第5話:魔王の家計簿と消費税の脅威
魔界において、魔王軍の財務と兵站を一手に担っていた役職がある。
それは「首席補佐官」と呼ばれ、数百万の魔族の食糧管理、武具の調達、さらには占領した人間の都市からの搾取までを完璧に計算し尽くす、冷徹なる頭脳の持ち主にのみ許された地位であった。
その任に就いていた佐伯凛花は、現代日本という魔力ゼロの世界に転移してからも、その恐るべき適応能力をいかんなく発揮していた。
「ただいま戻りました、大家」
午後七時。コーポ日ノ出の一階奥、大家部屋のドアが開き、カチッとした黒のスーツに身を包んだ凛花が入ってきた。
彼女は初期費用の借金を返すため、真木の命を受けて人材派遣会社に登録。その卓越した記憶力と、魔界の複雑な兵站システムを管理していた論理的思考力を武器に、瞬く間に「経理事務」の派遣社員として採用を勝ち取っていたのである。
「おお、凛花。ご苦労だったな。今日の人間の職場はどうだった?」
六畳一間のちゃぶ台で、スーパーの特売チラシを真剣な顔で睨みつけていた真木征司(元魔王ヴァルザード)が顔を上げる。
「ええ。現代日本のオフィスワークというものは、実に興味深い戦場です」
凛花はヒビの入った眼鏡(まだ買い替える余裕はない)を中指でくいっと押し上げ、誇らしげに胸を張った。
「特に『Excel』なる魔導書の概念には感銘を受けました。関数と呼ばれる呪文を入力するだけで、瞬時に膨大な数値を自動計算し、さらには『エクセル方眼紙』という狂気に満ちた日本独特の書式フォーマットまでをも、この数日で完全に攻略いたしました。派遣先の経理部長からは『君、本当に未経験? 正規雇用でうちに来ないか』とスカウトされたほどです」
「ふっ、流石は余の右腕だ。この世界でもその有能さは健在というわけだな」
真木は満足げに頷き、ちゃぶ台の上に置かれた二つの茶封筒をポンポンと叩いた。
「見ろ、凛花。お前が納めた家賃と、黒木が解体現場の汗水と引き換えに納めた家賃だ。我がコーポ日ノ出の記念すべき最初の年貢(収入)である。これで当面の食費はもちろん、我が帝国の運営は盤石と言えるだろう!」
大家となって初めて手にした、労働と契約に基づく合法的な「不労所得」。
真木の顔には、魔界で新たな領土を手に入れた時以上の、生々しい喜びと安堵が浮かんでいた。しかし、そんな主君の楽観的な態度に対し、凛花はひどく冷ややかな視線を向けた。
「……魔王様。あなたはやはり、根本的に『資本主義社会』というものを理解しておられない」
「なに?」
「大家業とは、ただ座って年貢を巻き上げるだけの殿様商売ではありません。入ってきた金銭をただ喜んでいるようでは、いずれこのコーポ日ノ出は確実に破綻します」
凛花は通勤用のビジネスバッグから、中古ショップで格安で手に入れたノートパソコンを取り出し、ちゃぶ台の上にドンッと置いた。
電源を入れ、立ち上がった画面に表示されたのは、彼女が仕事の合間(あるいは残業中)に密かに作成した『コーポ日ノ出・中期財務予測モデル.xlsx』という物騒な名前のファイルだった。
「ご覧ください。これが我が帝国の収支状況を可視化したものです」
画面いっぱいに広がる、細かなセルと数字の羅列。
真木は顔を近づけ、そこに記された項目を一つ一つ目で追っていった。
「ふむ……収入の部はわかる。現在、店子は101号室の黒木と、102号室のお前だけだ。家賃収入は月に十万と七千円。だが、この『支出の部』にある大量の項目はなんだ?」
真木が指差した先には、見慣れない言葉がズラリと並んでいた。
「順に説明しましょう。まず、このアパートの共用部分――廊下の蛍光灯や、外灯にかかる『共用部電気代』。さらに、清掃に使うための『水道代』。これらは店子から管理費を取っているとはいえ、実費として大家の口座から引き落とされます。これがいわゆるランニングコストです」
「む……まあ、城の松明の維持費と思えば、理解できなくもない」
「甘いですね。次に控えているのが、現代日本における最大の搾取システム……『税金』です」
凛花がエンターキーをターンッ!と強く叩くと、画面の一部が赤くハイライトされた。
『固定資産税』および『都市計画税』。
「な、なんだこれは!? 余は大家だぞ! 領民から税を徴収する立場であって、なぜ余が何者かに税を納めねばならんのだ!」
「この国において、土地と建物を所有するということは、即ち国家と自治体に対して『みかじめ料』を払い続けることと同義なのです。コーポ日ノ出のような築古物件であっても、土地の評価額に対して毎年容赦なく課税されます。これを滞納すれば、最終的には国家権力(税務署)によってこの城は差し押さえられ、公売にかけられてしまうでしょう」
「さ、差し押さえ……ッ!?」
真木は絶句した。
魔王城でさえ、勇者の物理的な攻撃でしか破壊されなかったというのに、この世界では「紙切れ(督促状)」一つで城を奪われるというのか。
「さらに続きます。万が一の事態に備える『火災保険料』。日本は地震や台風などの自然災害が多い国です。火災保険や地震保険に入らずしてアパート経営など、丸腰で勇者パーティーに突撃するのと同じ自殺行為です。これも毎年の経費として計上しなければなりません」
「お、恐ろしい……。何もしなくとも、ただ建物を所有しているだけでこれほどの金が削り取られていくというのか……」
「そして、最後に最も重くのしかかってくるのがこれです」
凛花は眼鏡を光らせ、スプレッドシートの一番下にある、一際大きな赤い数字を指し示した。
『修繕積立金』。
「修繕……?」
「はい。コーポ日ノ出は築三十八年の木造建築。あちこちにガタが来ています。給湯器の故障、雨漏り、シロアリ被害……これら『突発的なダメージ』に対し、大家であるあなたは自費で速やかに復旧する義務があります。店子から家賃をもらっている以上、安全で快適な住環境を提供する法的責任があるのです」
凛花は無慈悲なプレゼンテーションを続けた。
「中でも最悪なのが『外壁塗装工事』および『屋根の防水工事』です。建物の寿命を延ばすためには十数年に一度、必ず行わねばならない大規模修繕。この見積もりを宝田不動産の志乃殿にざっくりと算出してもらったところ……およそ二百万円は下らないとのことでした」
「に、にひゃくまん……ッ!?」
真木は頭を抱え、ちゃぶ台の上に突っ伏した。
彼の換金した金貨は、アパートの購入費用と登記費用、そして当面の生活費でほとんど消え失せている。手元に残された軍資金は、決してそんな大金に耐えうる額ではなかった。
「魔王様。現在の満室率――つまり全六室中、二室しか稼働していない現状の利回りでは、日々の生活費と固定資産税を払うだけで精一杯です。貯金など微塵もできません。このまま数年が経過し、外壁塗装の時期が来れば……」
凛花は、冷酷な死神のような声で宣告した。
「我が帝国は、確実かつ致命的に『破産』します」
静まり返る六畳間。
外からは、呑気なチャルメラの音が遠ざかっていくのが聞こえる。
真木はプルプルと肩を震わせながら、ゆっくりと顔を上げた。その目には、魔王としてのプライドを粉々に打ち砕かれた労働者の哀愁が漂っていた。
「……破産、だと。この余が……家賃収入で悠々自適の不労所得生活を送るはずだった、この余が……!」
「これが現実です、大家。異世界の武力は、日本の税制と建物の経年劣化の前には無力なのです」
「ええい、ならば少しでも無駄な支出を削るまでだ!」
真木は押し入れの段ボール箱から、スーパーのレジ袋に無造作に放り込まれていた大量の「レシート」をぶちまけた。
さらに、百円ショップで買ってきた安物の電卓を引っ張り出し、凄まじい形相でボタンを叩き始めた。
タカカカカカカッ! タターンッ!
「いいか凛花! これは昨日、近所のスーパー『ライフ』で買ってきたトイレットペーパーと、共用部の管球(電球)のレシートだ! 見切り品の豚肉も一緒に買ったがな!」
「魔王様、公私混同は経理の敵です。生活費とアパートの経費(消耗品費)は明確に分けて計算しなければ、後の確定申告で地獄を見ますよ」
「わかっている! 余が言いたいのはそこではない! この……『消費税』という忌まわしき制度についてだ!」
真木はレシートの一角を強く指差した。
「見ろ! 本体価格に加えて、十パーセントもの税が上乗せされている! しかも、豚肉などの食料品は八パーセントの『軽減税率』が適用されているのに、トイレットペーパーは十パーセントだ! なぜだ!? 人間にとって食うことと同じくらい、排泄物を拭き取る紙もまた生活の必需品であろうが!」
「それは私に言われても困ります。日本の政治家(元老院)が定めた法ですから」
「一円だ! この十パーセントのせいで、余の財布から一円玉が容赦なく吸い上げられていく! 魔界の悪魔ですら、これほど細かく執拗な搾取は行わんぞ!」
1円単位の端数に血筋を立て、電卓を叩きながら消費税の矛盾に怒り狂う元魔王。
かつては「世界を炎に包む」と豪語していた男が、今や「トイレットペーパーの税率」に憤慨し、家計簿のやり繰りに命を懸けているのだ。
凛花はそんな主君の哀愁漂う姿を見つめ、小さく、しかし温かなため息をついた。
(……情けないお姿ですが、ある意味では、この世界に誰よりも早く適応しようとなさっている。やはり、私が生涯お仕えするに足るお方だ)
「魔王様。支出を削るのには限界があります」
凛花はノートパソコンの画面をパタンと閉じ、真木の目を真っ直ぐに見据えた。
「資本主義の鉄則は『売上(収入)を最大化すること』に他なりません。我々が生き残り、破産を回避して、安定した城を築くための答えはただ一つです」
「……空室を、埋めることか」
「御意。現在、我がコーポ日ノ出の空室は、103号室、201号室、202号室、203号室の計四部屋。これらすべてに新たな店子を入れ、家賃収入を満額で確保するのです」
凛花は立ち上がり、黒板代わりのホワイトボード(ゴミ捨て場で拾ってきたもの)に、キュッキュッと油性マーカーで目標を書き込んだ。
『全六室の満室経営。および、安定した黒字化の達成』
「これこそが、我が軍の当面の絶対目標です。満室になれば、毎月の収入は三十万円を超えます。これなら税金や修繕積立金を差し引いても、十分に生活していけるはずです」
「全室満室……か」
真木は電卓を置き、腕を組んで深く頷いた。
ただ部屋を貸すだけではない。素性の知れない人間を入れるわけにはいかないし、ましてや家賃を滞納するような不届き者を招き入れるわけにもいかない。
「よかろう。余は大家として、残る四つの空室にふさわしい臣民……いや、店子を見つけ出してみせる。そのためには、宝田不動産の志乃にもっと圧をかけて客付けをさせねばな」
「頼もしいお言葉です。私も経理・財務担当として、アパートの帳簿を完璧に管理してみせましょう。一円の使途不明金も許しませんよ」
「ふっ、お手柔らかに頼むぞ、財務大臣」
こうして、魔王と首席補佐官による、木造アパート「コーポ日ノ出」の本格的な経営戦略会議は幕を閉じた。
税金、修繕費、そして消費税。
見えない現代社会の敵に囲まれながらも、彼らの目には確かな闘志が宿っていた。
満室御礼という遥かなる頂きを目指し、元魔王の地道で泥臭い大家生活は、まだ始まったばかりである。




