第50話:侵入者、路地裏に現る
東京・杉並区。日付が変わるまであと数時間という夜。
空に広がる赤紫色の亀裂は、もはや隠しようのないほどに脈打ち、時折、音のない稲妻を夜空に走らせていた。
しかし、奇妙なことに、街を歩く人々は誰もその異常な空に気づいていない。大気中のエーテル(魔力)が極端に少ない現代日本において、魔力の波長を視覚的に捉えることができるのは、真木たちのような異世界からの来訪者か、天野巡査のように特異な霊感を持つ者だけであった。
「……大家。空間の歪みが臨界点に達しようとしています」
コーポ日ノ出の大家部屋。六畳間に構築された『即席・監視コントロールセンター』の前に座る佐伯凛花(元首席補佐官)が、ノートパソコンの画面から目を離さずに告げた。
「波長の収束点が、完全に固定されました。場所はやはり、予定通りの郊外のスクラップ工場跡地。……来ます。先遣隊です」
「よし」
腕を組んでモニターを睨みつけていた大家・真木征司(元魔王ヴァルザード)が、鋭い声で号令をかけた。
「各員、配置につけ! 我が城の防衛戦、いよいよ開戦だ!」
「「「はっ!!」」」
黒木鉄心(元重装歩兵隊長)はポリカーボネート製の防犯盾を左腕に装着し、朝比奈駆(元勇者パーティー戦士)は赤白の誘導棒を腰に差した。園田乃愛(元ケルベロス)と神埼麗華(元吸血貴族)も、それぞれホームセンターで調達した自衛用の武器(金属バットと鉄パイプ)を手に、アパートの裏口と廊下の死角へ散っていく。
そして、モニター画面に映し出された十台の防犯カメラの映像の一つに、異変が生じた。
「……真木様。第三カメラ、スクラップ工場から約五百メートル離れた商店街の裏路地に、動体反応あり」
暗視モードの緑色の画面を凝視していた103号室の久世颯太(元風属性魔導暗殺者)が、素早くタブレットの画面を指差した。
「映し出せ!」
画面が拡大される。
深夜の誰もいない裏路地。そこに、音もなく『空間の裂け目』から滑り落ちるようにして現れた、二つの影があった。
一つは、黒い外套に身を包んだ小柄な人影。もう一つは、体長二メートルを超える、四つん這いの異形の獣であった。
「……偵察用の魔獣『シャドウハウンド』と、斥候兵だな。旧貴族の奴らめ、まずは先遣隊を送り込んで、この街の戦力と地形を把握するつもりか」
真木が目を細める。
「魔力の薄いこの世界に、あれだけの巨体を送り込むとはな。奴ら、相当な魔力を消費してゲートをこじ開けたと見える」
「真木様! 奴ら、商店街のアーケードの方角へ向かって移動を開始しました!」
久世が叫ぶ。
「いかん! 商店街にはまだ、閉店作業をしている店や、夜間営業の店舗がある! あんな魔獣が街のど真ん中に現れれば、大パニックになり、警察が総出で駆けつけてくるぞ!」
真木の脳裏に、パトカーのサイレンと、「特異事象」としてアパート周辺が完全に封鎖される絶望のビジョンが浮かんだ。
「久世! お前の出番だ! あの偵察部隊を、絶対に表通りに出すな! フードデリバリーの機動力を活かし、裏道だけで奴らを捕捉し、人目のつかない場所へ誘導しろ!」
「御意ッ! ターゲット、完全に捕捉しました。追尾を開始します!」
久世は、いつもの『スマイルイーツ』の巨大なデリバリーバッグを背負い、漆黒のロードバイクを抱えてアパートを飛び出した。
ガチャッ、カチカチカチッ!
ペダルに靴を固定し、久世は闇夜に溶け込むようにロードバイクを発進させた。
シャァァァァァァッ!!
タイヤがアスファルトを擦る微かな音だけを残し、元暗殺者の姿は一瞬で夜の街へと消えた。
* * *
深夜の杉並区。
細く入り組んだ住宅街の路地裏を、異世界の斥候兵と魔獣が音もなく進んでいた。
『……なんだ、この世界は。空気が異常なほど重く、息苦しい。魔力が全く感じられない』
外套を着た斥候兵が、周囲のコンクリートブロック塀やアスファルトの道を忌々しげに見回す。
『しかも、この幾何学的で無機質な建物群……。我々が知る人間界とは全く構造が違う。ベルガモット様は、魔王様がこの世界で巨大な軍事要塞を築いていると仰っていたが、こんな魔力のない世界で、どうやって……』
グルルルル……。
傍らを歩くシャドウハウンドが、低い唸り声を上げた。その赤い目が、路地の先にある『商店街のアーケードの明かり』を捉えていた。
『よし。まずはあそこの明るい場所へ出て、人間どもの生体エネルギーを喰らって魔力を補給するぞ。行け、ハウンド!』
斥候兵の命令を受け、魔獣が太い後ろ脚の筋肉をバネのように収縮させ、路地から表通りへと跳躍しようとした、その瞬間であった。
ヒュッ!!
闇の中から、一本の空き缶(午後ティーのロング缶)が、恐ろしいスピードで飛来し、魔獣の鼻っ柱にクリーンヒットした。
『キャインッ!?』
魔獣が悲鳴を上げて体勢を崩し、アスファルトの上に転がった。
『な、何者だッ!?』
斥候兵が慌てて短剣を抜き、空き缶が飛んできた暗がりを睨みつける。
そこにいたのは。
巨大な四角いバッグを背負い、ヘルメットを被ったままロードバイクに跨る、黒いパーカー姿の青年――久世颯太であった。
「……ここから先は『配達エリア外』です。通行はご遠慮願いますよ、異世界の迷子さん」
久世はロードバイクのハンドルに手を置いたまま、暗殺者特有の冷たい声で告げた。
『き、貴様……人間か!? いや、この身のこなし、ただの人間ではない! まさか、魔王様の軍勢か!?』
「私はただの、スマイルイーツの配達員です。……もっとも、運ぶのは料理だけではありませんがね」
久世はニヤリと笑い、ロードバイクのペダルを逆回転させて後退し、さらに細い路地へと車体を滑り込ませた。
「私を捕まえられるものなら、捕まえてみなさい」
『おのれ、舐めおって! 追え、ハウンド! あの小僧を食い殺せ!』
斥候兵の命令に、怒り狂ったシャドウハウンドが弾かれたように久世を追って細い路地へと飛び込んだ。斥候兵もその後を追う。
かくして、深夜の杉並区の路地裏を舞台にした、暗殺者(配達員)と魔獣による、次元を超えた鬼ごっこが幕を開けた。
* * *
「大家! 久世殿がターゲットとの接触に成功しました。現在、敵を巧みに誘導しながら、指定ポイントへ向かっています!」
大家部屋のモニターの前で、凛花が緊迫した声で報告する。
「よし。久世の機動力なら、魔獣のスピードにも引けを取らん。問題は、奴をどこに誘い込むかだが……」
真木が地図を睨む。
その時、モニターの横に置かれていたスマートフォンから、久世の声が通信アプリ(グループLINEの音声通話)を通じて聞こえてきた。
『真木様、聞こえますか! 現在、ターゲットを三丁目児童公園の裏手から、廃工場の敷地方面へ誘導中です! しかし……』
「どうした、久世!」
『敵の魔獣、予想以上にスピードが速いです! 直線距離では私のロードバイクでも引き離せません! このままでは、表通りに出る前に追いつかれます!』
画面の映像では、久世のロードバイクのすぐ後ろ、わずか数メートルの距離に、シャドウハウンドの巨大な顎が迫っていた。魔力のない世界で、魔獣が生存本能からリミッターを外して爆走しているのだ。
「チッ! やはり魔獣の身体能力は侮れんか。朝比奈! お前、現場の地理には詳しいな! 久世を助けるための最短ルートを指示しろ!」
「任せろ!」
真木の横で地図を見ていた朝比奈が、即座に無線機に向かって叫んだ。
「久世! お前の現在位置から百メートル先の交差点を、右へ曲がれ! そこは『どん詰まりの私道』だ!」
『どん詰まり!? 袋小路に逃げ込めと言うのですか、朝比奈殿!』
「いいから曲がれ! その袋小路の突き当たりに、ゴミ収集用の『青いネット』が被せられた集積所がある! そのネットを踏み台にして、一気に壁を越えろ! 魔獣にはあのネットの反発力は計算できん!」
元勇者の、そして交通誘導員としての『街の死角』を熟知した的確な指示。
『……了解しました! 勇者の指示に従います!』
モニターの中で、久世のロードバイクが鋭いカーブを描いて右の路地へと突入した。
路地の先は、朝比奈の言う通り高いコンクリートの壁で塞がれた行き止まりであった。その後ろから、シャドウハウンドが「逃げ場はないぞ」とばかりに猛スピードで迫ってくる。
久世は全くスピードを緩めることなく、行き止まりの壁の直前に設置されていた、大量のゴミ袋を覆うための『青い防鳥ネット』に向かって、ロードバイクのフロントタイヤを激突させた。
「ハァァァァッ!!」
バインッ!!
弾力性のある青いネットがトランポリンの役割を果たし、久世のロードバイクは空中へと高く跳ね上がった。そのまま壁を越え、隣の空き地へと見事に着地する。
『なにィッ!?』
追いかけてきた斥候兵が驚愕の声を上げた。
シャドウハウンドも久世を追って壁を跳び越えようとしたが、魔獣の巨体と爪では青いネットの弾力をうまく利用できず、ネットに爪が絡まって無様にバランスを崩し、コンクリートの壁に激突してしまった。
『キャインッ!』
「見事だ、朝比奈! お前の交通誘導の知識が、見事に敵の機動力を削いだぞ!」
真木が歓喜の声を上げる。
「ふん。言っただろう。この街の道路状況なら、誰よりも熟知しているとな」
朝比奈が誇らしげに胸を張る。
『……真木様。敵の足止めに成功しました。現在、目標を第二指定ポイントである『資材置き場』へと誘導完了。これより、捕獲作戦に移行します!』
久世からの報告が入り、真木は立ち上がった。
「よし! これより我々も出撃する! 黒木! 準備はいいな!」
「ははっ! 我が筋肉、そしてこの『高圧洗浄機』と『結束バンド』の出番にございますな!」
黒木が、凶悪な笑みを浮かべながら両手の装備を掲げる。
「凛花はここで引き続きモニターの監視と、警察無線の傍受(※スマホの公開アプリ)を頼む! 麗華と乃愛はアパートの防衛! 行くぞ、朝比奈、黒木!」
「応ッ!」
深夜の杉並区。
人通りの絶えた暗い資材置き場で、異世界の魔獣と、完全武装(ホームセンター仕様)したコーポ日ノ出の大家と店子たちが、ついに対峙の時を迎えようとしていた。
それは、世界を救うための聖戦などではない。
ただ自分たちの「家賃と平穏な日常」を守るための、極めて私的で、そして圧倒的に理不尽な、大家の『不法侵入者排除作戦』の幕開けであった。




