第34話:天野警察官の抜き打ち査察
東京・杉並区。桜の蕾がほころび始め、少しずつ春の足音が聞こえてくる季節。
警視庁杉並警察署、地域安全課に所属する天野結衣巡査は、白い自転車(白チャリ)を押しながら、閑静な住宅街の一角で足を止めた。
彼女の視線の先にあるのは、すっかり見慣れた赤茶けた鉄骨階段の建物。築三十八年の木造アパート『コーポ日ノ出』である。
「……やっぱり、何度来てもこの周辺だけ空気の密度が違う気がするのよね」
天野は警察官の制帽を目深に被り直し、鋭い視線でアパートを観察した。
霊感や磁場異常を敏感に感じ取る彼女の特異体質は、このアパートの周辺で常に微弱な『何か』の波長を捉え続けている。しかも最近、このアパートには新たな住人が入居し、全室が満室になったという情報を掴んでいた。
(以前、夜中にロードバイクの青年に職務質問した時も、大家の真木さんに遭遇した時も、彼らは完璧すぎるほど善良な市民だった。でも……完璧すぎるからこそ、逆に怪しい。まるで『善良な市民という役』を演じるプロの集団みたいに)
天野の警察官としての勘が、警鐘を鳴らしている。
もしここが、特殊なカルト集団の拠点や、過激派の潜伏先であったなら、地域の平和を揺るがす大事件に発展しかねない。
「よし。今日は『巡回連絡』の名目で、抜き打ちで中に入らせてもらおう」
巡回連絡とは、交番の警察官が受け持ち地区の家庭を訪問し、防犯指導や住民の構成(連絡先)を確認する、極めて合法的な警察の日常業務である。事前のアポなど必要ない。
天野は意を決し、自転車を停めて、一階の一番手前にある大家部屋のインターホンを押した。
ピンポーン。
「はいはい、どちら様で……」
ガチャリとドアが開き、ピンク色のエプロンを身につけ、手にはお玉を持った大家の真木征司(元魔王ヴァルザード)が顔を出した。
そして、制服姿の天野を見た瞬間。
真木の動きが、まるで動画の停止ボタンを押されたかのようにピタリと止まった。
「あ、こんにちは、大家さん。杉並署の天野です。地域の巡回連絡でお伺いしました」
「…………こ、こんにちは。天野巡査」
真木は顔面をヒクヒクと引き攣らせながら、必死に『爽やかな若い大家』の営業スマイルを顔面に貼り付けた。
しかし、その内面たる魔王の脳細胞は、かつて勇者の聖剣を喉元に突きつけられた時以上の、未曾有の大パニックを引き起こしていた。
(こ、国家権力の抜き打ち査察キタァァァァァッ!! なぜだ!? 我々は完璧に家賃を払い、完璧にゴミを分別し、完璧に納税しているというのに! まだ疑われているというのか!?)
警察がアパートの中に入り込み、もし住人たちの素性(異世界人であること)や、持ち込んだ異常な武具の類を見られでもすれば、アパートの信用は失墜し、最悪の場合は全員強制送還(あるいは刑務所行き)となる。
真木は背中に滝のような冷や汗を流しながら、天野の視線を遮るようにドアの隙間に立ち塞がった。
「今日はどういったご用件で? 何か事件でもありましたか?」
「いえ、事件ではないんです。ただ、こちらのアパートも満室になったと伺いましたので、防犯カードの更新と、住人の皆様が安全に暮らせているかの確認を兼ねまして。できれば、今いらっしゃる住人の方々にもご挨拶させていただきたいのですが」
天野が、有無を言わさぬ警察官のオーラを放ちながら微笑む。
(マズい……! 今、このアパートには夜勤明けや非番の店子が全員揃っている! しかも新入りの朝比奈(元勇者)は、まだ日本の法律を完全にインストールしきれていない危険分子だ!)
だが、ここで警察官の申し出を拒否すれば、それこそ「やましいことがある」と自白しているようなものだ。
「……承知いたしました。少々、お待ちください」
真木はドアを少しだけ閉め、エプロンのポケットからスマートフォンを光の速さで抜き出した。
そして、コーポ日ノ出の住人専用のグループLINEに、あらかじめ用意しておいた『緊急指令マクロ』を送信した。
『緊急事態発生! 国家権力(警察)の抜き打ち査察部隊が玄関に到達! 総員、直ちに正装(仕事着)に着替え、共用ロビーに集合せよ! 完璧なる善良市民の皮を被り、我が城の資産価値を死守せよ!』
送信ボタンを押した瞬間。
アパートの二階と一階の各部屋から、ドタバタドタバタッ!と凄まじい地鳴りのような足音が響き始めた。
「だ、大家さん? 今、すごい音がしましたけど……」
「あ、ハハハ! うちの店子たちは、みんなスポーツマンでして! 休日は部屋でよく反復横跳びなどをして体を鍛えているのですよ! ささ、どうぞ中へ!」
真木はひきつった笑顔のまま、天野をアパートの共用ロビー(玄関から続く少し広いスペース)へと招き入れた。
天野が靴を脱いでロビーに上がった、その数十秒後。
ズラーーーッ!と。
まるで軍隊の閲兵式のごとく、アパートの住人全員が、一糸乱れぬ動きでロビーに整列したのである。
「大田組解体作業員、黒木鉄心! 本日は現場が休みのため、自宅待機中にございます! 税金は滞りなく納めております!」
真っ先に声を張り上げたのは、泥と汗が染み付いた大田組の作業着姿の巨漢、101号室の黒木(元重装歩兵隊長)であった。
「派遣経理社員、佐伯凛花。ただいまリモートワークの休憩中です。こちらが私の名刺と、直近の源泉徴収票のコピーになります」
黒のビジネススーツを隙なく着こなした102号室の凛花(元首席補佐官)が、冷徹な手つきで書類を差し出す。
「スマイルイーツ配達員、久世颯太! 交通ルール第一、一時停止と歩行者優先は私の魂の掟にございます!」
配達用ヘルメットを小脇に抱え、ビシッと敬礼する103号室の久世(元風属性暗殺者)。
「ペットサロン・ワンワンテラス勤務、園田乃愛ですっ! 犬のフンの始末は絶対にします!」
緑色のエプロンをつけた201号室の乃愛(元ケルベロス)が、犬のような笑顔で尻尾(見えない)を振る。
「……深夜コンビニ店員、神埼麗華。未成年のタバコとお酒の購入は、年齢確認ボタンを必ず押させてますぅ……」
眠気をこらえ、ファミチキの匂いが染み付いた制服を着た202号室の麗華(元吸血貴族)が目をこする。
そして。
「東洋警備保障所属、第二号交通誘導警備員、朝比奈駆! 通行人の安全確保こそ我が使命!」
警備会社の紺色の制服に身を包み、赤白の誘導棒を腰に差した203号室の朝比奈(元勇者)が、戦士の誇りを胸に直立不動の姿勢をとった。
右から左まで。
解体工、経理OL、配達員、トリマー、コンビニ店員、警備員。
現代日本の労働社会を支える、極めてリアルで泥臭いエッセンシャルワーカーたちのフルラインナップである。さらにその中心には、ピンクのエプロンでお玉を持った「家庭的な大家」が鎮座している。
「…………」
天野は、そのあまりにも完璧で、あまりにも「社会的すぎる」光景を前に、開いた口が塞がらなかった。
(な、なんなのこの人たち……! 不審者集団だと思って踏み込んだら、そこらへんの市民よりよっぽど真面目に日本社会に貢献してる労働者の集まりじゃない!)
天野の脳内にあった「テロリストの拠点」という推測は、見事に粉砕された。
しかし、天野も警察官である。ただ圧倒されるだけでは終わらない。
「……皆さん、お休みのところお集まりいただいてすみません。でも、なんだか皆さん、ただのアパートの隣人同士にしては、すごく息が合っていますね。まるで軍隊みたいというか……」
天野が鋭い指摘を投げかけた。
現代の賃貸アパートにおいて、住人同士がここまで見事に連携し、大家の一声で一堂に会するなど、普通はあり得ないことだ。その不自然さが、天野の疑念を再び呼び起こす。
その言葉を聞いた瞬間、大家である真木が一歩前に出た。
「お巡りさん! それは誤解です。我々が息ぴったりなのは、日頃から『町内会』の活動を通じて、深い絆で結ばれているからです!」
「町内会、ですか?」
「その通りです! 大家たる余……私の方針として、災害や有事に備え、日頃から地域との連携を深める訓練を行っているのです! 総員、警察の方に、我々コーポ日ノ出の防災に対する高い意識を見せて差し上げろ!」
真木の号令により、六人の住人たちが一斉に姿勢を正し、息を大きく吸い込んだ。
そして、地響きのような大声で、見事なユニゾンでの『朗唱』が始まった。
「「「一!!」」」
黒木が叫ぶ。
「「「火の始末、寝る前、出かける前、もう一度確認!!」」」
「「「二!!」」」
凛花が続く。
「「「可燃ゴミは火曜と金曜! 資源ゴミの分別は地域の誇り!!」」」
「「「三!!」」」
朝比奈と久世が声を張る。
「「「不審者見たらすぐ通報! 歩きスマホは絶対禁止!!」」」
「「「我らコーポ日ノ出、杉並区の平和とルールの絶対的守護者たらん!!」」」
ビシィィィッ!!と。
六人が同時に、右手をこめかみに当てる完璧な敬礼を決めた。
それは、駅前の掲示板によく貼られている『町内会合同防災標語』を、まるで軍の絶対的教典のごとく暗唱するという、狂気じみた忠誠心の披露であった。
天野は、その圧倒的なまでの『善良なる市民オーラ』と『コンプライアンスの塊』のようなエネルギーの奔流を浴び、完全に気圧されて壁際まで後ずさった。
(こ、怖い……! 悪い意味じゃなくて、善良すぎて怖い! この人たち、もはや杉並区の防犯ボランティアの鑑じゃないの……!)
疑念は完全に吹き飛び、もはや畏敬の念すら抱きかけていた。
だが。
天野の警察官としての鋭い観察眼が、整列している中の一組の奇妙な『緊張感』に気がついた。
「……あの。大家の真木さんと、そちらの警備員の朝比奈さん」
「ビクッ!?」
真木と朝比奈の肩が同時に跳ねた。
「お二人の間だけ、なんだかすごく……殺伐とした空気が流れているというか、お互いを睨み合っているように見えるんですが。何か、ご近所トラブルでも抱えていらっしゃるんですか?」
天野の指摘は、極めて正確であった。
なんといっても、彼らは元魔王と元勇者である。同じアパートの大家と店子という休戦協定を結んだとはいえ、数年間命を削り合ってきた宿敵同士の『殺気』や『因縁』は、そう簡単に隠し通せるものではなかった。朝比奈は無意識のうちに真木を睨みつけ、真木もまた、朝比奈の隙をうかがうような立ち位置をとってしまっていたのだ。
(マズいッ!! ここで「こいつは元勇者で、余を殺そうと狙っている」などとバレれば、間違いなく警察に連行される! 不和を隠蔽しなければ!)
真木の脳内で、サイレンが鳴り響いた。
真木は瞬時に決断し、隣に立っていた朝比奈の首に、ガシッと自分の腕を回した。
「ハ、ハハハハハハッ!! お巡りさん、何を仰るんですか! トラブルだなんて、とんでもない!」
「なっ、貴様、魔王……!?」
朝比奈が小声で抗議しようとしたが、真木は朝比奈の首をギリギリと締め上げながら、満面の笑みで天野に向き直った。
「私とこの駆は、トラブルどころか、故郷からの『幼馴染の親友』なんですよ! なぁ、カケル!」
「おぐっ……! き、貴様……!」
「ほら、お巡りさんが誤解しているぞ! 私たちがどれだけ仲良しか、証明してやれ!」
真木は朝比奈の横腹を、見えない角度で思い切りつねった。
激痛と、そして「ここで警察に怪しまれれば、せっかく見つけた警備員の仕事も家賃を払う生活もすべて失う」という現実的な恐怖が、朝比奈の勇者としてのプライドを粉々に打ち砕いた。
「あ、ハハ……ッ! そ、そうなんだよ、お巡りさん!」
朝比奈は、顔面の筋肉を引き攣らせ、血管をブチブチと浮かび上がらせながら、真木の肩に無理やり自分の腕を回し返した。
「俺と征司はな、幼い頃から、よく一緒に泥んこになって遊んだ仲でな! ……そう、泥んこの中で、互いの刃(木の枝)を交えて、血反吐を吐くまで遊び狂った、最高の親友(宿敵)なんだよぉぉっ!」
「そうそう! こいつったら昔から猪突猛進で! 余……私の大切な城の扉をぶち破って入ってきたりして、本当に手のかかる親友でしてね!」
元魔王と元勇者が、互いの肩をガッチリと組み合い、顔を寄せ合って「親友アピール」をするという、魔界の歴史書が見れば発狂して燃え尽きそうなほどの、地獄の茶番劇が展開された。
その様子を後ろで見守っていた黒木や凛花たち魔王軍幹部は、あまりの光景に震え上がり、精神的ダメージで吐血しそうになるのを必死にこらえていた。
「……ほら、お巡りさん。見てくださいよ、この仲の良さを。我々は、家族以上の絆で結ばれた最高の共同住宅なんですよ!」
真木が、額に脂汗を浮かべながら、限界の笑顔で言い切った。
「…………」
天野結衣は、肩を組んで笑い合う(引き攣っている)二人の青年と、その後ろで規律正しく並ぶ住人たちを、ただただ静かに見つめていた。
そして。
「……素晴らしいですね」
天野の目から、ポロリと一筋の涙がこぼれ落ちた。
「えっ?」
「私、感動しました……。都会の希薄な人間関係の中で、これほどまでに住人同士が助け合い、防犯意識を高め、そして幼馴染の絆を大切にしているアパートがあったなんて……。私、警察官として、皆さんのような方々がこの杉並区にいてくれることを、本当に誇りに思います!」
天野は深く、九十度のお辞儀をした。
「抜き打ちで疑うような真似をして、本当に申し訳ありませんでした! これからも、コーポ日ノ出の皆様の平和な暮らしを、警察として全力でお守りいたします!」
天野は涙を拭い、「お邪魔いたしました!」と清々しい笑顔を残して、アパートの玄関から去っていった。
バタン、とドアが閉まる音がした。
外から、白い自転車が遠ざかっていく音が聞こえなくなるまで、ロビーの六人は微動だにしなかった。
そして、数分後。
「「「…………」」」
真木と朝比奈は、バチッ!と磁石の反発のように互いの体を弾き離し、猛烈な勢いで自分の肩を払い、咳き込んだ。
「おえぇぇぇっ! 勇者と肩を組むなど、寿命が百日縮んだわ!」
「貴様こそ! 俺の清らかなる戦士の肉体に、魔王の穢れた腕を回しおって! 塩だ、塩を持ってこい!」
「うるさい! 誰のおかげで警察の目をごまかせたと思っている! 敷金に『親友偽装手当』を上乗せするぞ!」
口論を始める二人の横で、凛花がドッと疲れたように畳の上に座り込んだ。黒木も久世も、限界を迎えて大の字になって倒れている。
「……皆様、お疲れ様でした。これで当分、国家権力が我々に疑いの目を向けることはないでしょう。見事な迎撃作戦でした」
凛花が眼鏡を外して深いため息を吐く。
かくして、コーポ日ノ出を襲った「国家権力の抜き打ち査察」という大ピンチは、魔王と勇者の奇跡の(屈辱的な)タッグと、日頃からの完璧なゴミ分別&町内会活動によって、完全な勝利に終わったのである。
日本の社会制度を遵守することこそが、この世界における最強の防御魔法である。
それを改めて痛感した真木征司は、崩れ落ちた住人たちを見下ろしながら、疲労困憊の顔に大家としての確かな自信の笑みを浮かべていたのであった。




