第51話:解体業者の怪力無双
深夜の東京・杉並区。
表通りの喧騒から遠く離れた、高いフェンスとトタンの壁に囲まれた郊外の資材置き場(スクラップ工場跡地)。
空に広がる不気味な赤紫色の亀裂から漏れ出る異様な気配とは裏腹に、地上にはしんと静まり返った闇が広がっていた。
「……ハァ、ハァ。チェックメイトです、異世界からの迷子さん」
漆黒のロードバイクに跨り、息を整えながら告げたのは、103号室の久世颯太(元風属性魔導暗殺者)である。彼は巧みなルート選択と、青い防鳥ネットを利用したアクロバティックな跳躍により、魔界の先遣隊である斥候兵と偵察用魔獣『シャドウハウンド』を見事、この人気のない資材置き場へと誘導し終えていた。
『チッ……! 袋小路に逃げ込んだかと思えば、こんな鉄くずの山に誘い込みおって!』
黒い外套に身を包んだ斥候兵が、忌々しげに舌打ちをする。
その横で、体長二メートルを超える漆黒の猛獣、シャドウハウンドが、鋭い牙を剥き出しにして低い唸り声を上げていた。
『だが、貴様は大きなミスを犯したぞ、人間! ここは人目につかない閉鎖空間。どれだけ魔獣が暴れ回ろうと、誰の助けも来ない処刑場だ! やれ、ハウンド! この小賢しいネズミを食い千切れ!』
斥候兵が残酷な笑みを浮かべて号令をかけた、まさにその瞬間であった。
「――そこまでだ、不法侵入者ども」
資材置き場の入り口を塞ぐように、高く積まれたスクラップの陰から、三つの人影がゆっくりと姿を現した。
先頭を歩くのは、ジャージ姿にサンダル履き、手にはホームセンターのレジ袋を提げた大家・真木征司(元魔王ヴァルザード)。
その右側には、大田組の作業着に身を包み、左腕に透明なポリカーボネート製防犯盾を装備した巨漢、黒木鉄心(元重装歩兵隊長)。
そして左側には、深夜にもかかわらず緑色のエプロンを身につけたまま、尻尾(見えない)をピンと立てて歩く園田乃愛(元ケルベロス)である。
(※乃愛は魔獣の制圧に彼女の「犬語翻訳&威圧スキル」が不可欠と判断した真木によって、急遽アパート防衛戦から引き抜かれて同行していた)
『な、何者だ貴様ら!』
斥候兵が驚愕して後ずさる。しかし、真木の顔を月の光が照らし出した瞬間、その驚きはさらなる衝撃へと変わった。
『ば、馬鹿な……!? その顔、そのお姿……! ま、魔王ヴァルザード様!? なぜ、このようなみすぼらしい布の服を着て、こんな世界の鉄くずの山に!?』
魔王軍の斥候兵は、かつての絶対的支配者の姿を見て、その場に平伏しかけた。
ベルガモット卿たち旧貴族の目的は「魔王の奪還」である。ここで魔王本人に出会えたのなら、作戦は成功したも同然のはずだった。
だが、真木はかつての部下に対し、一切の情を見せることなく冷酷に言い放った。
「勘違いするな、斥候よ。余は今、魔王ではない。杉並区の善良な納税者であり、築三十八年の木造アパート『コーポ日ノ出』を束ねる『大家』だ」
『お、大家……? 何を仰っているのですか、魔王様! 我々はあなたを救出し、再び魔界の覇権を握るために……!』
「黙れッ!」
真木の怒声が、深夜の資材置き場にビリビリと響いた。
「覇権だの奪還だの、寝言は寝て言え! 貴様らがこの街で暴れれば、地価が下がり、治安が悪化し、余の不労所得計画が根本から崩壊するのだ! 家賃収入を脅かす者は、かつての同胞であろうと容赦はせん!」
真木はビシッと指を突きつけた。
「これより、不法侵入者の強制排除を実行する! ただし、我が軍の第一目標は『近隣住民からの騒音クレームを絶対に防ぐこと』だ! 黒木! 乃愛! 警察沙汰にならぬよう、一滴の血も流さず、かつ無音で奴らを制圧せよ!」
「「御意ッ!!」」
『……狂っている。魔力のない世界に落ちて、魔王様は正気を失われたか!』
斥候兵は理解不能な大家の論理に恐怖を覚え、シャドウハウンドに向かって叫んだ。
『ええい、構わん! あの二人を殺せ! 魔王様は無理やりにでも魔界へ連れ帰るのだ!』
ゴアァァァァッ!!
シャドウハウンドが咆哮を上げ、巨体をバネのように弾かせて黒木と乃愛へと襲いかかった。
鋭い爪が空を切り裂き、大気を震わせる。並の人間であれば、一撃で肉片と化すほどの圧倒的な暴力の権化。
しかし、黒木鉄心は微動だにしなかった。
「ふん。騒音を立てるなと大家から厳命されているのだ。貴様のようなやかましい野獣は、真っ先に『梱包』してやらねばならんな」
黒木は左腕の防犯盾で魔獣の突進を軽く受け流すと、右手で足元の資材の山から『あるもの』を引っ張り出した。
それは、建設現場で防音や養生に使われる、巨大で分厚い『特大ブルーシート』であった。
「大田組・解体現場仕込みの奥義! 『高速養生梱包』!!」
バサァッ!!
黒木は信じられない速度でブルーシートを広げ、襲いかかってきたシャドウハウンドの頭上から、まるで投網のようにすっぽりと被せた。
『グルァッ!?』
視界を奪われ、混乱する魔獣。
黒木の手は止まらない。彼は資材置き場に転がっていた『単管パイプ(工事用の鉄パイプ)』を数本蹴り上げると、ブルーシートの中で暴れる魔獣の四肢に沿うように、添え木のごとく正確に当てがった。
「暴れるな! 近所迷惑だと言っているだろうが!」
黒木はその怪力で、魔獣をブルーシートごと簀巻き(すまき)にし、単管パイプで関節の動きを完全にロックしたのだ。
解体現場において、危険な廃材や飛び散る破片を、周囲に音とホコリを漏らすことなく迅速に包み込んで運び出す、プロの解体工の極意。
魔獣の筋力をもってしても、幾重にも巻かれた分厚いブルーシートと、物理的に関節を固定された単管パイプの拘束からは、容易に抜け出すことはできなかった。
『モガァッ……! グォォォッ……!』
ブルーシートの中で魔獣がもがくが、発せられる咆哮は分厚いシートに吸い込まれ、ただのくぐもった「モゴモゴ」という音に変換されていた。
「見事な防音・防塵対策だ、黒木! これなら近隣の住宅から『うるさい』と通報される心配はない!」
真木が後方から称賛の声を上げる。
「ですが真木様! このままでは私がシートを押さえ続けていなければならず、完全に無力化したとは言えません!」
黒木が魔獣を押さえ込みながら叫ぶ。
「案ずるな! そこで『仕上げ』のプロフェッショナルの出番だ! 行け、乃愛!」
「わふっ! お任せください!」
緑色のエプロンをなびかせ、小柄な乃愛がブルーシートの山へと駆け寄った。
彼女の手には、先ほどホームセンターで調達した、極太で強靭なプラスチック製の『結束バンド』が大量に握られている。
『モゴォォォォッ!』
魔獣がシートの隙間から鼻面を出し、乃愛に向かって牙を剥き出しにして威嚇した。
いかに拘束されていようと、腐っても魔界の猛獣である。ただの小娘が近づけば、一瞬の隙を突いて喉笛を噛み千切る気でいた。
しかし。
乃愛は全く怯むことなく、魔獣の真っ赤な目の前に顔を近づけた。
そして、その愛らしい犬耳の奥にある、魔界の冥府を統べる『上級魔獣ケルベロス』としての圧倒的な絶対者のオーラを、ほんの一瞬だけ、シャドウハウンドの脳髄に直接叩き込んだのである。
『(おい。深夜の杉並区で、大家さんの前で粗相をして、生きて帰れると思ってるのか? あぁん?)』
ゾワァァァァァッ!!
シャドウハウンドの全身の毛が、恐怖で逆立った。
目の前にいるのは小柄な少女ではない。魔界のヒエラルキーにおいて、自分など足元にも及ばない最上位の捕食者。その三つの首が、今まさに自分を丸呑みにしようとヨダレを垂らしている幻影が見えたのだ。
『ヒィンッ……! キャ、キャンッ!』
シャドウハウンドは一瞬にして戦意を喪失し、哀れな子犬のように尻尾を股の間に巻き込み、ブルーシートの中でプルブルと震え出した。
「よしよし、お利口さんですねー。暴れちゃダメですよー」
乃愛はペットサロンで見せるような優しい(しかし魔獣にとっては死神の)笑顔を浮かべ、シャドウハウンドの喉元を優しく撫でた。
完全に服従のポーズをとった魔獣に対し、乃愛は手にした極太の結束バンドを取り出した。
「じゃあ、動かないようにしっかり固定しますからねー」
ジジジッ! ジジジジジッ!!
静かな資材置き場に、結束バンドがカチカチと締め上げられる、小気味良い音が響き渡る。
魔獣の前脚と後ろ脚。単管パイプとブルーシート。それらを、絶対に引きちぎれない現代の工業製品(ポリカーボネート製結束バンド)が、情赦なく一つに縛り上げていく。
「はいっ、梱包完了ですぅ!」
乃愛がポンッと手を叩いて立ち上がった。
そこに転がっていたのは、もはや恐ろしい魔獣の姿ではなく、ブルーシートと鉄パイプでガチガチに固められ、結束バンドで縛り上げられた『巨大な粗大ゴミ(産業廃棄物)』であった。
『クゥ〜ン……クゥ〜ン……』
中から聞こえるのは、完全に心が折れた犬の情けない鳴き声だけである。
『ば、馬鹿な……! あの狂暴なシャドウハウンドが、手も足も出ずに、ただの青い布と紐で拘束されただと!?』
一部始終を見ていた斥候兵は、あまりのシュールかつ絶望的な光景に、ガクガクと膝を震わせた。
「さあ、残るはお前だけだぞ、不法投棄犯」
真木が、静かに斥候兵へと歩み寄る。
『ヒィッ! こ、来るな! 俺にはまだ、この短剣が……!』
斥候兵がパニックに陥って短剣を振り回そうとした、その時。
「動くな。それ以上暴れるなら、公務執行妨害ならぬ『警備業務妨害』で現行犯逮捕するぞ」
斥候兵の背後から、東洋警備保障の制服を着た朝比奈駆(元勇者)が、音もなく背後に立っていた。彼はアパートの防衛を麗華たちに任せ、遅れてこの資材置き場に合流していたのだ。
『ゆ、勇者ァァァッ!? なぜお前までここにいる! 魔王と勇者が手を組んでいるのか!?』
「黙れ。俺は今、誇り高き交通誘導員だ」
朝比奈は、赤白の誘導棒を鮮やかな手首のスナップで振るい、斥候兵の手首を的確に打ち据えた。
『ガアッ!』
短剣が手から滑り落ちる。
すかさず朝比奈は斥候兵の腕を背後にねじり上げ、あらかじめ持っていた結束バンドで、手首をジジジッ!と冷酷に縛り上げた。
「よし、制圧完了だ。刃物を持っていたからな、正当防衛の範囲内での制圧だ。日本の法律には一切触れていないはずだぞ、大家さん」
朝比奈が真木に向かってウインクをする。
「うむ、見事な制圧術だ。さすがは現場でクレーム処理に慣れているだけはある」
作戦開始から、わずか三分。
コーポ日ノ出防衛軍による『静音捕獲作戦』は、一滴の血を流すこともなく、周囲の施設を一切破壊することもなく、完璧な形で完了した。
「……素晴らしい。現代の資材(ブルーシートと結束バンド)のコストパフォーマンスたるや、魔界の武具など足元にも及ばんな」
真木は、転がっている「産業廃棄物(魔獣)」と、拘束された斥候兵を見下ろし、満足げに頷いた。
「これで、まずは先遣隊の排除は完了だ。被害額ゼロ、近隣からの騒音クレームもゼロ。大家としての完璧な危機管理の勝利だな」
黒木や久世たちも、安堵の息を吐きながら警戒を解いた。
――しかし。
彼らが作戦の成功を祝おうとした、まさにその直後であった。
「……動かないで!!」
パァッ!!と、強烈な懐中電灯の光が、闇に包まれた資材置き場を切り裂き、真木たち全員の顔を照らし出した。
「なっ!?」
真木が光の方向に目を向けると、そこには。
警察官の制服に身を包み、腰のホルスターから拳銃を抜き放ち、両手でしっかりと構えている、杉並署の天野結衣巡査の姿があった。
彼女は、コーポ日ノ出周辺の異常な磁場と、今夜の不穏な気配を察知し、単独でパトロールを行っていたのだ。
「警察です! 全員、手を上げてそこから動かないでください!!」
天野の手はかすかに震えていたが、その瞳には警察官としての強い使命感と、絶対に退かないという決意が宿っていた。
彼女の視線の先には、手に結束バンドを持った真木、ブルーシートで包まれた巨大な『謎の蠢く物体』、そして、縛り上げられて転がっている黒装束の男(斥候兵)。
どこからどう見ても、深夜の資材置き場で行われている『ヤクザの死体遺棄現場』か、あるいは『異常なカルト集団の儀式』にしか見えない、完全に言い逃れ不可能な地獄の光景であった。
(……お、終わった……!)
真木征司の頭の中から、修繕積立金も、満室御礼の看板も、すべての輝かしい未来がガラガラと音を立てて崩れ去っていく音がした。
魔王の静かなる防衛戦は、最も恐れていた「国家権力(警察)の介入」という最悪の形で、絶体絶命のクリフハンガーを迎えたのであった。




