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第36話:じんぼ亭の危機と魔王の厨房

うららかな春の日差しが、東京・杉並区の商店街を優しく照らしている。

木造アパート『コーポ日ノ出』の大家・真木征司(元魔王ヴァルザード)は、大家としての午前中の日課である共用部分の清掃を終え、ジャージのポケットに財布を突っ込んで、商店街へと足を踏み入れた。

時刻は午前十一時半。世間のサラリーマンたちが昼食を求めて街に繰り出す、いわゆるランチタイムの少し前である。

「さて、今日の昼飯はどうするか。昨晩のスーパーの特売で仕入れた食材は底をついたし、たまには外食で英気を養うのも悪くない」

真木が向かったのは、アパートから歩いて数分の場所にある大衆食堂『じんぼ亭』であった。

町内会長でもある店主の神保康平には、回覧板のやり取りから始まり、年末の餅つき大会、そして先日の合同防災訓練と、何かと世話になっている。大家として地域社会の顔役と良好な関係を保つためにも、定期的に金を落としておくのは立派な「交際費(経費)」である、と102号室の佐伯凛花(元首席補佐官)からもお墨付きをもらっているのだ。


「神保殿、やってるか」

真木がじんぼ亭の藍色の暖簾をくぐろうとした、その時。

「いてててててっ……! あ、あかん、これは完全にやっちまった……」

店の前の立て看板の横で、白衣にエプロン姿の神保が、腰を両手で押さえながら「くの字」になってうずくまっていた。

「し、神保殿!? どうした、勇者の不意打ちでも受けたか!?」

「ゆ、勇者じゃねえよ……ギックリ腰だ。朝の仕込みで寸胴鍋を持ち上げようとしたら、腰の骨に電撃が走ってよぉ……。一歩も動けねえんだわ……」

神保は脂汗を流しながら、苦痛に顔を歪めていた。

真木は慌てて駆け寄り、神保の腕を肩に回して、店内のパイプ椅子へと慎重に座らせた。

「大丈夫ですか、神保殿。救急車を呼びましょうか」

「いや、救急車呼ぶほどじゃねえけど……こりゃあ、今日のランチ営業は絶望的だな。困ったぞ、昼時は近所の工場の連中やサラリーマンが大挙して押し寄せてくるのに。何より、今日は町工場の社長さんから『特製弁当十個』の予約が入ってて、これから作らなきゃならねえってのに……」

神保は悔しそうに厨房を見つめ、深いため息を吐いた。

「すまねえ真木ちゃん。せっかく食いに来てくれたのに。今日は暖簾を下ろして『臨時休業』の札を出すから、悪いけど他を当たってくれや」


神保が寂しそうに言ったその言葉に、真木の胸の奥で、何かが静かに燃え上がった。

この男には、インフルエンザで倒れた時に「たまご粥」を持ってきてもらった恩がある。福引で特賞の洗濯機を当てるきっかけをくれたのもこの男だ。

何より、我がコーポ日ノ出がこの杉並区の地域コミュニティに無血開城し、平穏な不労所得生活基盤を築けたのは、町内会長である神保の多大なバックアップがあったからこそなのだ。

(……ここで恩を返さずして、何が魔王か。何が大家か!)

「神保殿」

真木は腕を組み、かつて魔王城の玉座で全軍に命令を下していた時のような、絶対的な威厳と自信に満ちた声を響かせた。

「その臨時休業、撤回していただこう」

「へ? いや、でも俺は一歩も動けねえし、包丁も握れねえぞ」

「案ずるな。厨房には、余が立つ」

「……はぁっ!?」

神保は痛む腰も忘れて、目を丸くして真木を見た。

「ま、真木ちゃんが料理すんの!? いやいや、そりゃあ一人暮らしで自炊くらいはしてるだろうけど、ここは定食屋の厨房だぜ? 家庭料理と、昼のピークタイムの百人前を捌くプロの戦場は、根本的に違うんだぞ!」

「フッ。舐めるな、人間の料理人よ」

真木はジャージの袖をまくり上げ、店内にあった予備の白いエプロンを手に取って、背中でビシッと紐を結んだ。

「余はかつて、数百万の飢えた兵士たちの兵糧を管理し、祝勝会となれば魔界の全領主が集う宮廷の饗宴(きょうえん)を総指揮していた男だ。食材の目利き、肉の熟成、スパイスの配合。料理という概念のすべてを統括していた余にとって、この程度の定食屋の厨房など、庭で遊ぶようなものだ」

もちろん、神保の耳には「昔、すごくでかいホテルの厨房を取り仕切ってた」というふうに脳内変換されて届いていた。

「ほ、ホントか!? それなら……背に腹は代えられねえ。頼む、真木ちゃん! 今日のランチメニューは『豚の生姜焼き定食』と『鶏の唐揚げ定食』の二本立てだ。食材とタレは冷蔵庫にあるから、好きに使ってくれ!」

「承知した。我が軍配……いや、包丁捌き、とくとご覧あれ」


真木は厨房に入ると、まずシンクで念入りに手と腕を洗い、アルコール消毒液を吹きかけた。

そして、業務用の巨大な冷蔵庫を開け、仕込み中の豚ロース肉と、鶏もも肉の塊を取り出した。

神保はパイプ椅子に座ったまま、その様子を心配そうに見守っていた。

(いくら厨房経験があるとはいえ、うちの店の味を出せるのか……? 常連客は、いつもの生姜焼きを楽しみに来てるんだぞ……)


しかし、神保のその不安は、次の瞬間に真木が見せた「異常な手際」によって完全に粉砕されることになる。


「……なるほど。豚肉の質は悪くないが、筋切りが甘いな。これでは焼いた時に反り返り、肉の繊維が硬直して旨味が逃げる。鶏肉も、ドリップ(血水)を拭き取る作業が足りん」

真木はまな板の上に肉を広げると、神保が研いでおいた牛刀を手に取った。

タァァァァァンッ!!

目にも留まらぬ速さで、包丁の先端が豚ロース肉の赤身と脂身の境界線に突き立てられ、一瞬にして完璧な筋切りが完了した。

続いて、鶏もも肉。

「唐揚げは、ただ揚げればいいというものではない。肉の部位によって繊維の向きが違うのだ」

真木は鶏肉の繊維の走行を瞬時に見極め、熱が均等に入るように、かつ肉汁が最も閉じ込められる黄金比のサイズに、ミリ単位の狂いもなく切り分けていく。

「な、なんだあの包丁捌き……ッ! 早回しのビデオを見てるみたいだ……」

神保が度肝を抜かれている間にも、真木は下味の仕込みに入っていた。

ボウルに醤油、酒、みりんを入れ、そこへ冷蔵庫の端にあった「すりおろしリンゴ」と、数種類のスパイス(生姜、ニンニク、さらにカレー粉のスパイスからクミンとコリアンダーを極微量)をブレンドしていく。

「魔界宮廷料理における『炎魔竜のステーキ』に用いるスパイス配合論……それを現代日本の生姜焼きに応用する。果実の酵素で肉のタンパク質を分解しつつ、熱した際にスパイスの香りが爆発的に開くように計算するのだ」

「真木ちゃん、ブツブツ言ってないで早くタレに漬け込まねえと味が染みねえぞ!」

「フッ、案ずるな。余の物理的な『浸透圧コントロール』を見よ!」

真木は肉を入れたボウルを両手で持ち、凄まじいスナップで高速回転させ始めた。遠心力と摩擦熱、そして真空状態を作り出すような異常な撹拌(かくはん)により、通常なら一時間漬け込まなければならない下味が、わずか三分で肉の細胞レベルまで完璧に浸透してしまったのだ。

「よし、下ごしらえ完了。白飯も完璧に炊き上がっているな」


その時、店の入り口のガラス戸がガラガラッと開き、ドヤドヤと男たちの集団が入ってきた。

「おう大将、やってるか! 腹減ったぜ、生姜焼き定食三つと、唐揚げ二つな!」

近所の工場の作業員たちを皮切りに、スーツ姿のサラリーマンたちが次々と店になだれ込んでくる。

時刻は十二時ジャスト。

ランチタイムという名の、戦端が開かれた瞬間であった。


「……来たな。人間の大群(客)どもめ」

厨房に立つ真木は、フライパンの柄を握りしめ、目を細めた。

かつて、魔王城に攻め寄せてきた数万の勇者軍の波状攻撃。それに比べれば、定食屋のピークタイムの注文ラッシュなど、最弱のスライムの群れが突撃してくるようなものだ。

「生姜焼き三、唐揚げ二、了解した。直ちに配給(サーブ)する!」

真木は業務用の巨大なガスコンロの前に立ち、二つの火口を同時に点火した。

ゴォォォォォッ!!と、青い炎が勢いよく上がる。

右手のフライパンで生姜焼きの豚肉を焼き、左手は揚げ油の温度を手をかざしただけで正確に測り取る。

「油の温度、百六十度。第一陣、投入」

ジュワァァァァァッ!と、唐揚げが油の海に沈む。

同時に、右手のフライパンから、醤油と生姜、そして微かなスパイスの香ばしい匂いが爆発的に立ち昇った。

「このタイミングだ!」

真木はフライパンを煽り、炎の柱を立ち上げて肉の表面を一気にコーティングする。

神保はパイプ椅子から、信じられないものを見るような目でその光景を凝視していた。

(なんだ、この無駄のない動きは……! 火加減、鍋振り、盛り付け……すべてが完璧なタイミングで連動している。俺が三十年かけて身につけた動線より、遥かに洗練されてやがる!)


「お待ちどう。生姜焼き定食三、唐揚げ定食二だ」

注文からわずか数分で、完璧な火入れと盛り付けが施された定食がカウンターに並べられた。

客の作業員たちが、「おや、大将じゃないのか?」と不思議そうにしながらも、箸を割って肉を口に運んだ。

「……ッ!!」

男たちの動きが、一斉に止まった。

「おい……なんだこれ。今日の生姜焼き、めちゃくちゃ美味いぞ!?」

「肉が信じられないくらい柔らかい! それに、タレの味がガツンとくるのに、後味がスッキリしてて……白飯が無限に食える!」

「こっちの唐揚げもヤバい! 外はカリッカリなのに、噛んだ瞬間に肉汁が小籠包みたいに飛び出してきたぞ!」

作業員たちが、目を剥いてバクバクと定食を貪り食い始めた。

「すいませーん! こっち、ご飯おかわり! 大盛りで!」

「俺もおかわり! あと、生姜焼き単品で追加してくれ!」

店内に、歓声にも似た絶賛の嵐が巻き起こった。


「フッ。人間の胃袋など、余の宮廷料理の知恵をもってすれば容易く支配できる」

真木は余裕の笑みを浮かべ、次々と飛び込んでくる注文を、まるで千手観音のような手捌きで捌いていった。

肉を焼き、油から揚げ、味噌汁をよそい、ご飯を盛る。

そのすべてが、オーケストラの指揮者のように美しく、完璧なリズムで奏でられていた。

カウンターの奥で見ていた神保は、もはや感極まって涙ぐんでいた。

(お前、一体何者なんだ……。本当に、昔どこかの三つ星レストランか、一流ホテルの総料理長でもやってたんじゃないのか……?)


* * *

午後二時。

ランチタイムの嵐が去り、じんぼ亭の暖簾が下ろされた。

厨房のシンクには洗い物が積まれているが、冷蔵庫の中にあった豚肉と鶏肉、そして炊飯器の米は、見事なまでに空っぽになっていた。

「……終わったな。本日の補給任務、完全勝利だ」

真木はエプロンを外し、額の汗をタオルで拭った。

神保はパイプ椅子から立ち上がれないまま、しかし満面の笑みで真木に向かって深々と頭を下げた。

「ありがとうよ、真木ちゃん……。いや、真木大将。まさか、用意してた食材が全部売り切れるなんてな。おまけに、町工場の弁当十個も完璧に間に合わせてくれた。あんたのおかげで、うちの店の信用は守られたよ」

「気になさるな。ご近所の助け合いです」

真木は爽やかな営業スマイルに戻り、冷たい麦茶を一気に飲み干した。

「我がコーポ日ノ出の家賃収入を安定させるには、この杉並の街全体が活気に満ちていることが必要不可欠ですからな。神保殿の店が繁盛すれば、我がアパートの資産価値も間接的に上がるというものです」

「ハハハ、大家さんらしい合理的な考え方だな。でも、本当に感謝してるぜ」

神保はレジから売上金の一部を抜き出し、茶封筒に入れて真木に差し出した。

「これは本日の助っ人代だ。遠慮なく受け取ってくれ」

「おお! これはありがたい。アパートの修繕積立金に回させていただきます」

真木は現金を懐に収め、さらに神保から「これ、残り物の賄いだけど食ってくれ」と、特大の生姜焼きと唐揚げの合盛り弁当を手渡された。

「美味い飯は労働の最大の報酬だ。謹んで頂戴する」


かくして、じんぼ亭の休業危機は、元魔王の圧倒的な厨房スキルによって見事に救われた。

アパートへ帰る道すがら、真木は弁当の温もりを感じながら、ふと考える。

(……余の料理、人間どもには随分とウケが良かったな。もしアパート経営が行き詰まったら、弁当屋でも始めるか? いやいや、余の第一目標はあくまで『不労所得』。労働は手段であって目的ではないのだ)

真木は首を振り、大家としての己の信念を再確認した。


しかし。

彼が去った後のじんぼ亭では、今日の生姜焼きを食べた客たちが、午後になっても「あの定食屋の親父、腕を上げたな」「今日の生姜焼きは麻薬みたいに旨かった」と街中で噂を広めていた。

この日、真木が気まぐれで作ったスパイス配合の定食が、後に杉並区のB級グルメ界を揺るがす『伝説の魔王定食』として大バズりし、じんぼ亭の前に長蛇の行列を作ることになるとは、この時の真木は知る由もなかったのである。

大家の副業(ボランティア)が、思わぬ形で街の経済を回し始めた、そんな春の日の午後であった。

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