第2話:最初の住人と敷金礼金
現代日本における朝は、魔界のそれとは全く異なっていた。
空を覆う禍々しい暗雲もなければ、血の匂いを運ぶ風も吹かない。ただ、薄っぺらいカーテンの隙間から差し込む暴力的なまでの朝日と、窓の外を通り過ぎるゴミ収集車のけたたましいメロディだけが、真木征司――元魔王ヴァルザードの意識を現実へと引き戻した。
「……朝、か。忌々しいほどの平和だな」
六畳一間の和室。畳の上に直に敷いた安物の布団から身を起こし、真木は小さく欠伸をした。魔王時代は巨大な天蓋付きのベッドで数十人のメイドに囲まれて目覚めていたというのに、今の彼の寝床は、昨日ホームセンターの寝具コーナーで買ってきた三千九百八十円のポリエステル製組布団である。
しかし、不思議と不満はなかった。
ここは昨日、彼が自身の金貨を換金して手に入れた絶対的な城、木造アパート『コーポ日ノ出』の大家部屋なのだ。誰に命を狙われることもない、絶対的な安全地帯。
真木は布団を畳み、大家としての最初の一日を始めるべく、ジャージ姿で洗面所へと向かった。蛇口をひねれば、透き通った水が無尽蔵に出てくる。魔界では浄水魔法をかけなければ飲めなかった水が、この世界ではインフラとして完璧に整備されているのだ。
「素晴らしい。魔力が存在しない代わりに、この世界の人間どもは物理的な技術を極限まで高めている。……だが、それゆえに金がかかる」
顔を洗いながら、真木は鏡に映る自分の顔――角も翼もない、少し目つきの鋭い二十代後半の日本人の青年――を見つめてため息をついた。
昨晩、宝田不動産の志乃から受け取った『アパート経営の基礎知識』というパンフレットを読破し、真木は資本主義社会の恐ろしさを痛感していた。
城を手に入れたからといって、それで安泰というわけではない。毎年課せられる固定資産税、建物の経年劣化に伴う修繕積立金、共用部分の電気代や水道代。息をしているだけで、いや、建物を所有しているだけで、莫大な維持費が飛んでいくのだ。
「現在、このコーポ日ノ出の入居率はゼロ。すなわち、家賃収入もゼロだ。余の貯金が尽きる前に、一刻も早く店子を入れ、年貢(家賃)を徴収するシステムを構築せねば、我が帝国は立ち枯れしてしまう」
危機感を募らせながら、真木が台所のガスコンロで湯を沸かし、朝食のインスタントコーヒーを作ろうとしたその時だった。
――バンッ! バンッ! バンッ!
突如、玄関のドアが激しく叩かれた。
普通のノックではない。明らかに魔力による身体強化が乗った、薄い鉄扉をひしゃげさせんばかりの強烈な打撃だ。
「ヴァルザード様! ヴァルザード様ぁっ! おられますか! 私です、お開けください!」
外から響いてきたのは、切羽詰まった女性の声。その声の波長と、微かに漏れ出す魔力の残滓に、真木は即座に反応した。
「この気配……まさか」
急いでチェーンを外し、ドアノブを回す。
そこに立っていたのは、ボロボロになった黒のタイトスカートと白のブラウス姿の女性だった。長い黒髪は乱れ、知的な印象を与える銀縁の眼鏡は片方のレンズにヒビが入っている。本来であれば、魔王軍の軍服を隙なく着こなしているはずの彼女だが、今はまるでブラック企業で三徹した後のOLのような惨状だった。
「おお……おおおおっ! やはり、やはりおられましたか! 我が主君、ヴァルザード様!」
「佐伯……いや、凛花か!」
彼女の名前は佐伯凛花。かつて魔界において、魔王軍の首席補佐官として全軍の兵站と内政を取り仕切っていた、真木の右腕とも呼べる存在である。
凛花は真木の姿を見るなり、その場に崩れ落ちるようにして泣き出した。
「ご無事で何よりです……! 勇者の光刃が玉座を貫いた時、私はてっきり……っ。ですが、空間の歪みにわずかな魔力の痕跡を見つけ、それを追って次元の狭間を跳躍し……ようやく、ようやく追いつきました!」
「そうか、お前もこの世界に逃げ延びていたのだな。大儀であった」
忠臣との感動の再会。魔界の覇王として、彼女の忠誠を大いに労うべき場面である。
しかし、真木は冷静に左右の通路を確認した。
「だが凛花よ。声がデカい。近所迷惑だ」
「えっ?」
「ここは静かな住宅街だ。朝の八時から大声で泣き叫べば、通報されて警察(この世界の治安維持組織)がすっ飛んでくる。我が領地の平穏を乱すな。いいから中に入れ」
真木は凛花の首根っこを掴むと、六畳の大家部屋へと素早く引きずり込み、ピシャリとドアを閉めた。
「……なるほど。ここは魔力という概念が存在しない、純粋な物理法則の世界。そして、魔王様はここで『大家』として潜伏されていると」
ちゃぶ台の前に正座した凛花は、真木が淹れた一杯十円のインスタントコーヒーを啜りながら、真剣な表情で頷いた。
彼女の腹からは、先ほどから「きゅるるるる」と悲しい音が鳴り続けている。無理な次元跳躍と、この世界での魔力行使により、彼女の生命エネルギー(カロリー)もまた底を尽きかけていたのだ。
「食え。近所のスーパーで買った『見切り品のチョコパン』だ。この世界では、カロリーの摂取が即ち魔力回復と同義になる」
「あ、ありがとうございます……っ!」
凛花は首席補佐官としての矜持も忘れ、半額シールが貼られた菓子パンに齧りついた。一口食べるごとに、彼女の顔色に生気が戻っていく。
「ふぅ……生き返りました。魔王様がこの世界で無事に拠点を確保されていたこと、臣下として誇りに思います。……して、今後の作戦行動ですが」
パンを飲み込み、眼鏡をくいっと押し上げた凛花は、キリッとした表情で言った。
「まずはこの周辺の原住民(人間ども)を洗脳し、労働力として確保しましょう。その後、このアパートとやらを要塞化し、近隣の不動産を武力で制圧して領土を拡大。いずれはこの『日本』という国の中枢を乗っ取るのがよろしいかと」
「却下だ」
真木は即答した。
「な、なぜですか!?」
「武力行使など言語道断だ。この世界では、他人の土地を力で奪う行為は重犯罪であり、即座に国家権力によって鎮圧される。第一、魔力を使えばあっという間に餓死するこの体で、どうやって軍隊と戦うつもりだ」
「そ、それは……」
「我々が生き延びる道はただ一つ。この世界のルールに完全に適応し、社会の歯車として真っ当に経済活動を行うことだ。すなわち、余は大家としてこのアパートを経営し、合法的な不労所得を得て暮らす」
真木は立ち上がり、背後の押し入れから分厚いバインダーを取り出した。
それは昨日、宝田不動産から渡された入居者用の契約書類一式だった。
「さて、佐伯凛花。お前がここへ来たのは、余に仕えるためだな?」
「もちろんです! この命、魔王様に捧げる覚悟です!」
「ならば、これにサインしろ」
真木がちゃぶ台の上にバンッと置いた書類には、太字でこう書かれていた。
『建物賃貸借契約書(居住用)』
「……ちんたい、しゃく? けいやくしょ?」
凛花は目を白黒させた。
「そうだ。お前にはこのアパートの102号室を与えよう。間取りは1K、日当たり良好、風呂トイレ別だ」
「おお! 流石は魔王様、臣下の寝所までご用意くださるとは!」
「ただし」
真木は冷徹な大家の顔になり、書類の重要事項説明の項目を指差した。
「家賃は月額五万五千円、管理費三千円とする。毎月末日までに、指定の口座に振り込むか余に手渡しすること」
「……はい?」
「さらに、入居の初期費用として『敷金二ヶ月分』および『礼金一ヶ月分』、加えて火災保険料と初月の日割り家賃を請求する。合計で……ざっと二十万弱といったところか」
凛花は開いた口が塞がらなかった。
彼女の優秀な頭脳が、その言葉の意味を必死に解析しようとフル回転する。
「や、家賃? 敷金? 礼金? なんですかそれは! 私はあなたの腹心ですよ!? なぜ主君が用意した部屋に住むのに、私が金を払わねばならないのですか!」
「私情と契約は別だ」
真木はピシャリと言い放った。
「ここは余が身銭を切って購入した私有財産だ。家賃を払わない者は、ただの不法占拠者にすぎん。余の領地の秩序と収益を乱す者は、たとえ元首席補佐官であろうと容赦はせんぞ」
「そ、そんな殺生な……! では百歩譲って家賃は理解しましょう。ですが、その『シキキン』と『レイキン』とは一体何なのです!」
「よくぞ聞いた」
真木は咳払いをして、パンフレットの受け売りをドヤ顔で語り始めた。
「敷金とは、お前が部屋を汚したり壊したりした際の原状回復費用、および家賃を滞納した時の担保として余が『預かっておく』金だ。退去時には清掃費を差し引いて返還してやる。良心的だろう?」
「担保……私を信用していないのですか!?」
「法治国家において、口約束ほどの無意味なものはない。そして礼金だ」
真木はニヤリと笑った。
「礼金とは、大家であるこの余に、部屋を貸してもらうことへの『謝礼』。すなわち、領主に対する純然たる『貢物』である!」
「なっ……! なんという暴利! なんという資本主義の悪魔! 魔界の搾取システムすら生温く感じるほどのえげつなさ!」
凛花は頭を抱えてちゃぶ台に突っ伏した。
「無一文で逃げてきた私に、二十万もの大金を払えと……? 無理です。私はこのまま路地裏で野垂れ死ぬ運命なのです……」
「安心しろ。初期費用については、特別に無利子での分割払いを認めてやる」
「魔王様……!」
「その代わり、今すぐこの世界の労働市場に参入し、金を稼げ。家賃滞納はギルティ(重罪)だ。一度でも滞納すれば、即座に荷物をまとめて河川敷に放り出すからな」
冷酷極まりない宣告だった。
しかし、凛花は首席補佐官である。絶望的な状況に置かれれば置かれるほど、彼女の知性と反骨精神は研ぎ澄まされるのだ。
「……わかりました」
凛花は顔を上げ、ヒビの入った眼鏡の奥で鋭い光を放った。
「我が忠誠、紙幣に変えて証明してみせましょう。この程度のハードル、魔王軍の過酷な兵站管理に比べれば児戯に等しい。……サインペンを貸してください」
「うむ。印鑑がないなら、そこに拇印を押しておけ」
真木が差し出した百円のボールペンを受け取り、凛花は『賃貸借契約書』の借主欄に、自らの名前を力強く書き込んだ。朱肉をつけて親指の腹を押し当て、完璧な契約が成立する。
「契約完了だ。今日からお前は、コーポ日ノ出102号室の住人である。ゴミの分別ルールと、深夜の騒音に関する規約はそこに書いてあるから熟読しておくように」
「承知いたしました、大家」
凛花は契約書の控えを胸に抱き、立ち上がった。
「まずは軍資金(初期費用)と継続的な年貢(家賃)を納めるため、即座に職を探します。私の計算能力と書類処理能力があれば、この世界の事務作業など一瞬で制圧できるはず。手始めに『ハケンシャイン』とやらになるための登録に行ってまいります」
「頼もしいぞ。余の不労所得のために、馬車馬のように働いてこい」
「はいっ!」
こうして、コーポ日ノ出の記念すべき最初の住人が決まった。
元魔王軍首席補佐官、現在は借金持ちのフリーター(求職中)。
彼女が日本の複雑怪奇な税制とエクセル方眼紙の文化にぶち当たり、アパートの財務アドバイザーとして覚醒するのは、もう少し後の話である。
真木は凛花の後ろ姿を見送りながら、大家部屋の窓から青空を見上げた。
「よし。まずは一部屋埋まった。満室経営への道は険しいが……悪くないスタートだ」
魔力は使えずとも、契約書と法律という新たな武器を手に入れた元魔王は、次なる入居者を求めて、チラシ作りの作業に取り掛かるのだった。




