第38話:台風直撃とベランダ死守作戦
九月の声を聞くと同時に、日本列島は本格的な台風シーズンへと突入する。
魔力を持たない現代日本において、自然の猛威というものは、いかなる大魔法よりも無慈悲で圧倒的な破壊力を持っている。
木造アパート『コーポ日ノ出』の一階、大家部屋。
六畳間に置かれた古いブラウン管テレビ(地デジチューナー接続済み)の画面には、日本列島をすっぽりと覆い隠すほどの巨大な白い渦巻きの衛星画像と、緊迫した声で警戒を呼びかける気象予報士の姿が映し出されていた。
『――現在、非常に強い勢力を保った大型台風18号が、関東地方に接近しています。今夜遅くから明日の未明にかけて、東京都心に上陸する恐れがあります。過去十年で最大級の暴風と記録的短時間大雨が予想されており、不要不急の外出を控え、窓ガラスの補強など、厳重な警戒をお願いします』
「…………」
大家である真木征司(元魔王ヴァルザード)は、テレビの画面を凝視したまま、額から冷や汗をダラダラと流していた。
その隣で、ノートパソコンを開いていた102号室の佐伯凛花(元首席補佐官)が、カチャカチャとキーボードを叩きながら冷徹な事実を告げた。
「大家。気象庁の発表によれば、今回の台風の中心気圧は九百四十ヘクトパスカル、最大瞬間風速は秒速六十メートルに達するとのことです」
「びょ、秒速六十メートル……だと?」
「はい。木造家屋においては、屋根の瓦が飛び、窓ガラスが粉砕され、最悪の場合は建物の構造自体に致命的な歪みが生じるレベルの暴風です。築三十八年、老朽化が進む我が『コーポ日ノ出』にとって、これは過去最大の危機と言えます」
真木は、思わず天井を見上げた。
雨漏りした際にブルーシートを張って応急処置をしたトタン屋根。隙間風が入ってくる薄い窓ガラス。
もし、このアパートが台風によって半壊でもしようものなら。
「り、凛花。もし屋根が飛んで、窓が全部割れたら、修繕費はいくらになる……?」
「ざっと見積もって、屋根の全面葺き替えで約三百万円。窓ガラスや外壁の補修、さらに店子たちの家財への損害賠償などを合わせれば、軽く五百万円は吹き飛ぶでしょう。現在、我々が血のにじむような思いで貯めた修繕積立金の残高が約二百五十万円。……つまり、完全に破産です」
「破産だとォォォォッ!?」
真木は畳の上で頭を抱え、絶叫した。
魔王軍を率いて勇者と戦っていた頃は、城の壁が一つや二つ崩れようが気にしなかった。魔法で直せばよかったし、最悪、部下に命じて石を積ませれば済んだ。
だが、ここは現代日本。職人を呼べば莫大な人件費がかかり、足場を組むだけで数十万が飛んでいく、恐ろしい資本主義の戦場なのだ。
「い、いかん! 我が城を、自然現象ごときに壊されてたまるか! これまでの苦労と家賃収入の結晶を、風で飛ばされてなるものかァァッ!」
真木はガバッと立ち上がり、大家部屋の襖を開け放った。
「総員、直ちに大家部屋へ集合せよ! 第一種警戒態勢を発令する!」
* * *
数分後。
真木の緊急招集により、コーポ日ノ出の住人全六名がロビーに集結した。
101号室の黒木鉄心、103号室の久世颯太、201号室の園田乃愛、202号室の神埼麗華、そして203号室の朝比奈駆である。
「皆の者、よく聞け! 今夜、この杉並区に超大型の台風が直撃する! 我がアパートは築三十八年の木造建築であり、その防御力はスライムの皮膚のごとく脆弱だ!」
真木が声を張り上げると、店子たちの間にどよめきが走った。
「な、なんですと! では、我が愛馬が風で吹き飛ばされてしまうのでは!?」
久世が顔面を蒼白にさせる。
「わふぅ……雷と強風、怖いですぅ……。おへそ取られちゃいますぅ……」
乃愛が耳と尻尾を完全に下げ、黒木の太い腕に抱きついてガタガタと震え始めた。
「フン、自然の風など恐るるに足らず。俺の剛剣で、台風の目ごと一刀両断にしてくれるわ」
朝比奈が元勇者パーティーの戦士らしい無茶苦茶なことを言うと、真木は丸めた新聞紙で朝比奈の後頭部をスパーン!と引っ叩いた。
「痛っ! 何をする魔王!」
「お前は剣を持っておらんし、この世界に魔力はない! 物理的に風を斬れるわけがなかろうがこの脳筋戦士! それに、そんなことをしてご近所の家の壁でも斬ったら、器物損壊で一発実刑だ!」
真木はホワイトボードの前に立ち、赤いマジックで力強く『台風対策防衛線』と書き殴った。
「いいかお前たち。我が城の存亡は、窓ガラスの死守と、飛来物の防御にかかっている。強風で窓ガラスが割れれば、そこから一気に室内に暴風が吹き込み、内側からの風圧で屋根が丸ごと吹き飛ばされるのだ! それだけは絶対に阻止せねばならん!」
「なるほど……。窓という結界が破られれば、内部から崩壊するわけですね。まさに城攻めの基本」
黒木が腕を組んで深く頷いた。
「その通りだ。これより、我々コーポ日ノ出の全戦力をもって、物理的な防衛工作を開始する! 凛花、資材は!」
「すでにホームセンターで調達済みです。アパート修繕費として経費計上しております」
凛花が指差した先には、緑色の『養生テープ』が数十個、土嚢袋、ブルーシート、そして大量のダンボールが山積みになっていた。
「よし! 黒木、朝比奈! 貴様らは力仕事だ。アパートの周囲にある植木鉢や、飛ばされそうなものをすべて室内に退避させ、一階のドアの前に土嚢を積め!」
「はっ! お任せを!」
「チッ、なぜ俺が魔王の命令で……だが、住処を失うわけにはいかんからな。やってやる」
「麗華、乃愛、久世! お前たちはすべての部屋の窓ガラスに、養生テープを『米の字』に貼れ! 万が一ガラスが割れても、破片が飛び散るのを防ぐための防刃コーティングだ!」
「えーっ、私がやるのぉ? 爪が汚れちゃうじゃないのよぉ」
「文句を言うな吸血鬼! お前の部屋の遮光カーテンが破れて、昼間に太陽光が降り注いでもいいのか!」
「ひぃっ! や、やります! 完璧に貼らせていただきますぅ!」
真木の適的確な指示(という名の脅迫)により、かつて異世界で敵味方に分かれて殺し合っていた者たちが、ただ一つの木造アパートを守るため、見事な団結力を見せ始めたのである。
* * *
午後八時。
空はすでに不気味な赤紫色に染まり、遠くから地鳴りのような風の音が聞こえ始めていた。
杉並区の路地裏には人っ子一人おらず、雨戸や雨戸のない窓には、ガムテープや養生テープが物々しく貼られている。
コーポ日ノ出の防衛工作も、完了していた。
すべてのベランダから物干し竿やサンダルが撤去され、一階の各部屋と大家部屋の窓ガラスには、幾重にも養生テープが貼られ、さらに内側からダンボールを当てて補強されている。
「……風が、泣いています。気圧の急激な低下。この大気の重さ……並の嵐ではありません。風神の怒りそのものです」
窓の隙間から外の様子をうかがっていた久世が、かつての暗殺者の鋭い目つきで呟いた。
「大家、テレビのニュースによれば、あと一時間ほどで台風の目が東京を通過します。最も風雨が強まる時間帯です」
凛花がスマートフォンの防災アプリを確認しながら告げる。
「うむ。各部屋の店子たちにも、窓から離れて部屋の中央で待機するよう伝えてある。あとは、このボロアパートの柱が強風に耐え切ってくれるのを祈るだけだ」
真木はちゃぶ台の前に座り、腕を組んでジッと耐えの姿勢に入った。
そして、午後九時過ぎ。
ついに、本陣への攻撃が開始された。
ゴォォォォォォォォォォォッ!!
まるで巨大な魔獣がアパート全体にのしかかって吠え声を上げたかのような、凄まじい暴風の直撃。
ギシィッ、メキメキメキッ!
築三十八年の木造の柱が、悲鳴を上げて大きく軋んだ。
「ひぃぃぃぃっ!」
二階から、麗華と乃愛の悲鳴が聞こえてくる。
「耐えろ! 我が城の柱よ、耐えるのだ! お前たちには先日、ホームセンターの防腐剤をたっぷりと塗ってやっただろうが!」
真木が天井に向かって叫ぶ。
雨粒が、まるでマシンガンの弾丸のように窓ガラスに打ち付けられ、バリバリバリッ!という恐ろしい音を立てる。テープとダンボールで補強しているとはいえ、ガラスがたわむのが目に見えてわかるほどの風圧だ。
その時であった。
「真木様ッ! 一大事です!」
大家部屋の襖が開き、黒木と朝比奈が血相を変えて飛び込んできた。
「どうした! 雨漏りか!」
「いえ! 二階の共有通路の端から外を見たところ……商店街の方角から、おびただしい数の『飛来物』が、風に乗ってこちらへ向かって飛んできております!」
「飛来物だと!?」
真木が久世に目配せをすると、久世がわずかに窓の隙間を開け、風の気流を読んだ。
「……報告します! 強風に煽られ、近隣のゴミ箱、トタン板、折れた木の太い枝、さらにはどこかの店のプラスチック製の看板などが、竜巻のごとく宙を舞い、我がアパートの二階部分に直撃する軌道を描いています!」
「な、なんだとォォォッ!?」
真木は顔面を蒼白にさせた。
ただの風なら、アパートの構造が耐えきれるかもしれない。だが、秒速五十メートルを超える風に乗ったトタン板や看板が窓ガラスに直撃すれば、養生テープの補強など何の意味もなさない。
ガラスが粉砕され、暴風が室内に侵入すれば、アパートの屋根が内側から弾け飛び、五百万円の修繕費が確定してしまう。それだけは、大家の魂に懸けて絶対に阻止しなければならない!
「くそっ、このままでは全滅だ! おい黒木、朝比奈! 貴様ら、魔界と人間界の武の頂点を極めた男たちだな!」
「は、はっ! 我らの武に二言はありませんが……」
「俺の剣術を疑うのか、魔王!」
「ならば、その力、今こそ我が資産価値を守るために使え!」
真木は大家部屋の押し入れから、百円ショップで買ったペラペラの『透明ビニール雨合羽』を二着取り出し、二人に投げつけた。
「それを着て、二階のベランダと共有通路へ出ろ! 飛んでくる瓦礫や看板を、貴様らの肉体と技術で、すべて窓から弾き飛ばすのだ! ガラスに指一本、いや、傷一つ付けさせるなァァッ!」
「なっ……! この暴風雨の中、外に出て飛来物を迎撃しろと言うのか!?」
朝比奈が絶句する。
「そうだ! お前たちならできるはずだ! さあ行け! 防衛に失敗すれば、明日からお前たちの寝床は河川敷のダンボールハウスだぞ!」
「くっ……! 魔王め、人使いが荒すぎる! だが、この雨風ごときで俺が後れを取ると思ったら大間違いだ!」
「御意ッ! 我が肉体、コーポ日ノ出の防壁となりましょう!」
黒木と朝比奈は、百円の安っぽい雨合羽を羽織り、それぞれ『武器』を手に取って、暴風雨の吹き荒れる二階のベランダへと飛び出していった。
* * *
ゴォォォォォォォッ!!
外はまさに、地獄絵図であった。
立っているのも困難な暴風雨の中、二階のベランダに仁王立ちする二人の男。
重装歩兵隊長・黒木鉄心は、物干し竿の支柱として使われていたコンクリートブロックの土台(約二十キロ)を、まるで軽々とした盾のように左腕に構えている。
勇者パーティーの戦士・朝比奈駆は、大家部屋から持ち出した『木製の長柄モップ』を、愛用の大剣と同じ正眼の構えでピタリと保持していた。
「来るぞ、勇者の戦士よ! 第一波、空き缶と瓦礫の散弾だ!」
「見切っている! 俺の背後は取らせん!」
強風に乗って、無数の小石や空き缶が散弾銃のように飛んでくる。
しかし。
ガキンッ! バギンッ!
黒木が構えたコンクリートの盾が、窓ガラスに向かうすべての飛来物を完璧な角度で弾き返す。
さらに、それをすり抜けた予測不能な軌道の枝や瓦礫に対し、朝比奈のモップが閃光のように閃いた。
「シィィッ!」
パァンッ! バキィッ!
勇者の動体視力と神業の剣術(モップ術)。飛んでくる枝をモップの柄で的確に叩き落とし、窓ガラスへの直撃を寸前で防ぐ。
「す、すげえ……」
一階の窓の隙間から、懐中電灯でその様子を照らしていた久世が、思わず感嘆の声を漏らした。
「あの二人、この暴風の中にあって、一歩も足場を揺るがせていない。まさに鉄壁の要塞だ」
「頼むぞ、お前たち! 我が城を、我が家賃収入を守り抜けェェッ!」
真木が窓の内側から、血を吐くような声で声援を送る。
防衛戦は十分、二十分と続いた。
百円の雨合羽は強風ですでにビリビリに破け、二人は全身ズブ濡れになっていたが、その闘気は微塵も衰えていなかった。
その時。
「黒木! 前方十二時の方向、上空を見ろ! 大物が来るぞ!」
朝比奈が雨水を拭いながら絶叫した。
暴風の闇の向こうから、巨大な影が回転しながらこちらへ飛んでくる。
それは、どこかの駐車場の屋根から剥がれ落ちたと思しき、畳二畳分はあろうかという『巨大なトタン屋根の塊』であった。
フリスビーのように恐ろしい速度で回転し、真っ直ぐにアパートの二階中央の窓を狙っている。
「アレが当たれば、ガラスの補強など意味を成さない! 一撃で粉砕されるぞ!」
朝比奈がモップを握り直す。
「朝比奈よ! ここは私が受け止める! 貴様はそのモップで、軌道を逸らせ!」
「わかった! 合わせろ、黒木!」
かつて、魔王城の攻防戦で幾度となく刃を交えた二人の宿敵が。
今、築三十八年の木造アパートのベランダで、トタン屋根という名の巨大な敵に対して、完璧な連携攻撃を放とうとしていた。
ギュオォォォォォッ!!
トタン屋根が、凶器のような刃となって襲い掛かる。
「うおおおおおおッ!! 重装歩兵の意地、見せてくれるわァァァッ!」
黒木が、二十キロのコンクリートブロックを両手で掲げ、飛来するトタン屋根の先端へと真っ向から叩きつけた。
ガガァァァァァンッ!!
すさまじい金属音と衝撃。黒木の巨体が風圧と物理的衝撃に押され、ベランダの床をズザザザッ!と滑る。
しかし、その一撃によって、トタン屋根の回転と勢いが一瞬だけ死んだ。
「今だァァァッ! 勇者の剣撃!!」
朝比奈が、渾身の力を込めたモップの柄を、勢いを殺されたトタン屋根の側面へと叩き込んだ。
バキィィィィンッ!!
モップの柄が真っ二つに折れ飛ぶ。
だが、その強烈な一撃により、トタン屋根の軌道は完全に逸れ、コーポ日ノ出の窓ガラスを数センチの差でかすめ抜け、隣の空き地の地面へと大きな音を立てて墜落していった。
「……ハァ、ハァ、ハァ……!」
モップの残骸を握りしめた朝比奈と、コンクリートブロックを下ろした黒木が、ズブ濡れのまま肩で息をしている。
二人の目は、暴風雨の中でしっかりと交差し、そして、フッと互いに口角を上げた。
「……やるな、魔王軍の盾よ」
「ふん。貴様のその棒切れの腕も、なかなかのものだ、勇者の戦士よ」
互いの実力を認め合う、熱き戦士たちの友情。
守るべきものは「世界」から「アパートの窓ガラス」へと極端にスケールダウンしていたが、彼らが成し遂げた偉業は、間違いなく伝説級であった。
* * *
翌朝。
嘘のように晴れ渡った青空の下。台風一過の眩しい太陽が、杉並の街を照らし出していた。
近隣の家々では、植木鉢が割れたり、カーポートの屋根が飛んだりといった被害が出ている中。
木造アパート『コーポ日ノ出』は、瓦一枚、窓ガラス一枚の破損すらなく、昨日の姿のまま、堂々とそこに立ち尽くしていた。
「……勝った。我が軍の、完全勝利だ」
アパートの前で、真木は両手を広げて朝日を浴びながら、歓喜の涙を流していた。
ベランダから降りてきた黒木と朝比奈は、完全に風邪を引いたのか「クシュン!」と派手なクシャミをしている。
「お疲れ様でした、お二人とも。あとで経費で葛根湯を買ってきますので、飲んでください」
凛花が珍しく労いの言葉をかけ、久世と乃愛が庭に散乱したゴミの片付けを行っている。
「ふふっ。これで修繕費五百万円の出費は免れた。お前たち、本当によくやってくれたぞ!」
真木が満面の笑みで振り返る。
「だが、朝比奈。お前が折ったモップの代金、八百円。これは来月の家賃と一緒に請求するからな」
「な、なんだとォォォッ!? 俺は貴様のアパートを命懸けで守ったんだぞ! それくらい大家の経費で落とせ!」
「馬鹿を言え! 武器の損耗は自己負担だ! 嫌なら自分の剣を魔界から取り寄せてこい!」
「おのれ魔王ォォォッ!!」
台風一過の爽やかな朝の空気に、いつもの騒がしい怒号が響き渡る。
自然の猛威という最大の脅威を、店子たちの団結力(と大家のケチさ)で見事に乗り切ったコーポ日ノ出。
彼らの絆は、どんな暴風雨にも負けないほど、深く、そして強固に根を張りつつあった。
大家・真木征司の満室経営への執念は、天災をも屈服させ、次なる平和な日常へと続いていくのであった。




