第41話:麗華の昼夜逆転更生プログラム
東京・杉並区。春の訪れとともに、日の出の時刻は少しずつ早まり、朝の清々しい空気が街を包み込むようになってきた。
だが、木造アパート『コーポ日ノ出』の202号室においては、そんな爽やかな季節の変化など全く無縁の世界が広がっていた。
部屋の窓には分厚い完全遮光カーテンが引かれ、一筋の太陽光すら入り込むことを許さない。部屋の中は真夜中と見紛うほどの暗闇であり、ただ一つ、スマートフォンの放つ青白いブルーライトだけが、部屋の主の顔を不気味に照らし出していた。
「……ふふふっ。来たわ。ついにこの時が来たわ……!」
万年床の布団の上で、ゴスロリ調のネグリジェ姿の神埼麗華(元吸血貴族)が、血走った目でスマートフォンの画面を凝視していた。
画面には、彼女が給料の多くをつぎ込んでいるソーシャルゲームの『期間限定・超絶確率アップガチャ』の開始を告げる派手なバナーが表示されている。
「深夜のコンビニバイトで、酔っ払いのゲロ処理という屈辱に耐え、クレーマーの理不尽な要求を殺気で黙らせて稼いだ私の血と汗の結晶……! すべてはこの限定SSR『深淵の魔将軍』をお迎えするため! さあ、私の元へ降臨しなさい!」
麗華の指が、ガチャを回すボタンを乱暴にタップする。
煌びやかな演出が画面いっぱいに広がり、やがて結果が表示される。
「……は? R? どういうことよ、確率アップって嘘じゃないの!?」
麗華はギリッと奥歯を噛み締め、再びガチャを回す。回しては落胆し、また回す。
時刻はすでに午前八時を回っている。本来であれば、深夜シフトから帰宅して睡眠をとるべき時間なのだが、ソシャゲのイベント更新時間は朝のことが多い。結果として、麗華の生活リズムは完全に崩壊していた。夜はコンビニで働き、朝に帰宅して昼過ぎまでソシャゲに没頭し、夕方から泥のように眠る。
太陽の光を浴びず、まともな食事もとらず、運動といえばコンビニのレジ打ちと陳列作業のみ。元々青白い吸血鬼の肌は、今や不健康な土気色を帯び、目の下には深いクマが刻まれていた。
バンバンバンッ!!
突如、202号室のドアが外から激しく叩かれた。
「麗華! 起きているか! というより、まだ寝ていないのだろう! 開けろ!」
ドア越しに響いてきたのは、大家である真木征司(元魔王ヴァルザード)の怒声であった。
「な、なによもう! 今、大事な儀式の最中なんだから邪魔しないでよ!」
麗華が不満げにドアを開けると、そこにはジャージ姿で腕を組んだ真木と、バインダーを抱えたスーツ姿の佐伯凛花(元首席補佐官)が立っていた。
「やはりな。顔色がゾンビのようになっているぞ、神埼麗華」
真木が呆れたようにため息をつく。
「最近のあなたの生活態度は目に余ります。昨晩の出勤前も、フラフラと覚束ない足取りで階段を降りていくのを見ました。その不健康な土気色の肌、極度の運動不足による体力の低下。吸血鬼であるという特性を差し引いても、現在のあなたは人間社会における『健康で文化的な最低限度の生活』の基準を大きく下回っています」
凛花が冷徹な声で事実を突きつける。
「うるさいわね! 別に誰にも迷惑かけてないじゃない! 家賃だって、先月はちゃんと払ったでしょ!」
「家賃の問題だけではない!」
真木が一歩前に出て、麗華を見下ろした。
「いいか、麗華。お前がそんな不規則な生活を続けて体を壊し、コンビニのアルバイトをクビにでもなってみろ。即座に家賃の滞納が発生し、我が不労所得計画に重大な支障をきたすのだ! 大家たるもの、店子の健康管理も重要なリスクマネジメントの一環である!」
「つまり、私の健康を心配してるんじゃなくて、家賃が払えなくなるのを心配してるってことね! 最低の大家!」
「なんとでも言え。とにかく、お前のその腐りきった昼夜逆転生活と、圧倒的な運動不足は、今日からこの大家権限をもって強制的に改善(更生)させる!」
真木はビシッと指を突き出し、絶対の命令を下した。
「明日から毎朝六時三十分! 近所の『白樺公園』で開催されている町内会の『ラジオ体操』に強制参加することを命ずる!」
「はぁぁぁぁっ!?」
麗華の絶叫が、春の朝のアパートに響き渡った。
「ラ、ラジオ体操!? 朝の六時半!? ふざけないでよ、そんな時間、太陽の光がガンガンに降り注いでるじゃない! 私を灰にする気!?」
「太陽の光を浴びてセロトニンを分泌させなければ、人間の自律神経は正常に働かんのだ。安心しろ、日光対策の装備は許可する」
「そういう問題じゃないわよ! なんでこの高貴な吸血貴族の私が、人間の老人たちに混ざって、変な音楽に合わせて手足をバタバタさせなきゃいけないのよ! 絶対に嫌よ、断固拒否するわ!」
麗華がドアを閉めようとした瞬間、真木が足を入れて阻止した。
「拒否するなら、我がアパートの無料Wi-Fiのパスワードを今すぐ変更し、お前の部屋のルーターを物理的に破壊する」
「…………ッ!!」
それは、ソシャゲ廃人である麗華にとって、心臓を杭で貫かれるよりも恐ろしい脅迫(死の宣告)であった。
自前の通信量など、とうの昔に使い果たしている。ここでWi-Fiを切断されれば、現在開催中のイベントの周回ができなくなり、ランキングから転落してしまう。
「あ、悪魔……! 魔王の皮を被った、守銭奴の悪魔……ッ!」
「誉め言葉として受け取っておこう。明日の朝六時十五分、一階のロビーに集合だ。遅刻すれば容赦なく回線を切るからな」
真木は悪役そのものの笑みを浮かべ、凛花と共に去っていった。
残された麗華は、絶望のあまりその場にへたり込み、血の涙を流すのであった。
* * *
翌朝。午前六時十五分。
コーポ日ノ出の一階ロビーに、異様な出で立ちの人物が立っていた。
足元から首元まですっぽりと覆う、漆黒のロング丈マント。頭には顔の半分以上を隠すほどの巨大な黒いサンバイザーを被り、さらにその上から大きなサングラスをかけ、顔の下半分は黒いマスクで完全に覆われている。手には黒いUVカット手袋。
どこからどう見ても、怪しいカルト教団の信者か、日焼けを病的に恐れる不審者である。
「……屈辱よ。この私が、こんな格好で外に出なきゃいけないなんて」
完全遮光装備を施した麗華が、マントの中でギリッと歯ぎしりをした。
「おお、起きてきたか麗華。見事な防御力(UVカット率)だな」
ジャージ姿の真木が、満足げに頷く。
「当然でしょ。一ミリでも紫外線に当たったら肌が焼けるんだから。……で、なんでコイツがいるのよ」
麗華の視線の先には、紺色の警備員制服ではなく、スポーツ用の動きやすいジャージに身を包んだ203号室の朝比奈駆(元勇者パーティー戦士)が、腕を組んで立っていた。
「フン。魔王から、お前の生活改善プログラムの『監視役』兼『指導教官』を任されたのだ」
朝比奈が真面目腐った顔で答える。
「俺は毎朝、剣の素振り(という名の交通誘導のイメトレ)をするために早起きしているからな。ついでに、お前の腐った根性を叩き直してやる」
「う、うざい……! 暑苦しい勇者と一緒にラジオ体操なんて、罰ゲーム以外の何物でもないわ!」
「文句を言うな。時間だ、白樺公園へ向かうぞ!」
白樺公園は、アパートから歩いて五分ほどの場所にある、広々とした芝生と遊具のある公園である。
午前六時半前。公園にはすでに、近所の老人たちや、散歩中の主婦、早起きした子供たちなど、数十人の町内会メンバーが集まっていた。
「おはようございます、真木さん! 今日もいい天気ですねえ」
町内会長の神保が、首にタオルを巻いた姿で陽気に声をかけてきた。
「おはようございます、神保殿。本日はうちの店子の健康増進のために参加させていただきました」
真木が愛想よく返す横で、朝比奈も「おはようございますッ! 本日はよろしくお願いいたしますッ!」と、警備員のような大声と完璧な敬礼で挨拶をする。
「いやあ、朝比奈くんは相変わらず元気だねえ! ……で、そっちの黒ずくめの人は……?」
神保や周囲の老人たちの視線が、完全遮光装備で微動だにしない麗華に注がれた。
「あ、ハハハ! 彼女は極度の紫外線アレルギーでして! お気になさらず!」
真木が無理やりフォローを入れる中、公園に設置されたスピーカーから、聞き慣れた軽快なピアノのイントロが流れ始めた。
『――新しい朝が来た、希望の朝だ。喜びに胸を開け、大空あおげ……』
「総員、配置につけ! ラジオ体操第一、開始だ!」
朝比奈の無駄に気合いの入った号令とともに、集まった人々が一斉に等間隔に広がり、音楽に合わせて体を動かし始めた。
真木もジャージ姿で真面目に腕を振る。
しかし、その後方で、麗華はマントに包まれたまま、だるそうに手首だけを申し訳程度に動かしていた。
「……アホくさ。なんで私が、こんなゆっくりした音楽で踊らなきゃいけないのよ。早く終わって帰りたい……」
麗華がアクビを噛み殺した、その瞬間である。
「手抜きをするなァァァッ!!」
突如、麗華の耳元で、朝比奈の鼓膜を破るような怒号が炸裂した。
「ひぃぃぃっ!?」
麗華が飛び上がって驚くと、横には目を血走らせた朝比奈が、鬼教官のような形相で立っていた。
「貴様のそれはなんだ! 腕を伸ばす運動の時に、肘が完全に曲がっているではないか! 指の先まで神経を研ぎ澄まし、筋肉の伸展を感じろ! 空を突くように、まっすぐ上へだ!!」
「な、なによ熱苦しい! 適当でいいじゃないのよ!」
「適当だと!? ラジオ体操を舐めるな! これは全身の骨格と筋肉を効率的にほぐし、血流を最大化させるために計算し尽くされた、現代日本における最強の『準備魔法』なのだぞ! 真面目にやらないのなら、俺が貴様の腕を引っ張って骨格を矯正してやる!」
「わ、わかったわよ! やればいいんでしょ、やれば!」
朝比奈の狂気じみた迫力と、周囲の老人たちがチラチラと見てくる視線に耐えきれず、麗華は仕方なくマントの下で腕を大きく振り上げ始めた。
『腕を前から上に上げて、大きく背伸びの運動~』
「もっとだ! 背筋を反らせろ! 肩甲骨を寄せることを意識しろ!」
『腕と足の運動~』
「膝のクッションを使え! 足の裏全体で大地を感じるのだ!」
『胸を反らす運動~』
「大胸筋を開け! 肺いっぱいに朝の空気を吸い込むのだ! 吸血鬼の肺活量を見せてみろ!」
朝比奈の熱血指導は、もはや軍隊のブートキャンプと化していた。
一つ一つの動作に対して、筋肉の名称や可動域の限界を要求してくる。麗華は最初は文句を言いながら反発していたが、朝比奈のあまりのしつこさに、次第に「こいつを黙らせるためには、完璧なフォームを見せつけるしかない」と意地になってきた。
(くそっ……! 元勇者ごときに、私の運動神経を舐められてたまるか! 吸血貴族の優雅で完璧な動きを見せつけてやるわ!)
麗華はサンバイザーの奥で目を細め、本気でラジオ体操に取り組み始めた。
大きく腕を振り、深く腰を曲げ、全身のバネを使って跳躍する。
マントがバサバサと翻り、黒ずくめの怪しい姿でありながらも、その動きはまるで武術の達人のようなキレと美しさを帯びていった。
「……ほう。やればできるではないか」
真木が体操をしながら、感心したように頷く。
「いいぞ神埼! その調子だ! 全身の血が巡るのを感じるだろう!」
朝比奈も、満足げに自分の動きをさらに大きくして、麗華とシンクロするように体操を続ける。
『深呼吸~』
およそ三分間のラジオ体操第一が、静かに終わりを告げた。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
麗華はマントの中で肩で息をしながら、膝に手をついていた。
たった三分間の体操。しかし、朝比奈の指導によって普段使わない筋肉を限界まで動かしたため、彼女の額にはじんわりと汗が滲んでいた。
「どうだ、神埼。気分は」
朝比奈がタオルで汗を拭きながら、爽やかな笑顔で声をかけてきた。
「……最悪よ。汗かいてメイクが崩れたじゃない。それに、筋肉痛になりそうだし」
麗華は憎まれ口を叩きながら、顔を背けた。
だが。
不思議なことに、彼女の心の中には、普段の夜勤明けに感じるような「重く泥のような疲労感」は存在していなかった。
代わりに、全身の血液が勢いよく隅々まで巡り、指先までがポカポカと温かくなっているのを感じていた。深く吸い込んだ朝の空気は、都会の真ん中でありながらもどこか澄んでいて、凝り固まっていた自律神経のスイッチが、カチリと音を立てて『朝モード』へと切り替わったのがわかった。
(……悪くない、かも)
サンバイザーの隙間から見上げる空は、眩しいほどの青色だった。
吸血鬼である彼女にとって、太陽の光は本来忌むべきものであるはずなのに。完全遮光装備というフィルター越しに見る春の朝の光は、なぜか彼女の心を少しだけ軽くしてくれた。
「ふふっ。お疲れ様、麗華。見事な体操だったぞ」
真木が歩み寄り、冷たいミネラルウォーターのペットボトルを差し出した。
「ほら、水分補給だ。しっかり汗を流した後の水は美味いだろう」
「……べ、別に。大家に言われたから仕方なくやっただけよ。Wi-Fi切られたら困るし」
麗華はそっぽを向きながらも、ペットボトルを受け取り、マントの下でゴクゴクと喉を鳴らして水を飲んだ。
冷たい水が、火照った体に心地よく染み渡っていく。
「さあ、アパートに戻るぞ。シャワーを浴びて、朝飯を食って、それから寝ろ。夜勤の疲れも、ただ寝るより軽く運動してからの方がスッキリと取れるはずだ」
真木が言うと、麗華は「わかってるわよ」と小さく頷いた。
* * *
その日の午後。
コーポ日ノ出の202号室。
いつもなら、夕方まで死んだように眠り続け、起きてからも布団の中でソシャゲをポチポチとタップしているはずの麗華だったが。
今日は、午後二時過ぎにスッキリと目を覚ましていた。
「……うーん。よく寝たわ」
麗華はベッドの上で大きく伸びをした。
体の芯にほんの少しだけ残る、心地よい筋肉痛。それが、今朝のラジオ体操の記憶を呼び起こす。
「……あーあ。なんだか、体が軽いわね」
麗華はベッドから起き上がり、遮光カーテンをほんの少しだけ、数センチだけ開けてみた。
隙間から差し込む、午後の柔らかな春の日差し。
それは彼女の青白い肌を優しく照らし、部屋の中の埃をキラキラと輝かせていた。
「……まあ、たまには、あの暑苦しい勇者のシゴキに付き合ってあげるのも、悪くないわね」
麗華は誰に言うともなく呟き、スマートフォンのソシャゲのアイコンではなく、音楽アプリを開いて、軽快なアップテンポの曲を流し始めた。
翌朝。
午前六時十五分。
コーポ日ノ出の一階ロビーには、昨日と同じ完全遮光装備に身を包んだ麗華が、真木よりも早く降りてきて待っていた。
「あら、大家。遅いわよ。さっさと公園に行くわよ、一番前のポジションを取らないと、あの勇者がまたうるさいんだから」
「……ほう。まさかお前から催促されるとはな。素晴らしい心構えだ」
真木が驚いたように目を丸くする。
「勘違いしないでよね! 健康のためじゃないわよ! ラジオ体操のスタンプカード、皆勤賞だと最終日に図書カード五百円分がもらえるって町内会長が言ってたから、それを狙ってるだけよ!」
麗華はフイッと顔を背け、足早にアパートを出ていく。
その後ろ姿を見送りながら、真木はニヤリと笑った。
「動機は何であれ、生活が改善されるなら大家としては万々歳だ。……さて、今日も余の完璧なラジオ体操第二を披露してやるとするか」
杉並の空に、新しい朝が来る。
吸血鬼の昼夜逆転更生プログラムは、図書カードという現金な目標と、心地よい疲労感によって、見事に成功を収めたのであった。
コーポ日ノ出の住人たちは、それぞれが抱える弱点や不適合を、互いに強引に引っ張り上げながら、人間社会のレールの上を今日も力強く歩んでいく。




