第8話:深夜の物音と怪奇現象の正体
深夜二時。
木造アパート『コーポ日ノ出』は、深い静寂に包まれていた。
築三十八年の建物は、昼間の熱を逃がすように時折「ピキッ」と木材が鳴る音(家鳴り)を響かせる以外、まるで時間が止まったかのように静かである。大家である真木征司(元魔王ヴァルザード)も、日中の疲労から六畳間で深い眠りに落ちていた。
だが、その静寂は、すさまじい勢いでドアを叩く音によって無残に打ち砕かれた。
「真木様! 真木様ぁぁぁっ! 起きてくだされ! 一大事にございます!」
「……んん、なんだ……?」
真木は跳ね起き、不機嫌極まりない顔で玄関の扉を開けた。
そこに立っていたのは、身長百九十センチを超える巨漢の元重装歩兵隊長・黒木鉄心だった。解体現場で無双の怪力を誇るこの猛将が、なぜか今は生まれたての子鹿のようにガタガタと全身を震わせ、青ざめた顔で真木にすがりついてきたのだ。
「ど、どうした黒木。夜中に大声を出して。またゴミの分別で悪夢でも見たか?」
「ち、違います! 出たのです!」
「出た?」
「私の部屋(101号室)の真上……つまり、空室のはずの202号室から、謎の足音と、不気味な光が漏れているのです!」
黒木は怯えたような目で、二階へと続く外階段を見上げた。
「最初はネズミかと思ったのですが、明らかに人間の足音でした。ドスドスと床を叩くような音や、時折『あああっ!』とか『ふざけるなぁっ!』といった、怨念に満ちた叫び声が聞こえてくるのです! 間違いない、あれは無念の死を遂げた地縛霊……ポルターガイストの類に違いありません!」
黒木の言葉に、真木は眉間にシワを寄せた。
「幽霊だと? 馬鹿な。この世界には魔力が存在しないのだぞ。霊体が物理干渉を起こすなど、物理法則的にあり得ん」
「しかし、現に聞こえるのです! 真木様、いかに私が無敵の盾を誇ろうとも、物理攻撃が通じない霊的な存在だけはどうにもなりませぬ! どうか、どうかご助力を……!」
「……黒木隊長の言う通り、ただ事ではありませんね」
騒ぎを聞きつけたのか、隣の102号室から元首席補佐官の佐伯凛花が、パジャマの上にカーディガンを羽織った姿で出てきた。彼女の眼鏡の奥の瞳は、霊的現象に対する恐怖ではなく、極めて現実的な『損得勘定』の光を放っていた。
「魔王様。もしこのコーポ日ノ出が、幽霊の出る『事故物件』として町内に噂されてしまったらどうなるか、お分かりですか?」
「じこぶっけん……?」
「はい。賃貸経営において、心理的瑕疵のある物件は致命傷です。家賃を相場の半額以下に下げても入居者が寄り付かなくなり、最悪の場合、アパート全体の資産価値が暴落します」
「な、なんだと……ッ!?」
真木の顔色が変わった。
幽霊の存在などよりも、『資産価値の暴落』というワードの方が、今の魔王にとってはよほど恐ろしい呪いの言葉であった。
「おのれ、どこの馬の骨か知らん浮遊霊め! 余が心血を注いで経営を軌道に乗せようとしているこの城にケチをつけ、不法占拠するとは万死に値する! 成仏させてやる、物理的にな!」
真木は壁にかけてあった大家用の『マスターキー(全室の合鍵)』の束を鷲掴みにし、怒りの形相で二階へと通じる鉄骨階段を駆け上がった。
「ま、真木様! お供いたします!」
「霊障による損害賠償を請求できるか、状況を記録します」
黒木と凛花も後に続く。
* * *
202号室の前。
真木が耳を澄ますと、確かに中からかすかな物音が聞こえてきた。
『……ううっ、なんで……なんで出ないのよぉ……』
くぐもった、女のすすり泣くような声。
そして、薄っぺらいアルミドアの隙間からは、青白い人工的な光がチカチカと点滅するように漏れ出している。
「ひっ……! や、やはり怨霊……!」
「静かにしろ、黒木。今から突入する」
真木はマスターキーを鍵穴に差し込み、音を立てずにガチャリと解錠した。
そして、息を吸い込み、ドアノブを一気に引き開けた!
「そこまでだ、不法占拠者め!!」
バンッ!と勢いよく扉を開け放ち、大家権限での強制立ち入りを敢行した三人の目に飛び込んできたのは――目を疑うような惨状であった。
六畳の和室は、完全に閉め切られていた。
窓には分厚い『遮光カーテン』が画鋲で隙間なく打ち付けられ、外の街灯の光すら一切入らないように密閉されている。
床には、空になったトマトジュースの紙パックや、コンビニの弁当ガラが散乱。
そして、部屋の中央。
真っ暗な部屋の中で唯一の光源となっている『スマートフォンの画面』を、親の仇のような形相で睨みつけながら、猛烈な勢いで画面をタップしている女がいた。
「ああっ、もう! 確率アップは嘘をつきませんって言ったじゃない! なんで百五十連も回して、すり抜けで恒常のSSRしか出ないのよ! 私の石(なけなしの課金アイテム)を返しなさいよぉぉぉっ!!」
床にゴロゴロと転がりながら、発狂したように叫んでいるその女。
年齢不詳だが、見た目は二十代前半の妖艶な美女。長く艶やかな黒髪に、透き通るような白い肌。着ているのは、どこぞのゴスロリブランドで買ったとおぼしき、黒を基調としたフリルだらけのルームウェアである。
真木、凛花、黒木の三人は、その光景を前に完全にフリーズした。
「……おい」
真木が低い声で呟く。
「あれ、どう見ても幽霊じゃないよな」
「はい。それに、あの女の顔……見覚えがあります」
凛花が眼鏡を押し上げ、冷たい視線を向けた。
「魔王軍の幹部の一人。夜を統べる不死の眷属、吸血貴族の神埼麗華ですね。なぜあのような現代社会の『引きこもり廃人』のような姿になっているかは謎ですが」
「か、神埼殿!? あのプライドの塊のような吸血鬼が、なぜ床を転げ回って薄い板に叫んでいるのだ……!?」
黒木が困惑の声を上げたその時、スマホの画面から顔を上げた女――麗華が、部屋の入り口に立つ三人の姿に気がついた。
「……え? あ、あなたたち……」
麗華は目をぱちくりとさせ、次いで、その赤い瞳をカッと見開いた。
「ヴァ、ヴァルザード様!? 凛花に黒木まで! どどど、どうしてここに!?」
「それはこっちのセリフだ、吸血鬼」
真木は土足で上がり込み(どうせ畳は古いままだ)、麗華の首根っこをひょいっと摘み上げて正座させた。
「痛っ、ちょっと乱暴にしないでよ! 私は誇り高き吸血貴族よ!」
「誇り高き貴族様が、なぜ余の所有するアパートの空室に無断で住み着いている。しかも、なんだこの部屋の惨状は。ゴミの分別も全くできていないではないか」
真木が部屋の中を見渡すと、麗華は気まずそうに視線を泳がせた。
「そ、それは……私がこの世界に転移してきたのは、もう一ヶ月も前のことよ。右も左も分からない東京の街で、日光に焼かれそうになって逃げ込んだのが、たまたまこの空き部屋だったのよ」
「一ヶ月前だと?」
「そうよ! 鍵が開いてたから(※前の大家がずさんで一部屋だけ鍵が開けっぱなしになっていたらしい)入り込んで、そのまま住み着いたの。ここなら雨風もしのげるし、日光も遮断できる。最高の拠点じゃない!」
「最高じゃない。それはただの不法侵入と住居不法占拠だ」
凛花が冷酷に法律の現実を突きつける。
「しかも、どうやってこのスマートフォンなる魔導具を手に入れ、通信を行っているのですか? 契約には身分証と口座が必要なはずですが」
「ふふん、甘いわね凛花。夜中の公園で酔っ払って寝ていたサラリーマンに『魅了』をかけて、不要になったお古の白ロム端末を貢がせたのよ! 通信環境については……」
麗華は、悪びれもせず真木を指差した。
「一階の大家の部屋から飛んでくる『Wi-Fi』っていう不可視の魔力線を、パスワードを総当たりで解読して拝借してるのよ! おかげで快適なネットサーフィンとソシャゲ生活を満喫させてもらってるわ!」
ピキッ。
真木のこめかみで、何かが千切れる音がした。
「……貴様。ここ数日、余の部屋のWi-Fiルーターの通信速度がやたらと遅く、動画が頻繁に止まっていたのは……貴様がタダ乗り(フリーライド)して、重いゲームのデータをダウンロードしていたからかッ!」
「あいたっ! 引っ張らないで、ほっぺた引っ張らないでぇっ!」
真木は麗華の白い頬を両手で思い切りつねり上げた。
「ええい、許さん! 百歩譲って不法侵入は水に流そう(どうせ空室だったし)。だがな、通信ドロボウと、この部屋の電気を無断使用していることだけは絶対に見過ごせん! 大家の資産を食い潰す寄生虫め!」
「痛い痛い! 魔王様なんだから、これくらいの細かい出費で怒らないでよ!」
「余はもう魔王ではない! 家賃収入と日々の節約に命を懸ける、木造アパートの大家だ!」
真木は麗華を畳の上に放り投げると、腕を組んで仁王立ちした。
「いいか麗華。今すぐ荷物をまとめて出ていくか、それともここで余と正規の『賃貸借契約』を結ぶか、二つに一つだ。警察に突き出されたくなければ、今すぐ家賃を払え。202号室は角部屋だから、月額五万五千円だ」
「ご、五万五千円!? 無理よ! 私、一文無しだもの!」
麗華は抗議するように立ち上がり、胸を張った。
「だいたい、私に『働いてお金を稼げ』なんて残酷すぎるわ! 私は吸血鬼なのよ!? 日光に当たれば一瞬で灰になってしまう特異体質なの! そんな私が、昼間に外に出て労働なんてできるわけないじゃない! 労働は太陽の下を歩ける平民どもの義務よ!」
「……なるほど。日光が無理なので働きません、と」
「そうよ! だから私はこの部屋で、夜な夜なソシャゲのイベントを周回して生きる運命なの。大家なら、可哀想な吸血鬼を保護してタダで住まわせてあげる度量を見せなさいよ!」
完全に開き直り、ニート宣言を高らかに響かせる吸血貴族。
その言葉を聞いた瞬間、真木の目に、魔王時代ですら見せたことのないほどの『底知れぬ絶対零度の怒り』が宿った。
「……黒木」
「は、ははっ!」
「今すぐその窓の、遮光カーテンを引き剥がせ」
「えっ」
麗華の顔が引き攣った。
「ちょ、ちょっと待って! 今、夜中の二時よ!?」
「もうすぐ朝が来る。このまま窓を全開にして、夏の強烈な朝日がお前の身体を焼き尽くすまで、ベランダの物干し竿に逆さ吊りにして干してやる。家賃を払わないゴミは、可燃ゴミとして処分するまでだ」
「ヒィィィィッ!! 鬼! 悪魔! 魔王ォォォッ!!」
真木のあまりにも冷酷で物理的な脅迫に、麗華は土下座の姿勢で平伏した。魔王の威圧感などではない。滞納を絶対に許さない『大家の執念』が、吸血鬼の本能的な恐怖を完全に刺激したのだ。
「は、払います! 働きますから、焼却処分だけはご勘弁をぉぉっ!」
「ふん。最初からそう言えばいいのだ」
真木が顎でしゃくると、凛花がどこからともなく『建物賃貸借契約書』を取り出し、麗華の目の前に無慈悲に突きつけた。
「ここにサインと拇印を。敷金と礼金は分割に乗せておきます。それから、無断使用した電気代と通信費も、きっちり来月の請求に上乗せして『損害賠償』として回収させていただきますからね」
「ううっ……私のソシャゲ課金用の予算が……」
涙目でボールペンを握りしめ、麗華は契約書にサインをした。
こうして、コーポ日ノ出に三人目の住人が正式に誕生したのである。
「しかし真木様。この女が言うように、日光に当たれない吸血鬼が、現代日本でどうやって合法的に金を稼ぐというのですか?」
黒木の真っ当な疑問に、真木はフッと口角を上げた。
「簡単なことだ。太陽が昇っている間に働けないのなら、太陽が沈んでいる間に働かせればいい」
「と、言いますと?」
「深夜のコンビニエンスストアだ。時給も高く、万年人手不足のあの環境なら、夜行性のこいつには天職だろう。接客用語とレジ打ちは、余と凛花で徹底的に叩き込んでやる」
真木の宣告に、麗華は「深夜の……ろうどう……?」と呟き、白目を剥いて気絶した。
こうして、プライド高き吸血貴族の、深夜コンビニワンオペ女帝への過酷な更生プログラムが、幕を開けようとしていた。
満室まで、あと三室。大家の苦労は絶えることを知らない。




