第54話:ゲート解放の夜
東京・杉並区。深夜の午前一時五十五分。
空にぽっかりと開いた赤紫色の次元の亀裂から、周囲の空気を吸い込むような不気味な気圧変化が発生し、ついに局地的な暴風雨が杉並の街を叩きつけ始めた。
横殴りの雨がアスファルトを打ち据え、狂ったような風が街路樹を大きく揺さぶる。
そんな中、郊外のスクラップ工場跡地へと続く片側一車線の道路に、一台のパトカーが赤色灯を強烈に回転させながら停車していた。
「こちら杉並二十二。……はい、現在指定ポイントにて交通規制を完了しました。局地的な豪雨の影響で、道路の地盤に陥没の兆候が見られます。二次被害を防ぐため、工場跡地周辺の約五百メートル四方を全面通行止めとし、一般車両および歩行者を迂回させます」
無線用のマイクを握りしめ、本部へ淀みなく報告を行っているのは、地域安全課の天野結衣巡査であった。
彼女はパトカーのトランクから『通行止』と書かれた赤いコーンと、黄色と黒のトラ柄の規制バーを引きずり出し、暴風雨の中で手際よくバリケードを構築していた。さらに、工事現場でよく見かける『この先、道路陥没の恐れあり。迂回をお願いします』という立て看板を設置する。
「……よし。これで完璧ね」
天野は雨合羽のフードから垂れる雨水を拭いながら、小さく息を吐いた。
公文書の偽造ではないが、明らかな虚偽報告である。もし後で調査が入れば、彼女の警察官としてのキャリアは致命的なダメージを受けるだろう。だが、彼女の心に迷いはなかった。
「あのアパートの大家さんたちが、自分たちの生活を守るために必死に戦おうとしているんだもの。私だって、この街の平和を守る警察官として、彼らの邪魔が入らないようにする責任があるわ」
天野の作った完璧な封鎖線により、もし偶然この近くを通りかかった一般車やタクシーがあったとしても、誘導灯に従ってUターンしていく。スクラップ工場の周辺は、完全に世間の目から切り離された『絶対の隔離空間』となったのだ。
* * *
同時刻、隔離されたスクラップ工場跡地。
天野の奮闘を背に受けて敷地内に侵入した『コーポ日ノ出』の住人たちは、降りしきる暴風雨に備え、全員がホームセンターで調達したお揃いの『透明なビニール製雨合羽』を着用していた。
ジャージの上に合羽を着た真木、作業着の上に合羽を着た黒木。彼らは、高く積まれた鉄くずの山の陰に身を潜め、工場の中央広場をじっと睨みつけていた。
ゴオォォォォォォォォッ!!
工場の上空で、赤紫色の次元の亀裂が、限界まで膨張し、悲鳴を上げる。
そして、午前二時ジャスト。
鼓膜を破るような轟音とともに、ゲートが完全に解放された。
空間が裂け、そこからあふれ出した圧倒的な魔力の奔流が、滝のように地上へと降り注ぐ。凄まじい衝撃波が巻き起こり、スクラップ工場に積まれていた廃車やトタン板が、まるで紙くずのように宙を舞って吹き飛んでいった。
「大家! 転移が始まります!」
アタッシュケースを傘で守りながら、凛花が叫ぶ。
土煙と魔力の閃光が晴れた後、クレーターのように抉れた地面の上に、重厚な漆黒の鎧を身に纏った数十人の騎士たちが、整然と隊列を組んで姿を現した。魔界の旧貴族直属の精鋭部隊である。
そして、その軍勢の中央に、豪奢な真紅のマントを羽織った男が立っていた。魔界の旧貴族派を束ねる急先鋒、ベルガモット卿である。
『フハハハハハハ! 素晴らしい! ついに我ら旧貴族の軍勢が、次元の壁を越えて新たな世界へと降り立ったぞ!』
ベルガモット卿の高笑いが、暴風雨を切り裂いて響き渡る。
彼の纏うマントや鎧は、放出される強大な魔力の壁によって、雨粒を一滴たりとも寄せ付けていない。
『大気の魔力が恐ろしく希薄な下等な世界だが……それゆえに、我々のような高位の魔族を阻む結界も存在しないと見える。まさに無防備な赤子も同然だ』
ベルガモット卿は、背後に控える騎士たちに向かって鷹揚に両手を広げた。
『聞け、我が精鋭たちよ! まずはこの辺り一帯を制圧し、拠点を築くのだ! そして、この人間界のどこかに身を潜めているであろう、我らが魔王ヴァルザード様を捜索し、保護せよ!』
ベルガモット卿の野望は明確であった。
『勇者に敗れて魔界を追われたとはいえ、ヴァルザード様は我々にとって必要不可欠な御輿。あのお方を玉座に縛り付け、傀儡として担ぎ上げることで、我々旧貴族が再び全権を掌握するのだ。そして、この脆弱な人間界を新たな領土として蹂躙し、魔界の栄華を取り戻す!』
『「「オオオオオオオオッ!!」」』
漆黒の騎士たちが、一斉に槍を天に突き上げ、野獣のような雄叫びを上げた。
魔力を持たない現代日本にとって、彼らの存在はまさに未曾有の厄災である。このまま彼らが工場の外へ出れば、杉並区は瞬く間に地獄と化すだろう。
だが、その勇ましい鬨の声を、無残に遮る不快な音があった。
――ピーーッ! キィィィィン!!
突如として、スクラップ工場全体に、マイクの酷いハウリング音が鳴り響いたのだ。
『な、なんだこの耳障りな音は!?』
ベルガモット卿が耳を塞いで顔をしかめる。
すると、鉄くずの山の影から、お揃いの透明な安物雨合羽を着て、長靴を履いた集団が、ザッ、ザッ、と水たまりを踏みしめながら堂々と姿を現した。
先頭を歩く男は、右手に黄色い拡声器を持ち、左手には黄黒の工事用トラメガホンを握っている。
男は拡声器のスイッチをカチッと入れ、口元に当てた。
「あー、あー。マイクテスト、マイクテスト。……おい、そこの不法侵入者ども。聞こえているか」
拡声器を通した、極めて事務的で、しかしドスの効いた低い声が響く。
『き、貴様らは何者だ! 下等な人間どもか!』
ベルガモット卿が騎士たちに剣を構えさせる。
だが、拡声器を持った男は、全く動じることなくズカズカと歩み寄り、ベルガモット卿から十メートルほどの距離で立ち止まった。
「誰が人間だ。よく顔を見てみろ、ベルガモット」
男が雨合羽のフードをバサッと後ろに払い除ける。
雨に濡れたその顔を見た瞬間、ベルガモット卿の目が驚愕に見開かれた。
『なっ……!? そ、そのお顔……ヴァルザード様!? 魔王ヴァルザード様であらせられますか!』
「いかにも。だが、今は魔王ではない。築三十八年・木造アパート『コーポ日ノ出』の大家、真木征司だ」
『お、おお……! なんという奇跡! 探す手間が省けました!』
ベルガモット卿は歓喜し、その場に片膝をついた。
『お待ちしておりましたぞ、魔王様! 我ら旧貴族軍、あなた様をお救いするため、次元の壁を越えて馳せ参じました! さあ、共にこの人間界を支配し、愚かな勇者どもに復讐を……!』
「黙れッ!!」
真木の拡声器越しの怒声が、ベルガモット卿の言葉を強引に叩き斬った。
ビクッ!と、騎士たちが肩を揺らす。
「支配だと? 復讐だと? そんな時代遅れの寝言をほざくために、わざわざ余の住む杉並区にやってきたというのか!」
真木は拡声器を持ったまま、怒りの形相でベルガモット卿を睨み下ろした。
「いいか貴様ら! 現在時刻は午前二時過ぎだ! 深夜の住宅街のど真ん中で、こんな大規模な爆発音(ゲート解放)を響かせ、大勢で雄叫びを上げるなど、明確な『近所迷惑防止条例違反』である! これ以上騒ぎを続けるなら、即座に警察に通報してパトカーを呼ぶぞ!」
『……は?』
ベルガモット卿は、ポカンと口を開けた。
魔界の絶対君主であった魔王の口から飛び出した、「近所迷惑防止条例違反」や「警察に通報する」という、あまりにも小市民的で矮小な語彙の数々。
『ま、魔王様……? 一体、何を仰っているのですか。警察などという人間の組織が、我々魔族の軍勢に何ができるというのです。我々はあなたを救いに……』
「救うだと? 余の生活を破壊しに来たの間違いだろうが!」
真木は拡声器を持たない方の手で、ベルガモット卿をビシッと指差した。
「余は今、この東京の片隅で、血の滲むような努力の末にアパートを満室にし、安定した家賃収入を得ている! お前たちのような常識知らずの蛮族がこの街で暴れ回れば、地価が暴落し、住人が逃げ出し、余の不労所得計画が完全に崩壊するのだ!」
『ふ、不労所得……? 家賃収入……?』
「そうだ! 余の城の資産価値を脅かす気か! ここは余の所有物件のある街だ。お前たちのような敷金も礼金も払わん不法滞在者が、勝手に足を踏み入れていい場所ではない!」
あまりのスケールの小さい、しかし血を吐くような真木の叫びに、ベルガモット卿は完全に混乱していた。
その後ろから、同じく雨合羽を着た黒木や凛花、久世たちが進み出てくる。
『く、黒木隊長! 佐伯補佐官! あなた方まで、なぜそのようなみすぼらしいビニールの服を!』
「みすぼらしいとは何だ!」
黒木がポリカーボネート製の防犯盾をドンと地面に突き立てる。
「これは雨風をしのぐ機能性に優れた合羽だぞ! 我々は明日も労働(現場)があるのだ! 貴様らのつまらん野望に付き合って風邪を引くわけにはいかんのだ!」
「その通りです。我々は社会人として、自立した生活を営んでいます。あなた方のように、魔力に頼って他人の資産を奪うだけの寄生虫とは違うのです」
凛花が冷たく言い放つ。
『……っ!』
ベルガモット卿の顔が、混乱から徐々に赤黒い怒りへと変わっていった。
彼らが理解できないのも無理はない。かつて魔界で強大な力を誇った魔王と幹部たちが、今やただの人間社会のルールに縛られ、小銭を稼ぐだけの哀れな労働者に成り下がっているとしか見えなかったのだから。
『……狂ったか、魔王ヴァルザード』
ベルガモット卿が、ギリッと歯ぎしりをして立ち上がった。
『下等な人間どもに毒され、牙を抜かれ、ただの薄汚い庶民に成り下がったというのか! なんという無様な姿! 我ら魔族の誇りを完全に忘れ去りおって!』
「誇りで飯が食えるか! 税金が払えるか! 誇りより明日のシフトの方が百倍重要だ!」
真木が間髪入れずに言い返す。
『ええい、黙れッ!!』
ベルガモット卿が、狂乱したように腰の宝剣を抜き放ち、真木に向かって切っ先を向けた。
『もはや説得は無用! お前たちが完全に人間の毒に染まっているのなら、力尽くで記憶を消し飛ばし、ただの操り人形(傀儡)として魔界に連れ帰るまでよ!』
ベルガモット卿の全身から、禍々しい紫色の魔力が爆発的に立ち昇った。
『全軍、構え! あの裏切り者どもを捕らえよ! 手足の二、三本切り落としても構わん!』
『「「オオオオオッ!!」」』
数十人の漆黒の騎士たちが、一斉に武器を構え、殺気をみなぎらせて包囲の陣形を敷き始める。
雨はさらに激しさを増し、雷鳴が天を割るように轟いた。
「……交渉決裂(クレーム対応失敗)だな」
真木はため息をつき、拡声器のスイッチを切って足元に放り投げた。
そして、背負っていた『ケルヒャー』の高圧洗浄機のノズルを両手でしっかりと構え直した。
「ならば、大家としての実力行使に移るまで! 総員、戦闘態勢に入れ! 我がアパートの平穏を脅かす不法侵入者どもに、現代社会の恐ろしさを骨の髄まで叩き込んでやれ!」
「「「御意ッ!!」」」
黒木が防犯盾を前面に押し出し、久世が暗殺のステップで横へ広がる。朝比奈は誘導棒のスイッチを入れて赤く点滅させ、凛花が戦況分析のタブレットを掲げた。
暴風雨の深夜、スクラップ工場を舞台にした、魔力なき大家軍団と魔界の精鋭騎士団による、理不尽極まりない激突が、今まさに火蓋を切ったのである。




