第40話:乃愛のドッグショー挑戦
東京・杉並区の駅前商店街から一本裏に入った路地にある、小洒落たガラス張りの店舗。『ドッグカフェ&サロン ワンワンテラス』は、地元マダムたちの愛犬が集う憩いの場である。
この店でトリマー補助としてアルバイトをしている201号室の園田乃愛(元・上級魔獣ケルベロス)は、今日も緑色のエプロンを身につけ、一匹の大型犬と真正面から向き合っていた。
「……バウッ! グルルルルッ!」
乃愛の目の前で唸り声を上げているのは、この店の『看板犬』であるスタンダードプードルの「セバスチャン」だった。
純白でフワフワにトリミングされた美しい巻き毛、すらりと伸びた長い四肢。血統書付きの極めて優秀な個体であり、見た目のエレガントさは申し分ない。しかし、このセバスチャン、気位が異常に高く、並の人間など完全に「自分より下」と見下している、極めて気難しい性格の持ち主であった。
「こら、セバスチャン。お客様が来てるのに、そんな顔しちゃダメでしょー?」
乃愛がニコニコと笑いながら、セバスチャンの鼻先をツンと突く。
その瞬間、セバスチャンの脳内に、乃愛からの強烈な『言語』が叩き込まれた。
『(おい駄犬。さっきから偉そうに唸ってるけど、そのフワフワの毛皮ごと丸呑みにされて胃液で溶かされたいのか? あぁん?)』
『(ひぃぃぃぃっ!! も、申し訳ございません大ボス様ァ! つい血統書のプライドが!)』
『(プライドだと? 魔界の冥府の門をくぐったこともない温室育ちが、いっちょ前に牙を剥くな。三秒以内に腹を見せろ)』
『(はいっ! ただちに!)』
セバスチャンは悲鳴のようなキャンッという鳴き声を上げると、即座にコロンと仰向けに転がり、四本の足を宙に浮かせた『完全服従(ヘソ天)』のポーズをとった。
その光景を見ていた遠藤店長が、感動のあまり両手を組み合わせた。
「す、すごいわ園田さん……! あのプライドの塊のセバスチャンが、あなたの前だとまるで借りてきた猫……じゃなくて、忠実な下僕みたいに大人しいなんて!」
「えへへ、セバスチャンはとってもお利口さんですからねー。ねー?」
乃愛がセバスチャンのお腹を撫でると、彼は「ヒィン、ヒィン」と怯えた声で鳴きながら、必死に尻尾を振ってご機嫌取りを始めた。
「実はね、園田さん。お願いがあるの」
遠藤店長が、一枚のパンフレットを乃愛に差し出した。
「今度の日曜日に、杉並区の大きな公園で『春のローカル・ドッグショー』が開催されるの。セバスチャンはその美しい毛並みと骨格で、絶対に優勝できるポテンシャルを持ってるんだけど……いかんせん、本番でハンドラー(犬を引いて歩く誘導役)の言うことを全く聞かなくて、いつも予選落ちなのよ」
「ドッグショー、ですか?」
「ええ。そこで、園田さんにセバスチャンのハンドラーをお願いできないかしら? あなたの言うことなら、あの子、絶対に完璧な歩行を見せてくれるはずよ!」
乃愛は犬耳(カチューシャで偽装中)をピクッと動かした。
「うーん……でも、日曜日って私、お休みの日で。大家さん(魔王様)から、アパートの共用廊下の掃除を命じられてるんですぅ」
「そこをなんとか! もし優勝できたら、賞金として十万円が出るの! もちろん、そのうちの半分、五万円を園田さんに特別ボーナスとして支給するわ!」
「ご、五万円……ッ!」
乃愛の目の色が変わった。
五万円。それは、コーポ日ノ出の家賃一ヶ月分(五万二千円)にほぼ匹敵する大金である。これを稼げば、来月の家賃支払いが一瞬で終わるだけでなく、余ったお金で美味しいお肉(人間用の)が腹一杯食べられるではないか。
「やります! 私、セバスチャンを絶対に優勝させてみせます!」
「本当!? ありがとう園田さん! 今日から営業時間外に、お店の裏で特訓をお願いね!」
* * *
その日の夕方。
コーポ日ノ出のアパートの庭(少しだけ土が剥き出しになっている共有スペース)に、リードを引かれたセバスチャンと、乃愛の姿があった。
乃愛は店長に許可をもらい、環境に慣れさせるためにアパートまでセバスチャンを連れ帰ってきて特訓を行っていたのだ。
一階の共用廊下では、大家の真木征司、そして101号室の黒木鉄心、102号室の佐伯凛花が、その様子を腕を組んで見守っていた。
「……ほう。優勝すれば賞金十万円、うち五万円が乃愛の臨時収入になるというわけか。素晴らしい。我がアパートの店子の収入源が多様化するのは、大家として極めて喜ばしいことだ」
真木がソロバンを弾くような顔でニヤリと笑う。
「それにしても、見事な歩様ですな」
黒木が感心したように唸った。
庭を歩くセバスチャンは、首をピンと高く上げ、背筋を真っ直ぐに伸ばし、乃愛の左側を寸分の狂いもなく並んで歩いていた。乃愛が止まればピタリと止まり、乃愛が歩き出せば同時に足を踏み出す。その姿は、高貴な王族のパレードのようであった。
しかし、人間たちには「完璧な信頼関係で結ばれたトリマーと愛犬」に見えるその光景も、当人(と当犬)たちの間では全く別のコミュニケーションが交わされていた。
『(いいか駄犬。歩幅が三センチずれてるぞ。私の歩調に完璧に合わせろ。少しでも前に出たら、その細い首の骨を噛み砕くからな)』
『(ひぃぃぃぃっ! も、申し訳ございません! 前足の角度、これでいかがでしょうか大ボス様!)』
『(まあまあだな。審査員の前では、絶対に目を逸らすなよ。威風堂々としろ。お前が怯えた顔をしたら、私の指導不足だと思われてボーナスが減るだろうが!)』
『(ご、五万のボーナスのために、私の命が懸かっているのですね……! 死ぬ気で歩きますぅぅっ!)』
セバスチャンのエレガントな歩行は、純然たる『死への恐怖』によって生み出された、極限の緊張状態の賜物であった。
「大家。乃愛のハンドリング技術は、もはやドッグトレーナーの領域を超えています。動物行動学の観点から見ても、あそこまで犬の意識を完全に支配し、恐怖を与えずに(※人間目線では)服従させるのは奇跡に近いです」
凛花が眼鏡を押し上げながら冷静に分析する。
「うむ。ケルベロスという上位捕食者の本能が、現代日本においてこれほど平和的かつ合法的な『現金獲得スキル』に昇華されるとはな。よし、乃愛! 日曜日の本番は、我がコーポ日ノ出の総力を挙げて応援に行くぞ!」
「わふっ! ありがとうございます、魔王様!」
乃愛が尻尾をパタパタと振りながら振り返る。
その隣で、セバスチャンは(魔王……!? このアパートには、大ボス様以上の化け物がまだいるのか……!)と、恐怖のあまり白目を剥いて失神しかけていた。
* * *
そして日曜日。
杉並区内の広大な敷地を持つ都立公園の特設会場は、朝から異様な熱気に包まれていた。
大型テントが立ち並び、審査用のロープで仕切られたリンクの周りには、血統書付きの自慢の愛犬を連れたマダムやブリーダーたちがひしめき合っている。
ゴールデンレトリバー、ボルゾイ、アフガンハウンド、ドーベルマン……。
どの犬も、毛並みはツヤツヤで、高価な首輪を身につけていたが、いかんせんこれだけの数の犬が集まれば、会場はカオスと化す。
「ワンワンッ! バウッ!」
「こら、ステファニー! 他の子に吠えちゃダメでしょ!」
「ダメよアーサー! そっちに行かないで!」
あちこちで犬たちが吠え合い、飼い主たちがリードを引っ張って制止する声が飛び交う。犬特有の興奮状態が伝染し、会場全体が落ち着きのない騒音に包まれていた。
そんな中、観客席の最前列で、異彩を放つ集団が陣取っていた。
コーポ日ノ出の応援団である。
「うおおおおおっ! 乃愛! 我らが軍の誇りを見せつけてこいッ!」
大田組の作業着姿の黒木が、マジックで『必勝・乃愛&セバスチャン!』と殴り書きされた巨大なダンボールの横断幕を掲げて絶叫している。
「うるさいわよ筋肉ダルマ! ちょっと、日傘の角度がズレたじゃないの! 紫外線が入ってきたらどう落とし前つけるのよ!」
その隣で、完全遮光装備(帽子、サングラス、黒いショール)の神埼麗華が、日差しに怯えながら黒木の背中に隠れている。
「風速、気温、湿度、すべて良好。乃愛の歩く軌道に障害となる気流の乱れはなし。完璧なコンディションだ」
久世颯太が、なぜか風速計を持ち出して真面目な顔でブツブツと呟き、その横では朝比奈駆が「フン、あの程度の獣の群れ、俺の大剣の素振りの風圧だけで一掃してやるがな」と元勇者らしからぬ大人気ない発言をしている。
大家の真木と経理の凛花は、腕を組んでまるで馬主のような顔つきでリンクを見つめていた。
「……さて。いよいよ出番だな。五万円の臨時収入がかかった大一番だぞ」
「エントリーナンバー十五番。ドッグサロン・ワンワンテラス所属、セバスチャン号。ハンドラーは園田乃愛さんです」
アナウンスとともに、乃愛とセバスチャンがリンクの入り口に姿を現した。
緑色のエプロンを外し、きちんとした黒のスーツ姿(凛花のお下がりをサイズ直ししたもの)に身を包んだ乃愛は、いつもの無邪気な犬耳少女から一変し、凛としたハンドラーの顔つきになっていた。
そして、その左側には、純白の毛並みを輝かせるセバスチャンが、ピタリと寄り添っている。
「ワンワンッ! キャンキャンッ!」
乃愛たちがリンクに入った瞬間、他の出場犬たちが一斉にセバスチャンに向かって威嚇の吠え声を上げた。犬社会におけるマウントの取り合いである。
通常であれば、ここでセバスチャンも興奮して吠え返すか、怯えて縮み上がるかのどちらかだ。
しかし。
乃愛は、リードを持つ手にわずかに力を込め、リンクの周囲で吠え狂う犬たちに向けて、フッと視線を巡らせた。
――ピタッ。
その瞬間、会場の空気が凍りついた。
いや、人間たちには何も感じられなかっただろう。しかし、会場にいた数十匹の犬たちの本能は、見事に、そして確実にあるものを『感知』したのだ。
乃愛の背後に幻視される、燃え盛る炎を纏った三つの頭を持つ巨大な魔獣。
魔界の冥府を護る、生態系の頂点に君臨する『絶対的な上位捕食者のオーラ(殺気)』が、ほんの一瞬だけ、会場全体に解き放たれたのである。
「「「…………」」」
さっきまでけたたましく吠え狂っていたゴールデンレトリバーも、ボルゾイも、ドーベルマンも。
すべての犬が、キャン!という悲鳴すら喉の奥で飲み込み、一斉に尻尾を股の間に巻き込んで、ブルブルと震えながらその場に伏せた。一部の小型犬に至っては、自ら進んでヘソ天になり、完全服従のポーズで微動だにしなくなった。
「えっ? ちょ、どうしたのアーサー! 立ちなさい!」
「ステファニー? 急に震え出して……具合でも悪いの!?」
飼い主たちがパニックに陥る中、乃愛とセバスチャンだけが、静寂に包まれたリンクの中央を、優雅に、そして完璧な歩調で歩き始めた。
(……す、すごい……! 大ボス様が一度睨んだだけで、あいつら全員が平伏した……! 俺は今、世界で一番偉いボスに仕えている選ばれし犬なんだ……!)
セバスチャンは、圧倒的な強者(乃愛)の庇護下にあるという絶対的な安心感と、少しでも粗相をすれば自分が食われるという極限の恐怖が入り混じり、かつてないほどの威風堂々たる歩きを見せた。
胸を張り、軽やかに足を運び、乃愛と完璧なアイコンタクトを取りながら、リンクを周回する。
「……素晴らしい」
中央のテントに座っていた三人の審査員たちが、感嘆の息を漏らした。
「見事な歩様だ。ハンドラーと犬が、一本の見えない糸で繋がっているかのように完璧に同調している」
「しかも、周囲の犬たちが異常なまでに静まり返っている。これは、あのハンドラーの少女が放つ、犬を落ち着かせる特殊なアルファ(リーダー)波のようなものが影響しているとしか思えない……! 奇跡のハンドリングだ!」
審査員たちの絶賛を一身に浴びながら、乃愛はセバスチャンを所定の位置でピタリと停止させた。
セバスチャンは彫像のように微動だにせず、ただひたすらに乃愛の目だけを見つめ続けていた。
「……よし。よくやったぞ、セバスチャン」
乃愛が小声で(口には出さずテレパシーで)褒めると、セバスチャンの尻尾が、品性を保ちながらも嬉しそうにフリフリと揺れた。
結果発表。
言うまでもなく、グランプリ(最優秀賞)は、他の犬たちが謎の恐怖でまともに歩けなかったこともあり、満場一致で『セバスチャン&園田乃愛ペア』の頭上に輝いたのである。
* * *
その日の夜。
コーポ日ノ出の大家部屋の六畳間は、まるで祭りのような騒ぎになっていた。
「うおおおおっ! 乃愛、よくやった! 我が軍の武威を、人間界の獣どもに知らしめたな!」
黒木がバンバンと乃愛の肩を叩いて褒め称える。
「ふん。まあ、あんな犬ころの品評会で優勝したくらいで大袈裟ね。……でも、アンタが真ん中を歩いてる時、ちょっとだけカッコよかったわよ」
麗華も、コタツ(まだ春先で出ている)の中から少しだけ素直な言葉をかける。
「大家さん! 見てください、賞金の五万円! 店長から現金で封筒に入れてもらいました!」
乃愛が、誇らしげに茶封筒を真木に突き出した。
「おおっ! でかしたぞ乃愛! お前もついに、自らの特殊スキルを合法的な高額報酬に変換する術を身につけたか! これで来月の家賃は安泰だな!」
真木が喜んで封筒を受け取ろうとしたが、乃愛は「あっ、待ってください!」と封筒を引っ込めた。
「家賃は来月ちゃんと払いますけど、今日はその中から、皆さんに『ご褒美』を買ってきたんです!」
「ご褒美?」
乃愛が足元に置いてあったコンビニの保冷バッグを開けると、中から出てきたのは――。
「こ、これは……ッ! 一個三百円近くする、高級アイスクリーム(ハーゲ〇ダッツ)ではないか!」
真木が驚愕の声を上げた。
魔界の氷結魔法で作った氷菓子など足元にも及ばない、濃厚なミルクとバニラビーンズの香りが特徴の、現代日本におけるプチ贅沢の最高峰である。
「そうです! 今日は私のおごりです! 魔王様も凛花様も、みんな好きな味を選んでください!」
「おおおおおっ!! 乃愛殿、なんという太っ腹! では私はこの『クッキー&クリーム』を!」
黒木が歓喜の涙を流してアイスを手に取る。
「私は『ストロベリー』一択よ。血の色に一番近いからね」
麗華が素早く確保し、久世は「抹茶の渋みこそ暗殺者の嗜み」と言いながらグリーン色のカップを選んだ。朝比奈も「……俺は、バニラでいい」と、少し照れくさそうに受け取った。
「大家。私は『マカデミアナッツ』をいただきます。……素晴らしいですね。かつて初給料で犬用の高級ジャーキーを買ってきたあの乃愛が、今や仲間のために人間用の高級アイスを振る舞うようになるとは。確かな成長です」
凛花が眼鏡の奥で目を細め、静かに評価を下す。
「よし! では余はこの『期間限定・キャラメルショコラ』を頂こう!」
真木が一番高そうな限定フレーバーを手に取り、木製の小さなスプーンで表面をすくって口に運んだ。
「……ッ!!」
濃厚な甘さと、キャラメルのほろ苦さが、舌の上でとろけていく。
「美味い……! 五臓六腑に染み渡るような、至福の甘さだ!」
「えへへっ、でしょー! やっぱり、みんなで食べると美味しいですよね!」
乃愛が、自分の分のバニラアイスを口の周りにつけながら、満面の笑みを浮かべた。その頭の上で、見えない犬耳が嬉しそうにピョコピョコと動いている。
ドッグショーの優勝と、五万円の臨時ボーナス。
そして何より、仲間たちに囲まれて食べる、少しだけ贅沢な夜のアイスクリーム。
コーポ日ノ出の六畳間に、スプーンがカップをこするカチャカチャという音と、平和な笑い声が響き渡る。
魔界の番犬として恐れられた彼女の、人間社会における「最高の労働の喜び」が実を結んだ、甘くて冷たい春の夜の出来事であった。




