第33話:戦士、交通誘導員になる
東京・杉並区。春の訪れを微かに感じるものの、朝の空気はまだ肺を刺すように冷たい。
木造アパート『コーポ日ノ出』の二階、一番奥の203号室。
元勇者パーティーの戦士・朝比奈駆は、フローリングの床に敷かれた薄いせんべい布団の中で目を覚ました。
「……ここは、どこだ。俺は確か、魔王城の最深部で……いや、違う」
朝比奈は上半身を起こし、何もない四畳半の空間を見回した。
昨夜の出来事が、鮮明な記憶として蘇ってくる。駅前のロータリーで餓死寸前だったところを、宿敵である魔王(真木征司)に拾われ、立ち食いうどんを奢られ、最終的にこのアパートの賃貸借契約書にサインをしてしまったのだ。
「俺が、魔王の店子(奴隷)に……ッ!」
ギリッと奥歯を噛み締めた瞬間、腹の虫が「ぐきゅるるるるっ」と情けない音を立てた。昨夜のうどんと鮭おにぎりだけでは、戦士の基礎代謝を賄うには到底足りていない。
その時、ドアが外から乱暴に叩かれた。
「起きているか、朝比奈! 我がアパートの朝は早いぞ!」
ドアを開けると、ジャージ姿に竹箒を持った大家の真木が、腕を組んで仁王立ちしていた。その後ろには、バインダーを抱えたスーツ姿の佐伯凛花(元首席補佐官)が控えている。
「魔王……! 朝から何の用だ。まさか、俺を拷問にかけるつもりか!」
「馬鹿を言え。お前を拷問して一円でも金になるのか?」
真木は呆れたようにため息をつき、ずいっと顔を近づけた。
「いいか朝比奈。お前は昨夜、我がコーポ日ノ出の契約書にサインした。敷金と礼金は分割払いにしてやったが、当面の生活費と、来月末に支払うべき『家賃五万円』は、お前自身の手で稼ぎ出さねばならん。まさか、毎日余がうどんを奢ってやるとでも思っているのか?」
「うっ……! そ、それは……」
「家賃滞納はギルティ(重罪)だ。この日本という国で、無一文の人間が生き延びるためには『労働』という名のクエストをこなすしかない。さあ、ハローワークへ行くぞ。お前の就職活動の始まりだ」
* * *
一時間後。
真木から借りたサイズの合わない安物のスーツ(リサイクルショップで千円)を着せられた朝比奈は、アパートの一階、大家部屋で凛花による厳しい面接指導を受けていた。
「いいですか、朝比奈殿。あなたの特技である『大剣の素振り』や『敵の急所を見抜く視線誘導』は、一般的なオフィスワークではただの危険思想とみなされます」
凛花はホワイトボードに『協調性』『体力』『真面目さ』と書き出した。
「現代日本において、学歴も職歴もないあなたが即日採用され、かつその有り余る体力と動体視力を合法的に活かせる職業。それは一つしかありません」
凛花が指し示した求人票には、こう書かれていた。
『株式会社・東洋警備保障。未経験者大歓迎! 交通誘導警備業務(2号警備)。日給一万円〜、日払い・週払い相談可!』
「けいび……? 要するに、城の門番や、要人の護衛任務ということか?」
「おおむね正解です。ただし、あなたが護るのは王族ではなく、工事現場を通行する一般の歩行者と、作業用のダンプカーです。道路という戦場で、人々の安全を確保する極めて重要な任務です」
真木が腕を組んで頷く。
「うむ。お前の無駄に研ぎ澄まされた体幹と、長時間剣を振り続けるスタミナがあれば、一日中立ちっぱなしの警備任務など造作もなかろう。日給一万円なら、五日働けば家賃が払える。素晴らしい高時給クエストではないか」
「俺の剣術を、道路の門番に……」
朝比奈は複雑な顔をしたが、空腹と「家賃」という現実的なプレッシャーには勝てなかった。
その日の午後、朝比奈は真木に連れられて近所の『東洋警備保障』の営業所へと向かった。
タバコのヤニとコーヒーの匂いが染み付いた古ぼけた事務所で、面接官である疲労困憊の中年所長が、朝比奈の履歴書(凛花が完璧に偽造・代筆したもの)を眺めた。
「えーと、朝比奈くん。前職は地方の体育館でインストラクター……まあいいや。うちの仕事はね、夏は暑いし冬は寒い。一日中立ちっぱなしで、通りすがりの人に文句言われたりもする、キツい仕事だよ。体力と根性には自信ある?」
所長の投げやりな質問に対し、朝比奈は椅子から立ち上がり、カッと目を見開いて直立不動の姿勢をとった。
「はっ! 我が肉体は、幼き頃より数多の死線と過酷な修行によって鍛え抜かれております! 炎の嵐の中であろうと、極寒の吹雪の中であろうと、与えられた持ち場を一歩たりとも退くことはありません! 命に代えましても、民の安全を護り抜く所存です!!」
事務所の窓ガラスがビリビリと震えるほどの、腹の底から響く轟音のような大声。
その完璧な姿勢と、狂気すら感じる圧倒的な忠誠心(生真面目さ)に、所長は咥えていたタバコをポロリと落とした。
「……き、君。声デカいね。挨拶も完璧だ。……明日から来れる? まずは法定の研修からだけど」
「御意!!」
かくして、元勇者パーティーの戦士は、面接開始からわずか三分で『第二号交通誘導警備員』としての採用を勝ち取ったのである。
* * *
警備業法で定められた計二十時間の新任教育(座学と実技)を、朝比奈は瞬き一つせずに最前列で受講した。法律の条文を魔導書を読むかのごとく暗記し、敬礼の角度をコンパスのように正確に叩き込んだ彼は、教官から「過去十年間で最高の逸材」と太鼓判を押された。
そして数日後。
朝比奈は、支給された紺色の警備員制服に身を包み、白いヘルメットを被り、腰には安全帯を締め、指定された現場へと降り立った。
杉並区内の、交通量の多い幹線道路の水道管敷設工事現場。
重機が轟音を立ててアスファルトを砕き、砂埃が舞い散る過酷な環境である。現場監督のヘルメットを被った初老の男が、新人である朝比奈に厳しい顔で指示を出した。
「おい新人! お前の持ち場はあそこの交差点の角だ! 歩行者の安全確保と、うちのダンプカーの誘導! 絶対に一般車両と接触させるなよ、事故ったら一発で現場が止まるからな!」
「承知いたしました! この命に代えましても、アリ一匹通さぬ鉄壁の陣を敷いてみせます!」
「いや、アリは通していいから、車と人を安全に流してくれよな……」
朝比奈は指定された持ち場に立ち、会社から支給された『赤と白の誘導棒』を右手に握りしめた。
プラスチック製で、中にLEDライトが仕込まれた軽い棒。
もちろん、鋼の剣ほどの重みもなければ、魔力を帯びているわけでもない。ただの光る棒だ。
だが、朝比奈はその誘導棒を両手で包み込むように持ち、目を閉じた。
(……剣の重さではない。だが、これは俺に与えられた『新たな刃』だ。この刃で、行き交う鉄の馬(車)の群れを制御し、民の命を護る……!)
朝比奈がカッと目を見開いた瞬間。
彼の纏う空気が、一変した。
足幅を肩幅に開き、腰を深く落とし、重心を丹田に完全に固定する。剣術における基本の構え『正眼』を、交通誘導に応用した究極のスタンバイ姿勢であった。
「――ダンプカー、進入ッ!!」
無線機から指示が飛ぶ。
猛スピードで走ってくる一般車両の合間を縫って、工事現場から巨大な十トンダンプがバックで出ようとしていた。
通常、このサイズの重機を交通量の多い道路に誘導するのは、熟練の警備員でも神経をすり減らす難作業である。ドライバーの死角を補い、一般車両を安全に停止させ、絶妙なタイミングでダンプを引き出さなければならない。
「止まれッ!!」
朝比奈は、腹の底から発声する『気合い』とともに、右手の誘導棒を天空に向かって真上に突き上げた。
ピシッ!!
空気を切り裂くような鋭い風切り音。
その動作には、一ミリのブレも、一分の迷いもなかった。
剣の達人が放つ、絶対的な『静』と『動』のコントロール。彼が棒を掲げた瞬間、近づいてきた一般車両のドライバーは、見えない強烈なプレッシャー(闘気)を感じ取り、思わずブレーキペダルを踏み込んだ。
キキッ、と安全な距離を保って、すべての一般車両が完全に停止する。
「今だ! 出よ、鉄の巨獣!!」
朝比奈は大きく息を吸い込み、今度は誘導棒を持った右腕を、フェンシングの突きのように鋭く、そして美しく旋回させた。
ヒュンッ! ヒュバッ!!
手首のスナップと強靭な体幹から生み出される、神業レベルの滑らかな誘導モーション。赤い光の軌跡が、空中に美しい円と直線を描き出す。
それは単なる合図ではない。
朝比奈の目は、ダンプカーのサイドミラー越しに、運転手の目線と完全にリンクしていた。『視線誘導』の技術。相手の意識を自分の棒の先端に集中させ、無意識のうちに「最も安全で最適なルート」へとハンドルを切らせる、戦場の達人技であった。
「お、おおっ……!?」
ダンプカーの運転手は、自分でも驚くほどスムーズに、そして一切の不安を感じることなく、巨大な車体を道路へと滑り出させた。朝比奈の誘導棒の動きに吸い込まれるように、タイヤがピタリと指定の位置に収まる。
「オーライ!! 転回完了! 一般車両、進行を許可するッ!!」
朝比奈がクルリと身を翻し、誘導棒を水平に振って通行再開の合図を送る。
その一連の動作の、あまりのキレの良さ、無駄のなさ、そして芸術的なまでの美しさに、停車していた一般車両のドライバーたちすらも、思わず見惚れてしまっていた。
「す、すげえ……今の警備員、なんだあの動き……」
「アイドルのコンサートのオタ芸よりキレッキレじゃねえか……」
通過していく車の窓から、感嘆の視線が向けられる。
歩行者の誘導も完璧だった。
杖をついた老人が横断歩道を渡ろうとすれば、朝比奈は瞬時に駆け寄り、車の壁となって立つ。
「ご安心を、御老体! 我が結界がある限り、鉄の馬の群れがあなたに触れることは決して許しません!」
「あ、ありがとうねえ、警備員さん。あんたがいると、すごく安心するよ」
老人が笑顔で会釈をして渡っていく。
朝比奈の胸の奥に、魔王軍の幹部を斬り伏せた時とは全く違う、温かく、そしてじんわりとした『誇り』が広がっていくのを感じていた。
(……これが、この国における「護る」という戦いなのか。魔術や聖剣がなくとも、己の身一つと、この光る棒一本で、人々の安全な日常を護ることができる。素晴らしい……素晴らしい仕事ではないか!)
朝比奈の集中力は、八時間の過酷な立ち仕事の間、ただの一度も途切れることはなかった。
剣の素振りで培われた強靭な足腰は、長時間の直立不動など準備体操に等しい。彼の持ち場である交差点では、クラクションの音すら一度も鳴ることなく、奇跡的なまでのスムーズさで交通が流れていった。
「おいおい、なんだあの新人……」
夕方、現場監督がトランシーバーを握りしめたまま、呆然と朝比奈の姿を見つめていた。
「俺も三十年現場を仕切ってるが、あんな完璧な交通誘導、見たことねえぞ。動きが鋭すぎて、ダンプの運ちゃんたちがみんな『あの警備員の指示なら絶対に安心できる』って感動して泣いてるじゃねえか。歴代最高の誘導員だ……。明日からも絶対に彼をうちの現場に回してくれって、警備会社に指名しとけ!」
* * *
夕暮れの空が、杉並の街を茜色に染めていた。
本日の任務を無事に完遂した朝比奈は、営業所に戻り、所長から手渡しで『日給一万円』の入った茶封筒を受け取った。
「朝比奈くん、お疲れ様! 現場の監督さんから大絶賛の電話がかかってきたよ! 君、うちの会社のホープだよ、これからもよろしく頼むね!」
所長のホクホク顔に見送られ、朝比奈は営業所を後にした。
茶封筒の重み。
たった一万円。異世界で勇者として受け取っていた報奨金に比べれば、微々たる額だ。
だが、自分の足で立ち、汗を流し、誰かの安全を護った正当な対価として得たこの現金には、不思議なほどの重みと温かさがあった。
朝比奈は帰り道、自動販売機で百三十円の缶コーヒーを買った。
プルタブを開け、冷え切った喉に温かい微糖のコーヒーを流し込む。
「……美味い」
労働の後の、安っぽい缶コーヒーの甘さが、五臓六腑に染み渡る。
コーポ日ノ出の前に到着すると、一階の共用廊下で、大家の真木が腕を組んで待ち構えていた。
「帰ったか、朝比奈。初日の任務はどうだった」
「……魔王、いや、大家さん」
朝比奈は姿勢を正し、茶封筒から一万円札を一枚取り出すと、両手で恭しく真木の前に差し出した。
「本日の報酬だ。まずは、分割にしてもらった初期費用の一部として納めさせてもらう」
真木はその一万円札を指で挟み取り、透かしのホログラムを確認してから、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「ふん。勇者の稼いだ金も、重装歩兵の稼いだ金も、日本銀行券としての価値は同じだ。確かに受け取ったぞ。……だが、来月の家賃五万円の納入日までは、まだ遠いからな。気を抜くなよ」
「言われるまでもない。俺は、この国で、俺の力でしっかりと生き抜いてみせる。そしていつか、貴様のこのアパートの家賃を一年分前払いして、ぐうの音も出ないほど黙らせてやるからな!」
「ハッハッハ! 大きく出たな! やってみるがいい、戦士よ!」
夕闇の迫る木造アパートに、元魔王の笑い声と、元勇者の力強い宣言が響き渡る。
かつての殺意は、すでに「家賃」という極めて現実的なルールの前に形を変えていた。
朝比奈駆、二十代半ば。
彼は今、魔王を討つためではなく、己の生活と誇りを護るための、新しい武器(誘導棒)を手に入れた。
コーポ日ノ出の満室経営は、この最強で真面目すぎる交通誘導員の加入によって、さらなる活気と騒動を巻き起こしていくこととなる。




