な営業スマイルを浮かべた真木征司が飛び出してきた。
「お待ちしておりました! 大家の真木でございます。本日はお忙しい中、我がアパートの安全のためにご足労いただき、誠にありがとうございます!」
真木は深く、九十度の見事なお辞儀を披露した。
その背後には、スーツ姿で直立不動の凛花と、作業着姿で謎の敬礼をしている黒木、そして眠い目をこすりながらも無理やり立たされている麗華が並んでいる。
「あ、ああ、ご丁寧にどうも。若い大家さんなんですね。では、早速ですが各お部屋の報知器と、ベランダの避難経路を見させてもらいますよ」
「はい! どうぞ、隅から隅までご覧ください!」
真木は冷や汗を隠しつつ、点検員を101号室へと案内した。
点検員は黒木の部屋に入ると、天井の火災報知器に専用の棒を当ててテストボタンを押した。
『ピピピピッ、火事です、火事です』
「はい、報知器は正常ですね。次はベランダを……」
点検員が窓を開け、ベランダに出る。真木と黒木は、心臓が口から飛び出そうになるのを必死に堪えていた。
「……ほう」
点検員が感嘆の声を漏らした。
そこには、筋トレ用の鉄骨はおろか、洗濯バサミ一つ落ちていない、見渡す限り何もない広大で無機質なベランダが広がっていた。床は真木に命令された黒木が三回水洗いしたため、不自然なほどにピカピカに輝いている。
隔て板の前には、もちろん障害物など一切ない。
「素晴らしいですね。こういった築古のアパートだと、ベランダにゴミ袋や使わなくなったタイヤなんかを山積みにして、避難経路を塞いでしまっているケースが非常に多いんですよ。ここまできっちり管理されているとは、感心しました」
「い、いえ! 大家として、入居者の命を守るのは当然の義務にございますゆえ!」
真木は引きつった笑顔で答えながら、心の中でガッツポーズを決めた。
続いて二階、202号室の麗華の部屋。
点検員はベランダに出ると、足元にある『避難はしご』のハッチの蓋を開け、動作確認を行った。
ガシャン、という音とともに、はしごがスムーズに一階へと伸びる。
「うん、可動部も錆びついていませんね。こちらも完璧です。……ただ、少しお香のような、独特の匂いがしますが?」
「あ、ハハハッ! こ、こいつはアロマテラピーが趣味でして! 決して怪しい黒魔術の儀式などではございません!」
真木が慌ててフォローを入れると、点検員は「最近の若い人はおしゃれですね」と微笑み、クリップボードにチェックを入れた。
すべての部屋と共用部の点検が終わるまで、およそ一時間。
最後に、一階の廊下で点検員が報告書をまとめる間、真木は自販機で買ってきたよく冷えた缶コーヒーを差し出した。
「どうぞ、お疲れ様でした」
「ああ、すみません。いただきます」
点検員は缶コーヒーを受け取り、真木に向かって深く頭を下げた。
「いやあ、真木さん。これほどスムーズに点検が終わったのは久しぶりですよ。どの部屋の住人さんも協力的で、設備も綺麗に保たれている。前のオーナーさんの時はかなり散らかっていたと聞いていたので覚悟してきたんですが、本当に素晴らしい管理状態です」
「も、もったいないお言葉です」
「これなら、万が一火災が起きても被害は最小限に食い止められるでしょう。消防署への報告書も、優良物件として太鼓判を押して提出しておきますよ。これからも、この状態を維持してくださいね」
点検員から手渡された『消防設備点検結果報告書』の控えには、すべての項目に『異常なし』の丸印が燦然と輝いていた。
「ありがとうございます! 大家として、命に代えてもこの城の安全を守り抜きます!」
点検員の軽バンが走り去っていくのを見送った後。
真木は報告書の控えを両手で高く掲げ、コーポ日ノ出の青空に向かって、万感の思いを込めて咆哮した。
「勝った……! 余は、国家権力の査察を完全に乗り切ったぞォォォッ!!」
「うおおおおおっ! 真木様、万歳! コーポ日ノ出、万歳!」
黒木が両手を突き上げて歓喜の声を上げ、凛花もホッと息を吐いて眼鏡を拭いた。
「……もう、これでやっと寝られるわね……。おやすみなさい……」
麗華は限界を迎え、ふらふらと自室へと戻っていく。
その日の午後。
真木は大家部屋に戻り、百円ショップで買ってきた安物の額縁に、その『消防設備点検結果報告書』の控えを誇らしげに収め、ちゃぶ台の横の壁に飾った。
「魔力などなくとも、法律を守り、義務を果たすことで得られるこの『社会的な信用』。これこそが、現代日本における最強の防御魔法というわけだ」
真木は額縁を見上げ、満足げに一人ごちた。
大家の義務とは、ただ家賃を徴収することだけではない。住人の命と、自らの財産を法の下に守り抜くこと。
その重みを確かな実感として噛み締めながら、元魔王のアパート経営は、また一つ盤石なものへと進化を遂げたのであった。




