第32話:休戦協定は家賃5万円
東京・杉並区の路地裏。築三十八年の木造アパート『コーポ日ノ出』の一階、大家部屋の六畳間。
深夜の静寂を破り、ただならぬ殺気と怒号が響き渡った。
「――魔王ォォォッ!! 貴様の首、ここで討ち取ってくれるわァァァッ!」
声の主は、ボロボロの革鎧を身に纏い、目を血走らせた元勇者パーティーの戦士、朝比奈駆である。
つい先ほどまで、駅前の立ち食いうどん屋で涙を流しながら月見うどんと鮭おにぎりを頬張り、「ごちそうさまでした……」と男泣きしていた情けない青年と同一人物とは到底思えないほどの、凄絶な気迫であった。
腹が満たされ、体力がわずかに回復した瞬間、彼の脳内で『打倒・魔王』という勇者としてのプログラミングが再起動してしまったのだ。
朝比奈は腰の剣帯を探るが、現代日本に転移した際に剣は失われている。彼は咄嗟に、ちゃぶ台の上に置かれていた『テレビのリモコン』をガシッと握りしめ、まるで聖剣を構えるかのように真木征司(元魔王ヴァルザード)へと突きつけた。
「俺は、俺はこんな屈辱を受けるためにこの世界へ来たのではない! 貴様に施しを受けた恩は、あの世で返す! 覚悟しろ、魔王!」
「おいおい、待て待て。テレビのリモコンで余を殴り殺すつもりか? それ、買い替えると三千円くらいするのだぞ。敷金から引くからな」
真木はジャージ姿のまま、全く動じることなく、腕を組んで冷ややかに朝比奈を見下ろしていた。
「ふざけるな! 俺の魂の刃を舐めるなよ!」
朝比奈が今まさに、テレビのリモコンを振り下ろそうとした、その時である。
サァッ……!
大家部屋の襖が、まるで音のない風のように開かれた。
「……動くな、人間」
朝比奈の背後、まさに首筋すれすれの位置に、冷たい感触が押し当てられた。
背後に立っていたのは、黒いパーカーのフードを被った103号室の久世颯太(元風属性魔導暗殺者)であった。彼が朝比奈の首に押し当てているのは、暗器ではなく、先日ホームセンターで買った『金属製の長い定規(三十センチ)』である。
「なっ……!?」
朝比奈は完全に虚を突かれ、全身を硬直させた。
さらに、部屋の奥の暗がりから、ドス、ドス、と地鳴りのような足音が近づいてきた。
「真木様! ご無事ですか! ……む? 貴様は……まさか、あの時の憎き勇者の手先!」
大田組の作業着姿のまま、丸太のような腕を組み、仁王立ちになった101号室の黒木鉄心(元重装歩兵隊長)が、朝比奈を怒りと驚愕の入り混じった目で睨み下ろしていた。
「く、黒木鉄心……! それに、暗殺者の久世まで……!」
朝比奈の顔から、一気に血の気が引いた。
魔力がないこの世界とはいえ、元魔王軍の最高幹部たちが、まさか全員揃ってこんな狭い六畳間に潜伏しているとは想像もしていなかったのだ。
「多勢に無勢……! だが、俺は屈しない! 勇者の誇りに懸けて、最後の一兵となろうとも……!」
朝比奈がテレビのリモコンを強く握り直した、その瞬間。
パンッ!!
乾いた音が六畳間に響いた。
102号室の佐伯凛花(元首席補佐官)が、分厚いバインダーでちゃぶ台を強く叩いた音だった。
彼女は完璧なビジネススーツ姿で、冷ややかな、そして極めて事務的な視線を朝比奈に向けた。
「静かにしなさい、不法滞在者。ここは戦場ではなく、杉並区の賃貸アパートの一室です。夜中に大声を出して近隣トラブルを引き起こせば、警察を呼ぶことになりますよ」
「け、警察……?」
朝比奈が戸惑う中、凛花は眼鏡をスッと押し上げ、容赦のない現実の刃を突きつけた。
「朝比奈駆。あなたは現在、身分を証明するものを持たず、所持金もなく、当然ながらこの国での『住民票』も持っていません。その状態で他人の住居に無断で侵入し、あまつさえ住人を凶器で脅迫している。これは日本の法律において『住居侵入罪』および『脅迫罪』に該当します」
「な、なんだと!?」
「もし私たちが今、警察――つまりこの世界の治安維持部隊――に通報すれば、あなたは即座に逮捕され、冷たい牢獄にぶち込まれます。魔界の拷問部屋よりも遥かに退屈で、自由を奪われた空間へね」
凛花の理路整然とした法的脅迫に、朝比奈は思わず一歩後ずさった。
「それに、あなた、一文無しでしょう? 先ほど真木様からうどんを奢ってもらわなければ、確実に駅前で餓死していたはずです。この国で身分証がなければ、働くことも、まともな食事にありつくこともできませんよ。明日にはまた、路上で腹をすかせて倒れる運命です」
「うっ……!」
朝比奈は、先ほど立ち食いうどん屋で味わった、あの魂が震えるような「月見うどん」の美味さと、極限の飢餓の苦しみを思い出し、胃の辺りがキュッと縮み上がるのを感じた。
「……ならば、どうしろと言うのだ。俺に、このまま野垂れ死ねと……」
「そうは言っていません」
凛花はバインダーをめくり、一枚の書類をサッとちゃぶ台の上に滑らせた。
「我がコーポ日ノ出は、現在203号室のみが空室となっています。真木様は、あなたにその部屋を貸し出し、この日本での合法的な居住資格(住民票の取得)を支援すると仰っているのです。これがいかに破格の温情か、理解できますか?」
「お、俺に、部屋を貸す……?」
朝比奈は震える手で、ちゃぶ台の上の書類を見た。
そこには『建物賃貸借契約書』と書かれ、細かい文字がビッシリと並んでいる。
「……ふふっ。そういうことだ、朝比奈」
真木がゆっくりと立ち上がり、腕を組んで朝比奈を見下ろした。
「余は大家として、お前に衣食住の環境を提供してやる。戸籍の偽造……いや、取得の手続きは、不動産屋の志乃が完璧に代行してくれる。お前は今日から、路上生活者ではなく、杉並区の正当な区民として生き直すことができるのだ」
「……条件は、なんだ。俺を洗脳し、尖兵としてこき使うつもりだろう!」
朝比奈が鋭く睨みつけるが、真木は呆れたように鼻で笑った。
「尖兵などいらん。お前のような脳筋の戦士を雇ったところで、電気代の無駄だ」
「な、なんだと!」
「条件はただ一つ」
真木はバシッと、契約書の「賃料」の欄を指差した。
「毎月、決まった日に『家賃月額五万円』を、一円の滞りもなく余に納めること。それだけだ」
「や、家賃……ごまんえん……」
「そうだ。敷金一ヶ月、礼金一ヶ月の初期費用は、お前が一文無しであることを考慮し、特別に分割払い(借金)にしてやろう。電気と水道は自分で契約しろ」
魔王の口から飛び出した、あまりにも生々しい「五万円」という数字。
世界征服でも、人類の殲滅でもない。ただの、大家と店子の、極めて平和的かつ資本主義的な『休戦協定』の提示であった。
「……そんな、ことでいいのか? 俺に、このアパートの防衛を命じるとか、そういう裏のミッションはないのか?」
「ない。お前はただ働き、自活し、家賃を払え。アパートの風紀を乱さず、ゴミの分別ルールを守ってくれれば、余は大家としてお前に干渉するつもりはない」
真木のあまりにもビジネスライクな態度に、朝比奈は拍子抜けしてしまった。
彼が握りしめていたテレビのリモコンが、ポロリと畳の上に落ちる。
(……どうする。ここで契約を拒否すれば、俺は再び極寒の夜の街に放り出され、確実に餓死するか、警察に捕まる。だが、契約すれば、憎き魔王の『店子』という屈辱的な身分に成り下がる……!)
朝比奈の脳内で、勇者としての誇りと、生物としての生存本能が激しく衝突し、火花を散らしていた。
その様子を見ていた黒木が、ふうっとため息をついた。
「おい、人間の戦士よ。貴様、まだ魔王様に楯突く気か? 我ら魔王軍の幹部ですら、すでにこの日本のルール(法律)と資本主義の前に平伏し、日々汗水垂らして労働しているというのに」
「……お前たちも、働いているのか?」
朝比奈が驚いて問うと、黒木は力強く頷いた。
「当然だ! 私は大田組の解体現場で、この丸太のような腕で柱を叩き割り、日当を稼いでおる! 久世は風のごとく自転車を走らせて飯を運び、凛花殿は派遣の事務員としてエクセルなる魔導具を駆使している! すべては、この城の家賃を払い、自立した生活を送るためだ!」
「なっ……!?」
朝比奈は衝撃を受けた。
かつて魔界で数百万の軍勢を率い、人間たちから恐れられていた悪の幹部たちが。
今や、解体工、デリバリー配達員、そして派遣OLとして、現代社会の底辺で泥臭く生きているというのか。
「……嘘だろ。お前たちほどの力があれば、銀行の一つや二つ、簡単に襲撃できるはずだ。なぜ、そこまでして真っ当に生きようとする……?」
朝比奈の問いに、凛花が冷ややかに答えた。
「犯罪はリスクが高すぎるからです。一度でも警察に目をつけられれば、この平和な生活は一瞬で崩壊します。それに……」
凛花は、チラリと真木の方を見た。
「魔王様が、大家としての責任とプライドを持って、私たちを正しく導いてくださっているからです。私たちは今、魔界の戦争よりも遥かに充実した、労働と対価の喜びを知っているのです」
「……」
朝比奈は黙り込んだ。
彼の中で、魔王軍に対する認識が、ガラガラと音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
悪の枢軸。絶対の敵。そう信じて剣を振るってきた相手が、実は誰よりも社会のルールを守り、真面目に家賃を徴収し、近隣トラブルを避けるために必死に努力している。
そして、自分という無一文の敵兵に対し、寝床と食事を与え、自立の道を示してくれている。
(……俺は、いったい何と戦っていたんだ……?)
朝比奈の目から、勇者としての敵意がスッと消え失せた。
代わりに湧き上がってきたのは、強烈なまでの「生への執着」と、一人の若者としての「自立への決意」であった。
「……わかった。魔王、いや、大家さん」
朝比奈は畳の上に正座し、深く頭を下げた。
「俺の負けだ。貴様の提案に乗ろう。今日から俺は、このコーポ日ノ出の203号室の住人となり、毎月必ず家賃五万円を納めることを誓う!」
「ふっ……。賢明な判断だ、戦士よ」
真木はニヤリと笑い、ボールペンを朝比奈に差し出した。
「では、さっそくこの賃貸借契約書にサインと拇印を押せ。それから、明日には宝田不動産へ行って、戸籍の手続きを済ませてこい。それが終わったら、すぐに職探しだ」
「わかった。必ずや、俺の剣腕を活かせる仕事を見つけ出し、初任給で家賃を全額払ってみせる!」
朝比奈は震える手でボールペンを握り、契約書の署名欄に『朝比奈 駆』と力強くサインをした。
こうして、コーポ日ノ出の最後の空室であった203号室が埋まった。
元魔王軍の幹部たちが四人。そして、元勇者パーティーの戦士が一人。
宿敵同士が一つ屋根の下に暮らし、毎月大家に家賃を納めるという、奇妙極まりない共同生活(休戦協定)が成立したのである。
「よし! これで全六室、完全稼働! 我がコーポ日ノ出はついに『満室御礼』を達成したぞォォォッ!!」
真木が両手を天に突き上げて咆哮する。
「おおおおおっ! 真木様、おめでとうございます! ついにこの日が!」
黒木と久世が歓喜の声を上げ、凛花もホッと息を吐いて眼鏡を拭いた。
「……ふん。まあ、とりあえずはめでたいことね。でも、大家さん」
凛花が冷徹な声で釘を刺す。
「朝比奈駆殿は、現在一文無しの無職です。彼が来月の家賃支払い日までに定職に就き、現金を稼ぎ出さなければ、この満室経営はすぐに絵に描いた餅となりますよ」
「うっ……! そ、そうだった。おい朝比奈! お前、現代社会で金になるような特技はあるのか!」
真木が慌てて尋ねると、朝比奈は胸を張って答えた。
「任せておけ! 俺には、幼い頃から鍛え抜かれた『大剣の素振り』と、敵の急所を的確に見抜く『視線誘導』のスキルがある! これさえあれば、いかなる強敵(仕事)も一刀両断だ!」
「……嫌な予感しかしない。ただの脳筋じゃないか」
真木は頭を抱えた。
剣の素振りと視線誘導。そんな物騒なスキルが活かせる仕事など、現代日本に存在するのだろうか。
「凛花。明日、こいつにハローワークの求人票を検索させろ。絶対に体を動かす系の、安全な肉体労働を見つけてこい。警察沙汰にならないやつだぞ!」
「承知いたしました。警備員や交通誘導員あたりが妥当かと存じます」
凛花の的確なアドバイスにより、朝比奈の社会復帰プログラムは即座に始動した。
深夜の六畳間。
かつての殺伐とした戦場の空気はどこへやら、今や「いかにして新入りに家賃を稼がせるか」という、生々しい労働会議が繰り広げられていた。
元勇者の戦士・朝比奈駆。
彼がこの後、己の剣技を活かし、現代日本の路上で赤白の誘導棒を振るう『伝説の交通誘導員』として覚醒するのは、もう数日後のことである。
真木征司の満室経営。その歯車は、厄介な新入りを巻き込みながら、さらに力強く回り始めていた。




