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第42話:宝田不動産の怪しい物件案内

うららかな春の陽気が杉並区の路地を暖かく照らす、ある平日の午後。

木造アパート『コーポ日ノ出』の大家であり、かつて異世界で魔界の頂点に君臨した魔王ヴァルザードこと真木征司は、駅裏にひっそりと佇む地域密着型の不動産屋『宝田不動産』の応接ソファに深く腰を下ろしていた。

「……それで、志乃。わざわざ余を呼び出して、一体何の相談だ。我がコーポ日ノ出の入居者トラブルなら、すでに完璧に鎮圧済みだが?」

真木が、出された熱いほうじ茶をすすりながら尋ねる。

カウンターの向こう側から、幻惑種族の末裔でありこの不動産屋の若女将を務める宝田志乃が、少し困ったような、それでいてどこか面白がっているような笑みを浮かべて一枚のクリアファイルを差し出した。

「コーポ日ノ出のことじゃないわ。真木さん、実はちょっと『特別な依頼』があってね」

「依頼、だと?」

「ええ。うちが管理を委託されている近隣の賃貸アパートで、ちょっと厄介なトラブルが起きてるのよ」

志乃がクリアファイルを開くと、そこには『メゾン・ド・夕闇 201号室』と記された、築二十五年ほどの軽量鉄骨アパートの間取り図と写真が綴じられていた。

「家賃の滞納か? それとも騒音トラブルか? もしそうなら、内容証明郵便を送りつけて保証人に連絡するのが定石だろう」

すっかり大家としての実務知識(リーガルマインド)を身につけた真木がもっともらしい顔で言うと、志乃は首を横に振った。

「物理的なトラブルなら、私だってプロだからすぐに対処するわ。でもね、今回の相手は『生きている人間』じゃないのよ」

「……生きている人間ではない?」

「そう。ズバリ言うと、『怪奇現象』よ。ここ一ヶ月の間に、この201号室に入居した店子が、なんと三人も夜逃げ同然で退去してしまったの」

志乃の言葉に、真木は眉をひそめた。

「夜逃げだと? 敷金と礼金、それに引越し費用を考えれば、わずか数週間で退去するなど経済的損失が大きすぎる。よほどの理由がなければあり得んぞ」

「その『よほどの理由』が、幽霊なのよ。夜な夜な部屋の温度が氷点下まで下がり、壁を叩く音が鳴り響き、長い髪の女の霊が枕元に立って『出ていけ』と囁くらしいわ。オーナーの大家さんもすっかり参ってしまって、お祓いの霊媒師を何人も呼んだんだけど、全員が『ここは手に負えない』って逃げ帰ってしまったそうなの」

志乃はそこで言葉を区切り、真木の顔をまっすぐに見つめた。

「そこで、あなたの出番ってわけ。異世界から来た元魔王軍のトップであるあなたたちなら、この程度の霊障、なんとかできるんじゃないかと思って。オーナーさんからは、この件を解決してくれたら、特別報酬として『十万円』を支払うって言及をもらってるわ」

「……十万円、だと!?」

その三文字を聞いた瞬間、真木の目の色が完全に変わった。

魔力がないこの現代日本において、十万円という現金は、アパートの屋根の修繕費や固定資産税の足しになる莫大な財産である。

「……フッ。なるほど。そういうことならば、この真木征司、一肌脱ごうではないか」

真木はほうじ茶を一気に飲み干し、不敵な笑みを浮かべた。

「幽霊だか悪霊だか知らんが、他人の所有物件に不法に居座り、家賃を払う善良な店子を追い出すなど、大家として決して看過できん暴挙だ。その不届き者に、資本主義における『所有権の絶対性』というものを骨の髄まで教えてやる!」


* * *

その日の深夜。

日付が変わる頃、真木はコーポ日ノ出の頼れる二人の店子を引き連れて、問題の物件『メゾン・ド・夕闇』の前に立っていた。

一人は、101号室の元重装歩兵隊長・黒木鉄心。

もう一人は、103号室の元風属性魔導暗殺者・久世颯太である。

「真木様。この建物全体から、どんぐりの裏側のような、淀んだ負の気配を感じます。特に二階の角部屋……あそこがターゲットの潜伏地点ですね」

久世が鋭い視線を二階の201号室に向けた。暗殺者として研ぎ澄まされた彼の気配察知能力は、幽霊が放つ微弱な霊波すらも的確に捕捉していた。

「ふん。悪霊の類など、我が解体現場で鍛え上げたこの丸太のような腕で、物理的に粉砕してくれるわ!」

黒木がバキバキと拳を鳴らしながら意気込むが、真木は即座にそれを制止した。

「待て、黒木。ここは他人の所有物件だ。壁に穴を開けたりドアを破壊したりすれば、我々が器物損壊の罪に問われ、十万円の報酬どころか多額の損害賠償を請求される羽目になる。あくまで平和的に、かつ理論的に退去(成仏)させるのだ。わかったな?」

「は、ははっ! 物理攻撃は封印いたします!」

真木は志乃から預かったマスターキーを鍵穴に差し込み、ガチャリと音を立てて201号室のドアを開けた。


ギィィィィ……。

ドアが開いた瞬間、三人の顔に、冷凍庫を開けた時のような異常な冷気が吹き付けてきた。

季節は春だというのに、室内の温度は明らかに一桁台まで低下している。さらに、長年放置されたカビの臭いと、湿った線香の臭いが混ざり合ったような、極めて不快な空気が充満していた。

「……なるほど。確かに、素人の人間が住むには少々劣悪な環境だな。結露による壁紙の剥がれも酷い。退去時の原状回復費用で揉めそうな部屋だ」

真木は霊的な恐怖を感じるどころか、完全に『不動産オーナーとしての目線』で室内を品定めしながら、ズカズカと靴を脱いでフローリングの居間へと足を踏み入れた。


パチン、と壁のスイッチを押すが、照明は点かない。

その代わり。

ガタガタガタガタッ!!

突如として、部屋の窓ガラスが外からの風もないのに激しく揺れ始めた。

さらに、キッチンの水道の蛇口から、ポタッ……ポタッ……と、粘り気のある赤黒い液体(血のようなもの)が滴り落ちる。

そして、部屋の隅に置かれていたブラウン管のテレビが勝手に電源が入り、砂嵐の画面とともに『ザザザザザ……』という耳障りなノイズが鳴り響いた。

典型的なポルターガイスト現象のフルコースである。並の人間であれば、この時点で悲鳴を上げて逃げ出しているだろう。


しかし。

異世界で勇者の聖剣の光や、数万の軍勢の怒号を浴び続けてきた魔族の幹部たちにとって、この程度の現象は「安っぽいお化け屋敷のギミック」に等しかった。

「……真木様。窓のガタツキがうるさくて、敵の気流が読みにくいのですが。防音テープでも貼りましょうか」

久世が眉をひそめて不満を漏らす。

「うむ。それに、あの水道から落ちている赤い水。あれは鉄サビを含んだ赤水だな。長期間水道管を使っていなかったせいで配管が劣化している証拠だ。大家に配管の高圧洗浄を勧めた方がよさそうだな」

真木は冷静にキッチンのシンクを覗き込み、ブツブツとメモを取る仕草をした。

「おい、貴様! そこに隠れているのはわかっているのだぞ! 我が主君の時間をこれ以上無駄にさせる気か! さっさと姿を現さぬか!」

黒木が、部屋の中心に向かって腹の底から響くような大音声で怒鳴りつけた。


その圧倒的な覇気と声量に、部屋の空気が一瞬ビクッと震えたように感じられた。

直後。

部屋の温度がさらに急激に下がり、天井付近の空間がグニャリと歪んだ。

そこから、重力に逆らうようにして、長い黒髪をだらりと垂らし、汚れた白いワンピースを着た女の霊が、ゆっくりと姿を現した。

『……うら、めし、やぁぁぁ……』

地を這うような、怨念に満ちた声。

『でていけぇ……ここは、私の場所……だれも、いれる、ものかぁぁ……』

女の霊は、両手を前に突き出し、血走った目を剥き出しにして、真木たちを恐怖のどん底に突き落とそうと凄惨な表情を作った。

さあ、悲鳴を上げて逃げ惑え。これまでの店子たちと同じように。

霊がそう確信して真木の顔を見た、その時。


「……出ていけ、だと?」


真木の額に、ピキッ、と太い青筋が浮かび上がった。

霊的な恐怖によるものではない。それは、完全なる『大家としての純粋な怒り』であった。

「貴様、今、ここが自分の場所だと言ったな。ならば聞くが、貴様はこの部屋の所有者であるオーナーと、正規の『建物賃貸借契約書』を交わしているのか!」

『……え?』

女の霊は、予想外の反応に一瞬ポカンと口を開けた。

「契約書も交わさず、敷金も礼金も払わず、毎月の家賃を納めることすらしていないのだとしたら、貴様はただ他人の資産に勝手に居座っているだけの『不法占拠者』だ! そのような身分で、金銭を払って正当な権利を得た店子に対し『出ていけ』などと脅迫するとは、言語道断の極み!」

真木はズカズカと霊の目の前まで歩み寄り、バインダー(大家部屋から持参したもの)をバシッと音を立てて叩いた。

「いいか! 貴様が夜な夜なポルターガイストなどというくだらん嫌がらせをしたせいで、この一ヶ月の間に三人の入居者が夜逃げした! その結果、大家であるオーナーが被った空室損害、不動産屋の仲介手数料の損失、さらには『怪奇現象が起きる事故物件』というレッテルを貼られたことによる資産価値の暴落! この甚大な経済的被害(ダメージ)、どうやって補填するつもりだ!」

『え、あ、いや……私はただ、寂しくて……』

「寂しいからといって、他人の営業活動を妨害していい理由にはならん! これは明確な『威力業務妨害』であり、民事上の損害賠償請求の対象となる重大な違法行為だぞ!」

真木のあまりにも理路整然とした、ブラック企業の上司の詰めにも等しい論理的説教。

これまでの入居者たちは「キャーッ!」と悲鳴を上げて逃げてくれたのに、目の前の男は霊的恐怖を完全に無視し、法律と資本主義のルールを振りかざして精神的に追い詰めてくる。

女の霊は、生前にも味わったことのないほどの強烈な「社会の厳しさ」に直面し、オロオロと視線を彷徨わせ始めた。


「真木様の仰る通りだ!」

そこへ、身長百九十センチを超える巨漢の黒木が、ズシンッと一歩前に出た。

彼から発せられる威圧感(オーラ)は、そこらの低級霊など一瞬で吹き飛ばすほどに重く、そして濃密であった。

「労働もせず、ただ他人の城に寄生して不平不満を垂れ流すだけのダニめ! 我らコーポ日ノ出の住人たちは、毎日解体現場で汗を流し、自転車を漕ぎ、コンビニの深夜レジを打って、必死に家賃を納めているのだ! 貴様のような無責任な霊体は、この黒木鉄心が解体用のバールで木っ端微塵に粉砕してくれるわ!」

「ひぃぃぃっ!」

黒木の尋常ではない殺気に、霊は思わず悲鳴を上げて後ずさりした。

逃げよう。こいつらは人間じゃない。関わってはいけないヤバい連中だ。

霊が天井をすり抜けて逃亡を図ろうとした、その瞬間。


「逃げ道はありませんよ。ターゲット(怨霊)」


霊の背後の空間に、いつの間にか久世が回り込んでいた。

彼は両手に魔力をわずかに帯びた(カロリーを消費するギリギリの)気流の渦を発生させ、霊の退路を完全に封鎖していたのである。

「四方の窓、および天井、床下への気流の抜け道は、すべて私が『風の壁』で塞ぎました。このまま逃げようとすれば、霊体ごと切り刻まれることになります。おとなしく真木様の説教の続きを聞くのです」

『い、嫌ぁぁぁぁっ! なんなのよあなたたち! お化けより怖いじゃないのぉぉぉっ!』

完全に逃げ場を失い、物理的かつ論理的な包囲網に閉じ込められた女の霊は、ついにその場にへたり込み、両手で顔を覆って大号泣を始めた。

「うわぁぁぁん! ごめんなさい、ごめんなさい! 私、生前アパートの更新料が払えなくて追い出されたのが悔しくて、つい八つ当たりで地縛霊になっちゃっただけなんですぅ! もうしません、二度と出ませんから、バールで粉砕しないでぇぇぇっ!」

ボロボロと(霊的な)涙を流して謝罪する地縛霊。

その姿は、かつて魔王軍の過酷なノルマに耐えきれず泣き出した下級ゴブリンの姿にどこか重なるものがあった。

真木は大きくため息をつき、腕を組んで見下ろした。

「……更新料が払えなかったからといって、他人に迷惑をかけるのは筋違いだ。だが、その悔しさは、大家として、そしてかつて国を追われた身として、わからんでもない」

真木の声のトーンが、わずかに和らいだ。

「だが、ここは現世だ。未練に囚われて留まっても、貴様に家賃収入が入るわけではない。さっさと成仏して、次の輪廻(来世)で真っ当な労働者として生まれ変わり、今度こそ滞納せずに立派な城(マンション)を借りるのだな」

『……はい。はいっ……! 私、来世ではちゃんと貯金して、更新料のいらないUR賃貸に住めるように頑張りますぅぅ……!』


女の霊が泣きながら深く頭を下げた、その時。

彼女の体から、長年まとわりついていたどす黒い怨念のオーラがスッと消え去り、代わりに温かな純白の光が部屋を包み込んだ。

社会の厳しさと、大家の理不尽な(しかし正論の)説教によって、彼女の魂にこびりついていた未練が完全に浄化されたのである。

『……本当に、ごめんなさい。そして……目を覚まさせてくれて、ありがとうございました……』

女の霊は、憑き物が落ちたような穏やかな笑顔を浮かべ、光の粒子となって、天井の彼方へと昇って消えていった。


スゥゥゥゥ……。

霊が消え去った瞬間、部屋を満たしていた異常な冷気とカビの臭いが嘘のように霧散し、外から春の穏やかな夜風が吹き込んできた。

ガタガタと鳴っていた窓も沈黙し、赤水の滴っていた蛇口も完全に止まっている。

「……フッ。終わったな」

真木はバインダーを小脇に抱え、満足げに頷いた。

「見事な論破にございました、真木様! あれぞまさに、大家としての絶対的な威光!」

「敵の気配、完全に消失しました。任務完了(ミッションコンプリート)です」

黒木と久世が、それぞれの役目を終えて真木の背後に控える。

「うむ。これでこの部屋は、ただのボロい空室に戻った。志乃に連絡して、明日から通常通り入居者の募集を再開するよう伝えておこう。……もちろん、配管の高圧洗浄と壁紙の張り替えは必須だがな」

真木たちは、完全に『清浄』となったメゾン・ド・夕闇の201号室のドアをしっかりと施錠し、アパートを後にした。


* * *

翌日の昼下がり。

真木は再び、宝田不動産の応接ソファに座っていた。

「本当に、一晩で解決しちゃったのね。真木さんたちが帰った後、オーナーさんが確認に行ったら、空気が見違えるように綺麗になってたって大喜びしてたわよ」

志乃が、信じられないといった様子で目を丸くしながら、分厚い茶封筒を真木の前に差し出した。

「約束通り、特別報酬の『十万円』よ。これでまた、コーポ日ノ出の修繕積立金が潤うわね」

「おお……っ!」

真木は茶封筒を受け取り、中に入っている福沢諭吉が十枚並んだ感触を確かめ、感極まって震えた。

「他人の物件であれ、大家の苦労と心労は痛いほどわかるからな。この十万円は、我がコーポ日ノ出の未来を守るための貴重な防衛資金として、大切に使わせてもらうぞ」

「ふふっ。幽霊退治までできちゃう大家さんなんて、杉並区広しといえどもあなたくらいよ。もしまたワケあり物件が出たら、お願いしてもいいかしら?」

「時と場合と……報酬の額によるな」

真木はニヤリと笑い、茶封筒を大事にジャージの内ポケットに仕舞い込んだ。


その日の夜。

コーポ日ノ出の大家部屋では、見事な「除霊任務」を完遂した真木、黒木、久世の三人、そして事情を聞いて呆れている凛花、麗華、乃愛、朝比奈たちを交えて、ささやかな宴会が開かれていた。

報酬の十万円は全額修繕積立金口座へと直行したが、真木は自腹で発泡酒とスーパーの半額惣菜を大量に買い込み、住人たちに振る舞った。

「しかし、幽霊相手に家賃の滞納説教で成仏させるとはな……。魔王、お前の思考回路は完全にこの国の資本主義に毒されているぞ」

朝比奈が呆れたように言うが、真木はどこ吹く風で発泡酒を飲み干した。

「なんとでも言え。現世であれ霊界であれ、ルールを守らん奴に居場所はないのだ。我がコーポ日ノ出の平和は、この徹底したコンプライアンス意識によって守られているのだからな!」

「「「乾杯!!」」」

春の夜空に、元魔族と元勇者たちの笑い声が響き渡る。

怪奇現象すらも論理でねじ伏せる最強の大家・真木征司。彼の満室御礼生活は、いかなる超常的なトラブルが降りかかろうとも、決して揺らぐことなく続いていくのであった。

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