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第4話:破壊の鉄拳と日雇い解体現場

東京の空は、いつだって忙しなくその表情を変える。

前日の夜、杉並区のゴミ分別という高すぎる壁の前に泥水をすする思いで屈服した元重装歩兵隊長・黒木鉄心は、翌朝の太陽が昇るよりも早く、コーポ日ノ出の共用廊下で正座をキメていた。

「……おはようございます、黒木隊長。また朝の自主トレーニングですか?」

派遣会社での事務作業に向け、スーツジャケットを綺麗に整えた元首席補佐官・佐伯凛花が、102号室のドアを開けながら呆れたように声をかけた。

「いや、佐伯殿。昨夜は一睡もしていない。真木様から下賜された『資源とごみの分け方・出し方』の教典を、三周して完全に暗記したところだ」

黒木が血走った目をカッと見開き、手元のパンフレットを高々と掲げた。その表情は、かつて魔王軍の最前線で敵軍の布陣図を読み解いていた時以上の鬼気迫るものがあった。

「プラマークのついた食品トレーは、汚れを水で洗った上で『プラスチック製容器包装』の日に出す。決して可燃ゴミに混ぜてはならん。なぜなら、我がコーポ日ノ出の社会的信用と、真木様の平穏な不労所得生活がそれにかかっているからだ!」

「……ええ、まあ、その意気込みは素晴らしいですが、それ以前に重大な問題がありますよ」

凛花はくいっと眼鏡の位置を直し、現実的な数字を突きつける冷徹な視線を向けた。

「家賃の支払期日まであと三週間を切っています。黒木隊長、あなたの現在の預金残高はいくらですか?」

「ぐ……!」

黒木は絶句し、屈強な体を小さく縮こまらせた。

異世界から逃れてきた際、所持していたのは魔鋼の剣と、気休め程度の銀貨数枚のみ。それらはすべて現代の通貨に換金する過程で消え去り、現在の彼の懐具合は、文字通りの「一文無し」であった。

「真木様の慈悲により、初期費用の分割払いは認められていますが、来月末になれば最初の『家賃五万二千円』が容赦なく請求されます。このままでは、大家である真木様に愛想を尽かされ、コーポ日ノ出の敷居を跨ぐことすら禁じられてしまうでしょう」

「そんな馬鹿な! この黒木鉄心、命に代えても家賃を納め、真木様の右腕として城の防衛に尽くす所存!」

「口だけなら誰でも言えます。問題は『どうやって合法的に日本円を稼ぐか』です」

凛花が腕を組んでため息をついたその時、ちょうど大家部屋のドアが開き、ジャージ姿の真木征司が顔を出した。

「朝から大声で騒ぐな。……で、なんだって?」

「真木様! ちょうどいいところに!」

黒木は身を乗り出し、主人に向かって深々と頭を下げた。

「この黒木、直ちに労働市場に参入し、日々の糧と家賃を得るための職を探してまいります! いかなる過酷な任務であれ、この肉体をもって完遂してみせましょう!」

真木は新聞の求人広告の折り込みチラシを片手に、ジト目で黒木を見下ろした。

「ふん。意気込みだけは一人前だな。だが、お前には致命的な弱点がある」

「弱点、でありますか?」

「そうだ。お前は見た目が怖すぎる。身長百九十センチ超の巨漢が、鋭い目つきで道行く人に声をかけたら、それだけで警察に通報されて即座に職質コースだ。さらに、日本の現代社会でまともに働くには、『履歴書』という名の魔導文書を書くか、あるいは面接官の質問に流暢に受け答えする知性が求められる。お前にそれができるか?」

真木の一言に、黒木はフリーズした。

「り、りれきしょ……? 面接官……?」

「ほら見ろ、一言も返せない。このままでは、ハローワークの窓口に立った瞬間に警備員に取り押さえられるのがオチだな」

頭を抱えて絶望する黒木を横目に、真木はフッと鼻を鳴らし、手に持っていたチラシをヒラヒラと振ってみせた。

「だが、安心しろ。ちょうど昨日の夕方、近所の定食屋の神保から『うちの知り合いで、今すぐ力仕事のできるデカい男を探している現場があるんだが、お前のところの店子にいないか?』と声をかけられてな」

「なんと……! 神保殿が我が就職の口利きを!?」

「ああ。なんでも、木造家屋の解体や、建築現場での資材運びを主に行っている『大田組』という零細の解体業者らしい。学歴も経歴も問わず、体一つで即日採用、日払いも可能とのことだ」

それを聞いた瞬間、凛花はパッと顔を輝かせた。

「素晴らしい! 日払いの即金性であれば、当座の生活費と食費の心配がなくなります。それに、肉体労働であれば、黒木隊長の規格外の筋力がそのまま最大の武器になりますね」

「よし。では黒木、今日のところは我が領地……ではなく、大田組の現場へと赴き、その怪力をいかんなく発揮してこい。ただし、一つだけ厳重に言っておく」

真木は黒木の肩にずっしりと重い手を置き、真剣な眼差しで言い聞かせた。

「現場で絶対に魔法や魔力を匂わせるような超常現象を起こすな。あくまで『少し腕っ節が良くて真面目な人間の作業員』として振る舞うんだ。いいな?」

「ははっ! この鉄心、身命を賭して『凡人の作業員』を演じ切ってみせます!」


* * *

午前八時三十分。

杉並区内の閑静な住宅街の一角に、ガタガタとけたたましい騒音を響かせる一区画があった。

そこが、黒木が初出勤する現場、解体業者「大田組」の作業現場である。古びた木造の平屋建て住宅が、まさに取り壊しの真っ最中だった。

「おい、新入り! 今日から入るって聞いた黒木だな!」

声をかけてきたのは、ヘルメットを深く被り、日焼けした顔に浅黒いシワを刻んだ五十代半ばの現場監督――大田組の親方・大田おおただった。彼は黒木の圧倒的な巨体を見上げるようにして首を曲げ、思わず「でかっ……!」と呟いた。

「はっ! 本日より末端の作業員として馳せ参じました、黒木鉄心と申します! いかなる過酷な石材であれ、一刀のもとに粉砕いたします!」

「い、一刀って……お前、バールとハンマーの使い方はわかるか?」

「バール、ですか? このような形状の打撃およびこじ開け用武器ですね。お任せください、構造物の急所を一撃で看破してみせましょう」

黒木が腰に差された(真木から支給されたホームセンターで千円の)鉄製のバールをシュッと引き抜くと、大田親方はその手際の良さと妙に気合の入った眼光に圧倒されつつも、「まあ、力がありそうだからいいか」と苦笑した。

「うちの仕事はな、こういう古い木造家屋をバキバキに壊して、分別して、綺麗に片付けることだ。重機が入れない狭い路地裏だからな、結局は人間様の腕力が頼りなのよ。ほら、そこの縁側の古い柱、あれを叩き折ってバラしてくれ」

「御意!」

黒木はヘルメットのあご紐をキリッと締め直すと、現場の真ん中へと歩み寄った。

周囲で作業していた他の職人たちが、「なんだあのでかいの」「新入りか?」「すごい体格だな……」と興味津々な視線を送っている。

黒木はターゲットである縁側の太い木造柱の前に立った。

(ふっ……魔界の城門を砕いた我が拳に比べれば、この程度の木造建築など、爪楊枝をへし折るようなもの。だが、真木様からのご沙汰だ。あまり派手にやって『超常現象』と疑われてはならん。あくまで、人間の範疇におさまる『常人離れした怪力』として振る舞わねば……!)

黒木は呼吸を整え、バールの先端を柱の継ぎ目にねじ込んだ。

そして、ぐっと腰を落とし、全身の筋肉を膨らませる。

「ぬう……っ!」

バリバリバリッ!!

凄まじい音とともに、樹齢何十年という太いヒノキの柱が、まるで豆腐でも切るかのようにメキメキと音を立てて外れ、根本からへし折れた。

「「「……は?」」」

周囲で作業していた職人たちの手が、完全に止まった。

誰もバールで柱を粉砕できるなどと思っていない。普通はのこぎりで切断するか、ハンマーで何十回も叩いて接合部を緩めるものなのだ。それを、黒木は片手でバールを差し込み、わずかに体重をかけただけで、木材を引き裂くようにして引っこ抜いてしまったのである。

「し、親方……! あいつ、すげえ怪力だぞ……!」

「おいおい、重機使ってんのかと思ったぞ……」

大田親方も、咥えていたタバコを思わず落としそうになりながら、自分の目を疑った。

しかし、黒木は内心で冷や汗を流していた。

(しまった……! 少し力を入れすぎたか!? これではまるで、人間を超越した魔獣の所業ではないか……! 真木様に怒られてしまう……!)

慌てて表情を取り繕った黒木は、満面の、しかしどこか必死な営業スマイルを浮かべ、親方に向かって大声で弁解した。

「はははっ! いやあ、日頃からプロテインとスクワットに励んでおりますので、少々腕力には自信がありまして! これもすべて日々の鍛錬の成果にございます!」

「ぷ、プロテイン……? まあ、若ぇのに威勢がいいのはいいことだ……うん」

親方は少し引きつつも、その圧倒的な労働力としての価値を瞬時に察知した。

「おい、お前ら! ボーッとしてんじゃねぇ! 黒木が柱をバラしてくれたんだ、お前らはそれを手分けしてトラックに積み込むんだよ!」

「「「お、おう!」」」


そこからの黒木の働きぶりは、まさに「神の手」ならぬ「破壊の鉄拳」であった。

通常であれば、数人の作業員が半日がかりで解体するはずの古い和室の壁や床板を、黒木は凄まじいスピードと正確無比な力加減で次々と剥ぎ取っていく。

しかも、真木から徹底的に叩き込まれた「ゴミの分別ルール」の知識が、ここで意外な形で発揮された。

「待て、そこの若いの! その木材と一緒に金属の釘やビスがついたままにしておいてはならん! 『木くず(可燃)』と『金属くず(不燃)』は厳密に分別せねば、杉並区の清掃工場で大いなるトラブルの原因となる!」

黒木はバールの先で器用に木材から古い釘を一本残らず抜き取り、それぞれのコンテナへ綺麗に投げ分けていく。

「すげえ……力持ちなだけじゃなくて、めちゃくちゃ几帳面じゃねえか……」

「しかも分別完璧だぞ、あの新人……」

他の職人たちは、最初は警戒していたものの、その圧倒的な仕事の早さと、意外なまでの実直さに、みるみるうちに感銘を受けていった。

休憩時間になれば、職人たちから「お兄さん、どこでそんな筋肉鍛えたんだよ」「これ、冷えた麦茶だ、飲めよ」と次々に差し入れが手渡され、黒木は「ありがたき幸せ……!」と恐縮しながら、人間社会への適応度を急上昇させていった。


* * *

午後五時。現場の作業が完全に終了し、夕暮れの茜色が住宅街を染め上げる頃。

「お疲れさん、黒木! 初日なのに、お前一人で通常の三人分以上の働きをしてくれたよ。助かった!」

大田親方はそう言いながら、汗まみれの黒木の肩をポンと叩いた。

「はっ! お役に立てたのであれば、これに勝る喜びはございません!」

「おう。で、これが今日の分の『日当』だ。うちじゃ即日払いがモットーだからな」

親方がポケットから取り出し、分厚い封筒を差し出した。

黒木は両手で恭しくそれを受け取り、頭を下げた。

「しっかりと確認しておいてくれ。じゃあ、また明日も頼むぞ!」

「はっ! 明日も全力で解体……もとい、環境整備に尽力いたします!」


親方と別れ、黒木は夕闇迫る杉並区の道を、足取り軽くコーポ日ノ出へと歩いて帰った。

その手には、初めて自分の力で稼ぎ出した「日本円の現金」が入った封筒がしっかりと握られている。

アパートの敷地に入ると、101号室の前で掃除をしていた真木が、黒木の姿に気づいて振り返った。

「おお、黒木。初日の現場はどうだった? まさか初日からパトカー沙汰になってはいないだろうな」

「真木様! ただいま戻りました!」

黒木は直立不動の姿勢をとり、大股で真木の前に歩み寄ると、両手でしっかりと封筒を差し出した。

「無事に本日の任務を完了し、敵陣……もとい、解体現場の構造物を完全に制圧・解体してまいりました! そしてこれが、その戦果にございます!」

真木は差し出された封筒を受け取り、中身をちらりと覗き見た。

そこには、ピン札の数千円札と千円札が、崩れのない綺麗な束となって収められていた。日雇いの初日としては、破格の好待遇と言える金額である。

「ほう……。一日働いて、これだけの現金を稼いできたか」

「はっ! 自分の肉体を酷使し、汗を流して得た紙幣の重み……魔界のいかなる宝物よりも、眩しく、そして尊いものに感じられます!」

黒木の瞳には、わずかに熱いものが光っていた。

魔王軍の幹部として、恐怖と力で周囲を従えていたかつての自分。しかし、この現代日本において、自らの手足を動かし、社会の歯車として汗を流し、正当な対価としての現金を受け取る――その行為が、彼の誇り高い魂に予想外の充足感をもたらしていたのだ。

真木はそんな黒木の様子をじっと見つめ、やがて満足そうに小さく頷いた。

「よくやった、黒木。初日から無事に稼ぎを出せたこと、大家として誇らしく思う」

「も、もったいなきお言葉……!」

「だがな」

真木はニヤリと不敵な笑みを浮かべ、封筒からピン札を数枚抜き取ると、手元にパチンと音を響かせた。

「当然、これは給料全額がそのままお前のものになるわけではないぞ」

「はい……? と申しますと?」

「家賃の引き落とし口座への事前入金、および今月の共用部電気代の按分負担分として、まずここで五千円を徴収する。さらに、今日の夕食代として佐伯が作った特製プロテインスープの材料費を……」

「ま、魔王様ぁぁぁっ!? 初日の給料が出た瞬間に直系の搾取が始まるのですかぁぁぁっ!?」

「当たり前だ。資本主義の荒波を舐めるな。家賃滞納はギルティだが、前借りの要求も厳重注意だからな」

夕暮れのコーポ日ノ出の廊下に、黒木の悲鳴と真木の冷徹な大家としての笑い声が響き渡る。

しかし、その空気はどこまでも温かく、かつて殺伐とした魔界に生きていた者たちの新しい居場所として、確かな絆を育んでいた。

力仕事でボロボロになりながらも、確かな「生活の重み」を手に入れた重装歩兵。

満室経営を目指す魔王の城は、こうしてまた一つ、着実にその基盤を固めていくのだった。

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