第46話:空に浮かぶ歪み
東京・杉並区。季節は秋の気配を含みながらも、日中はまだジリジリとした残暑がアスファルトを照らしていた。
この日の午前中、木造アパート『コーポ日ノ出』の大家・真木征司(元魔王ヴァルザード)は、秋晴れの空を見上げてご機嫌な笑みを浮かべていた。
「見事な秋晴れだ。湿度も低く、絶好の布団干し日和ではないか」
真木はジャージ姿で二階の共用通路と自分の部屋のベランダを行き来し、大量の布団を干していた。彼自身の布団だけでなく、夜勤明けで爆睡している202号室の神埼麗華(元吸血貴族)の布団まで、勝手に引っ張り出して天日干しにしている。
「太陽の光には殺菌効果がある。吸血鬼だからといって万年床にしていれば、カビが生えてダニが繁殖し、退去時のハウスクリーニング代が高くつくだけだからな。大家としての優しさ(リスク管理)だ」
バンバン!と布団叩きでホコリを落としながら、真木は満室となったアパートの平和な日常を噛み締めていた。
しかし、その平和な午前中の空気は、昼過ぎになって突如として一変した。
一階の大家部屋の六畳間。
ちゃぶ台の上でノートパソコンを開き、経理の仕事をしていた102号室の佐伯凛花(元首席補佐官)が、ふと手を止めて窓の外を見た。
「……大家。外の様子が、少しおかしいですね」
「む? どうした凛花。急に暗くなったな」
真木が窓から空を見上げると、先ほどまで抜けるような青空だった杉並区の真上にだけ、どす黒い積乱雲が異常なスピードで湧き上がっていた。
ゴロゴロ……と、遠くで腹の底に響くような雷鳴が轟く。
真木は急いでテレビの電源を入れ、ニュースチャンネルに切り替えた。
画面には、気象予報士が緊迫した顔で天気図を指し示している。
『――東京地方で、大気の状態が非常に不安定になっています。杉並区を中心としたごく狭い範囲で、局地的なゲリラ豪雨と激しい落雷の恐れがあります。今すぐ安全な建物の中に避難してください!』
「ゲリラ豪雨だと!? 馬鹿な、さっきまで降水確率はゼロパーセントだったはずだぞ!」
真木がテレビに向かって文句を言った、その瞬間。
――ザアァァァァァァッ!!
まるでバケツをひっくり返したような、いや、滝の真下にいるかのような猛烈な雨が、アパートのトタン屋根を激しく打ち付け始めた。
ピシャァァンッ!!
さらに、近所の電柱の近くに凄まじい落雷があり、空気がビリビリと震える。
「ひぃぃぃっ!?」
真木は一瞬、魔族の本能で縮み上がったが、すぐにそれよりも遥かに恐ろしい現実を思い出し、顔面を蒼白にさせた。
「ふ、布団……! 余の布団が! 麗華の布団が! 外に干しっぱなしだァァァッ!!」
真木は絶叫し、網戸を力任せに開け放って外に飛び出した。
「あああああ! せっかく干した布団が濡れる! 綿が水を吸ったら重くて持ち上がらんし、カビが生えるだろうがァッ!」
真木の叫び声を聞きつけ、アパートの各部屋から一斉に住人たちが飛び出してきた。
「真木様! 一大事にございますな!」
101号室の黒木鉄心(元重装歩兵隊長)が、大田組の作業着のまま飛び出してきた。今日は現場が早く終わって帰宅していたのだ。
「黒木! お前の怪力で二階の布団をすべて取り込め! 一秒でも早く!」
「御意ッ! 我が筋肉、布団防衛のために全力を尽くします!」
黒木は地響きを立てながら鉄骨階段を駆け上がり、ずぶ濡れになりながらも両腕で三枚の布団を軽々と抱え込んだ。
「きゃあああ! なによこの雨! しかも太陽が出てるのに雷ってどういうこと!?」
202号室から、寝巻き姿の麗華が悲鳴を上げて飛び出してくる。
「麗華、貴様の布団だ! 自分で部屋に入れろ!」
「重い! 水を吸ってて重いわよ! っていうか、なんで勝手に吸血鬼の布団を干してるのよ、殺す気!?」
「ダニを繁殖させるよりマシだ! 文句を言う前に動け!」
さらに、非番で部屋にいた203号室の朝比奈駆(元勇者パーティー戦士)も、誘導棒の代わりに物干し竿を握りしめて加勢する。
「くそっ、この局地的な嵐、明らかに自然現象ではない! だが、まずは布団の救出が先か!」
朝比奈は戦場で見せるような俊敏な動きで、ベランダの端に干されていたシーツや枕カバーを瞬時に回収し、室内に放り投げる。
「わふぅ! 洗濯物、お手伝いしますぅ!」
201号室の園田乃愛(元ケルベロス)も、尻尾をブンブン振りながら、落とされたハンガーや洗濯ばさみを素早く拾い集めた。
103号室の久世颯太(元風属性魔導暗殺者)は、ロードバイクのメンテナンス中だったが、即座に風の気流を読み、雨粒が当たらない絶妙な角度で布団を引き抜いていく。
「ターゲット(布団)、確保! これ以上の被弾(濡れ)は防ぎました!」
わずか一分足らずの間に、コーポ日ノ出の全戦力を挙げての『布団取り込み猛ダッシュ作戦』は完了した。
六畳間に運び込まれた布団たちは、表面こそ濡れていたものの、芯まで水浸しになるという最悪の事態だけは免れていた。
「……はぁ、はぁ、はぁ……。危ないところだった。コインランドリーの大型乾燥機に持っていけば、一回五百円は飛ぶところだぞ……」
真木はズブ濡れのジャージを絞りながら、床にへたり込んだ。
他の住人たちも、狭い六畳間で濡れた髪を拭きながら肩で息をしている。
「しかし、大家さん」
バスタオルで顔を拭きながら、朝比奈が鋭い目つきで窓の外を睨んだ。
「あの雨と雷。ただのゲリラ豪雨じゃない。俺の戦士としての勘が告げている。あの中に、微弱だが確かな『魔力』の気配が混じっていた」
「……」
真木は黙って立ち上がり、再び窓の隙間から外を見た。
五分ほど激しく降った雨は、すでに嘘のように上がり、黒い雲の隙間から再び秋の太陽が顔を出そうとしている。
だが、その空の一角。はるか上空の空間が、ガラスにヒビが入るように赤紫色に歪んでいるのは、誰の目にも明らかだった。
「大家」
パソコンの前に戻った凛花が、画面のデータを凝視しながら口を開いた。
「朝比奈殿の言う通りです。気象庁のレーダー画像と、私が自作した『大気中エーテル濃度測定エクセルマクロ』の数値を照らし合わせました。先ほどの落雷と豪雨は、自然の気象現象ではありません。強引な空間への干渉によって生じた、次元の歪みの余波です」
「やはりな……。先日から感じていた不穏な気配の正体は、これだったか」
真木は腕を組み、忌々しげに舌打ちをした。
「魔力が極端に希薄なこの東京で、無理やりに大規模な転移ゲートを開こうとしている馬鹿者がいる。空間の強度がそれに耐えきれず、局所的な気圧変化や放電現象(落雷)となって現れているのだ」
「ゲートを開こうとしている、だと……? 魔王、一体誰がこちらへ来ようとしているのだ! 貴様の残党か、それとも俺たちを追ってきた討伐軍か!」
朝比奈が身構える。
真木は目を細め、魔界の歴史と現在の状況を冷静に分析した。
「……討伐軍ではないな。勇者パーティーがすでに余を打ち破り、魔界の主要拠点を制圧したのなら、わざわざ魔力のない別次元にまで追撃軍を派遣するメリットがない。そんな無駄なコストをかけるはずがないのだ」
「では、魔王軍の残党ですか?」
黒木が拳を握りしめる。
「ならば、我らの同胞ではないですか! 真木様をお助けし、この人間界を足場にして再び魔王軍を再興するために……!」
「アホか筋肉ダルマ」
真木が冷酷な声で黒木を一蹴した。
「この資本主義の現代日本で魔王軍を再興してどうする。全員の住民票を取得し、税金を払い、ハローワークで職を探させる気か? そんな面倒なこと、大家たる余が許すわけがなかろう」
「えっ、あ、そ、そうですね……」
黒木はシュンとして引き下がった。
「私の推測ですが」
凛花が眼鏡を光らせて言った。
「この魔力の波長、極めて粗暴で、プライドだけが高い特権意識に満ちた匂いがします。……おそらく、魔界において我々『実務派』と常に対立していた、急進派の旧貴族たちではないでしょうか」
「……ベルガモット卿、か」
真木が、一つの名前を口にした。
「ベルガモット……。あの、軍の補給線も無視して力任せの突撃ばかりを主張し、最後は勇者との決戦を前に保身のために逃亡した、あの腐れ貴族どもですか!」
黒木が怒りに顔を歪める。
「いかにも。奴らは自分たちの権力を取り戻すため、余という『魔王の象徴』を必要としているのだろう。余を奪還し、傀儡として担ぎ上げて、この人間界を新たな侵略のターゲットにしようと目論んでいるに違いない」
真木の言葉に、六畳間に重い沈黙が落ちた。
もし、ベルガモット卿率いる旧貴族の軍勢がこの杉並区に転移してくればどうなるか。
彼らは現代日本の法律も、資本主義の構造も知らない。ただ力任せに街を破壊し、食料を奪い、人間を支配しようとするだろう。
そうなれば、自衛隊や警察が出動し、東京は火の海となる。
「……冗談じゃないわよ」
麗華が、青ざめた顔で呟いた。
「街が破壊されたら、私の通ってるコンビニも潰れちゃうじゃない。そしたら給料がもらえなくて、ソシャゲの課金もできなくなるわよ!」
「わふぅ……ワンワンテラスのワンちゃんたちも、怖がって逃げちゃいますぅ……」
乃愛が耳をぺたんと伏せる。
「スマイルイーツの配達エリアが崩壊すれば、私のゴールドランクのアカウントも紙屑になります。絶対に阻止せねば」
久世が暗殺者の目を鋭く光らせた。
「……俺の交通誘導の現場も、道路が破壊されたらお払い箱だ。せっかく貯金が貯まり始めてきたところだというのに……!」
朝比奈も、歯ぎしりをして誘導棒(代わりの物干し竿)を握りしめた。
「その通りだ」
真木は、全員の顔をゆっくりと見回した。
彼らが口にした理由は、世界平和といった大層なものではない。コンビニバイト、ペットサロン、配達員、交通誘導。ただの泥臭い労働と、その先にあるささやかな生活の維持である。
だが、それこそが、彼らがこの現代日本で血と汗を流して築き上げてきた『真の居場所』なのだ。
「奴らは同胞かもしれん。魔族の誇りを掲げてやってくるかもしれん。だが……」
真木はジャージの襟を正し、大家としての、そしてかつての魔王としての絶対的な威厳を放った。
「せっかく『満室御礼』となった我が城を、そして余の安定した家賃収入を脅かす者は、いかなる理由があろうとも、同胞だろうと許さん。この杉並区で暴れたければ、まず敷金と礼金を払い、保証人を立ててからにしろと教えてやるのだ!」
「「「おおおおおおおっ!!」」」
コーポ日ノ出の住人たちが、一斉に気勢を上げた。
侵略者に対する迎撃の動機が「家賃収入と労働環境の維持」という、極めて世俗的で資本主義的なものであったが、その団結力はかつての魔王軍の全盛期をも凌ぐほどに強固なものであった。
「凛花! 次元の歪みの拡大速度から、ゲートが完全に開く日時を予測しろ! 黒木、久世! ホームセンターで必要な迎撃資材(非殺傷用)を調達してこい! 領収書は必ず切れよ!」
「「「ははっ!!」」」
真木の矢継ぎ早の指示に、店子たちが一斉に動き出す。
東京上空に浮かぶ、不気味な空の歪み。
しかし、その下に住む築三十八年の木造アパートの住人たちは、誰一人として怯えてはいなかった。
ただ自分たちの「平穏な日常」と「月三十万四千円の家賃収入」を守り抜くため。
元魔族と元勇者による、最強で最低な防衛戦線が、ここに静かに結成されたのである。
空模様は依然として不安定だが、コーポ日ノ出の中だけは、熱い闘志と生活感に満ち溢れていた。




