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第60話:コーポ日ノ出は今日も満室

東京・杉並区。

燃えるような秋の夕焼けが、入り組んだ住宅街のシルエットを赤く、そしてどこかノスタルジックに染め上げている。

木造二階建て、築三十八年のアパート『コーポ日ノ出』の赤茶けたトタン屋根もまた、夕日を浴びて黄金色に輝いていた。

入り口の門柱に真新しい手作りの木製看板『満室御礼』が誇らしげに掲げられているこのアパートの大家、真木征司(元魔王ヴァルザード)は、大家部屋の六畳間で分厚い茶封筒をポンポンと手のひらで叩きながら、至福の笑みを浮かべていた。


「……フフッ。フハハハハ! 完璧だ。家賃、および五人分の更新料、さらに事務手数料を含めた総額、一円の狂いもなく全額回収完了!」

真木は、エンジ色のジャージの胸ポケットにその分厚い茶封筒をねじ込み、大きく背伸びをした。

その隣で、ビジネススーツ姿の102号室・佐伯凛花(元首席補佐官)が、ノートパソコンの画面を見つめながら静かに頷いた。

「大家(マスター)。これで我がコーポ日ノ出は、当面の修繕積立金を確保しつつ、向こう二年間における『退去者ゼロ』の圧倒的な安定経営基盤を構築したことになります。異世界からの不法侵入者の脅威も去り、もはや我々を脅かすものは、確定申告の期限と消費税増税くらいしかありません」

「うむ! 素晴らしい! これぞ大家冥利に尽きるというものよ!」

真木はバシッと立ち上がり、襖を開け放った。


一階の共用ロビーには、真木の招集を受けた住人全員が、すでに勢揃いしていた。

大田組の作業着で汗を拭う101号室の黒木鉄心(元重装歩兵隊長)。

漆黒のパーカー姿でロードバイクのヘルメットを小脇に抱えた103号室の久世颯太(元風属性魔導暗殺者)。

緑色のエプロンをつけたままの201号室の園田乃愛(元ケルベロス)。

日傘を畳んで、スマホをいじっている202号室の神埼麗華(元吸血貴族)。

そして、紺色の警備員制服に赤白の誘導棒を腰に差した203号室の朝比奈駆(元勇者パーティー戦士)。

現代日本のエッセンシャルワーカーとして、杉並区の末端の労働を支える頼もしき店子たちである。


「皆の者、よくぞ集まった!」

真木は、ロビーの中心で高らかに宣言した。

「我がコーポ日ノ出は、今日この日をもって完全なる満室経営と、全員の無事な契約更新を達成した! 貴様らが日々泥水……いや、汗水垂らして労働し、己の力で更新料を納めたその努力と社会人としての成長に、大家として最大の敬意を表する!」

「おおおおおっ!」

「そして! 先日予告した通り、今夜の夕食は余の奢りだ! スーパーの半額惣菜などというケチ臭いことは言わん! 我が軍の資金力を存分に見せつけるため、これから町内会の大衆食堂『じんぼ亭』へ行き、食えるだけ食って、飲めるだけ飲むぞ!」

「「「うおおおおおおおおっ!! 魔王様、万歳ィィッ!!」」」

黒木が歓喜の雄叫びを上げ、乃愛がピョンピョンと飛び跳ねた。

「ふん。まあ、たまにはまともな外食も悪くないわね」

麗華も口元を綻ばせ、朝比奈も「大家の奢りなら、遠慮なく一番高い定食を頼ませてもらうぞ」と悪びれずに笑った。

「よし! では総員、じんぼ亭へ進軍開始だ!」


* * *

「いらっしゃい! ……おおっ、真木ちゃん! コーポ日ノ出の皆も揃って、今日はどうしたんだい!」

藍色の暖簾をくぐってぞろぞろと入ってきた七人の集団を見て、じんぼ亭の店主であり町内会長の神保康平が、満面の笑みで出迎えた。

「こんばんは、神保殿。今日は我がアパートの『満室御礼』と『全員の契約更新』を祝して、大宴会を催しに来ました! もちろん、支払いはすべてこの大家(わたし)が持ちます!」

「そりゃあめでたい! よく頑張ったな、大家さん! よーし、今日はうちの店も貸し切りだ! 奥の座敷を自由に使ってくれ!」

神保の粋な計らいにより、じんぼ亭の広い畳の座敷が、コーポ日ノ出専用の宴会場となった。


やがて、テーブルの上には、神保の腕によりをかけた絶品の手料理が次々と並べられていく。

山盛りの豚の生姜焼き、大人の拳ほどもある特大の鶏の唐揚げ、ポテトサラダ、マグロの刺身、厚焼き玉子、そして、ジョッキの表面に霜がつくほどキンキンに冷えた生ビール(未成年と下戸にはコーラとウーロン茶)。

「さあ、皆の者! グラスを持て!」

真木が、黄金色の生ビールが入ったジョッキを高く掲げた。

「我らの平穏な日常と、未来永劫続く家賃収入のサイクルの継続を祝して! ……乾杯!!」

「「「乾杯!!」」」


カチンッ!!

ガラスのジョッキがぶつかり合う小気味良い音が、店内に響き渡る。

「ぷはぁぁぁぁっ! う、うまい! 現場の粉塵で渇ききった喉に、黄金の麦汁が滝のように流れ込んできますぞ!」

黒木が、ジョッキを半分ほど一気飲みし、至福の表情で唸った。

「生姜焼きも最高ですぅ! お肉が柔らかくて、ご飯が無限に進んじゃいます!」

乃愛が、ウーロン茶を飲みながら唐揚げと生姜焼きを交互に頬張っている。

「ふふっ。真木様が厨房のピンチを救った時の『魔王定食』のスパイス配合が、じんぼ亭のレギュラーメニューとして完全に定着していますね。経営の多角化としても見事な成果です」

凛花が、冷奴を箸で上品につまみながら分析する。


アルコールが回り始めると、座敷の雰囲気は一気に賑やかなものとなっていった。

「ねえ見てよこれ! 今日の昼間、ついに天井(確定)まで回して、お目当ての水着SSRキャラを引き当てたのよ!」

麗華が、スマートフォンの画面を久世の顔に突きつけて自慢を始めた。

「フッ、素晴らしい引きですね。ですが麗華殿、その課金資金を捻出するために、来月の家賃を滞納するようなことがあれば、真木様にベランダへ吊るされますよ?」

「わ、わかってるわよ! そのために明日から夜勤のシフト増やしたんだから!」

吸血鬼の誇りをかなぐり捨て、労働と課金に全振りしている女帝の姿がそこにあった。


「聞いてくださいよ真木様! 今日の解体現場で、重機が入らない狭い路地裏のコンクリート壁を、某(それがし)がハンマー一本で粉砕したところ、親方に『お前は人間の重機か!』と拝まれましたぞ!」

黒木が自慢の筋肉をアピールする。

「馬鹿者、目立ちすぎるなと言っているだろうが! 警察の天野巡査が怪しむような真似は極力避けるのだ!」

真木が枝豆をつまみながら苦言を呈す。

「ですが大家さん、俺の方も今日は大変だったんだぞ」

朝比奈が、ビールジョッキを置いて割り込んできた。

「交差点の交通誘導で、ダンプカーの運転手と阿吽の呼吸で通行人を捌き切ったんだが、現場監督に『朝比奈くん、お前もう来月から正社員にならないか』とスカウトされてしまった。……勇者である俺が、日本の警備会社に就職するなど……」

「いいじゃないか、正社員! ボーナスが出るぞ、ボーナスが! そうすれば来年以降の家賃の取り立てもさらに安定する!」

「おのれ魔王、結局は家賃のことしか考えていないのか!」

「当然だ!」


各々の職場で繰り広げられる、社会人としての泥臭くもたくましい武勇伝。

魔力を失い、剣を置き、魔法の杖の代わりに誘導棒やレジのバーコードリーダーを握りしめて生きる彼らだが、その顔には、異世界で血みどろの戦争をしていた頃には決して見せなかった、心からの充実した笑みが浮かんでいた。

かつての宿敵同士が、同じ座敷で唐揚げの最後の一個を巡って本気で睨み合い、笑い声を上げている。


「……いやあ、本当に楽しそうだな」

神保康平が、厨房から追加の焼き鳥の盛り合わせを運びながら、真木の隣にドッコイショと腰を下ろした。

「ありがとうございます、神保殿。皆、日頃の労働の鬱憤を晴らしているようです」

真木がビールを注ぐと、神保は嬉しそうに受け取った。

「真木ちゃん。あんた、本当にいい店子に恵まれたな」

「……いい店子、ですか?」

「ああ。そりゃあ、見た目はちょっと個性的だし、時々飛び抜けて力持ちだったり、犬を手懐けるのが上手すぎたりと不思議な連中だけどよ。でも、みんなあんたの言うことをよく聞いて、真面目に働いて、この杉並区の街にちゃんと馴染もうとしてるじゃないか」

神保は、騒ぐ黒木や朝比奈たちを細めた目で見つめた。

「あんたが大家として、彼らをしっかりまとめ上げてる証拠だよ。町内会長として、あんなに頼もしい若者たちがこの街にいてくれるのは、本当にありがたいことなんだぜ」


「…………」

真木は、神保の言葉に、思わず言葉を失った。

魔界の覇王として恐怖で軍を支配していた自分が、人間の初老の男から「良い大家だ」と肩を叩かれ、感謝されている。

それは、世界を征服するよりも遥かに難しく、そして、遥かに温かい承認の言葉であった。

「……フッ。まあ、大家としては、当然の管理業務を行っているだけですがね」

真木は、照れ隠しのようにジョッキのビールをあおり、満更でもない表情でフッと笑った。


「真木ちゃん、悪いけど俺、厨房の火を落としてくるから、ゆっくりしていってくれよ」

「ええ、お気遣いなく」


宴会が最高潮に達し、朝比奈と黒木が「どちらがより過酷な現場を経験したか」で腕相撲対決を始めたのを見計らって、真木はそっと座敷を抜け出した。

少しだけ酔いを冷ますため、じんぼ亭の入り口のガラス戸を開け、夜の空気を吸い込む。


秋の夜風が、少しだけ火照った頬を撫でていく。

商店街の提灯の明かりがぽつぽつと灯り、遠くを走る電車のガタンゴトンという音が、心地よいリズムを刻んでいる。

真木は、ジャージのポケットに手をつっこみ、窓の外に広がる東京の夜空を静かに見上げた。


(……魔界では、空を見上げれば常に戦火の赤が広がり、血の匂いが充満していた)

真木は、かつて自分が座っていた冷たく硬い玉座を思い出した。

数万の魔物を従え、絶大な魔力で世界を震え上がらせていた日々。だが、そこには安らぎなど一片たりとも存在しなかった。常に裏切りを恐れ、勇者の刃に怯え、孤独の中で力を誇示し続けるしかなかったのだ。


(それが、どうだ)

真木は、自分の背後から聞こえてくる、仲間たちの騒がしい笑い声に耳を傾けた。

『こら筋肉ダルマ! 私の分の唐揚げ食べたんじゃないわよ!』

『も、申し訳ありませぬ神埼殿! あまりに美味で、つい無意識に!』

『おい久世、お前の自転車のタイヤ、空気が抜けてないか? 明日乗る前にちゃんとメンテしておけよ』

『お気遣い痛み入ります、朝比奈殿』


血の繋がりもない。種族すら違う。かつては殺し合いをした相手すら混じっている。

それでも、彼らは今、同じ『コーポ日ノ出』という一つの屋根の下で、同じ社会のルールに従い、共に家賃のために汗を流し、笑い合っている。


「……異世界の覇権など、もはやどうでもいい」

真木は、静かに呟いた。

「世界を支配する力などなくとも、余にはこの街のルールがある。この杉並区の空気が、大衆食堂の生ビールの味が、そして……あの騒がしくも手のかかる、愛すべき店子たちがいる」

真木は、空っぽになった自分の手を見つめ、そして、力強く拳を握りしめた。

「この築三十八年の木造アパートと、あの仲間たちとの暮らしこそが……余が見つけた、何者にも壊させない、最高の『帝国』なのだ」


真木の目に、魔界の覇王としての冷酷な光はもうない。

そこにあるのは、この現代日本を力強く生き抜く、一人の逞しい大家としての確かな誇りと温もりであった。


「大家(マスター)! 真木様!」

店の中から、凛花が呼びに来た。

「黒木隊長と朝比奈殿が、酔った勢いで『どちらが先に明日の現場に到着できるか』で外へ走り出そうとしています! 止めてください!」

「なにおぅ!? あの馬鹿ども、深夜に近所迷惑な真似をする気か! 警察の天野巡査に怒られるだろうが!」

真木は慌てて店の中へと取って返した。

「おい貴様ら! 静かにしろ! 明日の仕事に響いたらどうする! 家賃滞納はギルティ(重罪)だと言っているだろうがァァァッ!」


怒号と笑い声が、平和な杉並区の商店街に響き渡る。

彼らの泥臭く、愛おしく、そして限りなく人間臭い日常は、明日も明後日も、この街の片隅で続いていく。

家賃を納め、ゴミを分別し、税金を払いながら。


木造二階建て。築三十八年。

元魔王が大家を務める『コーポ日ノ出』は――今日も、明日も、満室御礼である。

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