第44話:夜空の花火と故郷の記憶
杉並区の駅前商店街を熱狂の渦に巻き込んだ『納涼・夏祭り』の屋台営業を終え、コーポ日ノ出の面々がアパートに帰還した頃には、時刻はすでに午後八時半を回っていた。
プロのテキ屋軍団との熾烈な売上バトルを制し、用意した数百人前の食材を完全に売り切った彼らの体には、極度の疲労と、それ以上の圧倒的な達成感が満ちていた。
一階の共用ロビーに、屋台の機材や鉄板を積んだリヤカーを運び入れると、全員がその場にドッと座り込んだ。
「……終わった。完全に、終わった……」
元・魔王ヴァルザードこと大家の真木征司は、ジャージ姿のまま大の字になって畳の上に仰向けに倒れ込んだ。
「はぁ、はぁ……。我が剛腕も、さすがに限界に近い。右腕の筋肉が、鉄板の熱と重みで悲鳴を上げておりますぞ……」
解体現場で鍛え抜かれた黒木鉄心(元重装歩兵隊長)でさえ、肩で激しく息をしている。
「足が……ペダルを漕ぐ足の感覚がありません……。明日の配達任務は休業にさせてください……」
ロードバイクで出前を爆速でさばき続けた久世颯太(元風属性魔導暗殺者)も、床に這いつくばっている。
「もう無理。足痛い。浴衣の帯が苦しい。早くシャワー浴びてエアコンの効いた部屋で寝たいわ……」
神埼麗華(元吸血貴族)が、崩れた浴衣のまま文句を垂れ、その横で園田乃愛(元ケルベロス)が「お姉ちゃん、お疲れ様ですぅ」と尻尾を下ろしてうちわを扇いでいる。
そして、元勇者パーティーの戦士である朝比奈駆は、誘導棒を握りしめたまま、壁に寄りかかって無言で天井を見つめていた。交通誘導と行列整理で精神を極限まですり減らした彼は、もはや一歩も動けない状態であった。
「皆様、本当にお疲れ様でした。……大家」
ただ一人、冷徹な表情を崩さずにタブレット端末を操作していた佐伯凛花(元首席補佐官)が、真木を見下ろして言った。
「本日の最終売上データの集計が完了しました。各種経費を差し引いた純利益は、事前の予測を遥かに上回る数値を記録しています。これならば、秋に予定しているアパートの屋根の防水工事費用は、全額キャッシュで賄うことが可能です」
「うおおおおおっ……!」
真木が、最後の力を振り絞って上半身を起こした。
「勝った! 我が軍の、いや、我が不労所得生活への道のりの、完全なる勝利だ! 皆の者、大儀であった! 今日の貴様らの働きは、家賃の滞納を三日ほど猶予してやってもいいくらいに評価しているぞ!」
「そこは免除してくれよ、魔王……」
朝比奈が恨めしそうに呟く。
「さて、真木様。本日の業務はすべて終了しましたが、いかがなさいますか。解散して各自休息に入りますか?」
凛花の問いに、真木は壁の時計を見上げた。
「いや、待て。神保殿から聞いていた話では、今日の午後九時から、隣町の河川敷で区の大花火大会が開催されるはずだ」
「花火大会、ですか?」
「うむ。このコーポ日ノ出の陸屋根(屋上)は、周辺に高い建物がないため、その花火を見るには絶好の特等席らしい。せっかくの祭りの締めくくりだ。冷えた酒と、屋台の余りの焼きそばを持って、屋上に上がるぞ!」
大家の号令に、疲労困憊だった住人たちの目に、ほんの少しだけ期待の光が灯った。
* * *
コーポ日ノ出の二階から、さらに外付けの狭い鉄骨階段を登った先にある、平らな屋上。
そこには、普段は大家が洗濯物を干すための物干し台が並んでいるだけの無骨なスペースが広がっていた。
真木たちは、ブルーシートを敷き、クーラーボックスから缶ビール(発泡酒)とジュースを取り出した。
夏の夜特有の、生ぬるくも心地よい風が、汗ばんだ体を優しく撫でていく。
「さあ、まずは乾杯だ! 我がアパートの繁栄と、今夜の戦果に……乾杯!」
「「「乾杯!!」」」
カチンッ、と缶がぶつかる音が響き、全員が一気に喉を潤す。
「ぷはぁぁぁぁっ! うまい! 疲れた体にアルコールが染み渡りますな!」
黒木が豪快に発泡酒を飲み干す。
「ふん。まあ、労働の後の冷たい飲み物っていうのも、悪くないわね」
麗華も、コーラを飲みながら少しだけ機嫌を直していた。
皆が車座になって座り、屋台の賄いとして持って上がった冷めた焼きそばを突っついていると。
――ドンッ!!
突如、腹の底から響き渡るような、重低音の破裂音が夜空を震わせた。
「なっ!?」
その瞬間、黒木と朝比奈の二人が、バネで弾かれたように立ち上がった。
「敵襲か!? 砲撃音だ! 真木様、お下がりください!」
黒木が、ないはずの巨大な盾を構える姿勢をとり、真木を庇うように前に出る。
「くそっ、どこの軍勢だ! 結界を張れ! 俺が前衛に出る!」
朝比奈も、割り箸を剣のように構え、殺気をみなぎらせて周囲を警戒した。
異世界において、このような巨大な爆発音が意味するものは、攻城兵器による砲撃か、あるいは大規模な破壊魔法の直撃以外にあり得ない。彼らの戦士としての本能が、平和な現代日本においても過剰に反応してしまったのである。
パシッ、パシッ!
凛花が、持っていたバインダーで二人の後頭部を軽く叩いた。
「落ち着きなさい、筋肉ダルマと脳筋勇者。あれは敵の砲撃ではありません。ただの『花火』です」
「は、はなび……?」
「日本の夏の風物詩です。火薬を上空に打ち上げ、意図的に爆発させてその光と色を鑑賞するという、極めて平和的な娯楽イベントです。ほら、空を見てください」
凛花が指差した先。
杉並の夜空に、ヒュルルルル……という甲高い音とともに光の筋が昇っていき。
ドォォォォンッ!!
という轟音とともに、漆黒の空に、巨大な赤と緑と金色の光の華が、美しく、そして儚く咲き誇った。
「おおお……っ!」
「き、綺麗ですぅ……!」
乃愛が目を輝かせて夜空を見上げ、黒木と朝比奈も、構えていた割り箸を下ろしてポカンと口を開けた。
「あれが……花火。火薬を、破壊のためではなく、ただ鑑賞するためだけに爆発させているというのか……?」
朝比奈が、信じられないものを見るように呟いた。
「なんという技術の無駄遣い……いや、なんという贅沢な魔法(芸術)か」
黒木も、感嘆のため息を漏らす。
ドドォォォン! パラパラパラ……。
次々と打ち上げられる色鮮やかな花火が、コーポ日ノ出の屋上を明るく照らし出す。
真木は、発泡酒の缶を片手に、静かにその光景を見上げていた。
(……火薬か)
魔界において、空がこのように明るく光る時というのは、例外なく血みどろの戦争の最中であった。
敵軍の放つ火炎魔法。味方の城壁が砕け散る爆発光。
夜空が赤く染まるということは、すなわち誰かの命が失われ、領土が焼き尽くされるという絶望のサインでしかなかったのだ。
「……なぁ、魔王」
隣に座っていた朝比奈が、夜空から視線を外さずに、ポツリと声をかけてきた。
「なんだ、勇者よ」
「俺は……故郷の世界で、こんな風に空を見上げたことは、一度もなかった」
朝比奈の声には、いつものような敵意や皮肉は含まれていなかった。ただ、深い郷愁と、どこか寂しげな響きが混じっていた。
「魔王軍の脅威から村を守るため、幼い頃から剣を振るい続けた。空が光るのは、いつも魔族の襲撃の時だけだった。星空の美しさなど、気にする余裕もなかった。……俺の人生は、ただ戦うためだけにあった」
朝比奈は手元の発泡酒の缶を見つめた。
「それが、どうだ。今はこうして、敵の親玉である貴様らと一緒に、プラスチックの弁当箱をつっつきながら、空の爆発を笑って見上げている。……狂っている。俺の人生は、どこでどう狂ってしまったんだ」
自嘲気味に笑う朝比奈の言葉に、真木は鼻を鳴らした。
「狂っているのはお前だけではない。余もだ。かつては玉座に座り、数万の軍勢に号令を下していた男が、今はこうしてジャージ姿で屋台の焼きそばを売り、家賃の取り立てに血道を上げているのだからな」
真木は発泡酒を一口飲み、言葉を継いだ。
「だが、朝比奈よ」
「ん?」
「どちらの世界の方が、お前は『息がしやすい』と感じる?」
真木の問いに、朝比奈は目を見開いた。
「異世界での我らは、確かに力を持っていた。魔力を操り、剣を振るい、生死を懸けたドラマの主人公だったのかもしれん。だが、あそこには『明日』への確証など何一つなかった。自分がいつ死ぬか、いつ城が落ちるか、そんな恐怖と隣り合わせの日々だった」
真木は、屋上の柵に寄りかかり、杉並の夜景を見下ろした。
遠くに見えるマンションの明かり。コンビニのネオンサイン。かすかに聞こえる車の走行音。
「この現代日本は、魔力こそないが、驚くほどシステムが完成されている。税金を納め、ルールを守り、労働さえすれば、誰かに命を狙われることもなく、確実に『明日』がやってくる。家賃五万二千円のために汗を流すのは確かに惨めで泥臭い。……だが、余は、この理不尽なまでに平和な資本主義の泥沼が、嫌いではない」
真木の言葉に、周囲で静かに花火を見ていた黒木や凛花たちも、静かに頷いていた。
「……そうだな」
朝比奈は、フッと口角を上げた。
「朝の六時に起きて、排気ガスまみれの道路で誘導棒を振るう。客から怒鳴られ、理不尽なクレームに頭を下げる。……正直、魔獣と戦う方がマシだと思ったことは何度もある」
朝比奈は、自分の手のひらを見つめた。剣だこで硬くなっていた手には、今では誘導棒を握り続けたことによる新しいマメができている。
「だが、あの現場の監督や、通りすがりの婆さんが『ありがとう』と言ってくれる。俺の仕事が、この街の誰かの安全を守っていると実感できる。……あの充実感は、魔王を討伐する旅の中では、決して得られなかったものだ」
ドドドドォォォォンッ!!
夜空に、一際大きなスターマインが打ち上がり、周囲を真昼のように明るく照らし出した。
その光の下で、朝比奈は真木に向かって、真っ直ぐに宣言した。
「魔王、いや、大家さん。俺は、決めたぞ」
「ほう。何をだ」
「俺は、この世界で生きていく。この街で働き、税金を納め、そして……このコーポ日ノ出の家賃を、誰よりも確実に納め続ける模範的な店子になってやる。だから、絶対にこのアパートを潰すなよ」
元勇者からの、最大の降伏宣言であり、同時に最高の信頼の証であった。
真木はニヤリと不敵に笑い、自分の缶を朝比奈の缶に軽くぶつけた。
「フッ、言うようになったな勇者よ。当然だ。我が城は、いかなる天災や経済不況が襲おうとも、余が大家である限り絶対に守り抜いてみせる」
光の華が、夜空に咲いては消えていく。
黒木が「うおおっ、今のは大魔法並みの迫力ですぞ!」とはしゃぎ、乃愛が「わーい! もっとやってー!」と飛び跳ねる。麗華は「うるさいわね、静かに見なさいよ」と言いながらも、スマートフォンで花火の動画を熱心に撮影している。
凛花は、そんな彼らの姿を微笑ましく見守りながら、密かに来月の家賃回収スケジュールを頭の中で組み立てていた。
(……この街の暮らしを、誰にも壊させはしない)
真木は、心の中で強く誓った。
かつての魔界の覇権など、もうどうでもいい。
このボロアパートと、騒がしくも頼もしい仲間たちとの、汗とソースと発泡酒の匂いにまみれた日常。
これこそが、魔王ヴァルザードが見つけた、守るべき真の帝国であった。
夏祭りのフィナーレを飾る連続花火が、夜空を埋め尽くす。
その光のシャワーを浴びながら、コーポ日ノ出の住人たちは、それぞれが胸に抱く「これからの日々」への希望を、確かな熱量とともに噛みしめていた。
彼らの平和なアパート生活は、満室御礼という一つのゴールを迎え、さらなる深みへと進んでいく。
……しかし、この時の彼らはまだ気づいていなかった。
この平和な夜空の遥か彼方、東京の上空に、再び忌まわしき異世界の『ゲート』が、微かな亀裂を生じさせようとしていることに。
平穏な日常を守るための、最後の戦いが、すぐそこまで迫っていたのである。




