第56話:残党への最後通牒
東京・杉並区。郊外のスクラップ工場跡地。
深夜二時を回った頃、吹き荒れていた暴風雨は嘘のように勢いを潜め、雲の切れ間からは冷たい月明かりが地上を照らし始めていた。
空に穿たれていた赤紫色の次元ゲートは、真木征司(元魔王ヴァルザード)の高圧洗浄機『ケルヒャー』による物理的な水圧(集中砲火)によって魔力核を粉砕され、完全に消滅している。
そのスクラップ工場の中央、巨大な水たまりと泥にまみれた地面には、異世界からこの杉並区を蹂躙しようと現れた旧貴族派の精鋭騎士たちが、無残な姿で転がっていた。
『ぐ、うぅぅ……!』
『も、もがけない……! なんだ、この異常に強靭な魔法の紐は……!』
魔界の鍛冶師が打ち上げた漆黒の重鎧を着込んだ彼らの手足は、101号室の黒木鉄心(元重装歩兵隊長)と201号室の園田乃愛(元ケルベロス)の手によって、ホームセンターで調達された極太の『プラスチック製結束バンド』で背後にガッチリと縛り上げられていた。
いかに魔族の腕力があろうとも、工業用の特殊ポリカーボネート素材で作られた現代の結束バンドは、専用のニッパーがなければ絶対に引きちぎることはできない。彼らは泥まみれになりながら、芋虫のように身をよじることしかできなかった。
そして、その敗残兵たちの中心。
もっとも深い泥のぬかるみの中に、両膝をつき、力なくうなだれている男がいた。
旧貴族派の急先鋒、ベルガモット卿である。
つい先ほどまで絶対防壁を張り、人間界の征服を高らかに宣言していた傲慢な男は、全身ずぶ濡れになり、自慢の真紅のマントも泥と油にまみれてボロボロに引き裂かれていた。
「……さて。少しは頭が冷えたか、ベルガモット」
ザッ、ザッ、と泥水を踏みしめる音とともに、真木が歩み寄ってくる。
エンジ色のジャージにサンダル履き。背中には高圧洗浄機を背負ったままの、どう見てもただの清掃業者か、休日のうだつの上がらない青年にしか見えない姿。
だが、今のベルガモット卿にとって、見下ろしてくる真木の瞳に宿る冷徹な光は、かつて魔界の玉座から全軍を睥睨していた『魔王ヴァルザード』そのものであった。
『……なぜだ』
ベルガモット卿は、泥まみれの顔を上げ、血走った目で真木を睨み返した。
『なぜなのですか、ヴァルザード様! あなたほどの御方が、なぜこれほどまでに下等な人間どもに屈し、このような屈辱的な生活を受け入れているのです! 我ら魔族の誇りはどうしたのですか! なぜ、人間などを……!』
悲痛な叫びであった。彼からすれば、絶対的な支配者であった魔王が、人間界の安い服を着て、奇妙な道具を使い、魔力も持たない人間たちの社会に溶け込んでいることなど、正気の沙汰とは思えなかったのだ。
「……人間に屈する、だと?」
真木は鼻で嗤い、ジャージのポケットから手を抜いて、ベルガモット卿の鼻先をビシッと指差した。
「貴様は何もわかっていない。お前は、日本の『労働基準法』の厳しさも、『確定申告』の重みも知らないから、そんな青臭く、現実離れした寝言が言えるのだ」
『ろ、労働基準法……? 確定申告……? 一体、何の呪文ですか、それは……!』
「呪文ではない! この現代日本という資本主義社会を支配する、絶対的な『現実』の名称だ!」
真木は一歩踏み込み、大家としての、いや、現代社会で揉まれてきた一人の社会人としての怒りを爆発させた。
「いいか、ベルガモット! 貴様らは力で人間を支配し、この街を火の海にすると言ったな。だが、街を破壊してどうする? 燃えカスから金は生み出せん! 土地を不法占拠したところで、固定資産税と都市計画税の納付書が送られてきて破産するだけだぞ!」
『ぜ、税金……? 我ら支配者階級が、なぜ下等生物に貢ぎ物を……!?』
「この国に生きる以上、納税の義務からは魔王だろうと逃れられんのだ! それに、力で人間を従わせようとすれば、直ちに警察や自衛隊という国家の暴力装置が動き出す。お前たち数人の魔力など、現代のミサイルや法治国家の組織力の前では、ただの迷惑なテロリストに過ぎん!」
真木の後ろから、102号室の佐伯凛花(元首席補佐官)が、アタッシュケースを抱えて歩み出てきた。
「大家の言う通りです」
凛花は雨粒のついた眼鏡を中指でスッと押し上げ、冷たく見下ろした。
「あなた方が先ほどやろうとしていた行為は、器物損壊、建造物侵入、騒乱罪、ならびに銃刀法違反にあたります。もし実行に移し、我々の暮らすコーポ日ノ出の資産価値を毀損した場合、生じる損害賠償額は億単位に上るでしょう。あなた方に、それを現金で支払うだけの信用がこの社会にあるのですか?」
『そ、損害賠償……!?』
「そうだ!」
今度は、101号室の黒木鉄心が、ポリカーボネート製の盾を置いて胸の筋肉を叩いた。
「我ら魔族の力は、無軌道な破壊のためにあるのではない! 解体現場でコンクリートを砕き、安全第一で工期を守り、汗を流して日当を得るためにあるのだ! 力任せの暴力など、大田組の現場監督にドヤやされるだけの恥ずべき行為にすぎん!」
「フン、その通りだ」
203号室の朝比奈駆(元勇者パーティー戦士)も、誘導棒を肩に担いで前に出た。
「俺は勇者として戦うことしか知らなかったが、今は交通誘導員として、この街の交通インフラを事故から守っている。ダンプカーと歩行者の安全を確保する責任感と、毎月振り込まれる固定給の喜び。……剣を振り回して威張るだけの貴様らに、この社会的信用の尊さがわかるか!」
『な、なんだお前たちは……!』
ベルガモット卿は、かつての魔王軍の幹部や勇者が、口を揃えて「日当」「安全第一」「固定給」などという世俗にまみれた単語を誇らしげに連呼する姿に、完全なパニックに陥っていた。
「ちょっとアンタたち、自分がどれだけ甘やかされてたか自覚しなさいよ」
202号室の神埼麗華(元吸血貴族)が、ため息をつきながら歩み寄る。
「深夜のコンビニで、床にぶちまけられたゲロをモップで掃除したことある? 理不尽なクレーマーに土下座一歩手前まで頭を下げて、時給千百円で耐え忍んだことある? アンタたちのそのくだらない貴族のプライドなんて、深夜のワンオペバイトの前じゃ、レジ袋一枚分の価値もないのよ!」
「そうですぅ! ワンちゃんの爪切りで噛みつかれそうになっても、笑顔で接客するのがプロのトリマーなんですぅ! おじさんたち、ただの大きな赤ちゃんだと思います!」
201号室の園田乃愛(元ケルベロス)にも無邪気にトドメを刺される。
103号室の久世颯太(元風属性魔導暗殺者)も、ロードバイクのサドルに寄りかかりながら静かに言った。
「……私たちの戦場は、すでに魔界の荒野から、この東京のコンクリートジャングルへと移行しているのです。資本主義という過酷なシステムに適応できぬ者は、淘汰されるのみ」
住人たちからの、あまりにも生々しい『社会の底辺からのリアルな労働説教』の波状攻撃。
ベルガモット卿の心の中で、これまで絶対と信じて疑わなかった「魔族の誇り」や「魔界の階級制度」といったものが、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
魔力が通じない。剣が通用しない。
それどころか、かつての自分たちの力は「犯罪」であり、彼らの「労働」の足元にも及ばないと言い切られているのだ。
『あ、ああ……我々は……我々は一体……』
完全に心が折れ、虚ろな目になったベルガモット卿を見下ろし、真木は最後の通告(最後通牒)を突きつけた。
「よく聞け、敗残兵ども。貴様らに残された道は二つに一つだ」
真木は三本の指を立て、ゆっくりと一つずつ折り曲げた。
「一つ。このまま警察に『不法侵入と器物損壊の不審者グループ』として突き出され、身元不明のまま留置所にぶち込まれ、一生塀の中で臭い飯を食うか」
『ヒィッ……!』
「二つ。余の軍門に下り、この社会で生き直すかだ。ただし!」
真木は、ベルガモット卿の胸ぐらをガシッと掴み、顔を近づけた。
「この街で生きたいなら、魔族のプライドなど今すぐこの泥水の中に捨てろ! まずは、宝田不動産の志乃のところで身分を保証する『保証人』を立ててもらう! そして、明日からハローワーク(公共職業安定所)へ行き、日雇いの肉体労働から始めろ!」
『ハ、ハローワーク……!? ひ、日雇い労働……!』
「そうだ! 週五日働き、税金を納め、余の管理するアパートに住み、敷金礼金と毎月の家賃を一日も遅れずに支払うのだ! それが、お前たちがこの世界で生かしてもらうための、唯一の条件だ!」
家賃を払うために、ハローワークへ行き、肉体労働をする。
魔王からの、あまりにも世知辛く、現実的で、逃げ場のない恐ろしい宣告。
だが、今のベルガモット卿たちには、それを拒否する力も、帰るべきゲートも失われていた。
そもそも、この恐ろしいほどにシステム化された社会で、誰の後ろ盾もなく野に放たれれば、言葉の通り「野垂れ死ぬ」か「逮捕される」未来しかないのだ。
『……っ』
ベルガモット卿の目から、ポロリと涙がこぼれ落ちた。
それは、屈辱の涙であり、同時に、自分たちの無力さを完全に悟った者のみが流す、完全敗北の涙であった。
『わ、わかり、ました……。ヴァルザード様……いえ、真木大家様……』
ベルガモット卿は、泥水の中に額を擦り付けた。
『我々旧貴族軍……いえ、無職の敗残兵一同……。あなた様の軍門(社会人研修)に下ります。どうか、どうか我々に、ハローワークでの仕事の探し方をご指導くださいませ……!』
「「「どうか、ご指導をお願いいたしますぅぅっ!!」」」
周囲に転がっていた結束バンドで縛られた騎士たちも、一斉に涙ながらに泥に顔を沈め、社会復帰への懇願を叫んだ。
「……フッ。よかろう」
真木は、胸ぐらを掴んでいた手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
「ただし、余の指導は厳しいぞ。遅刻、無断欠勤、そして何より『家賃滞納』は万死に値する重罪と思え。……明日から、我がコーポ日ノ出のルールを骨の髄まで叩き込んでやる」
完膚なきまでにへし折られた旧貴族たち。
武力ではなく、魔法でもなく、現代社会のルールと『大家の論理』によって、魔界の反乱軍は完全に鎮圧されたのである。
「よし! 敵の帰順は確認した! これより、事後処理(後片付け)に移行する!」
真木が振り返り、凛花や黒木たちに向かってパンパンと手を叩いた。
「天野巡査が道路を封鎖してくれているとはいえ、長居は無用だ! 警察や一般人にバレる前に、このスクラップ工場の戦闘の痕跡を完全に消し去り、完全なる偽装工作を行うぞ! 総員、掃除用具を手に取れ!」
「「「御意ッ!!」」」
空の亀裂は完全に消え去り、雨雲も徐々に流れて、秋の夜空に星が瞬き始めていた。
血を流すことなく、ただ現実の厳しさを突きつけることで終結した、コーポ日ノ出防衛戦。
しかし、社会人にとって本当の戦いは、敵を倒した後に行われる『始末書の作成』と『現場の原状回復』にある。
大家と店子たちによる、夜明けまでの過酷な清掃作業(証拠隠滅)が、今まさに始まろうとしていた。




