第3話:重装歩兵、可燃ゴミの日に散る
魔王軍において「不動の城壁」と恐れられた男がいた。
魔王軍重装歩兵隊長、黒木鉄心。身長百九十センチを超える筋骨隆々の巨体と、城門を素手で粉砕するほどの圧倒的な腕力を誇り、戦場においては常に最前線で勇者軍の猛攻を跳ね返し続けた歴戦の猛将である。
そんな魔界最強の盾とも呼べる男は今、東京・杉並区の路上で、己の無力さに打ちひしがれながら彷徨っていた。
「……腹が、減った」
野太い声が、夜の住宅街に力なく響く。
次元跳躍の魔法陣に飛び込み、魔王の後を追って現代日本へと転移してから三日が経過していた。
魔力が一切存在しないこの世界で、黒木の巨体を維持するためのエネルギー消費量は尋常ではなかった。彼が身につけていた重厚な魔鋼の鎧は、今やただの重しでしかなく、魔力による偽装で辛うじて「少しサイズの大きい黒い作業着」に見せかけているものの、その中身の肉体は極限の飢餓状態にあった。
道行く人間たちに助けを求めようにも、黒木の放つ只者ではない威圧感と、鋭い眼光、そして熊のような巨体を前にしては、誰もが目を逸らして足早に通り過ぎてしまう。
(無念だ……。我が主君、ヴァルザード様をお守りする前に、まさか異界の路上で餓死することになろうとは……)
薄れゆく意識の中、電柱に手をついて膝を折ろうとしたその時だった。
「――おい。そこのデカブツ。まさかうちの敷地内で行き倒れるつもりじゃないだろうな」
頭上から降ってきた、聞き覚えのある冷ややかな声。
黒木がハッと顔を上げると、古びた木造アパートの二階の通路から、見下ろすように立っている一人の青年の姿があった。角も翼もない人間の姿に偽装しているが、その魂から発せられる覇気は、黒木が何百年も忠誠を誓い続けた絶対の主君そのものであった。
「ま、魔王様……! おおお、魔王様ぁぁぁっ!」
「馬鹿野郎、声がデカい! ここでは真木征司だ! いいから早く上がってこい!」
* * *
「……というわけで、ここが今日からお前の部屋だ、黒木」
「ははっ! この鉄心、身に余る光栄に存じます!」
コーポ日ノ出、101号室。
真木から与えられた六畳一間の空室で、黒木は涙と鼻水を流しながら平伏していた。
真木が急いで用意した特大サイズのどんぶり飯と、スーパーの惣菜のトンカツを三枚平らげた黒木は、劇的なカロリー摂取によって完全に本来の活力を取り戻していた。
先客として102号室に入居していた元首席補佐官の凛花も同席し、呆れたように眼鏡の位置を直している。
「黒木隊長。感動の再会に水を差すようで申し訳ありませんが、魔王様……いえ、大家である真木様は、慈善事業であなたを拾ったわけではありませんよ」
「うむ。黒木よ、お前にもこのアパートの店子として、厳格な掟を守ってもらう」
真木はバインダーに挟まれた『建物賃貸借契約書』を黒木の目の前に突きつけた。
「家賃は月額五万二千円(101号室は角部屋ではないため凛花の部屋より少し安い)。敷金礼金は分割にしてやるが、毎月末日までに必ず年貢(家賃)を納めること。家賃滞納はギルティ(重罪)だ。わかったな?」
「年貢……! おお、なんという慈悲深きお言葉! この黒木鉄心、粉骨砕身働き、必ずや真木様への貢物を毎月欠かさず納めてみせましょう!」
黒木は迷うことなく契約書にサイン(というより、筆圧が強すぎてボールペンの先で紙を少し破りながら)し、己の血のような赤い拇印を力強く押し当てた。
「よろしい。労働先の確保については明日以降考えるとして、お前には我が領地の維持のために、一つ重要な任務を与えよう」
「任務! なんなりとお申し付けください! 近隣の領主の首を物理的に刎ねてまいりましょうか!?」
「物騒なことを言うな。一発で前科持ちになり、このアパートに警察のガサ入れが入るだろうが」
真木は頭痛を堪えるようにこめかみを揉み、背後に置いてあった半透明のビニール袋を黒木の前に置いた。
「明日の朝八時までに、これをアパートの裏にある『ごみ集積所』に持っていく護衛任務だ」
「これは……?」
「可燃ゴミだ。中身は余と凛花がこの数日で消費した弁当の空き箱や、紙くずなどが入っている。明日は火曜日。杉並区が定めた『可燃ゴミの回収日』だ。この世界では、決められた曜日に、決められた物を、決められた場所に配置せねば、大いなる厄災(近隣トラブル)が降りかかるのだ」
黒木は真剣な顔つきになり、その半透明の袋を両手で恭しく受け取った。
「承知いたしました。この黒木鉄心、命に代えてもこの『可燃ゴミ』なる供物を、指定の祭壇へと送り届けてみせます!」
「……まあ、ただ捨てるだけだから、そんなに気負う必要はないぞ。じゃあ、明日の朝頼んだからな」
そうして迎えた翌朝、午前七時三十分。
黒木は指定された「ごみ集積所」――電柱の脇に設置され、カラス避けの青いネットが被せられただけの小さなスペース――の前に立っていた。
手には、真木から託された半透明のゴミ袋がしっかりと握られている。
(ふむ。ここが真木様の言っていた祭壇か。大いなる厄災を防ぐための重要な儀式……。我が重装歩兵隊の誇りにかけて、完璧に遂行してみせよう)
黒木は青いネットを持ち上げ、ゴミ袋を静かに置いた。
よし、任務完了だ。そう思って踵を返そうとした時、背後から鋭い声が飛んだ。
「ちょっと、そこのお兄さん!」
ビクッと肩を震わせ、黒木が振り返ると、そこには割烹着姿の初老の女性と、スーパーの買い物袋を下げた中年女性の二人が立っていた。彼女たちの目は、鷹のように鋭く、黒木が今まさに置いたばかりのゴミ袋を射抜いていた。
「そのゴミ、あなたのよね?」
「い、いかにも。我が主君より託された供物であるが……何か問題でも?」
黒木が時代がかった口調で答えると、主婦たちは眉間に深いシワを寄せた。
「供物だか何だか知らないけどね、あんた、分別のルール全然守ってないじゃないの!」
「分別……ルール?」
主婦の一人が、容赦無く黒木のゴミ袋を指差した。
「ほら、これ! プラスチックの弁当容器! ちゃんと洗ってないし、『プラマーク』がついてるものは木曜日の『プラスチック製容器包装』の日でしょ! なんで今日の可燃ゴミに混ぜてんのよ!」
「なっ……!?」
黒木は驚愕した。
プラスチック? 可燃? 木曜日?
魔界の戦場において、敵の魔法陣の構造を一瞬で見抜く戦術眼を持つ彼であったが、現代日本の「ゴミの分別」という複雑怪奇なシステムの前には、完全に無力であった。弁当の容器は燃えるのではないのか? なぜ同じ弁当から出たゴミなのに、割り箸は燃えて、容器は燃えない(あるいは別枠扱いになる)のだ?
「ええと……これは、その……」
「それにほら、この袋! 杉並区推奨の半透明袋だけど、中にペットボトルも混ざってるじゃない! ペットボトルはラベルとキャップを外して、水曜日の資源ゴミの日! 常識でしょ!」
主婦たちの追及は、勇者パーティーの魔法連射よりも苛烈であった。
地域のルールを守らないよそ者に対する、容赦のない集中砲火。黒木はタジタジになりながらも、重装歩兵としての本能から、反射的にゴミ袋をかばうように両手を広げて立ちはだかった。
「ええい、待たれよ民間人! みだりに触れてはならん! これは真木様が封印を施した不可知の結界(ただのゴミ袋の口を結んだもの)である!」
「はあ!? 何言ってんのこの人! 結界だか何だか知らないけど、ルール違反のゴミを出されたら、清掃車が持っていかずにカラスに荒らされて、私たちが掃除しなきゃならないのよ!」
「そうだそうだ! だいたいあんた、見ない顔ね! どこのアパートの住人よ!」
「コーポ日ノ出の101号室だが……って、あっ!」
黒木の巨体が、主婦たちの圧倒的な「生活者の圧力」の前に一歩、また一歩と後ずさる。
魔力を使えば、こんな人間たちなど指先一つで吹き飛ばせる。だが、真木からは「暴力沙汰は前科になる」と固く禁じられている。手出しができない黒木にとって、地域住民の怒れる主婦は、いかなる巨大魔獣よりも恐ろしい存在に思えた。
「ちょっと町内会長呼んでくるわ! 不法投棄よこんなの!」
「お、お待ちを! 不法投棄などという汚名を着せられては、我が軍の……いや、真木様の顔に泥を塗ることに……ッ!」
一触即発。黒木がパニックに陥り、思わず己の筋肉を膨張させ威嚇の姿勢(ただの防御姿勢だが、周囲から見れば暴漢が襲いかかろうとしているように見える)を取ろうとした、まさにその時だった。
「――お待ちくださぁぁぁぁぁぁぁいッ!!」
住宅街の静寂を切り裂く、悲痛な叫び声。
コーポ日ノ出の方向から、ジャージ姿の真木が猛烈なスピードでダッシュしてきた。
彼は主婦たちと黒木の間、わずか数メートルの距離まで迫ると、そこから一切の躊躇なくアスファルトの地面に向かって身を投げ出した。
ズサーーーーーッ!!
膝、両手、そして額。
三つの点が同時に地面に激突し、アスファルトとの摩擦でジャージの膝が微かに焦げるほどの勢い。魔界の覇王が、現代日本のアスファルトの上で展開した、芸術的なまでの完璧な『土下座』であった。
「ま、真木様ァァァッ!?」
己の主君が、虫ケラのような人間どもの前で額を擦り付けている姿に、黒木は目玉が飛び出るほど驚愕した。
「申し訳ありません! 本当に、本当に申し訳ありません、奥様方!」
真木は顔を上げず、地面に向かって大声で謝罪の言葉を並べ立てた。
「こいつは昨日うちのアパートに越してきたばかりの、田舎者でして! 東京の厳格かつ洗練されたゴミ出しのルールを、私がまだ十分に指導しきれていなかったのです! すべては大家である私の不徳の致すところ!」
そのあまりにも潔く、かつ勢いのある謝罪に、怒り狂っていた主婦たちも思わず毒気を抜かれたように顔を見合わせた。
「あ、いや……大家さんがそこまで謝るなら……」
「そうよねえ、最近越してきたばかりなら、ルールを知らないのも無理ないし……」
「バカ野郎、黒木! 突っ立ってないで貴様も謝らんか!」
真木は土下座の姿勢のまま、バネのように跳ね起きると、黒木の極太の足に強烈なローキックを見舞い、その後頭部をスパーンッと平手打ちした。
「あだっ!」
「さあ、一緒に頭を下げるんだ! 『地域の皆様にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした』だ!」
「ち、地域の皆様にご迷惑をおかけして、も、申し訳ありませんでしたぁっ!」
見上げるような大男が、涙目で真木に並んで深々と頭を下げる。
その光景のシュールさに、主婦たちの怒りは完全に霧散し、最後には苦笑いへと変わっていた。
「まあ、わかればいいのよ。次から気をつけてね、大家さん」
「本当にいい男なのに、店子に恵まれないと大家さんも大変ねえ。……ほら、そのゴミ袋、私が一応分別してあげるから、貸しなさい」
「おおっ! 奥様方の海よりも深い慈悲に、心より感謝申し上げます! 後日、必ずご挨拶の粗品を持ってお伺いさせていただきます!」
真木は満面の営業スマイルで主婦たちを見送り、危機は完全に回避された。
* * *
「……で、お前は一体何を考えてあの袋の中にプラゴミとペットボトルを突っ込んだのだ」
「も、申し訳ありません……。全ては燃やせば灰になるものと、素人考えで……」
コーポ日ノ出、101号室。
家具が何一つないがらんどうの部屋の中央で、黒木は正座をさせられていた。
その目の前には、腕を組み、冷ややかな視線を見下ろす真木が立っている。
「いいか、黒木。余がなぜあのような屈辱的な土下座をしたかわかるか?」
「はっ……! この不甲斐ない部下を庇うための、大いなる御心……っ!」
「違う」
真木は即座に否定した。
「アパート経営において、近隣住民とのトラブルは最大の『リスク』だからだ。あの主婦たちは、この町のネットワークのハブ(中心)だ。あそこで彼女らを怒らせ、町内会に『コーポ日ノ出の住人はマナーが最悪だ』という噂を流されてみろ。新たな入居希望者は寄り付かなくなり、最悪の場合、区役所から指導が入って我が帝国の存続が危ぶまれる事態になる」
魔王時代には決して口にすることのなかった、「町内会」や「区役所」といった生活感あふれる単語が、真木の口から流れるように飛び出してくる。
「魔界での武勲など、この世界では一円の価値もない。地域のルールに従い、波風を立てず、善良な一市民として擬態すること。それがこのアパートに住むための絶対条件だ」
真木はそう言うと、ジャージのポケットから一冊の小冊子を取り出し、黒木の頭の上にポンと乗せた。
「それは?」
「杉並区役所が発行している『資源とごみの分け方・出し方』の公式パンフレットだ。全三十二ページ、フルカラー保存版」
真木は大家としての威厳を漂わせ、無慈悲な命令を下した。
「今日一日かけて、それを隅から隅まで熟読しろ。プラマークの有無、ペットボトルの捨て方、古紙の縛り方。すべて暗記するまで、夕飯抜きだ。……声に出して読め!」
「は、ははぁっ!」
その日、コーポ日ノ出の101号室からは、一日中、図太い男の泣き声と音読の声が響き渡った。
「『プラスチック製容器包装は……中身を使い切り……汚れを落としてから……木曜日に出してください』……っ! ううっ、なんという複雑な兵法……ッ!」
魔界最強の重装歩兵が、現代日本の「ゴミ分別」という高すぎる壁の前に、完全に屈服した瞬間であった。




