第45話:満室御礼の達成
東京・杉並区。季節は巡り、木造アパート『コーポ日ノ出』は、真木征司(元魔王ヴァルザード)が大家として就任してから二度目の秋を迎えようとしていた。
この日の朝、真木はいつものジャージ姿ではなく、百円ショップで買った赤いネクタイを締め、どこか誇らしげな表情でアパートの入り口にある小さな門柱の前に立っていた。
彼の手には、ホームセンターの木材と墨汁を使って自作した、一枚の真新しい木製看板が握られている。
「……フフッ。ついに、この日が来たか」
真木は門柱に備え付けられた古い「入居者募集中」のプレートを外し、代わりにその手作りの看板を、電動ドライバーでガッチリと固定した。
そこには、達筆な墨文字で力強く、こう書かれていた。
『コーポ日ノ出 満室御礼』
その四文字が朝日に照らされ、燦然と輝いている。
大家にとって、これ以上の勲章はない。
全六室の賃貸物件において、空室がゼロである状態。それはすなわち、毎月計算通りの最大限の家賃収入が、一円の狂いもなく口座に振り込まれ続けることを意味する。不動産投資における「完全勝利」の証であった。
「おおおおっ! 真木様、見事な筆さばきにございます! これぞ我らが難攻不落の城を証明する大看板!」
出勤前の大田組作業着姿の101号室・黒木鉄心(元重装歩兵隊長)が、拍手喝采しながら褒めちぎる。
「ふん。まあ、空き部屋があるよりは見栄えがいいわね。これで少しは、このボロアパートの箔もつくってもんでしょ」
深夜のコンビニバイトから帰還した202号室・神埼麗華(元吸血貴族)が、日傘の下でアクビをしながら言う。
「わふーっ! 満室おめでとうございますぅ! 大家さん、今日はお祝いですね!」
ペットサロンへ向かう201号室・園田乃愛(元ケルベロス)が、尻尾をパタパタと振ってクラッカーを鳴らした。パーン!という軽い音とともに、色とりどりの紙テープが真木の頭に降り注ぐ。
「……チッ。俺のような勇者の戦士が、魔王のアパートの『満室』を祝う羽目になるとはな。世も末だ」
東洋警備保障の制服姿の203号室・朝比奈駆(元勇者パーティー戦士)が、腕を組んで皮肉を言うが、その顔には微かな笑みが浮かんでいた。
さらに、103号室の久世颯太(元風属性魔導暗殺者)が、ロードバイクにまたがりながら「この満室の報せ、私が風の如き速さで町内中に広めてまいりましょうか?」とズレた提案をして、真木に「迷惑だからやめろ」と一蹴されている。
「皆様、少々よろしいでしょうか」
そこへ、102号室の佐伯凛花(元首席補佐官)が、ビジネススーツ姿でバインダーを開きながら進み出てきた。
「大家。現在、我がコーポ日ノ出の稼働率は完璧な一〇〇パーセントを達成しました。これにより、各店子からの家賃収入(101号室五万円、102号室五万二千円、103号室五万二千円、201号室五万円、202号室五万円、203号室五万円)の合計は、月額三十万四千円となります」
「うおおおおっ……! さんじゅうまん、よんせんえん……ッ!」
真木が、その神々しい数字の響きに身を震わせる。
「ここから、毎月の共用部の電気代・水道代、固定資産税の月割額、そして修繕積立金を差し引いても、大幅な黒字が確定しています。もはや、このアパートの経営基盤は岩盤のごとく盤石です」
凛花は眼鏡をスッと押し上げ、冷徹な中にも確かな達成感を滲ませて微笑んだ。
「魔王様。我々はついに、この資本主義の底辺から這い上がり、経済的な独立を完全に成し遂げたのです」
「……ああ。そうだな、凛花」
真木は感無量といった面持ちで、アパートの赤茶けた鉄骨階段と、その先に続く二階建ての木造の建物をぐるりと見渡した。
思えば、遠い道のりだった。
勇者に敗れ、魔界を追われ、一文無しでこの東京・杉並区の路地裏に転移してきたあの日。
満員の中央線に押し潰され、宝田不動産の志乃に頭を下げて戸籍を偽造してもらい、全財産をはたいてこのボロアパートを手に入れた。
そこへ次々と転がり込んできた、社会のルールを全く知らない元魔族の幹部たち。
ゴミの分別で近所の主婦と揉め、深夜の騒音トラブルに冷や汗を流し、確定申告の領収書仕分けで発狂しそうになった。給湯器が破裂して真冬の銭湯へ避難したこともあった。
さらには、宿敵であるはずの勇者の戦士(朝比奈)までが転がり込んできて、一時はアパートが戦場と化すかと思ったが、気づけば彼も立派な交通誘導員として自立し、家賃を払う良き店子の一人となっている。
解体工の黒木。派遣経理の凛花。デリバリー配達員の久世。ペットサロンの乃愛。コンビニ夜勤の麗華。そして、警備員の朝比奈。
彼ら六人のエッセンシャルワーカーとしての泥臭い労働の血と汗が、大家である真木の「不労所得」という名の城を、今、完璧な形で完成させたのだ。
「……皆の者、聞いてくれ」
真木は、門柱の前に立つ店子たちに向かって、静かに、しかし力強い声で語りかけた。
「余はかつて、力と恐怖で世界を統治しようとした。だが、それは間違いだったのだと、この国に来て思い知らされた。真の支配とは、武力で奪うことではない。互いにルールを守り、労働の対価を正当に支払い、同じ屋根の下で共に生活の基盤を築き上げること。それこそが、いかなる聖剣にも魔法にも砕かれない、最強の帝国なのだ」
真木の言葉に、全員が真剣な顔で聞き入っている。
「今日、我がコーポ日ノ出は『満室御礼』という第一の悲願を達成した。だが、これはゴールではない。アパートの建物は老朽化し、いずれ外壁塗装や屋根の改修が必要になるだろう。税制の改正や、さらなる物価高が我々を襲うかもしれない。だが……」
真木はニヤリと不敵に笑い、自分の胸をドンと叩いた。
「余が大家である限り、お前たちが路頭に迷うことは絶対にない。お前たちはただ、己の仕事に誇りを持ち、真面目に働き、そして毎月必ず家賃を納め続けろ。この平和な日常と、お前たちの居場所は、余が必ず守り抜いてみせる!」
「「「うおおおおおおおおっ!!」」」
アパートの前に、店子たちの歓声と拍手が沸き起こった。
魔界の覇王としての演説よりも、遥かに説得力と現実味に満ちた、大家としての最高の決意表明であった。
「真木様、一生ついていきますぞ! 日当が上がるよう、さらなる粉骨砕身の覚悟で解体現場に臨みます!」
「私も、エリア内最速の配達記録を更新し、より多くのインセンティブ(チップ)を稼ぎ出してみせます!」
「私は時給上がるように店長に交渉してみるわ。……まあ、夜勤は面倒だけどね」
「私、ワンちゃんのシャンプーの資格取れるように頑張りますぅ!」
「ふん。俺も、次の現場で一級交通誘導警備業務検定の資格取得を目指すとするか」
それぞれの決意を胸に、彼らは「行ってきます!」「おやすみ」と声を掛け合いながら、足早に自分の戦場(職場やベッド)へと向かっていった。
真木は、誰もいなくなった門柱の前に一人残り、『満室御礼』の看板のホコリをジャージの袖で優しく拭い取った。
「……さて。余も大家としての朝の巡回(掃き掃除)を始めるとするか。今日は神保殿のところで、少しだけ豪華なランチでも食おうかな」
満ち足りた思いを胸に、真木が竹箒を手に取った、その時であった。
ピシャッ……。
突如、真木の頬に、冷たい水滴が一つ、ポツリと落ちた。
「……む? 雨か? 天気予報では今日は一日中晴れのはずだったが」
真木が不思議に思って上空を見上げた瞬間。
彼の全身の毛穴が、ブワッと逆立った。
「……な、なんだ、あれは……?」
真木は竹箒を取り落とし、呆然とその光景を凝視した。
朝の澄み切った青空。その遥か上空、雲一つないはずの成層圏のあたりに。
まるで空間のキャンバスが刃物で切り裂かれたかのような、巨大な『赤紫色の亀裂』が走っていたのだ。
バリバリバリッ……!
耳には聞こえないはずの、空間がひび割れるような嫌な振動が、大気中のエーテルを伝わって真木の鼓膜を直接揺さぶる。
現代日本には存在しないはずの、異常なまでの高密度の魔力の奔流。
それは、真木がかつて魔界からこの東京へ脱出してきた時に使用した『次元転移ゲート』の波長と、完全に一致していた。
「馬鹿な……。次元の壁は、余がこちらへ渡った時に完全に閉じたはず。誰かが、魔界からこちらへ向かって、強制的にゲートをこじ開けようとしているというのか……?」
真木の脳裏に、最悪の可能性がよぎった。
魔王である自分が姿を消した後、魔界がどうなったのかは知らない。勇者パーティーが完全に支配したのか、それとも魔王軍の残党が抵抗を続けているのか。
だが、もしそのどちらかが、真木(魔王)を追ってこの現代日本へと大規模な転移を行おうとしているのだとしたら。
「……くそっ! 冗談ではないぞ!」
真木の顔が、怒りと恐怖で歪んだ。
「やっと……やっと我がコーポ日ノ出が満室になり、安定した家賃収入と平穏な不労所得生活が約束されたというのに! 今さら魔界のゴタゴタをこの杉並区に持ち込まれてたまるか!」
もし、魔族の軍勢や異世界の魔法使いたちが東京に降り立てば、街は火の海となり、大パニックに陥る。
警察や自衛隊が出動し、特異事象として厳しい調査の手が入れば、偽造戸籍で暮らしている真木たちの正体は一発で露見する。
そうなれば、アパート経営は破綻。敷金も礼金も、二百五十万円の修繕積立金も、すべてが水の泡となって消え去ってしまうのだ。
「余の城の資産価値を脅かす気か……ッ!」
真木はギリッと拳を握りしめ、赤紫色に歪む天空を、かつての魔王としての凄惨な殺気で睨みつけた。
その日の夜。
大家部屋の六畳間には、真木の緊急招集によって再び店子全員が顔を揃えていた。
ただし、今朝の『満室御礼』を祝うような明るい空気は微塵もない。
「……皆さん、お気づきですね」
凛花が、極めて深刻な顔つきで口火を切った。
「はい。昼頃から、杉並区周辺の磁場が異常なほど乱れています。これは間違いなく、大規模な次元転移魔法の予兆です」
久世が眉をひそめて同調する。
「誰が来るにせよ、我々にとって歓迎すべき客ではないだろうな。魔王を追撃にきた討伐軍か、あるいは……」
朝比奈が腕を組み、忌まわしき空の亀裂を思い出すように目を細める。
「誰が来ようと同じことだ」
真木が、ちゃぶ台をバンッ!と叩いて立ち上がった。
「この街は、このアパートは、余の所有物だ! 固定資産税を払い、町内会費を納め、住民票を置いている我々こそが、この杉並区の正当な居住者なのだ! それを、土足で踏み荒らそうとする不法侵入者は、いかなる軍勢であろうとも絶対に許さん!」
真木の言葉に、全員の目に強い決意の光が宿った。




