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第47話:天野警察官の疑惑

東京・杉並区。残暑の空に突如として発生したゲリラ豪雨と落雷から数日が経過した。

気象庁の発表によれば「大気の不安定な状態が続いているための局地的な気象現象」と処理されていたが、杉並警察署の地域安全課に所属する天野結衣(あまの・ゆい)巡査は、その公式見解を全く信用していなかった。


「……やっぱり、おかしいわ。過去のデータと照らし合わせても、あの日の落雷の落ち方、そして雨雲の発生から消滅までの時間が、自然現象としてはあまりにも不自然すぎる」

天野は署の自席で、パソコンの画面に表示された杉並区の地図と睨み合っていた。

地図上には、ここ一週間の間に発生した微弱な磁場異常や、謎の停電、そしてあの日の落雷のポイントが赤いピンで示されている。

そして、それらの赤いピンの中心点(グラウンド・ゼロ)に位置しているのが、あの築三十八年の木造アパート『コーポ日ノ出』であった。

「コーポ日ノ出……大家の真木さんをはじめ、住人の皆さんは、抜き打ちの巡回連絡の時も、信じられないくらい完璧で善良な市民だった。でも……」

天野の脳裏に、あの日の光景がフラッシュバックする。

整列して防災標語を朗唱する住人たち。引き攣った笑顔で肩を組んでいた大家の真木と、警備員の朝比奈。そして、解体工の黒木や、デリバリー配達員の久世といった、異常なまでの身体能力を秘めていそうな若者たちの姿。

(……善良すぎる。真面目すぎる。まるで、社会のルールという『盾』の裏側に、とてつもない何かを隠しているみたいに)

警察官としての勘が、いや、特異事象を感知する彼女の特殊な霊感が、コーポ日ノ出から発せられる微弱だが異質な『波長』を捉え続けていた。

「……もう一度、自分の目で確かめるしかないわね」

天野は決意を固め、制帽を被って白い自転車(白チャリ)にまたがり、署を出発した。


* * *

午後二時。

天野はコーポ日ノ出から少し離れた電柱の物陰に自転車を停め、アパートの様子をこっそりと張り込んでいた。

太陽は高く昇り、残暑の厳しい日差しがアパートの赤茶けたトタン屋根を照らしている。

「……さて。テロ組織の潜伏拠点か、それともカルト集団の秘密基地か。しっぽを掴ませてもらうわよ」

天野が息を殺して双眼鏡を構えた、その時。


ガラッ。

一階の大家部屋(102号室の隣)の襖が開き、ジャージ姿の大家・真木征司が現れた。

天野の心臓がドクンと跳ねる。

(出てきた! 何か不審な動きをするはず……!)

真木は周囲を警戒するように見回し……そして、手にしたチラシの裏紙と鉛筆を睨みつけ、ブツブツと何やら呟き始めた。

「……チッ。やはり今月の水道代が先月より五百円ほど上がっている。麗華の奴がシャワーを出しっぱなしにしているせいだな。共益費の値上げを検討すべきか……いや、それでは退去のリスクが高まる。ならば、シャワーヘッドを節水型のものに無断で交換してやるか……」

真木は悪代官のような邪悪な笑みを浮かべ、鉛筆でチラシの裏に何やら数字を書き殴っている。

「…………」

天野は双眼鏡を下ろし、ポカンと口を開けた。

(……家計簿? 大家さんが、チラシの裏で水道代の計算をしてるだけ……?)

テロの計画でも、武器の密輸でもない。あまりにも生活感に溢れた、ケチ臭い大家の日常風景であった。


さらに数分後。

今度は101号室のドアが開き、大田組の作業着を着た巨漢の黒木鉄心が出てきた。

(あの体格……絶対にただの解体工じゃない。軍隊上がりの傭兵か何かよ。今度こそ……!)

天野が再び双眼鏡を構える。

黒木は手になにやら小さな袋を持っており、アパートの敷地の隅、ブロック塀の影へと向かった。

そして、その屈強な体を小さく丸め、猫撫で声で語りかけ始めたのだ。

「ほーれ、ミケ殿。今日も拙者が、極上の保存食(ちゅ〜る)を持参いたしましたぞ。さあ、遠慮なくお召し上がりくだされ。……おおっ、食べておる! なんと愛らしい舌の動き! 我が鋼の筋肉も、この可愛らしさの前にはただのプリンのようにトロトに溶けてしまいますぞ〜」

「にゃーん」

野良猫相手に、デレデレの顔でちゅ〜るを絞り出している巨漢。その姿は、傭兵どころか、ただの猫好きの心優しいおじさん(三十代半ば)であった。

「…………」

天野は再び双眼鏡を下ろし、今度は胃の辺りを押さえた。

(……どういうことなの。私が張り込んでるのに、出てくる情報が『ケチな大家』と『猫好きの解体工』って……。私の警察官としての勘が、ポンコツになってるってこと……?)

あまりの拍子抜けな光景に、天野は軽く目眩すら覚えた。

この数日間、彼女はコーポ日ノ出の住人たちの身元調査を、署のデータベースを使って徹底的に行っていた。しかし、出てくる結果は完璧なものばかりだった。

真木征司、黒木鉄心、久世颯太、佐伯凛花、神埼麗華、園田乃愛、朝比奈駆。全員が杉並区に住民票を置き、市民税・都民税を完納しており、過去に一度の犯罪歴も、交通違反の切符すら切られた記録がない(久世の自転車の乗り方は神業すぎて警察が感知できていないだけだが)。

宝田不動産が仲介し、保証会社もしっかり通っている。

どこからどう調べても、「超」がつくほどの模範的な市民たちなのだ。


「……でも、やっぱり引っかかる」

天野は胃薬のタブレットを水無しで飲み込み、再びアパートを睨んだ。

「あの異常気象と磁場異常の中心は、間違いなくここよ。書類上は完璧でも、必ずどこかにボロが出るはず。私は諦めないわよ」


* * *

その日の夕方。

張り込みを続けていた天野の前に、ついに『異常な光景』が展開された。

103号室の久世颯太(元風属性魔導暗殺者)が、ロードバイクで帰還した時のことだ。

アパートの前で、近所の小学生が蹴ったサッカーボールが、久世の顔面めがけて猛スピードで飛んできたのだ。

「あっ、危ない!」

天野が思わず叫んだ、その瞬間。

久世はロードバイクに跨ったまま、微塵も慌てることなく、首をわずか数ミリだけ傾けた。

シュッ!

ボールは久世の鼻先をかすめ、その後ろの壁に当たって跳ね返った。

それだけではない。久世は跳ね返ってきたボールを、ペダルから足を離すことなく、かかとの絶妙なタッチでリフティングし、回転を完全に殺して小学生の足元へと正確に蹴り返したのである。

「……ッ!」

天野は息を呑んだ。

(今の動き……人間の反応速度じゃない! ボールの軌道を完全に読み切り、さらにあの体勢で回転を殺すなんて……オリンピック選手でも不可能よ!)

さらに、その数分後。

201号室の園田乃愛(元ケルベロス)が、散歩中の大型犬(グレートデン)とすれ違った。その犬が急に吠えかかろうとした瞬間、乃愛が犬に向かって「ジロッ」と一瞥をくれた。

キャンッ!

大型犬は悲鳴を上げ、飼い主の足元に平伏し、ブルブルと震え出したのだ。

(……犬が一瞬で怯えた? あの小柄な女の子の、ただの視線だけで!?)


天野の心臓が、早鐘のように鳴り始めた。

間違いない。

このアパートの住人たちは、ただの真面目な労働者ではない。書類上の身分は完璧に偽装されているが、その中身は、人間の限界を遥かに超えた『何か』だ。

「特異事象……。あの磁場異常も、彼らが関係しているとしか考えられない」

天野は確信した。

このまま放置すれば、杉並区の平和を揺るがす取り返しのつかない事態になるかもしれない。

彼女は隠れていた電柱の陰から歩み出た。

(応援を呼ぶべきか? いや、確たる証拠がない以上、上司は動かない。まずは私一人で、大家の真木さんに直接接触して、揺さぶりをかけるしかない!)


天野は意を決し、警察官としての威厳を振り絞りながら、コーポ日ノ出の大家部屋のインターホンを、今度は力強く押し込んだ。


ピンポーン。


ガチャリとドアが開いた。

「はいはい、どちら様……って、またお巡りさんですか。巡回連絡は先日終わったはずですが」

ジャージ姿の真木が、怪訝そうな顔で顔を出した。

その顔は、先ほどの「水道代を計算するケチな大家」の顔とは違い、一瞬にして警戒モードの、鋭い眼光を帯びた『魔王の顔』に切り替わっていた。

「ええ。巡回連絡ではありません。今日は、個人的に……いえ、警察官として、真木さんに直接お聞きしたいことがあって参りました」

天野は一歩も引かず、真木の目を見据えた。

「真木さん。そして、このアパートの住人の皆さん。あなたたちは……一体、何者なんですか?」

直球の問いかけ。

真木の眉が、ピクリと動いた。

「何者、とは奇妙な質問ですね。私はこのアパートの大家であり、彼らは家賃を払って住んでいる善良な店子です。それ以上でもそれ以下でもありませんが」

「とぼけないでください。私は見ました。久世さんの人間離れした反射神経も、園田さんが犬を怯えさせた異常な気迫も。……そして、ここ数日、このアパートを中心に発生している微弱な磁場異常(エネルギーの歪み)のことも」

天野の言葉に、真木の背後に控えていた黒木や久世が、わずかに殺気を漏らしたのがわかった。

(気づかれている……! この婦警、ただの交番勤務ではないのか!)

真木の脳内で、最悪のシミュレーションが駆け巡る。

ここで力ずくで彼女を気絶させるか? いや、それは警察組織全体を敵に回す行為であり、アパートの破滅(強制退去)を意味する。

ならば、どうする。


真木はスゥッと息を吸い込み、限界まで口角を上げて、完璧な『営業スマイル』を作った。

「……お巡りさん。磁場異常だの、人間離れした反射神経だの、少しお疲れなのではありませんか? 最近は暑いですからね、映画やアニメの見過ぎで幻覚でも見たのでしょう」

「幻覚ではありません! 私の目は誤魔化せませんよ。もし正直に話していただけないなら、警察の特異事象対策室に正式に報告を上げ、このアパートを二十四時間体制で監視することになります!」

天野が手帳を取り出し、毅然とした態度で宣告する。

(……チッ。厄介な正義感だ。このままでは、ベルガモットたち旧貴族が襲来した時、こいつが巻き込まれて死ぬか、我々の正体が完全に露呈してしまう)


真木がどうやってこの場を切り抜けるか、頭をフル回転させていたその時。

大家部屋の奥から、102号室の佐伯凛花(元首席補佐官)が、ノートパソコンを抱えて静かに進み出てきた。

「大家(マスター)。ここは、私が対応します」

「凛花……? どうするつもりだ」

凛花は真木を制し、天野の正面に立つと、眼鏡をスッと押し上げた。

「天野巡査。あなたが我々に対して疑念を抱くのは、ある意味で当然かもしれません。我々の身体能力は、確かに一般の平均値を大きく上回っていますから」

「……認めるんですね。あなたたちは、テロリストか何かの特殊部隊だと」

天野が警戒を強める。

だが、凛花の口から出た言葉は、天野の予想を斜め四十五度に超えるものであった。


「テロリスト? 冗談を仰らないでください。我々は『過酷な労働環境(ブラック・エッセンシャルワーク)』に適応した結果、人体のリミッターが外れただけの、悲しき現代の労働者です」

「……は?」

天野がポカンとする。

「久世の反射神経。あれは、フードデリバリーの配達において『一秒の遅れが評価(チップ)の低下に直結する』という極限のプレッシャーの中、都内の複雑な路地と車の動きを完全に予測する訓練を積んだ結果です。いわば、資本主義が産み出した『配達の鬼』です」

「はっ! その通り! お客様のラーメンをこぼさないためなら、飛んでくるボールなどハエが止まるように遅く見えます!」

久世が後ろで胸を張る。

「園田の気迫。あれは、ペットサロンにおいて『狂犬のようなクレーマー(飼い主)』や『言うことを聞かない大型犬』のクレーム処理を連日こなす中で身につけた、究極の『接客オーラ(威圧)』です。彼女の目を見れば、どんな狂犬も飼い主も大人しくなります」

「わふっ! クレーマーのおばさんの方が、大型犬より怖いですぅ!」

乃愛が同意して頷く。

「そして、黒木の怪力。あれは炎天下の解体現場で、熱中症と戦いながら重機代わりの労働を強いられた結果、筋肉が鋼のように硬化しただけです。すべては、この厳しい日本社会で家賃を払い、生き抜くために進化した『労働者の哀しき生存本能(サバイバルスキル)』なのです!」


凛花の、微塵の淀みもない、完璧な論理のすり替え(屁理屈)。

しかし、その背景にある「過酷な労働環境」という言葉の生々しさと、実際に彼らが日々汗水垂らして働いている姿を見ている天野にとって、その言葉は妙な説得力を持って響いてしまった。

「労働環境に……適応した……?」

「そうです。天野巡査。我々を異常だと言う前に、この国の最低賃金と労働の過酷さを疑うべきではありませんか? 我々は、家賃五万二千円を稼ぐために、文字通り血みどろの努力をしている善良な納税者なのです。それをテロリスト呼ばわりするとは、国家権力の横暴です!」

凛花がバインダーをバシッと叩き、天野を逆に問い詰める。

「あ、いや……それは……」

天野はすっかりペースを飲まれ、しどろもどろになってしまった。

(確かに、彼らはすごく真面目に働いてるし……配達員や解体工の仕事が過酷なのは事実だし……極限まで自分を追い詰めれば、ああいう人間離れした動きになることも、あるの、かな……?)

警察官としての正義感と、一人の労働者としての共感が、彼女の中で激しく葛藤している。


「……お巡りさん」

真木が、すかさず凛花の援護射撃に入った。

「我々は、この杉並区を愛しています。町内会費も払い、ゴミの分別も完璧にこなしています。もし我々がこの街に危害を加えるようなテロリストなら、わざわざ確定申告をして納税などしませんよ」

真木は胸ポケットから、先日の『納税証明書の控え』を取り出して天野に見せた。

「これが、我々がこの国に尽くしている証(あかし)です。どうか、これ以上我々の平和な日常(アパート経営)を乱さないでいただきたい」

「…………」

天野は、その納税証明書と、真木たちの真剣な(家賃を守るための)眼差しを見て、ついに深くため息を吐いた。

「……わかりました。私の考えすぎだったのかもしれません。確かに、皆さんがこの街のルールを守り、一生懸命働いているのは事実です。疑ってしまって、申し訳ありませんでした」

天野が頭を下げると、真木たちは内心で「勝った!」と特大のガッツポーズを決めた。


「ですが」

天野が顔を上げ、再び鋭い視線を真木に向けた。

「あの空の異常気象(磁場異常)だけは、労働環境では説明がつきません。私は警察官として、この街の平和を守る義務があります。もし何か、このアパートの周辺で『良くないこと』が起きる予兆があるのなら……一人で抱え込まずに、私に相談してください」

天野の言葉は、脅しではなく、純粋な『正義感』と『心配』から出たものであった。

「大家さん。あなたは地域の模範です。だからこそ、危険なことに巻き込まれてほしくないんです」

「……お巡りさん」

真木は、その真っ直ぐな瞳を見て、わずかに言葉に詰まった。

警察など、ただの権力の犬だと思っていた。だが、目の前の若い女性警察官は、本気でこの街と、自分たち(という偽装市民)の安全を心配してくれているのだ。


「……承知しました。もし手に負えない事態になれば、その時は必ず、警察(あなた)を頼りましょう」

真木が静かに答えると、天野はホッと微笑んで、「失礼します」と自転車を押して帰っていった。


彼女の背中が見えなくなってから、凛花がふうっと息を吐いた。

「なんとかごまかせましたね。しかし、これ以上は限界です。天空のゲートは、すでに臨界点に達しようとしています」

「ああ。わかっている」

真木は、空の赤紫色の亀裂を見上げた。

「警察(あいつ)を巻き込むわけにはいかん。我々の手で、我々の城を守り抜く。今夜、緊急全体ミーティングを開くぞ。いよいよ、迎撃の時だ」


天野の疑惑を紙一重でかわしたコーポ日ノ出の住人たち。

しかし、彼らの平穏な日常の終わりの足音は、もうすぐそこまで迫っていた。

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