第13話:雨漏りと屋根の上の決闘
日本の気候というものは、つくづく極端にできている。
つい先日まで初夏を思わせる陽気で畳の表替えをしていたというのに、六月も半ばに入ると、東京は「梅雨」と呼ばれる長く陰鬱な雨の季節に突入した。
しかも今年の梅雨は、ただの長雨ではなかった。南の海上で発生した季節外れの大型台風が梅雨前線を強烈に刺激し、数日間にわたって記録的な豪雨を杉並区にもたらしていたのである。
「……酷い雨だ。魔界の『嘆きの沼』に降り続く酸の雨ですら、これほどの物理的な質量は持っていなかったぞ」
深夜零時。コーポ日ノ出の一階奥、大家部屋にて。
ジャージ姿の真木征司(元魔王ヴァルザード)は、窓ガラスに激しく叩きつけられる雨粒の音を聞きながら、ちゃぶ台の前で腕を組んでいた。
築三十八年の木造アパートは、強風が吹き付けるたびに「ギシッ……ミシッ……」と建物の骨組みから悲鳴のような家鳴りを上げている。
大家という立場になって初めて知ったことだが、自分の所有する建物が悪天候に晒されている時の精神的ストレスというものは、戦場で勇者の大魔法を待ち受ける時よりも遥かに胃が痛くなるものだった。
「外壁の塗装も劣化しているし、瓦も随分と古くなっている。持ち堪えてくれよ、我が城……」
真木が祈るように呟いた、まさにその時である。
――ポツッ。
背後で、かすかな、しかし異質な音がした。
「……ん?」
雨が窓を叩く音とは違う。それは、室内のどこかに水滴が落ちたような、極めて嫌な音だった。
真木は恐る恐る振り返り、六畳間の天井を見上げた。蛍光灯のすぐ脇、木目調の天井板の一部が、わずかに黒ずんで染みになっているように見える。
「気のせいだ……気のせいだ、気のせいだ……」
現実逃避を試みる真木であったが、非情なる物理法則は容赦しなかった。
――ポツッ。ピチョン。
二滴目、そして三滴目の水滴が、天井の染みから床の畳へと落下した。
「雨漏りだァァァァァッ!!」
真木の絶叫が、暴風雨の音を切り裂いてアパート中に響き渡った。
「真木様! いかがなされましたかっ!」
十秒後、大家部屋のドアを蹴破らんばかりの勢いで飛び込んできたのは、101号室の黒木鉄心だった。彼はいつもの作業着姿のまま、手にプラスチックの洗面器を持っている。
「天井から敵の奇襲ですか!? 毒液の散布ですか!」
「違う! ただの雨漏りだ! だが、我が軍にとっては毒液以上の大ダメージだ! 早くその洗面器をそこに置け!」
真木が指示すると、黒木は慌てて水滴が落ちてくる畳の上に洗面器を配置した。ポチャン、ポチャンと、絶望的なリズムで水が溜まっていく。
「大家部屋でこれだ。二階はどうなっている!?」
真木は嫌な予感に背筋を凍らせ、急いで大家部屋を飛び出した。黒木もそれに続く。
二階への外階段を駆け上がり、彼らが向かったのは空室である203号室と、その隣の204号室(現在空室)の真上あたりだった。
マスターキーで扉を開け、真っ暗な部屋の電気のスイッチを入れた瞬間。
「……終わった」
真木は膝から崩れ落ちそうになった。
204号室の天井には、大家部屋の比ではない巨大な黒い染みが広がり、そこからボタボタと滝のように雨水が漏れ出していた。床の畳はすでにぐっしょりと水を吸い、靴下で踏めばジュワッと嫌な音を立てるほどに浸水している。
「なんという惨状……! 屋根の防壁が完全に突破されておりますぞ、真木様!」
「わかっている! このままでは階下の部屋まで水浸しになり、木材が腐ってシロアリが湧く! 修繕費が数百万単位に跳ね上がるぞ!」
真木はパニックになりながら、ポケットからスマートフォンを取り出し、深夜対応の屋根修理業者に電話をかけた。
『プルルルル……ガチャ。はい、水回り・屋根の緊急レスキューセンターです』
「雨漏りだ! 至急、杉並のコーポ日ノ出まで来てくれ! 屋根に穴が空いているかもしれん!」
『あー……お客様、申し訳ありません。現在、台風の影響で区内全域から雨漏りの要請が殺到しておりまして。すべての作業員が出払っております』
「な、なんだと!? ではいつ来れるのだ!」
『天候が回復してからとなりますので、明日の午後以降、場合によっては明後日になるかと……』
「明後日だと!? そんなに放置したら、我が城は文字通り水に沈んでしまうわ! 特別料金を払う! なんとかしてくれ!」
『無理なものは無理です。タオルでも敷いて凌いでください。ガチャ』
ツー、ツー、ツー……。
電話は無情にも切られた。
真木はスマートフォンを持ったまま、呆然と立ち尽くした。
資本主義の金の力(特別料金)すら通用しない、完全なるお手上げ状態。業者が来ない以上、この猛烈な勢いで漏れ続ける雨水を止める手段はない。
「魔王様。泣き言を言っている暇はありませんよ」
振り返ると、いつの間にか102号室の佐伯凛花が、完全防水のレインコートを着込み、手には懐中電灯と防水テープを持って立っていた。
「業者が来ないのなら、我々の手で応急処置をするしかありません。放置すればするほど、修繕費という名の負債が雪だるま式に膨れ上がりますよ」
凛花の極めて現実的な(そして金に関する)指摘に、真木の瞳に再び覇王としての光が宿った。
「……そうだな。待っているだけで城を奪われるなど、魔王の辞書にはない!」
真木は決意の表情で黒木を振り返った。
「黒木! ホームセンターで買った巨大なブルーシートと、土嚢袋、それにスコップを用意しろ! 余と貴様で、屋根の上に登って直接穴を塞ぐぞ!」
「ははぁっ! 命に代えても、この城の天蓋を死守してみせます!」
数分後。
コーポ日ノ出の横の狭い路地で、土砂降りの雨の中、真木と黒木は決死の作業を開始していた。
「黒木、土嚢袋にそこのプランター用の土を詰めろ! ブルーシートの重しにする!」
「承知いたしました!」
黒木は凄まじいスピードで土を袋に詰め、次々と重さ十キロ以上の土嚢を作り出していく。
真木は二階のベランダから、屋根へと通じる点検用の小さなハシゴを引っ張り出した。
強風が吹き荒れ、雨が横殴りに叩きつけてくる。ただ立っているだけでも体温が奪われ、目を開けているのも辛い状況だ。
「大家、危険です! 屋根の上は滑ります、十分に注意してください!」
下から凛花が懐中電灯で屋根を照らしながら、大声で叫ぶ。
「案ずるな! これしきの風雨、勇者の放つ『風刃の嵐』に比べればそよ風のごときもの! 行くぞ黒木!」
「おおおおおっ!」
真木と黒木は、折りたたまれたブルーシートと土嚢を抱え、滑るハシゴを慎重に、しかし力強く登っていった。
屋根の上は、まさに戦場だった。
トタンと古い瓦が入り混じった屋根は、長年の雨風で劣化しており、少し足を踏み外せばそのまま一階へと滑り落ちてしまうほどの傾斜がある。
さらに、台風の強風が下から巻き上げるように吹き付け、真木たちの身体を容赦なく煽った。
「ぐおおっ……! 風が、強い!」
「真木様、おつかまりください!」
黒木が自らの巨体を盾にして風を遮り、真木が屋根の瓦がズレている箇所、雨漏りの原因となっている大穴を探す。
「見つけたぞ! あの部分だ、古いアンテナの支柱の根元あたり、瓦が数枚吹き飛んでいる!」
凛花の懐中電灯の光が、屋根の中央付近にある黒いポッカリとした穴を照らし出した。
「よし、黒木! ブルーシートを展開しろ! 風に持っていかれるなよ!」
「はっ!」
黒木が巨大なブルーシートを広げようとした瞬間、突風が吹き荒れた。
バサバサバサッ!とブルーシートが帆のように風を孕み、すさまじい力で黒木の身体を屋根から引き剥がそうとする。
「ぬおおおおおっ!? シートが、シートが空へ飛び立とうとしております!」
「離すな黒木! そのまま覆い被され!」
「魔王様、風向きが右から左へ変わっています! シートの左下から風が入り込んでいます、そこを抑えてください!」
下から凛花の的確な指示が飛ぶ。
真木は屋根の上に這いつくばりながら、シートの端に飛びついた。
「ぐっ……! 重い……! だが、この城の修繕費二百万を天秤にかければ、これくらいの重さ、どうということはないわァァァッ!」
資本主義への恐怖が、魔力を失った魔王に限界を超えた筋力を発揮させた。真木はシートの端を強引に屋根に押し付け、その上に素早く土嚢を乗せた。
「黒木! 四隅を土嚢で固定しろ! 絶対に隙間を作るな!」
「御意! ふんっ、ふんっ、ふんっ!」
黒木は解体現場で鍛え抜かれた足腰と怪力を駆使し、滑る屋根の上を物ともせずに駆け回り、次々と土嚢を配置していく。その動きは、かつて魔王城の城壁を修復していた時の迅速さと何ら変わりはなかった。
「よし……! なんとか塞いだぞ!」
真木が息を弾ませながら叫ぶ。
ブルーシートは見事に大穴を覆い隠し、周囲を重い土嚢でガッチリと固定されていた。これで少なくとも、直接的な雨水の侵入は防げるはずだ。
しかし、その時である。
ビュオォォォォォォッ!!
これまでで最大級の突風が、コーポ日ノ出の屋根を直撃した。
「うわぁっ!」
真木の足元の古いトタンが濡れた雨で滑り、バランスを崩した彼の身体が、屋根の斜面をズルズルと滑り落ち始めたのだ。
「魔王様ッ!!」
下で照らしていた凛花が悲鳴を上げる。
このままでは二階の屋根から真っ逆さまにアスファルトへ落下し、全身打撲、最悪の場合は骨折で入院(莫大な医療費)という最悪のシナリオが待っている。
(余の……余の不労所得生活が、ここで終わるのか……!)
真木が絶望に目を閉じた瞬間。
ガシッ!!
「……っ!?」
強靭な万力が、真木の右腕を空中でガッチリと掴んで止めた。
「黒木……!」
「お離しはしませぬ、真木様! いかなる嵐が吹こうとも、私がこの手で真木様をお守りいたします!」
黒木は片手で屋根の棟(一番高い部分の出っ張り)にしがみつき、もう片方の腕一本で、真木の全体重を完全に支え切っていた。その顔は雨水と汗でぐしゃぐしゃだったが、その瞳には絶対的な忠誠心と、猛将としての誇りが燃え盛っていた。
「すまない、黒木……! 助かった!」
「なんのこれしき! さあ、今のうちにハシゴへ!」
黒木の腕力で引き上げられた真木は、這うようにしてハシゴまで辿り着き、なんとか一階の地面へと降り立つことができた。
直後、黒木も無事にハシゴを降り、地面に足をついた。
「……終わったか」
真木は全身ずぶ濡れになりながら、屋根の上を見上げた。
ブルーシートは風に煽られながらも、土嚢の重みでしっかりと大穴を塞ぎ、雨水の侵入を完全に防いでいる。
「大家。204号室の状況を確認してきました。雨漏りは……完全に止まりました」
アパートの中から戻ってきた凛花が、防水のスマートフォンで撮影した写真を見せながら報告した。
その言葉を聞いた瞬間、真木と黒木はその場にへたり込んだ。
「勝った……。我々は、自然の猛威と修繕費の増大に打ち勝ったのだ……」
「はいっ! 真木様の的確な采配と、大いなる勇気のおかげにございます!」
雨はまだ降り続いているが、彼らの心の中には、嵐を乗り越えた清々しい達成感が満ち溢れていた。
* * *
一時間後。
大家部屋の六畳間は、すさまじい熱気と、醤油とダシの匂いに包まれていた。
真木、黒木、凛花、そして騒ぎで起きてきた麗華の四人が、それぞれバスタオルを頭に被り、風呂上がりのさっぱりとした姿でちゃぶ台を囲んでいる。
ちゃぶ台の真ん中には、電気ケトルから熱湯が注がれた『特盛り・きつねうどん(カップ麺)』が四つ並んでいた。
「五分経ったぞ! 食え!」
真木の号令とともに、全員が一斉にフタを剥がし、割り箸を割った。
ズズズッ、ズルズルッ!
「美味い……! 美味すぎるッ! 冷え切った身体に、この熱いダシが染み渡ります!」
黒木が涙を流しながらうどんをすする。
「カロリーこそ正義ですね。雨漏り対応で消費したエネルギーが、急速にチャージされていくのがわかります」
凛花も眼鏡を曇らせながら、大きな油揚げにかぶりついた。
「もう、うるさくて寝てられなかったわよ。でもまあ、屋根が直ってよかったわね。私の部屋まで水浸しになったら最悪だったもの」
麗華も文句を言いながら、しっかりと麺をすすっている。
真木は温かいうどんのスープを飲み干し、ふう、と深く息を吐いた。
ずぶ濡れになって屋根に登り、泥だらけになって危機を脱した後の、この一杯のカップうどん。魔界のどんな豪勢な晩餐よりも、不思議と心が満たされるのを感じる。
「……お前たち。今夜はご苦労だった。見事な働きだ」
真木がぽつりと言うと、三人は手を止め、それぞれの主君に微笑み返した。
「大家こそ、お怪我がなくて何よりです。……ただし、明日業者が来たら、本格的な屋根の修理費用の交渉という戦いが待っていますからね」
凛花の現実的な一言に、真木は再び頭を抱えた。
「わ、わかっている! 相見積もりを取って、徹底的に値切ってやるわ!」
外はまだ激しい暴風雨が続いている。
しかし、コーポ日ノ出の大家部屋の中だけは、確かな温もりと、家主と店子たちの確固たる団結力によって、穏やかな光に満ちていた。
屋根の上の決闘は、彼らの絆をさらに強く、そして深く結びつける試練となったのである。




