第37話:名物「魔王定食」の誕生
東京・杉並区。ポカポカとした春の陽気が街を包み込む、ある平日の午前十一時。
木造アパート『コーポ日ノ出』の大家・真木征司(元魔王ヴァルザード)は、大家部屋の六畳間で、日課である帳簿の記帳作業を終え、百円ショップで買った湯呑みで緑茶を啜りながら、至福のひとときを過ごしていた。
「ふむ。各部屋の家賃回収は完了し、修繕積立金も順調に増加中。外壁塗装のスケジュールも来月には組めるだろう。まさに、不労所得生活の基盤は盤石。この平和な城の中で、余はただ時の流れに身を任せていればよいのだ」
真木がほっと息を吐き、寝転がってワイドショーでも見ようとした、その時であった。
ジャージのポケットに入っていたスマートフォンが、けたたましい着信音を鳴らし始めた。
「む? 誰からだ。志乃か? いや……神保殿からか」
画面には、町内会長であり大衆食堂『じんぼ亭』の店主である神保康平の名前が表示されていた。先日、彼がギックリ腰で倒れた際、真木が代わりに厨房に立ち、宮廷料理のスパイス配合論を応用した生姜焼きと唐揚げを提供して店を救ったのは記憶に新しい。
通話ボタンを押して耳に当てると、電話の向こうから、悲鳴にも似た神保の絶叫が飛び込んできた。
『ま、真木ちゃァァァァんっ!! 助けてくれェェェェッ!』
「神保殿!? どうしました、また腰をやったのですか!?」
『腰はコルセット巻いてるからなんとか持ってるけど、そういう問題じゃねえんだ! 店の前が……店の前がエラいことになっちまってて! 頼む、今すぐ助けに来てくれ! このままじゃ、近隣からクレームが来て店が潰れちまう!』
「エラいこと……?」
ただ事ではない神保のパニックぶりに、真木はただちに立ち上がった。
「承知しました! 我がコーポ日ノ出の大家として、地域コミュニティの危機を見過ごすわけにはいきません。すぐに向かいます!」
真木はジャージのままアパートを飛び出し、小走りで商店街の路地へと向かった。
じんぼ亭の前に到着した真木は、思わず足を止めて絶句した。
「なっ……なんだ、この人間の群れは……!?」
まだ昼の十二時前だというのに、じんぼ亭の古ぼけた暖簾の前から、数十メートルの長蛇の列が形成されていたのである。
並んでいるのは、いつもの工場の作業員や近所のサラリーマンだけではない。スマートフォンを片手に写真を撮っている若い学生風のグループや、遠方からわざわざやってきたと思しき身なりの人々までが、目をギラギラさせて列をなしていた。
列の最後尾には『最後尾はこちらです』と書かれた即席のダンボールのプラカードが立っている。
「ど、どういうことだ。じんぼ亭は確かに美味いが、ここまで行列ができるような店ではなかったはずだぞ」
真木が群衆をかき分けて店の勝手口から厨房に潜り込むと、そこには汗だくになりながら、フライパン片手に半泣きになっている神保の姿があった。
「神保殿! 一体何が起きているのですか!」
「お、おおっ! 真木ちゃん、よく来てくれた! あれからお前さんが作った『生姜焼きと唐揚げの合盛り定食』を、常連の要望に応えて『日替わりスタミナ定食』としてメニューに出すようにしたんだよ。そしたら……」
神保は息も絶え絶えに説明した。
数日前に真木が作ったあの定食。果実の酵素で肉を極限まで柔らかくし、魔界のスパイス配合を応用して香りを爆発させたあの一品が、客のSNSを通じて爆発的に拡散しまったのだという。
『杉並の路地裏にある定食屋で、とんでもないオーラを放つ生姜焼きが出た』
『一口食ったら脳汁が止まらない。あれは完全に合法ドラッグだ』
『常連の間では、あの凶悪なボリュームと中毒性から【魔王定食】という裏名で呼ばれているらしい』
「ま、魔王定食……だと……!?」
真木の顔が引き攣った。人間たちのネーミングセンスは時に恐ろしいほど本質を突いてくる。
「俺一人じゃ、この人数は到底捌ききれねえ! それに、外で列が乱れて、隣のタバコ屋やクリーニング屋から『入り口を塞ぐな』ってクレームが来てるんだ! さらに、出前の電話も鳴りっぱなしで……完全にキャパオーバーだ!」
神保が悲痛な顔で頭を下げる。
「真木ちゃん、頼む! 今日だけでいいから、俺と一緒に厨房に立ってくれ! 時給は二千円……いや、三千円出す!」
時給三千円。
その甘美な響きに、大家としての、いや、資本主義の申し子としての真木の血が激しく滾った。
「……よかろう。町内会長のピンチとあらば、この真木征司、一肌も二肌も脱がせていただこう」
真木は予備の白エプロンを手に取り、背中でビシッと紐を結んだ。
「しかし神保殿、厨房は余が取り仕切るとして、外の行列の整理と、出前の配達はどうするのです? このままでは、近隣トラブルで保健所や警察に通報されかねませんぞ」
「そ、それが一番の問題なんだよ! 出前持ちのバイトも急には捕まらねえし!」
真木はニヤリと不敵な笑みを浮かべ、ジャージのポケットからスマートフォンを取り出した。
「フッ。案ずるな。我がコーポ日ノ出には、こういった修羅場に特化した『専門のプロフェッショナル』が揃っているのだ」
真木はグループLINEを開き、緊急招集のメッセージを送信した。
* * *
十五分後。
じんぼ亭の前に、一台の漆黒のロードバイクが急ブレーキをかけて停車した。
乗っているのは、黒いパーカーに身を包み、巨大なデリバリーバッグを背負った103号室の久世颯太(元風属性暗殺者)である。
さらにその直後、東洋警備保障の紺色の制服に身を包み、赤と白の誘導棒を腰に差した203号室の朝比奈駆(元勇者パーティー戦士)が、息を切らせて走ってきた。二人はちょうど、夜勤明けと非番でアパートで休んでいたところを、大家の特命によって強制召喚されたのだ。
「魔王……いや、大家さん! なんだこの人の群れは! 暴動でも起きたのか!」
朝比奈が驚愕して叫ぶ。
勝手口から顔を出した真木は、二人に向かって手短に状況を説明した。
「いいかお前たち。この店は今、未曾有の『ランチラッシュ』という名の敵軍に包囲されている。朝比奈! お前は現場の警備員として培った視線誘導スキルと統率力で、この行列を完璧に整列させ、近隣店舗への迷惑を完全に遮断しろ!」
「なっ、俺が交通誘導だけでなく、人間どもを整列させろだと!?」
「できるだろう、勇者の戦士よ! 民の安全と秩序を守るのがお前の仕事のはずだ!」
「……っ! わ、わかった! この俺の統率力、見せてやる!」
朝比奈は制帽を深く被り直し、赤白の誘導棒を両手で構え、大股で行列の先頭へと歩み出た。
「皆の者、聞けェェェェッ!!」
腹の底から響く、戦場を震わせるような勇者の号令が商店街に轟いた。
「これより、列の再構築を行う! 隣の店舗の入り口を塞いではならん! 壁側に一列で密着し、通行人のための動線を確保せよ! 自転車で来た者は、俺が指定する駐輪スペースへ速やかに移動だ!!」
そのただならぬ気迫と、誘導棒による美しくも威圧的な身振りに、並んでいた客たちは「ヒッ」と息を呑み、まるで魔法にかけられたかのようにスルスルと指示通りに動き始めた。
「はいっ、二列目の者はこちらへ! 間隔を詰めるな、前の者の息を感じる程度の距離を保て!」
朝比奈の完璧な指揮により、暴動寸前だった行列は、わずか数分で一糸乱れぬ美しい一本の線へと再編された。隣のタバコ屋の店主も、「おお、立派な警備員さんが来てくれたんだな」とホッと胸を撫で下ろしている。
一方、真木は久世に向き直った。
「久世! お前は『出前』だ。じんぼ亭には、近隣の工場やオフィスから出前の注文が殺到している。お前の風を読む力と、ロードバイクの機動力を以て、すべての弁当を温かいまま最速でドロップしてこい!」
「はっ! フードデリバリーの極意、ここに見せつけましょう! ターゲット(配達先)の住所とメニューは!?」
「カウンターに積み上げられた弁当の山だ。神保殿が書いた地図アプリのアドレスをスマートフォンに転送した。往復のロスタイムを極限まで削れ!」
「風の暗殺者、出陣ッ!!」
久世は巨大なデリバリーバッグに、熱々の「魔王定食弁当」を十個以上も隙間なく敷き詰め、タオルで完璧に固定した。そして、ロードバイクに飛び乗るや否や、ペダルを限界まで踏み込んだ。
シャァァァァァッ!!
タイヤが風を切る音だけを残し、久世は商店街の路地裏へと音もなく消えていった。
複雑に入り組んだ杉並の裏道を、彼は気流の流れと記憶したマップ情報だけで、コンマ一秒の無駄もなく駆け抜ける。
「出前です! じんぼ亭のスタミナ弁当、お持ちいたしました!」
「えっ!? もう来たの? 電話切ってからまだ十分も経ってないよ!」
「熱いうちにお召し上がりください! では、次なるターゲットへ!」
久世の配達スピードは、通常のバイク出前をも凌駕する異次元の領域に達していた。
* * *
外の防衛線が朝比奈と久世によって完璧に維持されている中、厨房の中では、真木が文字通りの「千手観音」と化していた。
ゴォォォォォッ!!
巨大な業務用コンロの青い炎が立ち昇り、三つのフライパンが同時に宙を舞う。
「神保殿、豚肉の筋切りと下味はすべて余がやる! 神保殿はご飯の盛り付けと、定食の小鉢の準備だけに専念してくれ!」
「お、おう! 真木ちゃん、手際が良すぎて俺の目が追いつかねえよ!」
真木は、肉を叩き切り、秘伝のスパイス(果実の酵素入り)で揉み込み、熱した油と炎で一気に旨味を閉じ込めるという工程を、機械のような正確さで繰り返していった。
ジューーーーーッ!!
店内に、生姜と醤油、そして焦げたスパイスの凶悪なまでに食欲をそそる匂いが充満する。
「お待ちどう! スタミナ定食、五丁上がりだ!」
カウンターに次々と並べられる「魔王定食」。
山のように盛られた千切りキャベツの横に、照り輝く分厚い豚の生姜焼き。そして、その傍らには、大人の拳ほどもある巨大な鶏の唐揚げが二つ、ゴロンと鎮座している。
それを一口食べた客たちは、一様に目を見開き、言葉を失ってひたすら白飯をかき込み始めた。
「う、美味すぎる……。肉がとろけるように柔らかくて、タレのパンチ力が凄まじい……!」
「唐揚げの肉汁で、口の中が火傷しそうだけど、止まらない……! すみません、ご飯大盛りでおかわり!」
店内の熱気と外の行列は、午後二時を回るまで一瞬たりとも途切れることはなかった。
午後三時。
ついに、準備していた豚肉と鶏肉、そして米が完全に底をつき、じんぼ亭の暖簾が下ろされた。
「……終わった」
真木はフライパンを置き、エプロンで額の汗を拭った。
勝手口の外では、行列整理を終えて声を枯らした朝比奈と、爆速出前を十往復以上こなして太ももがパンパンに張った久世が、地べたに座り込んで荒い息を吐いていた。
「お、俺は……交通誘導でこんなに精神をすり減らしたのは初めてだ……。人間どもの食欲への執念、恐るべし……」
「はぁ、はぁ……。我が愛馬のチェーンが、焼き切れるかと思いましたぞ……」
三人とも疲労困憊であったが、その顔には、圧倒的な敵軍(注文)を完全に捌き切ったという、強い達成感が滲んでいた。
「いやあ……真木ちゃん、そして朝比奈くんに、久世くん」
パイプ椅子に座った神保が、おしぼりで顔を拭きながら、深々と頭を下げた。
「あんたたちがいなかったら、うちは今日、確実に店が回らなくて客の信用を失ってた。本当に、本当にありがとう。この恩は一生忘れねえよ」
「気になさるな。大家と店子、そして町内会は持ちつ持たれつですから」
真木が余裕の笑みを浮かべて返すと、神保は真剣な顔つきで真木を見つめた。
「なぁ、真木ちゃん」
「はい?」
「あんた、本気でうちの店、継いでみないか?」
「…………は?」
真木の思考が、一瞬停止した。
「いや、冗談じゃないんだ。俺も腰がこの調子だし、歳も歳だ。後継ぎもいねえ。でも、あんたのあの料理の腕前と、客を捌くセンス。あれは完全にプロのそれだ。あんたがこの『じんぼ亭』の二代目になってくれりゃあ、この店はもっとでかくなる。俺は引退して、あんたにすべてを譲ってもいいと本気で思ってるんだよ」
神保のスカウトは、紛れもない本気であった。
人気定食屋の二代目。それは、普通に考えれば、安定した収入と社会的地位を約束される、極めて魅力的な提案である。
しかし。
真木は、一秒の迷いもなく、美しい営業スマイルのまま首を横に振った。
「ありがたいお話ですが、謹んでお断りさせていただきます」
「えっ? なんでだ? 給料なら、大家の家賃収入よりよっぽど稼げるようになるぜ?」
「神保殿。私は『労働』が大嫌いなのです」
真木は胸を張り、極めて堂々と宣言した。
「私がアパートの大家をやっているのは、自らが汗水垂らして働くことなく、店子たちから合法的に毎月の家賃(年貢)を徴収し、平日の昼間から公園で寝転がって過ごすという『究極の不労所得生活』を完成させるためです。毎日これほど過酷な厨房に立ち、油と汗にまみれるなど、私の美学に反します」
あまりにも清々しいクズ発言(不労所得への執着)に、神保はポカンと口を開け、やがて大声で笑い出した。
「ハッハッハッハ! そうか、そうだったな! あんたは『大家業』が本業だった! いやあ、もったいないが、あんたらしいや!」
「お気持ちだけ、ありがたく受け取っておきます。また腰が痛い時や、どうしても人手が足りない時だけ、スポットで『時給三千円』で助っ人に入りましょう」
「おう! 頼もしい限りだぜ!」
* * *
その日の夜。
コーポ日ノ出の共用ロビーに、住人全員(真木、黒木、凛花、久世、麗華、乃愛、朝比奈)が集結していた。
ちゃぶ台の上には、神保から送られてきた特大のダンボール箱と、大量のビール(発泡酒ではない、本物のプレミアムビール)のケースがドンッと置かれている。
「皆の者! 本日の昼の激戦、誠に大儀であった!」
真木がビールの缶を高く掲げた。
「神保殿から、本日の働きに対する莫大な『謝礼金』と、仕込みすぎて余ってしまったという豚肉と鶏肉の塊、そしてこの美酒が贈られてきた! 今夜は、我が城の総力を挙げての祝勝会(大宴会)である!」
「うおおおおおっ!! 肉だァァァッ!!」
黒木が歓喜の雄叫びを上げ、乃愛が「お肉!お肉!」と尻尾を振って飛び跳ねる。
「ふん。私は夜勤前だから、少しだけ付き合ってあげるわ。……大家、あの生姜焼き、ちゃんと私の分も残しておきなさいよ」
麗華も、なんだかんだで嬉しそうにコップを差し出した。
「魔王……。貴様の手料理を美味いと感じてしまう自分が、情けない……。だが、今は食う!」
朝比奈も、勇者の誇りと食欲の狭間で葛藤しながら、すでに箸を握りしめている。
「大家。この謝礼金は、臨時収入としてアパートの修繕積立金に計上しておきますね。これでまた一つ、経営基盤が盤石になりました」
凛花が電卓を叩きながら、微笑みを浮かべた。
「よし! では、コーポ日ノ出の平和と、我らの胃袋に……乾杯!!」
「「「乾杯!!」」」
カチンッ!と、缶とコップがぶつかる音が、春の夜のアパートに響き渡る。
真木が厨房のホットプレートで焼き上げる、極上の生姜焼きの匂い。
ビールを流し込み、くだらないことで笑い合う、元魔族と元勇者たちの騒がしい宴。
名物「魔王定食」の誕生は、杉並区のB級グルメ界に伝説を残すとともに、コーポ日ノ出の住人たちの一体感を、さらに強固なものへと焼き上げた。
彼らはもう、ただの異世界からの漂流者ではない。
この東京の片隅で、働き、食べ、共に笑い合う、どこにでもいる、しかし少しだけ特別な「アパートの住人たち」なのだ。
大家・真木征司の満室御礼生活は、春の暖かな夜風に吹かれながら、最高潮の盛り上がりを見せていた。




