第6話:隣の定食屋と町内会費
木造アパート『コーポ日ノ出』の大家部屋である一階奥の六畳間には、重苦しい空気が漂っていた。
時刻は午後七時。窓の外はすっかり暗くなり、近所の家々からは夕食を作る香ばしい匂いが漂ってくる時間帯である。
「……真木様。誠に申し上げにくいのですが」
ちゃぶ台の前に正座した巨漢――元魔王軍重装歩兵隊長の黒木鉄心が、腹を抱えながら呻くように言った。
「腹が、減りました。限界であります」
「耐えろ、黒木。現在、我が軍の財政は極めて逼迫しているのだ」
ジャージ姿の大家・真木征司(元魔王ヴァルザード)は、腕を組んだまま厳しい表情で首を横に振った。
黒木は昼間、大田組の解体現場で三人分の働きを見せ、日当一万円を稼ぎ出してくる優秀な労働力に成長していた。しかし、その圧倒的なパワーを維持するためのカロリー消費量もまた凄まじく、普通の成人男性の三倍は飯を食う。
さらに、102号室に住む元首席補佐官の佐伯凛花が算出した『中期財務予測』によれば、今後の固定資産税や修繕積立金に備え、食費などの生活費は極限まで切り詰めなければならないという冷酷な通達が出されていた。
「今日のお前の夕食は、近所のスーパー『ライフ』で買ってきた『一袋十九円のもやし』を二袋使った塩コショウ炒めと、半額のうどん一玉だ。それ以上はないと思え」
「も、もやし……。確かにシャキシャキとした食感は悪くありませんが、いかんせん腹に溜まりませぬ。私の肉体は、もっとこう、タンパク質と脂質を渇望しております……っ!」
「贅沢を言うな! 余など、先ほどから白湯を飲んで空腹を紛らわしているのだぞ! 家賃収入が安定するまでは、この程度の飢えなど精神力でカバーしろ!」
かつて魔界の宮廷で、毎晩のように豪勢な肉料理や美酒を浴びるように喰らっていた覇王と猛将が、六畳間で十九円のもやし炒めを奪い合うように食べている。涙ぐましいほどの没落ぶりであった。
ぐううううっ……。
二人の腹の虫が、まるで共鳴するかのように悲しげな重低音を響かせた。
その時である。
――ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
真木と黒木はビクッと体を震わせ、瞬時に警戒態勢を取った。
「真木様。こんな夜分に訪問者とは……。まさか、勇者の残党、あるいは異世界からの刺客では!?」
黒木が立ち上がり、解体現場用の安全靴を履こうと身構える。
「落ち着け、黒木。ここは現代日本だ。いきなり剣を抜いて襲いかかってくるような野蛮な真似をする輩はいない。……だが、念のため警戒は怠るな。ドアチェーン越しに対応する」
真木は慎重に足音を殺して玄関に向かい、チェーンをかけたままドアをわずかに開けた。
隙間から覗き込むと、そこには初老の男性が立っていた。
年齢は五十代後半といったところか。頭に白いタオルを巻き、恰幅の良い体には、年季の入った藍色のエプロンが巻かれている。エプロンの胸元には『大衆食堂 じんぼ亭』という文字が白抜きで染め抜かれていた。
「あー、こんばんは。夜分遅くにごめんね。新しくこのアパートの大家さんになった、真木さんかい?」
男性は人懐っこい笑顔を浮かべ、少し嗄れた声で話しかけてきた。
敵意や魔力は微塵も感じられない。ただの、完全に無害な現代日本の一般市民である。
真木は警戒を解き、ドアチェーンを外して扉を大きく開けた。
「いかにも。私がこのコーポ日ノ出のオーナー、真木征司だ。何か用だろうか?」
「おお、やっぱりそうだったか! 前の大家さんが急に夜逃げみたいにいなくなっちゃって心配してたんだけど、若いのにしっかりした人が買い取ってくれて安心したよ」
男性はタオルで額の汗を拭いながら、ペコリと頭を下げた。
「俺は、すぐそこの角で定食屋をやってる神保康平ってんだ。実はこの辺りの『町内会長』もやらせてもらっててね。今日は新しい大家さんに、ご挨拶と……ちょっとしたお願いがあって来たんだわ」
「挨拶は痛み入るが、お願いとはなんだ? 余は……いや、私は善良な市民としてルールを守って生活しているつもりだが」
真木が怪訝な顔をすると、神保は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「いやね、大したことじゃないんだ。この辺りに住む人たちには、みんな『町内会』に入ってもらっててね。その『町内会費』の集金に来たのよ」
「ちょうないかい、ひ?」
「そうそう。月額五百円。一年分で六千円になるんだけど、まあ大家さんだし、できればまとめて払ってもらえると助かるなー、なんて思ってね」
ピクリ、と真木のこめかみに青筋が浮かんだ。
(月に五百円……年間で六千円だと!?)
ただでさえ十九円のもやしで飢えを凌いでいる極貧状態において、六千円という出費は致命傷になりかねない大金である。
(これは……もしや、噂に聞く反社会的勢力による『みかじめ料』というやつか!? この男、人の良さそうな顔をしておきながら、余の領地から不当に金を巻き上げようという魂胆だな!?)
真木の眼光が、かつての魔王のそれへと鋭く変化する。
「待て、神保とやら。私はこの土地と建物を正当な対価を払って購入した。すでに国や自治体に固定資産税を払う義務を負っているというのに、なぜ見ず知らずのお前の組織に毎月五百円もの『みかじめ料』を納めねばならんのだ」
「み、みかじめ料!?」
神保は目を丸くして、慌てて両手を振った。
「いやいやいや! 違う違う、ヤクザのショバ代じゃないって! 町内会費だよ! このお金はね、夜道を明るく照らす防犯街灯の電気代とか、ゴミの集積所のカラス避けネットの買い替え費用とか、秋のお祭りの運営資金に使われるんだよ」
「ゴミの集積所のネット……?」
「そうそう。ほら、この前、おたくの大きな体の住人さんが、ゴミ出しのルールがわからなくて近所の奥さんたちと揉めただろ? ああいう集積所の管理や掃除当番なんかも、町内会費で買った用具を使って、みんなで協力してやってるんだ」
その言葉を聞いて、真木の脳裏に先日の『重装歩兵、可燃ゴミの日に散る』事件の記憶がフラッシュバックした。
あの時、真木はアスファルトに額を擦り付ける土下座を敢行し、なんとか近隣トラブルを回避した。アパート経営において、地域住民のネットワークから弾き出されることは、即ち入居者の減少と経営破綻を意味する。
(……なるほど。この五百円は、単なる搾取ではない。我が領地の周辺環境を維持し、近隣住民との『不可侵条約』を結ぶための、純然たる『外交費』というわけか)
魔界の覇王として数々の部族と同盟を結んできた真木は、瞬時にその費用対効果を計算した。
たった月額五百円(もやし約二十六袋分)で、地域の有力者である町内会長とのパイプができ、ゴミ捨て場という重要インフラの使用権が保証され、夜間の防犯まで賄われる。
これは、破格の安さである。
「……理解した」
真木は表情を和らげ、深く頷いた。
「地域の安全と平穏の維持。大家として、それに協力しない理由はない。少々待っていろ」
真木は部屋の奥に戻り、なけなしの生活費を入れた封筒から、千円札を六枚抜き出した。手が少し震えたが、これは未来への投資だと自分に言い聞かせる。
「ほら、一年分の六千円だ。きっちり納めよう」
「おおっ、話が早くて助かるよ! 若いのに偉いねえ、真木さんは」
神保は嬉しそうに現金を受け取り、エプロンのポケットから領収書を取り出してサラサラとサインを書き込んだ。
「これで真木さんも立派なこの町の一員だ。何か困ったことがあったら、いつでもじんぼ亭に相談においでよ。……おっと、そうだ。すっかり忘れるところだった」
神保は手に提げていた大きなスーパーのレジ袋をごそごそと探り、中から三段重ねになったプラスチック製の立派な保温弁当箱を取り出した。
「これ、俺からのほんの『引っ越し祝い』というか、歓迎の印だ。さっきから、そっちのでっかいお兄さんのお腹の音が凄くてね。若い男二人の自炊じゃ、ロクなもん食ってないだろ? うちの店のまかないの余りだけど、よかったら食べてくれ」
「ま、まかない……?」
真木が弁当箱を受け取った瞬間、ズシリとした確かな重みと、容器越しに伝わってくる温かさに驚いた。
そして、蓋の隙間から微かに漏れ出したその匂いを嗅いだ瞬間――真木と、後ろに立っていた黒木の二人の目の色が変わった。
「こ、これは……ッ!」
「豚肉を焼いた脂の香ばしさ! それに、醤油と甘いタレが焦げたような……なんという暴力的なまでの芳香! 嗅覚だけで、脳髄が痺れるようだ!」
黒木が鼻の穴をこれ以上ないほど膨らませ、歓喜の雄叫びを上げた。
「はははっ、大げさだなぁ。ただの『生姜焼き定食』だよ。冷めないうちに食ってくれや。じゃあ、俺はこれで!」
神保は人の良い笑顔を残し、夜の住宅街へと歩き去っていった。
* * *
「開けるぞ、黒木」
「ゴクリ……! お願いいたします、真木様!」
六畳間のちゃぶ台のど真ん中に鎮座する、三段重ねの保温弁当箱。
真木は震える手で、一番上の蓋をパカッと開けた。
ぶわぁっ!
もうもうと立ち上る白い湯気とともに、圧倒的な『飯テロ』のオーラが部屋中に充満した。
一段目には、飴色に輝くタレがたっぷりと絡んだ、厚切りの豚ロース肉が四枚。その横には、マヨネーズが添えられた山盛りの千切りキャベツが敷き詰められている。
二段目を開けると、そこには雪のように白く、ふっくらと炊き上がった白米がぎっしりと詰まっていた。
三段目には、ワカメと豆腐の味噌汁、そして自家製のたくあんの漬物である。
「な……なんという光沢だ。豚肉の表面が、まるで宝石のように輝いているではないか……!」
真木は息を呑んだ。
「真木様! もはや我慢の限界にございます! いざ、実食を!」
「よ、よし! 半分ずつだ、喧嘩するなよ!」
二人は割り箸を割り、一心不乱に生姜焼きに食らいついた。
「――ッ!!」
口に入れた瞬間、真木の脳内に電流が走った。
豚肉の強烈な旨味と脂の甘み。それを引き締める、生姜のピリッとした辛味と爽やかな香り。甘辛い醤油ベースの特製ダレが、噛めば噛むほど肉汁と混ざり合い、口の中を幸福感で満たしていく。
たまらず白米をかき込む。タレの染み込んだ豚肉と、ふっくらとした熱々の白米の相性は、もはや『完璧』という言葉すら生ぬるいほどの奇跡的なマリアージュであった。
「う、美味い……! 美味すぎるッ! 魔界の宮廷料理長が三日三晩煮込んだローストボアすら、この一切れの豚肉の足元にも及ばん! これが……これが現代日本の『大衆食堂』の味だというのか!」
「うおおおおおっ! 白米が進む! キャベツにマヨネーズとタレを絡めて食うのもまた絶品! 真木様、私は今、猛烈に生きております! 労働の後のメシが、これほどまでに五臓六腑に染み渡るとはぁぁぁっ!」
黒木に至っては、感動のあまりボロボロと大粒の涙を流しながら、豚肉を貪り食っていた。
わずか数分のうちに、山盛りだった三段の弁当箱は、米粒一つ残さず綺麗に空っぽになった。
「ふぅ……」
「ごちそうさまでした……」
満腹感と多幸感に包まれ、二人は畳の上に大の字になって倒れ込んだ。
六千円の出費など、この生姜焼き定食の前には安いものだった。神保という人間の持つ『料理の腕』は、どんな魔法にも勝る回復力を持っている。真木は、この町内会長という存在を、決して敵に回してはならないと心に深く刻み込んだ。
* * *
数日後の夕方。
コーポ日ノ出の大家部屋の前に、再び神保の姿があった。
「いやー、この前は弁当箱洗って返しに来てくれてありがとね。すっげえピカピカになってて驚いたよ」
「当然の礼儀だ。あの生姜焼きは、私の人生……いや、これまでの経験の中でも三本の指に入るほどの美味であった。いずれ必ず、正式に店に金を払って食いに行こう」
真木が真顔で絶賛すると、神保は照れくさそうに笑った。
「ははは、大家さんにそう言ってもらえると嬉しいね。……で、今日は集金じゃなくて、これを持って来たんだ」
神保が差し出したのは、年季の入ったプラスチック製のクリップボードだった。ボードの上部には『回覧板』という文字が大きく書かれており、バインダーには数枚のプリントが挟まれている。
「かいらんばん?」
「そうそう。町内会からのお知らせプリントをね、ご近所さん同士で順番に回して読んでいくシステムなんだわ。今回は『秋の防災訓練のお知らせ』と『不審者注意の喚起』が挟んであるから、大家さんも目を通しておいてよ。読み終わったら、一番上の表の自分の部屋番号のところにサインかハンコをして、隣の家……大家さんの場合は、角の鈴木さんの家のポストに入れておいてくれればいいから」
「なるほど、情報伝達のリレーというわけか」
真木が感心しながら回覧板を受け取った、その時である。
背後から、ドスドスと重い足音を立てて、仕事から帰ってきた黒木が猛烈な勢いで割り込んできた。
「真木様! お聞きしておりましたぞ! それは隣接する領主からの『軍事伝令』にございますね!」
「は?」
神保がポカンと口を開ける中、黒木はギラギラと目を輝かせ、回覧板を凝視した。
「『秋の防災訓練』……すなわち、来るべき敵国の侵攻に備えた、領民総出の軍事演習の招集状! そして『不審者注意』……これは敵の斥候がこの杉並の地に潜入しているという警告! なんという緊迫した戦況! この回覧板というシステム、原始的でありながらも確実な情報伝達手段、感服いたしました!」
「いや、黒木、お前何を言って……」
真木が止める間もなく、黒木は自室から何かを取り出して戻ってきた。
彼の手には、百円ショップで買ってきた習字用の『毛筆』と、真っ赤な『朱肉』が握られていた。
「さあ、真木様! 神保殿が運んでくださったこの重大な軍事機密文書の受け取り証明として、我が血判状をここに力強く刻み込みましょう! 墨がなければ、私の親指を噛み切って……!」
「バカ野郎ッ!!」
スパーーーンッ!!
真木の履いていたスリッパが、見事なスナップを利かせて黒木の後頭部に炸裂した。
「あだっ!」
「血判状など押すな! ただでさえ回覧板の枠は小さいのだ、毛筆でデカデカと名前を書いたら次の人間がサインできなくなるだろうが! ボールペンかシャチハタで十分だ!」
「シャ、シャチハタ……ッ!? なんという便利な魔法の道具!」
「神保殿、申し訳ない。こいつは時代劇のファンでして、どうにも変な癖が抜けないのです。回覧板のシステムは完全に理解しました。責任を持って、隣の鈴木さんのポストに投函しておきます」
真木が土下座せんばかりの勢いで頭を下げると、ポカンとしていた神保は、やがて腹を抱えて大笑いし始めた。
「あーっはっはっは! いやあ、大家さんのところの住人は、本当に個性的で面白いねえ! 軍事伝令かぁ、こりゃ町内会長としても身が引き締まるってもんだ!」
神保は目尻の涙を拭いながら、真木の肩をポンと叩いた。
「いいアパートになりそうだな、ここは。大家さんが真面目だから、みんな安心して暮らせるよ。またいつでも、弁当食いに来な!」
「……感謝する、神保殿」
夕日に照らされるコーポ日ノ出の前で、真木は神保の背中を静かに見送った。
(……町内会費、五百円。そして回覧板という名の地域連携ネットワーク)
真木はクリップボードを小脇に抱え、深く息を吐き出した。
魔王としての強大な魔力を失い、ただの脆弱な人間として生きるこの現代社会。しかし、武力ではなく「法律」と「地域の絆」という新たな武器を手に入れることで、この城の防衛力は確実に高まっている。
「おい黒木。さっさとサインしろ。ボールペンでな。終わったら、鈴木さんの家に持っていくぞ」
「ははっ! 直ちに伝令の任務を遂行いたします!」
満室経営への道はまだ遠いが、元魔王とその腹心たちは、少しずつ、しかし確実に、東京・杉並区という人間の社会に溶け込み始めていた。
彼らのアパート経営は、近隣住民との心温まる交流とともに、より一層の深みを増していくのであった。




