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第39話:停電の夜のアナログゲーム

大型台風が関東地方を直撃し、凄まじい暴風雨が『コーポ日ノ出』を揺るがせた、その夜。

二階のベランダにおける黒木鉄心と朝比奈駆の命懸けの死守作戦により、アパートの窓ガラスと屋根は無傷で守り抜かれた。

やがて、風の音が徐々に遠ざかり、吹き荒れていた雨粒がポツリ、ポツリと静かな音に変わっていく。

「……フゥ。どうやら、台風の目、あるいは暴風域から完全に抜けたようだな」

大家部屋の六畳間で、窓の隙間から外の様子をうかがっていた真木征司(元魔王ヴァルザード)が、安堵のため息を吐いた。

その瞬間であった。


――バツンッ。


アパート全体を照らしていた蛍光灯が、一斉に音を立てて消滅した。

冷蔵庫のモーター音も、換気扇の唸りも、すべてが唐突に途絶える。

完全なる暗闇と、耳鳴りがするほどの静寂が、六畳間を包み込んだ。

「なっ!? なんだ、敵の夜襲か!」

一階に集まっていた黒木が、暗闇の中で身構える。

102号室の佐伯凛花(元首席補佐官)が、冷静にスマートフォンのライトを点灯させた。

「落ち着きなさい、黒木隊長。ブレーカーが落ちたわけではありません。窓の外を見てください。街灯も、遠くのマンションの明かりも、すべて消えています」

真木が窓から顔を出すと、いつもはオレンジ色の街灯に照らされている杉並区の住宅街が、墨を流したような漆黒に沈み込んでいた。

「地域一帯の『停電』ですね。おそらく、台風による倒木か飛来物が、どこかの主要な送電線を切断したのでしょう」

「て、停電だと!? この現代日本において、インフラが完全に停止したというのか!」


『いやぁぁぁぁぁぁっ!!』

二階から、神埼麗華(元吸血貴族)の悲鳴が聞こえた。

ドタバタと階段を駆け下りてきた彼女は、スマートフォンの画面を真木の顔に突きつけた。

「ちょっと大家! 電気が消えただけじゃなくて、スマホの電波が『圏外』になってるんだけど!? 私、今ソシャゲのゲリライベント周回中だったのよ! スタミナが溢れちゃう!」

「知るか! 近くの携帯基地局の電源も落ちたのだろう! 少しは現実世界のスタミナを回復させろ!」

「わふぅ……暗くて怖いですぅ……」

201号室の園田乃愛(元ケルベロス)も、尻尾を巻いて震えながら一階の大家部屋に転がり込んできた。

結局、暗闇と不安に耐えきれず、コーポ日ノ出の住人全六名が、再び真木の六畳間に集結することとなった。

真木は、先日ホームセンターの防災コーナーで購入しておいた『太いロウソク』を数本取り出し、ちゃぶ台の上に立てて火を灯した。

ゆらゆらと揺れるオレンジ色の炎が、六人の顔を不気味に、そしてどこか温かく照らし出す。

「……まるで、魔界の地下祭壇での黒魔術の儀式だな。これから誰の魂を捧げるつもりだ、魔王」

元勇者パーティーの戦士・朝比奈駆が、壁際の影に寄りかかりながら皮肉を言う。

「黙れ。このまま復旧を待つのも退屈だ。通信機器が使えず、テレビも見られないのなら、かつての人間たちが電波のない時代に興じていた『究極の暇つぶし(アナログゲーム)』をやるしかないだろう」

真木は押し入れの奥から、ホコリを被った一つの大きな平たい箱を取り出してきた。

「これは……?」

「以前、リサイクルショップで百円で叩き売りされていたのを、何かの役に立つかと思って買っておいたのだ。その名も……『人生ゲーム』だ!」

真木が箱を開けると、中からカラフルなマス目が描かれた盤面と、ルーレット、そして小さなお札の束や、自動車の形をしたコマが出てきた。

「ほう、人生のシミュレーションですか。我々のように異世界から流れ着き、底辺から資本主義を這い上がっている者たちにとって、これほど相応しい遊戯はありませんね」

凛花が眼鏡をギラリと光らせ、自ら『銀行役』を買って出た。

かくして、ロウソクの灯りだけを頼りに、元魔族と元勇者による、血で血を洗う架空の資本主義バトルが幕を開けたのである。


「よし、まずは余のターンだな! ルーレットを回すぞ!」

カララララッ、チチチチ……。

「出目は『6』だ! えーと……『ベンチャー企業を立ち上げる。銀行から五万ドル借りる』……?」

「はい、魔王様。これが資金の五万ドルです。そしてこちらが、借金の証明である『約束手形』になります」

凛花が冷徹な手つきで、赤い文字で『約束手形(二万ドル)』と書かれた不吉な紙切れを三枚、真木の前に突き出した。

「や、約束手形……! これが現実世界で不渡りを出せば、即座に会社が倒産するという、あの恐ろしい魔の契約書か!」

「ゲーム内では、ゲーム終了時に利子をつけて返済しなければなりません。ご利用は計画的に」

現実のアパート経営では一円単位の出費に血の涙を流している真木だが、ゲームという架空の空間、しかも「魔王」というかつての肩書きが彼の傲慢さを刺激してしまったらしい。

「フハハハハ! たかが五万ドル! 魔界の覇王たる余が、この程度の負債でビビるものか! さあ、どんどんルーレットを回し、富を独占してやるわ!」


一方、真木とは対極のプレイスタイルを見せたのが、元勇者の朝比奈であった。

「俺のターンだな……『3』。職業を選ぶマスか」

朝比奈は盤面の職業カードをじっと見つめ、一秒の迷いもなく『公務員』のカードを手に取った。

「お、おい朝比奈! お前、勇者のくせになぜ『スポーツ選手』や『タレント』のような一獲千金の夢を追わないのだ! 公務員など、給料が固定でつまらんではないか!」

「黙れ魔王。俺は、戦場(現場)での過酷な日雇い交通誘導を通じて学んだのだ……。天候に左右されず、毎月決まった日に安定した給料(給与)が振り込まれ、社会的信用が保証される職業……それこそが、この現代日本における最強の『聖騎士』であることを!」

朝比奈の目は血走っていた。魔王討伐という命懸けの不安定なクエストに人生を消費した彼にとって、安定した年功序列の昇給システムは、いかなる伝説の武具よりも魅力的に輝いて見えたのだ。

「俺は……手堅く生きる。ボーナスを貯金し、小さなマイホームを買い、生命保険に入るのだ……!」


ゲームは中盤戦へと突入した。

真木はルーレットの出目に翻弄され、完全に暴走していた。

「よし! 余のターン! 『未開のジャングルで油田を発見! 十万ドルもらう』! フハハハハ! 見たか、これが魔王のカリスマよ!」

「魔王様、次のターンです。……『油田が枯渇。莫大な負債を抱える。二十万ドル払う』」

「な、なにィィィィッ!?」

「払えない場合は、再び約束手形を切ってください」

凛花が無慈悲に、赤い約束手形を十枚、真木の前に叩きつける。

「くそっ! ならばこれでどうだ! 『世紀のビッグプロジェクト、火星移住計画に投資する。ルーレットで奇数が出れば五十万ドル、偶数なら全財産没収』! これだ! 余の魔力……いや、強運をもってすれば、奇数など造作もないわッ!」

カララララッ……チチチ。

「……『2』。偶数です。魔王様、全財産没収、および火星移住失敗による違約金として、さらに約束手形五枚追加です」

「あああああぁぁぁぁっ!! 我が帝国が! 我が資金が宇宙の塵にぃぃっ!!」

現実では堅実にアパート経営をしている男が、盤上では火星移住などという荒唐無稽な夢を見て、約束手形の山(借金まみれ)に埋もれて絶望の叫びを上げていた。


その対面で、朝比奈は静かに、そして確実にルーレットを回し続けていた。

「……『結婚する。お祝い金を一人五千ドルずつもらう』。みんな、祝儀を払え」

「チッ。なぜ余が、勇者の結婚の祝儀など払わねばならんのだ……手形で払う!」

「……『子供が産まれる』。『マイホームを購入する』。『着実に昇進し、公務員の退職金を満額受け取る』。……ふっ。素晴らしい。これだ。これこそが、俺の求めていた真の平和(ゴール)だ……!」

朝比奈の自動車のコマには、ピンクと水色のピン(配偶者と子供)がギッシリと刺さり、手元には堅実な貯金によって積み上げられたドル札の山が築かれていた。

最終的に、ゴール地点での決算。

「勝者、朝比奈殿。……そして魔王様は、約束手形の利子を差し引いた結果、マイナス五十万ドルの大借金により『開拓地送り(破産)』となります」

「ぐはぁぁぁぁッ……!!」

真木はちゃぶ台の上に突っ伏し、完全敗北を喫した。

「……ゲームの中でまで借金まみれになるなんて、大家として情けなさすぎるわよ」

麗華が呆れたように鼻で笑う。

「ええい、うるさい! たかが紙切れの遊びではないか! よし、次はもっと単純な知略と心理戦のゲームだ! 『トランプ』を持ってこい!」


* * *

ロウソクの火が半分ほどに短くなった頃。

ちゃぶ台の上では、七人の住人全員が参加する『ババ抜き』の白熱したバトルが繰り広げられていた。

「ふふっ……。ババ抜きなど、私にとっては赤子をひねるようなものよ」

手札を扇状に広げ、神埼麗華が自信満々に鼻で笑った。

「吸血鬼の動体視力を舐めないことね。人間がカードを引かれる瞬間、その眼球のわずかな動き、指先の筋肉の微細な強張り。それらすべてが、私にはスローモーションのように視えるのよ。誰がババ(ジョーカー)を持っているかなど、手に取るようにわかるわ!」

「ほう。ならば、私の手札から引いてみるがいい、神埼殿」

麗華の右隣に座る、久世颯太が不敵に笑って手札を差し出した。

彼の指先は、暗殺者として培われた究極の『隠密技巧(スライハンド)』によって、カードの配置を絶えずミリ単位で移動させ、相手の視覚を撹乱している。

(……ふん。小賢しい真似を。左から二番目のカードを引く時だけ、あいつの呼吸がわずかに止まった。間違いない、あれがジョーカーよ! だから私は、一番右のカードを引く!)

麗華は自信満々に、一番右のカードをシュッと引き抜いた。

しかし。

「……あ」

麗華の引いたカード。それは、不敵に笑う道化師が描かれた『ジョーカー』そのものであった。

「なっ、なんで!? 確かに左から二番目が……!」

「甘いな、吸血鬼。お前のその『動体視力が良すぎる』という特性を逆手に取ったのだ。呼吸を止め、筋肉を強張らせたのは、すべてお前を『そこがジョーカーだ』と誤認させるためのフェイク(囮)。真の暗殺者は、自らの生理現象すらも偽装するのだ」

「キィィィィッ! 謀ったわねこの配達員!」

ババを引かされてしまった麗華は、顔を真っ赤にして憤慨した。

「吸血鬼のポーカーフェイスとやらも、大したことはないな。顔がトマトのように真っ赤ではないか」

真木がからかうと、麗華は「うるさい!」と怒鳴り、今度は左隣の乃愛に向かってカードを突き出した。

「さあ、乃愛! 引きなさい! 私の完璧なポーカーフェイスで、絶対にジョーカーは引かせないわよ!」

麗華は目をカッと見開き、顔の筋肉を完全に硬直させて、一枚のカードをわずかに上に突き出すという「あからさまなトラップ」を仕掛けた。

「えーっとぉ……じゃあ、これ!」

乃愛は、麗華の顔や駆け引きなど一切見ず、ただクンクンと匂いを嗅ぐと、スッと一枚のカードを引き抜いた。

それが、見事に麗華の持っていたジョーカーであった。

「えっ!?」

「あ、これジョーカーだぁ! えへへっ」

乃愛はジョーカーを引いたというのに、全く気にした様子もなく、ただ尻尾をパタパタと振っている。

「な、なんで!? あんた、何も考えずに引いたでしょ!」

「だって、お姉ちゃんの持ってるカードの中で、そのカードだけ、一番汗の匂いが濃かったんだもん! ずっとギュッと握りしめてたからですよね!」

犬の究極の嗅覚の前に、吸血鬼の心理戦など全くの無意味であった。

その後、乃愛はジョーカーを持ったまま、全く表情を変えずに「ニコニコ」と笑い続け、次の番の黒木があっさりとジョーカーを引かされる羽目になった。

「ぬおおおっ! な、なんという無邪気なポーカーフェイス! 我が重装歩兵の勘が、完全に狂わされたわ!」

「黒木のお兄ちゃん、残念でしたー!」


ロウソクの揺れる光の中、六畳間には絶え間ない笑い声と、怒号と、カードを切る音が響き続けていた。

外の暗闇と静寂とは対極にある、むせ返るような熱気と、人間の……いや、魔族たちの生活感に満ちた空間。


「あーっ、また負けた! もう一回! 次こそは絶対にババ抜きの女王の座に……!」

麗華がカードをかき集めようとした、その時である。


――ピィィィンッ! ブゥゥゥン……。


突如、六畳間の天井の蛍光灯が、眩いほどの白い光を放って点灯した。

同時に、沈黙していた冷蔵庫のモーター音が力強く鳴り始め、麗華のスマートフォンの画面に、電波のアンテナマークが三本、ピコッと復活した。

「……おっ」

真木が、眩しさに目を細めながら天井を見上げた。

「電気が……復旧したようだな」

「やったぁぁぁぁっ! 文明の光よ! Wi-Fiよ! ソシャゲのスタミナが溢れる前にログインできるわ!」

麗華が歓喜の悲鳴を上げてスマートフォンに飛びつく。

「わふぅ、明るいですぅ! おへそ取られなくて済みましたぁ!」

「おお……冷蔵庫の保冷機能も復活したか。これで明日用のプロテイン牛乳が腐らずに済む!」


パッと明るくなった六畳間で、住人たちがそれぞれに歓声を上げ、日常のインフラが戻ってきた喜びに浸っている。

真木は、燃え尽きそうになっているちゃぶ台のロウソクの火を、フッと息を吹きかけて吹き消した。

細い煙が立ち昇り、消えていく。

(……魔界では、夜は常に暗く、冷たく、そして裏切りと暗殺の恐怖に満ちていた)

真木は、散らかった『人生ゲーム』の盤面と、トランプのカードを見つめながら、静かに心の中で呟いた。

(だが、この国での停電の夜は……不思議と、恐怖はなかったな。むしろ、この狭い部屋に皆で集まり、下らない遊戯に興じる時間が……ひどく、温かいものに感じられた)

文明の利器が失われた数時間。

それは、彼らが異世界では決して味わうことのなかった、「何気ない夜の温もり」と「仲間との繋がり」を、改めて噛みしめるための貴重な時間であったのかもしれない。


「よし! 電気も戻ったことだし、今日の宴はここまでだ! 全員、自分の部屋に帰って寝ろ! 明日の仕事に遅刻して、家賃を滞納することだけは絶対に許さんからな!」

真木がいつもの大家の顔に戻り、パンパンと手を叩いて住人たちを追い出しにかかる。

「ちぇっ、いいところだったのに。おやすみ、大家」

「真木様、おやすみなさいませ! 明日の現場も粉骨砕身、頑張ってまいります!」

「おやすみなさいですぅ!」

ゾロゾロと部屋へ戻っていく店子たちの背中を見送りながら、真木はほうっと短く息を吐き、口元に小さな笑みを浮かべた。

「……まったく、世話の焼ける連中だ」


コーポ日ノ出の窓に、再び生活の明かりが灯る。

台風と停電という自然の試練を乗り越え、彼らの絆はまた一つ、アナログな遊びを通じて深く結びついたのである。

東京の郊外、杉並区の片隅で、大家と店子たちの騒がしくも温かい日常は、明日へ向かって力強く続いていく。

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