第58話:傷の手当てと日常の朝
東京・杉並区。
空を覆っていた赤紫色の次元ゲートが消滅し、暴風雨が過ぎ去った翌朝。秋の澄み切った青空が、木造アパート『コーポ日ノ出』の赤茶けた屋根を眩しく照らしていた。
時計の針は午前六時半を回ったところ。
一階の大家部屋の六畳間で、真木征司(元魔王ヴァルザード)は、布団の中で「ううむ……」とくぐもった呻き声を上げて目を覚ました。
「……痛てててて。全身の関節が軋む。特に肩と腰がバキバキだ……」
真木はゆっくりと上半身を起こし、首を回してボキッと音を鳴らした。
昨夜のスクラップ工場での激戦。魔界の精鋭騎士団と旧貴族ベルガモット卿を相手に、魔法を一切使わず『高圧洗浄機ケルヒャー』と『ホームセンターの物理装備』だけで完全勝利を収めた彼らだったが、その代償は確実に肉体に刻まれていた。
特に真木は、高圧洗浄機の恐ろしい反動を何十分も腕力だけで抑え込み、さらには朝比奈の肩を足場にして上空へ大ジャンプするという、魔王にあるまじき泥臭いスタントをこなしたのだ。魔力消費を極限まで抑えた結果、純粋な筋肉疲労が遅れてやってきたのである。
「……チッ。魔王の肉体をもってしても、アラサーの筋肉痛は翌日に来るものか。いや、むしろ当日に来ていないだけマシと言うべきか」
真木は独り言を呟きながら、いつものエンジ色のジャージに袖を通し、襖を開けて共用ロビーへと出た。
「おはようございます、大家」
ロビーには、すでにビジネススーツをピシッと着こなした102号室の佐伯凛花(元首席補佐官)が立っていた。彼女の顔はいつも通り無表情だが、首筋には四角い白い布がペタリと貼られている。
「おお、凛花。早いな。……お前も、首に湿布を貼っているのか」
「はい。昨晩はパソコンの画面を凝視しながら、敵の魔力結界の波長解析とタイミングの指示を連続で行ったため、極度の眼精疲労からくる肩こりと首の痛みが限界を超えました。……しかし、ご安心を。この湿布は、先日『救急箱の補充』という名目で、アパートの衛生費として経費計上して箱買いしてあります。現在、全住人に無償支給しております」
凛花が指差した先。
ロビーのちゃぶ台(本来は大家部屋にあるが、朝のミーティング用に持ち出されている)の周りには、コーポ日ノ出の防衛軍の面々が、それぞれに痛みを堪えながら集まっていた。
「うおおお……。右腕が上がらん。昨晩、防犯盾で敵の斬撃を数十発も受け止めた衝撃が、今になって腕の骨に響いてきおる……」
大田組の作業着姿の黒木鉄心(元重装歩兵隊長)が、両腕と腰にベタベタと何枚もの湿布を貼り付けながら呻いている。
「黒木殿、私もです。風の気流を読んでカラーボールを投擲し続けたせいで、肩甲骨の裏側が悲鳴を上げています。それに、ロードバイクでの全速力追尾で太ももがパンパンに……」
103号室の久世颯太(元風属性魔導暗殺者)も、パーカーの下から湿布のハッカの匂いを強烈に漂わせながら、太ももをさすっている。
「……あんたたち、だらしがないわね。私はただの鉄パイプの素振りだったから、ちょっと腕がだるい程度よ。まあ、深夜のゲロ掃除に比べればマシな労働だったわ」
202号室の神埼麗華(元吸血貴族)が、鼻で笑いながらも、ちゃっかりと手首に小さな湿布を貼っている。
「わふーっ! 私は元気ですぅ! でも、ワンちゃんをたくさんブラッシングした日の後みたいに、少しだけ手が筋肉痛ですぅ!」
201号室の園田乃愛(元ケルベロス)が、湿布を貼った腕をブンブンと振り回して見せる。
そして。
「……魔王。俺の肩甲骨に、もう一枚湿布を貼ってくれ」
東洋警備保障の制服姿の朝比奈駆(元勇者パーティー戦士)が、背中を向けて真木に頼み込んできた。
「貴様を俺の肩の上に乗せて上空へ放り投げたせいで、腰と肩の筋肉が完全にイカれた。……勇者として数多の魔獣と戦ってきた俺が、ただの『ジャンプの土台』にされただけでこれほどの筋肉痛になるとは、屈辱だ」
「文句を言うな。お前が自ら『俺の肩に乗れ』と言ったのだろうが。ほら、冷感タイプと温感タイプ、どっちがいい」
「……冷感で頼む」
真木が朝比奈の背中にピシャッと湿布を貼り付ける。
かくして、コーポ日ノ出の一階ロビーには、メンソールとサリチル酸メチル特有の、強烈なハッカの匂い(サロンパス臭)がムンムンと充満することとなった。
魔界の覇王と精鋭たちが、魔法の癒し(ヒール)ではなく、現代日本の大衆薬に頼って「痛ぇ痛ぇ」と文句を言い合っている光景は、もはや生活感の極致であった。
「よし! 傷の舐め合いはそこまでだ!」
真木がパンパンと手を叩き、全員の注目を集めた。
「昨晩の勝利は素晴らしいものだった。ベルガモットどもは大人しく宝田不動産の管理下(更生プログラム)に入り、今日からハローワーク通いを始めているはずだ。だが、我々の戦いは終わったわけではない!」
真木は壁にかかったカレンダーをビシッと指差した。
「今日は火曜日! すなわち『可燃ゴミ』の日である! いかに昨夜、世界を揺るがす死闘を繰り広げたからといって、今日のゴミ出しをサボることは断じて許されん! ゴミ集積所のネット掛けと、アパート周辺の掃き掃除は、我らコーポ日ノ出がこの地域社会に溶け込むための最重要防衛線なのだ!」
「「「御意ッ!!」」」
筋肉痛で顔を歪めながらも、店子たちは一斉に姿勢を正した。
異世界からの侵略者よりも、ゴミの分別ルールと地域の目の方が恐ろしい。彼らの優先順位は、すでに完全に日本社会のそれに最適化されていた。
* * *
午前七時。
アパートの外へ出た真木たちは、各自の部屋から出た可燃ゴミの袋を指定の集積所へと運び、カラスよけの青い防鳥ネットを丁寧に被せた。昨夜、久世が逃走の踏み台に使ったのと同じ種類のネットだが、今日ばかりは神聖な自治体ルールの象徴として扱われている。
真木は竹箒を手に持ち、アパートの前の道路に落ちている落ち葉やゴミをサッサッと掃き集め始めた。黒木や朝比奈も、出勤前のわずかな時間を使って、共用廊下のモップ掛けを手伝っている。
「あら、おはようございます、真木さん。今朝も早いですねえ」
掃き掃除をしている真木の後ろから、朗らかな声がかけられた。
振り返ると、買い物袋を提げた近所の主婦、佐藤さんがニコニコと笑いながら立っていた。アパートに入居したての頃、黒木がゴミの分別で揉めかけた時に、真木が綺麗な土下座で許しを請うた相手である。今ではすっかり顔なじみとなり、回覧板を持ってきてくれるご近所さんだ。
「おお、佐藤さん。おはようございます。ええ、大家の務めですからね。朝の清掃は欠かせません」
真木は竹箒を脇に抱え、これ以上ないほど爽やかで礼儀正しい『完璧な営業スマイル』を顔面に貼り付けた。
「本当に、真木さんのアパートの若い人たちは感心だわ。今どき、こんなに朝早くからお掃除を手伝ってくれるなんて。……あら?」
佐藤さんが、ふと鼻をクンクンと動かした。
「なんだか……すごく、湿布の匂いがしませんか? スーッとする匂い」
佐藤さんの指摘に、真木だけでなく、後ろでモップをかけていた黒木や朝比奈もビクッと肩を揺らした。彼らの全身からは、現在進行形で強烈なサロンパス臭が放たれているのだ。
「あ、ハハハ……お恥ずかしい」
真木は咄嗟に後頭部をかき、照れ笑いを作った。
「実は昨晩、アパートの住人たちと一緒に、町内会の……スポーツイベントというか、親睦のフットサル大会に向けて、少しハードな特訓をしまして。若い連中が張り切りすぎて、全員揃ってひどい筋肉痛になってしまったのですよ」
「まあ、そうなの? 元気でいいわねぇ。でも、お仕事に差し支えないように気をつけてね。無理しちゃダメよ」
「ええ、ありがとうございます。お気遣い痛み入ります」
佐藤さんは「いつも綺麗にしてくれてありがとうね」と微笑みながら、駅の方へと歩き去っていった。
「……フゥ。危ないところだった。湿布の匂いで怪しまれるとは盲点だったぞ」
真木がほっと胸を撫で下ろしていると、後ろから朝比奈が小声で突っ込んだ。
「魔王、フットサルってなんだ。俺たちはサッカーなどやったことないぞ。どうせなら空手とか剣道と言っておけばいいものを」
「馬鹿を言え。そんな血生臭い武道を口にすれば、近隣住民に不要な警戒心を抱かせるだろうが。爽やかなスポーツの代名詞といえばフットサルだ。これも大家の完璧な情報操作(印象操作)よ」
真木がドヤ顔で言い訳をしていると。
キィィィーッ。
聞き慣れたブレーキ音とともに、一台の白い自転車(白チャリ)がコーポ日ノ出の前に停まった。
「おはようございます、真木さん。皆さんも」
制帽を被り、凛々しい制服姿の杉並署地域安全課・天野結衣巡査であった。彼女は朝のパトロールのルートに、あえてこのアパートを組み込んで立ち寄ってくれたのだ。
「おお、天野巡査。おはようございます。昨晩は……大変お世話になりました」
真木が声を落として一礼すると、天野はクスッと笑い、自転車の前カゴから『温かい缶コーヒー』を数本取り出した。
「差し入れです。昨晩は冷たい雨の中で……『イノシシの捕獲と、粗大ゴミの片付け』、本当にご苦労様でした。皆さんも、筋肉痛みたいですから、温かいものでも飲んで休んでください」
「おおっ! これはありがたい! 朝の労働の後の微糖コーヒーは、五臓六腑に染み渡りますな!」
黒木が喜んで缶コーヒーを受け取り、朝比奈や久世も「いただきます」と頭を下げる。
真木は受け取った缶コーヒーの温もりを両手で包み込みながら、天野に尋ねた。
「あの報告書は……無事に通りましたか?」
「ええ」
天野は周囲に誰もいないことを確認してから、小声で答えた。
「佐伯さんの作ってくれた原案通り、『野生動物の迷入と不法投棄の処理』として本部に提出しました。上層部も、深夜のパニックを無傷で未然に防いだということで、あっさりと受理されましたよ。……私のクビも、繋がったみたいです」
「それは重畳です。あなたという優秀な後方支援を失うのは、我々にとっても大きな痛手ですからな」
真木が缶コーヒーのプルタブをパキッと開け、一口飲む。
微かな苦味と甘さが、疲れた体に心地よく染み渡る。
「……でも、真木さん」
天野が、真木たち全員の顔を、真剣な眼差しで見つめ回した。
「昨日は本当に、見事でした。あなたたちが誰一人傷つけることなく、あんな……大変な事態を収拾したこと。警察官として、いえ、一人の杉並区民として、感謝します」
天野は小さく頭を下げた。
「あなたたちが何者なのか、どこから来たのかは、もう聞きません。でも……どうかこれからも、この街の平和を頼みますよ、大家さん」
その言葉は、警察官が民間人に向けるものではなかった。
共にこの街の日常を守り抜いた、戦友への信頼の言葉であった。
「……フッ」
真木は、少しだけ照れくさそうに口角を上げた。
「平和を守るなどという大層な使命感は持ち合わせておりません。余はただ、己の所有物件の資産価値と、家賃収入のサイクルを守りたいだけの、強欲な大家ですからな」
「ふふっ。真木さんらしいですね」
天野は笑い、「それじゃ、私はパトロールに戻ります。皆さんも、お仕事頑張ってください!」と自転車のペダルを漕ぎ出して去っていった。
白チャリの後ろ姿が見えなくなるまで、真木たちは缶コーヒーを片手に見送っていた。
「……大家。そろそろ時間です。我々も出勤しなければ」
凛花が腕時計を見て告げた。
「うむ。皆の者! 昨夜の戦いは終わった! 今日からまた、新たな『労働』と『家賃』の日々の始まりだ! 遅刻はするなよ!」
「「「御意ッ!!」」」
サロンパスの匂いを漂わせながら、黒木は作業着で解体現場へ。朝比奈は制服で交通誘導の現場へ。久世はロードバイクでデリバリーへ。凛花はオフィスへ。乃愛はペットサロンへ。そして麗華は「おやすみなさい」とアクビをして部屋の布団へ。
コーポ日ノ出の前に一人残った真木征司は、空になった缶コーヒーをゴミ袋に入れ、秋の青空を大きく見上げた。
空に亀裂はない。世界は平和で、今日もどこかで電車が走り、人々が労働のために歩いている。
「……悪くない朝だ」
元魔王は、大家としての決意を胸に深く刻み込み、静かに微笑んだ。
彼らの泥臭くも愛すべき『日常』は、いかなる天災にも、いかなる侵略者にも屈することなく、今日も力強く続いていく。




