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第52話:天野へのカミングアウト

深夜の東京・杉並区。郊外のスクラップ工場跡地。

月明かりすら届かない深い闇の中、強烈なLEDライトの光束が、数人の男女の姿を白日の下に晒し出していた。


「動かないで! 警察です! 全員、手を上げてそこから一歩も動かないでください!!」


ライトの光源の背後で、杉並警察署地域安全課の天野結衣(あまの・ゆい)巡査が、両手でしっかりと拳銃(ニューナンブ)のグリップを握り締め、銃口を真っ直ぐに突きつけていた。

天野の手はかすかに震えていた。彼女の視界に飛び込んできたのは、警察官としての常識を完全に破壊する『異常な光景』であったからだ。

一番手前に立っているのは、ジャージ姿の大家・真木征司。その手には、不気味に黒光りする極太の結束バンドが何本も握られている。

その後ろには、全身傷だらけで気絶している黒装束の男が、無残にも後ろ手に縛り上げられて転がっている。

さらにその奥。ポリカーボネート製の巨大な盾を構えた大男(黒木)と、暗闇に溶け込むような黒いパーカーの青年(久世)、そして赤白の誘導棒を持った警備員(朝比奈)。緑のエプロン姿の少女(乃愛)の足元には、ブルーシートでグルグル巻きにされ、鉄パイプで固定された『巨大で毛皮に覆われた未知の生物』が、モゴモゴと不気味に蠢いていた。

(な、なんなのこれは……! 猟奇殺人グループ? それとも、カルト教団の秘密儀式!?)

天野の脳内で警鐘がガンガンと鳴り響く。


「……おや、お巡りさん。こんな深夜にパトロールですか。ご苦労様です」

沈黙を破ったのは、銃口を向けられているはずの真木であった。

彼は少しも慌てることなく、ゆっくりと両手を頭の上に挙げ、いつものような爽やかな(しかし今は最高に胡散臭い)営業スマイルを浮かべた。

「誤解しないでいただきたい。我々は決して怪しい者ではありません。ただの、杉並区の善良なアパート住人です」

「ぜ、善良な市民が、深夜の廃工場で人を縛り上げたり、そんな巨大な……何かをブルーシートで簀巻き(すまき)にしたりするわけないでしょう!」

天野が声を荒らげる。

「今すぐ応援を呼びます! それまで絶対に抵抗しないで!」

「待ってください! 応援を呼ばれて警察沙汰になれば、我がアパートの資産価値が暴落し、彼らの働き口も失われてしまう! それだけは断じて困るのです!」

真木は顔面を蒼白にさせた。魔族に命を狙われることよりも、社会的な信用(クレジット)を失うことのほうが、今の魔王にとっては百倍恐ろしいのだ。


「お巡りさん、どうか冷静になって話を聞いてください。私の胸ポケットに、我々の『身の潔白を証明するもの』が入っています。出してもよろしいでしょうか」

「……武器じゃないでしょうね。ゆっくり、指先だけで取り出してください」

天野が銃口をぴたりと真木の胸元に定める。

真木は右手の二本指をジャージの胸ポケットにそっと差し込み、そこから折りたたまれた分厚い紙の束を抜き出した。

バサァッ。

「これを見てください。これが私の、今年度の『確定申告書の控え(青色申告・受付印あり)』! そしてこちらが『住民票の写し』! さらに『納税証明書(その1・その2)』です!」

真木は、警察官の前にそれらの公的書類をバババン!と突きつけた。

「……えっ?」

天野の思考が、一瞬停止した。

「私たちは全員、杉並区に住民票を置き、市民税・都民税を滞りなく完納している善良な納税者なのです! テロリストや猟奇殺人鬼が、毎月帳簿をつけ、税理士を通さずに自力でe−Taxで電子申告を行うなどという地道なマネをすると思いますか!?」

「え、いや……あの……」

あまりにも斜め上の反論に、天野が言葉に詰まる。


そこへ、真木の後ろに控えていた店子たちも、次々と身分証明書を取り出し始めた。

「お巡りさん! 俺は東洋警備保障の契約社員、朝比奈駆だ! これが先月給料から天引きされた『社会保険料の明細』だ! 俺は国民の義務を立派に果たしている!」

「某(それがし)は大田組の解体工、黒木鉄心! これは『重機操作の特別教育修了証』と『安全衛生責任者』の資格証にございます! 労働基準監督署の厳しい指導の下、日々汗を流して家賃を納めております!」

「私はスマイルイーツの配達員、久世颯太。このスマートフォンの画面をご覧ください。顧客満足度九十九パーセント、エリア内最速配達を誇るゴールドアカウントです。怪しい人間が、これほどの評価を得られるでしょうか」

「わ、私も、ペットサロンのシフト表と、店長さんからもらった『今月のMVPアルバイト賞』のバッジがありますぅ!」


次々と突きつけられる、泥臭くも確かな『現代日本の労働者の証(あかし)』の数々。

「…………」

天野は、構えていたニューナンブの銃口を、無意識のうちに少しだけ下げていた。

(なんなの、この人たち……。状況はどう見ても異常なのに、出土する証拠がことごとく『真面目な社会人』すぎる……!)

警察官としての常識と、目の前のシュールすぎる現実が、天野の脳内で激しいエラーを引き起こしている。


「……百歩譲って、皆さんが真面目に働いている納税者だということは信じます。でも!」

天野は再び気を取り直し、懐中電灯の光を、ブルーシートの巨大な塊と、縛られている黒装束の男(斥候兵)に向けた。

「その縛られている人は何ですか! そして、そのブルーシートの中身は! どう見ても犯罪の証拠じゃないですか!」

「ああ、これですか」

真木は、これ以上ないほど白々しい態度で、ポンとブルーシートを叩いた。

「これは、深夜に不法投棄されていた『巨大な粗大ゴミ』です。我々がそれを注意したところ、こちらの黒ずくめの男がいきなり刃物を取り出して襲いかかってきたのです。我々は防犯盾と掃除用具(高圧洗浄機)を使い、正当防衛で彼を取り押さえ、警察に突き出そうとしていたところなんですよ」

「そ、粗大ゴミって……明らかに中身、動いてますよね!? それに、そこから飛び出してる黒い毛皮と、巨大な牙はなんなんですか!」

ブルーシートの隙間から、シャドウハウンドの禍々しい鼻面と牙が覗いていたのだ。

「これは……その……」

真木が冷や汗を流して言葉に詰まった、その瞬間。


「わふっ! ただの、おっきな野良犬ですぅ!」

乃愛がブルーシートに飛びつき、笑顔でシャドウハウンドの鼻面に顔を近づけた。

そして、天野からは見えない角度で、魔界の上位捕食者としての圧倒的な『殺気』を、ブルーシートの中の魔獣に直接叩き込んだ。

『(おい駄犬。もしここで魔獣特有の咆哮を上げたりしたら、お前の内臓を全部引きずり出してミンチにするからな。可愛く鳴け。今すぐだ)』

『(ヒィィッ……!)』

シャドウハウンドは恐怖で全身を痙攣させながら、精一杯の高めの声で鳴いた。

『……ク、クゥ〜ン。キャンキャンッ!』

地獄の魔獣とは思えない、極めて情けない(しかし可愛らしい)小型犬のような鳴き声が響く。

「ほら、お巡りさん! ただの迷子のワンちゃんです! ちょっと体が大きくて、歯並びが悪いだけですよぉ!」

乃愛が満面の笑みで言い張る。

「いやいやいや! そんな牙の生えた野良犬、日本にいるわけないでしょ! ドーベルマンの三倍は大きいじゃない!」

天野の的確なツッコミ。


「そこをなんとか! 我々の身元が確かなのは、この『推薦状』を見ればわかっていただけるはずです!」

真木は最後の手段として、胸ポケットの奥底から、丁寧に折りたたまれた和紙を取り出した。

「これは……?」

「商店街の町内会長、神保康平殿からの直筆の推薦状です! 『真木さんをはじめとするコーポ日ノ出の若者たちは、地域の清掃活動や防災訓練に積極的に参加し、神輿(みこし)の担ぎ手としても大活躍している、我が杉並区の誇りであり地域の模範である』……と、このように記されております!」

「町内会長の……推薦状……?」

天野は、その達筆な文字と、神保会長の立派な実印が押された和紙を見て、ついに深く、深くため息を吐いた。

そして、構えていたニューナンブの撃鉄(ハンマー)をゆっくりと戻し、ホルスターへと収めた。


「……もう、いいです」

天野は懐中電灯を下ろし、こめかみを指で揉んだ。

「私がアパートに張り込んでいた時から、薄々感じていました。あなたたちが、ただの人間じゃないことくらい。……その身体能力も、異常な気配も、そして今、目の前にいる『巨大な野良犬』と称する化け物も」

天野の言葉に、真木たちの顔からスッと営業スマイルが消えた。

「でもね」

天野は真木を真っ直ぐに見据えた。

「あなたたちが、毎朝早く起きて現場へ向かい、夜遅くまで配達をして、コンビニでレジを打って、必死に生活している姿も、私はずっと見てきたんです」

警察のデータベースで調べた完璧な戸籍。近隣住民からの評判。そして、目の前に突きつけられた、汗と油にまみれた給与明細と納税証明書。

「どこから来た、何者であろうと……あなたたちが、この杉並区で、誰よりも真面目に社会人生活を営んでいることは事実です。テロリストが、町内会長から推薦状をもらうわけがない」


「……お巡りさん」

真木は、ジャージの襟を正し、少しだけ声のトーンを下げた。

「お見通しのようだな。我々が何者であるか、詳しく語る気はない。だが、これだけは誓おう」

真木は、自分の足元の大地をドンと踏みしめた。

「我々はこの街の住人であり、このコーポ日ノ出の大家と店子だ。この街のルールに従い、家賃を払い、平穏な日常を愛している。……今日、この不届き者(魔獣)たちを拘束したのは、この街の平和を、そして我々の労働環境を破壊しようとする動きを察知したからだ」

「この街を、破壊……?」

天野の顔が引き締まる。

「そうだ。これはただの先遣隊に過ぎん。明日の深夜、あの空の亀裂から、奴らの『本隊』が大規模な転移ゲートを開いてやってくる。奴らは我々のように資本主義のルールに飼い慣らされてはおらん。力任せに暴れ回るだろう」

「そんな……! なら、すぐに自衛隊や機動隊を……!」

「馬鹿を言え! そんな大騒ぎになれば、アパートの周辺が封鎖され、我々の平穏な生活が根底から崩れ去ってしまう! 資産価値がゼロになれば、余の家賃収入計画は破綻するのだ!」

真木は必死の形相で天野に詰め寄った。

「お巡りさん! 見逃してくれとは言わん。だが、我々に任せてほしい! 明日の夜、このスクラップ工場に現れる侵略者どもは、我々コーポ日ノ出の総力を挙げて、必ず無音で、かつ一滴の血も流さずに完全制圧(クレーム処理)してみせる! だから、警察組織全体を動かすのだけは待ってくれ!」

「大家(マスター)の言う通りです」

黒木が一歩前に出た。

「我々の腕力と、この現代の叡智(高圧洗浄機と結束バンド)があれば、いかなる軍勢も必ず抑え込みます! 我々の職場を、日常を奪わないでいただきたい!」

朝比奈も、久世も、乃愛も、真剣な目で天野を見つめている。

人外の存在でありながら、自分たちの『生活』を守るために必死になっている彼らの姿。

それは、恐ろしくもあり、同時にどこか滑稽で、哀愁に満ちていた。


「…………」

天野は数秒間、沈黙した。

警察官としての職務規程に照らし合わせれば、即座に応援を呼び、彼らを特異事象として拘束するのが正解である。

だが、彼女の『この街を愛する一人の人間』としての心が、彼らの真っ直ぐな言葉に共鳴してしまったのだ。

「……はぁ。私がこんなことを言ったら、クビが飛ぶかもしれないわね」

天野は大きくため息を吐き、真木に向かって右手を差し出した。

「今回だけです。今回だけ、あなたたちを信じます。……その代わり、条件があります」

「条件、だと?」

「私を、あなたたちの『防衛作戦』に協力させてください。これでも警察官です、周辺の交通整理や、一般人が近づかないための封鎖工作なら、私が警察の権限を使って完璧にサポートできます。……それに、あなたたちが本当に『一滴の血も流さずに』終わらせるか、見届ける義務がありますから」


天野の提案に、真木は一瞬驚いたように目を見張ったが、やがてニヤリと不敵に笑い、その小さな右手をガッチリと握り返した。

「……フッ。頼もしい限りだ。国家権力(警察)のバックアップが得られるとは、大家としてこれほど心強いことはない。交渉成立(ディール)だな、天野巡査」

「ええ。ただし、もし派手に建物を壊したりしたら、容赦なく全員まとめて逮捕しますからね、大家さん」


深夜のスクラップ工場。

縛り上げられた魔界の斥候兵と、野良犬のふりをして震える魔獣の横で。

元魔王と、現代日本の女性警察官による、奇妙で、しかし極めて強固な『共闘協定』が結ばれた瞬間であった。

明日はいよいよ、ゲート解放の夜。

コーポ日ノ出の家賃と日常を守るための最終決戦に、最強の味方(コンプライアンスの番人)が加わったのである。

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