第59話:更新契約書のサイン
東京・杉並区。空を覆っていた不気味な次元の亀裂が消滅し、異世界からの侵略者たちが『ハローワーク通い』という名の社会人更生プログラムに組み込まれてから、さらに穏やかな時間が流れていた。
木造二階建て、築三十八年の『コーポ日ノ出』の周辺には、金木犀の甘い香りが漂い始め、季節は完全に秋の深まりを見せている。
この日の夜。
一階の大家部屋の六畳間には、極めて深刻な、そして重苦しい空気が満ちていた。
大家である真木征司(元魔王ヴァルザード)は、エンジ色のジャージ姿のまま腕を組み、ちゃぶ台の上にうず高く積まれた書類の束を鋭い眼光で睨みつけていた。
その対面には、102号室の佐伯凛花(元首席補佐官)が、ビジネススーツを隙なく着こなし、ノートパソコンと電卓を前にして冷徹な表情を浮かべている。
「……いよいよ、この時が来てしまったか」
真木が、低くドスの効いた声で呟いた。
「はい。大家。我々がこの杉並区の片隅に流れ着き、このコーポ日ノ出を取得してから、間もなく丸二年が経過しようとしています。それはすなわち、現在の店子たちが結んでいる『定期建物賃貸借契約』の有効期間が満了を迎えることを意味します」
凛花が眼鏡のブリッジを中指でスッと押し上げた。
「日本の賃貸住宅市場における、最も残酷で、しかし貸主にとっては最も甘美なシステム。……『契約更新』の時期が到来したのです」
「うむ……!」
真木はゴクリと唾を飲み込んだ。
契約更新。
それは、入居者が引き続き同じ物件に住み続けるために、不動産屋や大家に対して支払う『更新料』という名の臨時収入が発生する一大イベントである。
一般的な相場として、更新料は新家賃の一ヶ月分。さらに、事務手続きを代行する不動産屋(この場合は宝田不動産の志乃)へ支払う更新事務手数料として、家賃の半月分や一ヶ月分が上乗せされることが多い。
「現在、101号室の黒木、103号室の久世、201号室の乃愛、202号室の麗華、そして203号室の朝比奈。彼ら五名の契約が、来月末をもって一斉に満了となります。彼らが引き続き我がアパートに居住を希望する場合、家賃一ヶ月分に相当する更新料を、我々大家に納めねばなりません」
「家賃一ヶ月分の臨時収入……! 五部屋分合わせれば、なんと二十五万円以上のキャッシュが手に入る計算になる!」
真木の目が、欲望にギラギラと輝き始めた。
「そうだ。これは我々大家の正当な権利! アパートの修繕積立金をさらに強固なものとするための、神から……いや、資本主義から与えられたボーナスステージである!」
しかし、凛花は冷静に釘を刺した。
「ただし、魔王様。油断は禁物です。日本の法律において、借主(店子)の権利は手厚く保護されています。もし彼らが『更新料が高すぎる』とゴネて退去を選択した場合、我々は新たな入居者を探すための広告費や、原状回復費用、そして空室期間の家賃収入ゼロという多大なリスクを背負うことになります」
「退去だと……!?」
真木は顔面を蒼白にさせた。
せっかく『満室御礼』となり、毎月の安定した不労所得が約束されていたのに、ここで退去者を出してしまえば元も子もない。
「ならん! 退去は絶対に許さん! このコーポ日ノ出の更新率は一〇〇パーセントでなければならない! 一人たりとも逃がすな!」
「承知しております。そのために、宝田不動産の志乃殿とも連携し、法的に一寸の隙もない『契約更新合意書』と『更新料請求書』を作成いたしました。あとは、これを彼らに突きつけ、サインと現金を回収するのみです」
凛花が分厚いバインダーを叩く。
「よし。では直ちに総員を共用ロビーに招集しろ! 大家としての絶対的な威厳をもって、この更新という名の試練を突破してやる!」
* * *
数十分後。
午後九時を回ったコーポ日ノ出の一階共用ロビーに、住人たちが集められた。
現場から帰ってきたばかりで作業着が土埃にまみれている黒木鉄心。深夜勤の前にあくびをしている神埼麗華。デリバリーのピークを終えてスポーツドリンクを飲んでいる久世颯太。ペットサロンのエプロン姿の園田乃愛。そして、警備員の制服を着た朝比奈駆。
「なんだ、大家。こんな夜遅くに緊急招集とは。また魔界の残党でも攻めてきたのか?」
朝比奈がいぶかしげに尋ねる。
「いや、敵襲ではない。だが、お前たちの今後の人生を左右する、極めて重要な通告がある」
真木は仁王立ちになり、背後に控える凛花に目配せをした。
凛花は無表情のまま、五つの茶封筒をそれぞれの住人の前に差し出した。
「皆様。お疲れのところ申し訳ありませんが、中身をご確認ください。これは、来月末に期限を迎える『定期建物賃貸借契約の更新に関するご案内』および『更新料の請求書』です」
「「「……は?」」」
住人たちが一斉に封筒を開け、中に入っていた請求書の金額を見た瞬間。
「な、なんじゃこりゃあああああッ!?」
最初に絶叫したのは、103号室の久世であった。
「更新料、五万二千円!? さらに更新事務手数料として二万六千円!? 合計七万八千円の請求だと!? ふ、ふざけるな! 私がこの金額を稼ぐために、何件の出前をロードバイクで走らなければならないと思っているのですか!」
久世の顔が、暗殺者らしからぬ悲壮感で引き攣っている。彼は最近、ロードバイクのホイールを軽量カーボン製に新調しようと貯金をしていたのだ。
「ちょっと待ちなさいよ大家!」
202号室の麗華も、日傘を床に叩きつけて激怒した。
「なんで私がこんな大金を払わなきゃいけないのよ! ただでさえ来週は、私の推しキャラの『復刻水着イベントガチャ』が来るっていうのに! この更新料を払ったら、天井(確定)まで回す石が足りなくなるじゃないのよぉぉっ!」
吸血鬼の目は、文字通り血走っていた。
「わふぅ……。私も、トリマーの専門学校の通信講座のお金を払わなきゃいけないのに……痛い出費ですぅ」
乃愛も耳をぺたんと寝かせてしょんぼりしている。
現代日本の賃貸契約において、多くの若者や労働者を絶望の淵に叩き落とす『更新料』という名の理不尽な出費。魔力を持たない彼らにとって、それは魔獣の咆哮よりも恐ろしい現実であった。
「大家さん! いくらなんでもこれは酷すぎます! 我々はかつて魔王城で共に釜の飯を食った同胞ではないですか! 『仲間割引き』や『身内免除』といった救済措置はないのですか!」
久世がすがるような目で真木に迫る。
「そうよ! 私なんて、深夜のコンビニバイトで身を粉にして働いてるのよ! せめて更新料半額とか、分割払いとかにしなさいよ、このケチ大家!」
麗華も泣き叫びながら抗議する。
しかし。
真木征司の表情は、夜叉のごとく冷酷であった。
「……仲間割引きだと? 身内免除だと?」
真木は鼻で嗤い、バインダーの中から一枚の契約書のコピーを抜き出して、二人の目の前にピシャリと突きつけた。
「よく見ろ! これはお前たちが入居した時に交わした『賃貸借契約書』の控えだ! その特約条項第4条に、はっきりと明記されているだろう!」
真木が指差した先には、小さな文字でこう書かれていた。
『第4条:本契約を更新する場合、乙(借主)は甲(貸主)に対し、新賃料の1ヶ月分に相当する額を更新料として支払うものとする』
「入居の際、凛花が重要事項説明としてお前たちに読み聞かせ、お前たち自身が納得してサインとハンコを押したはずだ! 日本の法律において、契約は絶対である! 情け無用の正規更新! 一円の負けも、免除もあり得ん!」
「そ、そんな……! あの時は日本に来たばかりで、文字が読めなくて適当にハンコを押しただけなのに……!」
久世がその場に膝から崩れ落ちた。
「悪徳大家! 悪魔! あんたなんて、魔王じゃなくてただの守銭奴よ!」
麗華がポカポカと真木の胸を叩くが、真木は微動だにしない。
「大家の言う通りです」
凛花が冷徹に追い打ちをかける。
「我々はこの国で、法治国家のルールに従ってアパート経営を行っています。もしあなた方にだけ特別扱い(値引き)をすれば、それは経営上の『不当な利益供与』となり、不動産管理の公平性が崩れます。払えないのであれば、月末をもって退去していただくしかありません」
「た、退去……!」
退去。
その言葉の響きに、文句を言っていた久世も麗華も、ピタリと動きを止めた。
もしこのコーポ日ノ出を追い出されれば、彼らは再び、身分保証のない異世界人として、東京の路地裏を彷徨うことになってしまう。
別の部屋を借りようにも、初期費用(敷金礼金、仲介手数料)は、この更新料の何倍もかかるのだ。
それに何より。
このボロくて狭い木造アパートは、いつの間にか彼らにとって、かけがえのない『自分の城(居場所)』になってしまっていたのだ。
「……大家様」
沈黙を破ったのは、101号室の黒木鉄心であった。
彼は作業着の胸ポケットから、分厚い茶封筒を取り出し、真木と凛花の前のちゃぶ台にドンッ!と置いた。
「なんじゃ、黒木」
「某の更新料および事務手数料、合わせて七万六千円にございます。お納めくだされ」
「なっ、黒木! お前、もう全額用意していたのか!」
久世が驚愕の声を上げる。
「うむ!」
黒木はニカッと白い歯を見せて笑った。
「大田組の親方に『今月はアパートの更新があるから、残業と休日出勤を入れてくれ』と頼み込み、ガッツリ稼いできたのでな! このコーポ日ノ出は、我ら魔界の同胞が肩を寄せて生きるための大切な砦! その城の防衛費(更新料)と思えば、安いものよ!」
「おお……黒木! お前という奴は……!」
真木は感動のあまり、目頭を押さえた。重装歩兵の鑑、いや、店子の鑑である。
「……まったく。筋肉ダルマに先を越されるとはな」
続いて前に出たのは、203号室の朝比奈駆であった。
彼は警備員の制服のズボンのポケットから、きちんと糊付けされた封筒を取り出し、凛花に差し出した。
「俺の分の更新料だ。数えてくれ」
「朝比奈……。貴様、勇者のくせに魔王の城の更新料を払うというのか」
真木がニヤリと笑いながら問う。
「勘違いするな。俺は勇者としてこのアパートを監視しているだけだ。……だが、まあ」
朝比奈は少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
「毎日誘導棒を振って疲れて帰ってきた時、お前らが騒いでるこのボロアパートの灯りが見えると……不思議と、ホッとする自分がいる。俺も、もう少しだけ、この街の警備(店子)を続けてやってもいいと思っただけだ」
「ふっ。素直じゃない奴め」
真木が嬉しそうに頷く。
黒木と朝比奈の潔い支払いを目の当たりにして、文句を垂れていた他のメンバーも、徐々に観念したようであった。
「……はぁ。わかったわよ。払えばいいんでしょ、払えば」
麗華が、財布の中から諭吉を数枚抜き出し、血の涙を流しながらちゃぶ台に叩きつけた。
「さよなら、私の限定水着SSRキャラ……。来月はコンビニの夜勤シフトを週五日に増やして、絶対に取り戻してやるんだから……!」
「私も、軽量カーボンホイールは諦めます……。代わりに、自分の脚力を限界まで鍛え上げ、風の抵抗を自らの肉体で切り裂いてみせますよ!」
久世も、泣く泣くデリバリーのチップで貯めた現金を取り出した。
「わふっ! 私も、店長さんから前借りしてきたお給料で払いますぅ! これからもよろしくお願いします、大家さん!」
乃愛が、ニコニコと笑いながら現金を差し出す。
「……確認いたしました」
凛花が、五人分の現金と、サインと印鑑(百円ショップの認印)が押された『契約更新合意書』をチェックし、完璧な動作で領収書を発行していく。
「全員の更新料および事務手数料、計三十八万六千円の受領を確認しました。さらに、来月分の家賃も滞納なし。……大家。我がコーポ日ノ出は、これにて『退去者ゼロ』『更新率一〇〇パーセント』という、不動産経営における奇跡の偉業を達成いたしました」
「うおおおおおおおおっ!!」
真木は、五人から集められた現金の束を両手で高く掲げ、天井に向かって歓喜の咆哮を上げた。
「勝った! 我が軍の……いや、我が不労所得生活の、完全なる勝利だ! 退去者ゼロ、これほど大家冥利に尽きる言葉はない!」
真木は、店子たちの顔を一人一人、誇らしげに見回した。
「皆の者! 理不尽な更新料を自力で稼ぎ出し、見事に納めたその労働への敬意を表し、今夜は余の奢りで、駅前のスーパーの『半額になった高級寿司パック』を大盤振る舞いしてやるぞ!」
「おおおおっ!! 魔王様、万歳!!」
「ケチ! どうせなら回らないお寿司に連れて行きなさいよ!」
「文句を言うなら食わせんぞ!」
一階の共用ロビーに、いつも通りの、騒がしくも温かい笑い声が響き渡る。
異世界からの侵略や、警察の疑惑といった数々の危機を乗り越え、彼らの絆は、二年前に入居した時よりも遥かに強く、深く結びついていた。
「……素晴らしいアパートですね、本当に」
凛花が、領収書の束をバインダーに閉じながら、密かに微笑みを浮かべる。
コーポ日ノ出の満室経営は、こうして強固な更新契約のもと、盤石の基盤を築き上げたのである。
彼らの泥臭くも愛すべき『人間社会での日常』は、この先もずっと、杉並区の片隅で力強く続いていくことを約束されていた。




