第35話:町内合同防災訓練の日
穏やかな春の陽光が、東京・杉並区の住宅街に降り注ぐ日曜日の朝。
木造アパート『コーポ日ノ出』の一階、共用ロビーには、休日の遅い眠りを貪っていたはずの住人たちが、大家である真木征司(元魔王ヴァルザード)の号令によって強制的に集められていた。
「皆の者、よくぞ集まった。本日は我がコーポ日ノ出の命運を左右する、極めて重要な『地域防衛任務』の日である」
ジャージの首元までジッパーを上げ、首にタオルを巻いた真木が、腕を組んで仁王立ちしている。
その前に並ぶのは、寝癖のついたままの大田組作業着を着た101号室の黒木鉄心、黒いパーカー姿の103号室・久世颯太、犬耳の寝癖を手で押さえる201号室の園田乃愛、そして、真っ昼間の外出という吸血鬼にとっての致死環境に完全遮光装備(日傘、サングラス、黒いショール)で臨む202号室の神埼麗華である。
さらに、102号室の佐伯凛花は、動きやすいスウェット姿でありながらもバインダーを抱えており、203号室の朝比奈駆は、「なぜ俺が魔王の号令で休日に早起きせねばならんのだ」と不満げに腕を組んでいる。
「大家。本日の『町内合同防災訓練』のスケジュールは確認済みです」
凛花がバインダーを開き、冷徹な声で告げた。
「午前九時より、近隣の杉並第三小学校の校庭にて、町内会および地元消防団主催の防災訓練が実施されます。真木様が町内会長の神保殿から直々に参加を要請されたとのことですが、我々全員を動員するほどのリスク(労力)に見合うリターンはあるのでしょうか」
「当然だ、凛花。地域コミュニティへの積極的な参加は、アパートの信用度をカンストさせる最高の手段なのだ」
真木は声を大にして語り始めた。
「いざ災害が起きた時、助け合いのネットワークに組み込まれているか否かで、生存確率は劇的に変わる。さらに、近隣住民から『あのアパートの若者たちは頼りになる』という評価を得られれば、少々の生活音やトラブルなど、笑って見過ごしてもらえるようになる。いわば、これは町内会という名の『防護結界』を強化するための軍事演習なのだ!」
「なるほど……。地域住民の好感度を稼ぎ、有事の際の防御力を高める。極めて合理的な生存戦略ですね」
「わかったら行くぞ! 総員、我がコーポ日ノ出の無駄に高い身体能力を見せつけ、杉並区民の度肝を抜いてやるのだ!」
* * *
杉並第三小学校の校庭は、すでに数百人の町内会メンバーや家族連れ、消防団員たちでごった返していた。
「おおっ、真木ちゃん! みんな連れてきてくれたか、嬉しいねえ!」
受付テントにいた町内会長の神保康平(大衆食堂『じんぼ亭』店主)が、満面の笑みで一行を出迎えた。
「もちろんです、神保殿。この街の平和を守るためならば、我ら日ノ出陣営、いつでも馳せ参じます」
真木が完璧な営業スマイルで握手を交わす。
訓練は、校庭をいくつかのブースに分けて順番に回るスタンプラリー形式となっていた。
「最初は『土嚢積み訓練』だ。水害を想定して、砂袋を積んで壁を作るんだけど、これがけっこう腰に来る重労働でね。若い衆の力を貸してやってくれ」
神保に案内され、真木たちは土嚢が山積みされたエリアへと向かった。
そこでは、町内の役員(中年〜初老の男性たち)が、二十キロ近くある土嚢を「よっこいしょ」と声を上げながら、一つずつ必死に運んで積んでいた。
「……フッ。見よ、あれが人間の老人たちの貧弱な防壁構築だ。黒木、お前の出番だ」
「はっ! お任せを!」
大田組の解体現場で日々丸太のような腕を鍛え抜いている元重装歩兵隊長・黒木鉄心が一歩前に出た。
「おいおい、兄ちゃん。気をつけてな、見た目以上に重いか……えっ!?」
役員の男性が忠告を言い終わる前に、黒木は両腕で同時に四つの土嚢(合計約八十キロ)を軽々と抱え上げた。
「ぬぅんッ! 我が軍の城壁を築くのに、この程度の小石袋、片手で十分!」
黒木はそのまま、ドスドスと軽い足取りで指定場所へ向かい、ドサッ、ドサッと完璧なバランスで土嚢を積み上げ始めた。
さらに、凛花が横に立ち、指差し確認で指示を飛ばす。
「黒木隊長、一段目の隙間が二ミリ開いています! 水圧を計算し、互い違いに積む『レンガ積み(イギリス積み)』の要領で結合部を強化しなさい!」
「御意!!」
ズドン! ズドン!
わずか一分。通常なら十人がかりで五分以上かかる防壁(高さ一メートル、幅三メートル)が、黒木一人の圧倒的な膂力と凛花の緻密な計算により、一寸の隙もない完璧な城壁として完成してしまった。
「す、すげえ……。重機の作業でも見てるみたいだ……」
「コーポ日ノ出の若い衆、ハンパじゃねえな……」
周囲の町内会メンバーから、どよめきと拍手が湧き起こる。
「ハッハッハ! 皆様、お気になさらず! 彼は普段から解体現場で鍛えておりますので!」
真木は周囲に愛想を振りまきながら、心の中で「よし、第一段階クリアだ」とほくそ笑んでいた。
続いて一行が向かったのは『初期消火・バケツリレー訓練』のブースであった。
火災に見立てた赤いカラーコーンに向かって、水を入れたバケツを列になって手渡しで運ぶという、チームワークが試される訓練だ。
「ここは我々コーポ日ノ出チーム単独で挑ませていただこう。久世、黒木、前へ出ろ!」
「はっ!」
真木の指示で、水源(大きな水槽)の前に黒木が立ち、中間に久世、乃愛、凛花が並び、火点の前に朝比奈が立つという布陣が敷かれた。
「よーし、火災発生! 訓練開始!」
消防団員の笛の合図とともに、黒木が水槽から赤い消火バケツにたっぷりと水を汲み上げた。
「久世ッ! 行くぞ!」
「来いッ!」
黒木が、信じられない速度でバケツを放り投げるように久世へパスした。
だが、中には水がなみなみと入っている。普通にパスすれば、水がこぼれて大惨事になるはずだ。
しかし。
シュバッ!!
バケツを受け取った久世は、元・風属性暗殺者としての「気流を読む力」と「極限の体幹コントロール」を瞬時に発動させた。
彼はバケツの重みと水の慣性を完全に相殺するように、己の体をコマのように回転させ、遠心力を利用して次の乃愛へとバケツをスライドさせたのだ。
「わふっ! はいっ!」
乃愛が犬の反射神経で受け取り、凛花へ。凛花が無駄のない最短距離の軌道で朝比奈へ。
シュン! シュバッ! パシッ!
それは、まるで早送りビデオを見ているかのような、異常な光景だった。
黒木から朝比奈へと渡るバケツの軌道は、完全に地面と平行を描き、中の水は遠心力によって水面に波紋すら立てず、一滴たりともこぼれることがなかった。
そして、最後尾の朝比奈が、剣を振り下ろすのと同じ究極の『正眼の構え』から、カラーコーンに向かって水を完璧な直線でぶち撒けた。
ザッパァァァァンッ!!
「的、完全鎮火!!」
朝比奈の雄叫びが響き渡る。
訓練開始から、目標のカラーコーンが水浸しになるまで、わずか三秒。
校庭に静寂が落ちた。
「…………えっ?」
タイムを計っていた消防団員が、ストップウォッチを持ったまま口をパクパクさせている。
「今、水、こぼれなかったよな……? バケツが、宙を飛んでいったように見えたぞ……?」
「サーカスか!? あの兄ちゃんたち、中国雑技団の出身か何かか!?」
どよめきは、やがて割れんばかりの歓声と大拍手へと変わった。
「いやあ、素晴らしい! バケツリレーの概念を覆す、神業の連続でしたよ!」
消防署長自らが駆け寄り、真木の手を固く握りしめた。
「いえいえ! 日頃からの、アパートの連帯感の賜物です!」
真木は謙遜しながらも、久世と黒木に「やりすぎだバカ! 目立ちすぎるなと言っただろうが!」と小声で叱責を飛ばしていた。
そして、訓練は最終ブースへと差し掛かった。
『AEDおよび心肺蘇生法訓練』である。
ブルーシートの上に置かれた、上半身だけのダミー人形(いわゆるアンと呼ばれる訓練用マネキン)。消防署員が、胸骨圧迫(心臓マッサージ)とAEDの使い方の手本を見せている。
「いいですか皆さん。倒れている人を発見したら、まずは意識の確認です。そして、周囲の人に助けを求め、AEDを手配してください」
署員の説明が終わり、「では、実際に体験してみたい方はいますか?」と声がかかった。
「よし。朝比奈、お前が行け。勇者パーティーの戦士として、民の命を救うのは得意だろう」
真木が背中を押すと、朝比奈は「ふん。魔王に言われるまでもない」と鼻を鳴らし、ダミー人形の前へと進み出た。
朝比奈はダミー人形の横に膝をつき、その無機質な顔を見つめた。
その瞬間。
朝比奈の脳裏に、かつて魔界での激戦の最中、毒の矢を受けて倒れた戦友たちの姿がフラッシュバックした。
(……死なせるものか。俺の目の前で、これ以上、誰の命も散らせはしない……ッ!)
元勇者の戦士としてのスイッチが、完全に「ガチの戦場モード」へと切り替わってしまったのだ。
「おい、しっかりしろ! 目を開けろ! 俺の声が聞こえないのか!!」
朝比奈は、ダミー人形の肩をガシッと掴み、鬼気迫る形相で絶叫した。
「ヒィッ!?」
指導していた消防署員が、あまりの迫力に悲鳴を上げて後ずさる。
「呼吸なし、脈拍なし! くそっ、間に合え……! 蘇生術を施す!」
朝比奈はダミーの胸に両手を重ね、体重をかけて胸骨圧迫を開始した。
しかし、その押し方は、ただの力任せではない。戦士として人体の急所と骨格を熟知している彼の手技は、肋骨を折ることなく、心臓のみに的確な圧力を加える、ある意味で究極の心臓マッサージであった。
「一、二、三、四! 戻ってこい……! お前の魂はまだ、三途の川を渡りきってはいないはずだ!!」
朝比奈の目は血走り、額からは滝のような汗が流れ落ちている。
さらに、彼の手元にAEDのパッドが渡されると、彼はそれをまるで聖なる神器のように天高く掲げた。
「光よ! 雷の精霊よ、この者の心臓に再び命の鼓動を刻み込め! いざ、解放!!」
バチィィィン!!
AEDの音声案内に従ってボタンを押しただけなのだが、朝比奈の気迫と大げさなアクションにより、まるで高度な蘇生魔法が発動したかのような錯覚を周囲に与えた。
「……はぁ、はぁ、はぁ……。どうだ、息を吹き返したか……」
朝比奈がダミー人形に顔を近づけ、真剣な目で問いかける。
周囲の町内会メンバーや家族連れは、あまりの「ガチすぎる命の現場感」に完全にドン引きし、水を打ったように静まり返っていた。
「…………あの、お兄さん。それ、ただのプラスチックの人形なんで、息は吹き返さないんですけど……」
消防団員の若者が、恐る恐るツッコミを入れた。
「あ……」
朝比奈はハッと我に返り、自分が周囲から「ヤバい奴」として奇異の目で見られていることに気がついた。
「ちょ、朝比奈! 貴様、訓練でトラウマを呼び起こしてどうする!」
スパーーーンッ!
たまらず駆け寄った真木が、持っていた防災パンフレットを丸めて朝比奈の後頭部を思い切り叩いた。
「あいたっ!」
「皆様、申し訳ありません! こいつ、少々感受性が強すぎる男でして! アクション映画の見過ぎなんです! ハハハハハ!」
真木が無理やり笑い飛ばし、黒木と久世が両脇から朝比奈を抱え上げて強制的にブースから引きずり出した。
「離せ! 俺はただ、命の重さを真剣に受け止めただけだ!」
「うるさいバカ勇者! アパートの信用を下げるな!」
* * *
数々の騒動と、異常なまでの身体能力を見せつけた防災訓練は、無事に全行程を終了した。
閉会式。
校庭の朝礼台に立った消防署長と町内会長の神保から、名指しで『コーポ日ノ出』の住人たちが前に呼ばれた。
「えー、本日の訓練において、圧倒的なチームワークと、真剣すぎる……いや、模範的な取り組み姿勢を見せてくれたコーポ日ノ出の若者たちに、町内会より特大の感謝状と、記念品を贈呈します!」
パチパチパチパチッ!と、校庭全体から温かい拍手が送られる。
真木は代表して朝礼台に上がり、神保から立派な額縁に入った感謝状を受け取った。
「ありがとうございます。我々コーポ日ノ出は、今後も杉並区の平和と安全に貢献していく所存です!」
そして、副賞として手渡されたのは、両手で抱えきれないほど巨大なダンボール箱であった。
「これは……?」
「町内会で備蓄してた、賞味期限が近い『非常食の缶詰セット』と『アルファ米』の詰め合わせだ。みんな若いから、よく食うだろ?」
神保がウインクをして小声でささやく。
箱の中を覗き込んだ真木の目が、キラリンッ!と欲望に輝いた。
そこには、サバの味噌煮、焼き鳥缶、パンの缶詰、そして大量のレトルトご飯がぎっしりと詰まっていたのだ。総額にして数万円分は下らない。
(勝った……! この圧倒的な量の兵糧(保存食)! これで我がアパートの住人たちの食費が、最低でも半月は浮く計算になる! 防災訓練、なんという素晴らしいボーナスクエストか!)
「総員、引き上げるぞ! 我が軍の大勝利だ!」
真木はダンボール箱を黒木に担がせ、意気揚々と校庭を後にした。
後ろを歩く麗華が「あーあ、日焼け止め塗り直さなきゃ。疲れたわ」とぼやき、乃愛が「サバ缶! サバ缶!」と尻尾を振って喜んでいる。
朝比奈はまだ少し恥ずかしそうに下を向いていたが、久世が「あの心肺蘇生の気迫、見事であったぞ」と肩を叩いて慰めていた。
夕日に照らされる杉並の街並み。
特大の感謝状と大量の缶詰を抱え、コーポ日ノ出の住人たちは、また一つ、この地域のコミュニティに深く、そして強固に根を下ろしたのである。
大家・真木征司の満室経営と平和な日常への地固めは、いかなる災害にも揺るがない鉄壁の要塞へと進化しつつあった。




