第31話:行き倒れの元勇者
三月の足音が聞こえ始めたとはいえ、深夜の東京の風はまだ骨を刺すように冷たい。
木造アパート『コーポ日ノ出』の大家である真木征司(元魔王ヴァルザード)は、使い古したジャージの上に黒いベンチコートを羽織り、駅前の大型スーパー『ライフ』からの帰路についていた。
彼の手には、パンパンに膨らんだエコバッグが二つ提げられている。
「ふふっ。今日の戦果は上々だ。特売の豚小間切れ肉がグラム八十八円、さらには賞味期限ギリギリの総菜パンが半額シール祭りだったからな。これで我がコーポ日ノ出の食費は三日は安泰だ」
数日前の夜、天空に神聖魔法の歪みを感じて以来、真木は警戒を怠っていなかった。しかし、だからといって日々の生活の手を止めるわけにはいかない。大家業とは、いかなる危機が迫ろうとも、まずは日々の資金繰りとカロリー補給を確保することから始まるのだ。
エコバッグの重みを心地よく感じながら、真木は駅前のロータリーを通り抜けようとした。
終電間際の駅前は、酔っ払ったサラリーマンや、足早に家路を急ぐ人々がまばらに行き交っている。
そのロータリーの隅。冬枯れした植え込みのそばにある木製のベンチに、ボロ布のような『塊』が転がっているのが真木の目に留まった。
「……む?」
真木は足を止めた。
ただの酔っ払いか、あるいはホームレスか。普段であれば「関わると面倒だ」と見て見ぬふりをして通り過ぎるところだ。アパート経営において、見知らぬトラブルを自ら拾いに行くほど愚かなことはない。
しかし。
真木の肌が、微細な粟立ちを感じていた。
大気中には存在しないはずの、しかし真木の魂の奥底に焼き付いている忌まわしき波長。
「この気配……まさか。いや、そんな馬鹿な。いくらなんでもこんな人通りの多い駅前で……」
真木はエコバッグを握り直し、警戒心をマックスに引き上げながら、そのベンチの『塊』へと音もなく近づいていった。
近づくにつれ、その塊が何かの衣服を着た人間であることがわかった。
異世界風の、しかしところどころが引き裂かれ、泥と煤にまみれた革鎧。その下には、本来なら上質な布地であっただろうボロボロのチュニックを着ている。
年齢は二十代半ばといったところか。精悍な顔つきの青年だ。しかし、その顔は土気色に濁り、頬はこけ、唇はカサカサに乾燥しきっていた。
完全に意識を失っており、かすかな呼吸だけが彼の命を辛うじて繋ぎ止めている状態だ。
「…………」
真木は、その青年の顔を覗き込み、息を呑んだ。
間違いない。
忘れるはずがない。魔界の深淵にそびえ立つ魔王城、その玉座の間にまで攻め込んできた、憎き『勇者パーティー』。
その最前線で、大剣を振るって黒木の部隊を蹴散らし、真木自身にも幾度となく刃を届かせようとした、あの鬱陶しい戦士。
「朝比奈、駆……ッ!」
真木は無意識に後ずさった。
なぜ、勇者パーティーの主力戦士が、現代日本の、しかも杉並区の駅前ロータリーで、ホームレスのごとく行き倒れているのだ。
数日前の空の歪みは、やはりこいつの転移によるものだったのか。
(……好機、か)
真木の瞳に、魔王としての冷酷な光が宿った。
かつて己を滅ぼしにきた宿敵が、今、完全に無防備な状態で目の前に転がっている。魔力を持たないこの世界とはいえ、今ここで首の骨をへし折るか、あるいはこのまま凍てつく冬空の下で放置しておけば、明日の朝には確実に行き倒れの死体となっているだろう。
復讐を遂げるには、あまりにもあっけない、絶好の機会であった。
「……くそっ、勇者め。こんなところで無様に死にかけおって。放置すれば、余の完全勝利だ」
真木は背を向け、アパートへ帰ろうと歩き出した。
一歩、二歩。
しかし、三歩目で真木の足はピタリと止まってしまった。
(待てよ。もしこいつがこのまま駅前で死んだら、どうなる?)
魔王の脳細胞が、フル回転で日本の法律と社会システムをシミュレーションし始めた。
駅前での変死体の発見。間違いなく警察が介入し、大規模な身元調査が行われる。こいつの着ている異世界風の革鎧や、所持品(もし魔導具などを持っていれば)から、特異な事件として扱われる可能性が高い。
そして、もしこいつの転移時の魔力波長を追って、あの天野巡査のような勘の鋭い警察官が周辺を嗅ぎ回るようになったら?
コーポ日ノ出の周辺で不穏な動きが察知されれば、偽造した戸籍や住民票を持つ真木たちの潜伏生活に、致命的なリスクが及ぶことは火を見るより明らかだった。
(いかん……! ここで警察沙汰を起こされるのは、我が不労所得生活の維持において最大のギルティ(重罪)だ! それに、こいつが死ぬ前に暴れて周囲に被害を出せば、地価の下落にも繋がりかねん!)
復讐の快感よりも、アパート経営の安定。
資本主義の論理が、魔王の殺意を完全に上回った瞬間であった。
「……ええい、クソッ! 世話の焼ける勇者だ!」
真木は舌打ちをしながらベンチに引き返し、エコバッグを地面に置いて、朝比奈の胸ぐらをガシッと掴んで強引に引き起こした。
「おい! 起きろ、朝比奈! こんなところで死なれては迷惑なのだ、目を覚ませ!」
激しく揺さぶられ、朝比奈は「う……ん……」と微かなうめき声を漏らし、ゆっくりと重い瞼を開けた。
焦点の定まらない瞳が、目の前の男――真木の顔を捉える。
「……ま、おう……? ヴァル、ザード……か……?」
かすれた、砂を噛むような声。
朝比奈は弱々しく右手を動かし、腰のあたりを探った。おそらく剣を抜こうとしたのだろうが、彼の腰には剣帯すら残っていなかった(現代日本に転移した直後、重くて邪魔になったか、あるいは警察に見つかるのを恐れてどこかに捨てたのだろう)。
「貴様……なぜ、生きている……。俺は、ここで……討ち死に……」
「討ち死になどさせるか! ここは戦場ではない、東京都杉並区の公道だ! いいから立て、歩けるか!」
真木は朝比奈の腕を自分の首に回し、強引に立ち上がらせた。
その体の軽さに、真木は驚愕した。革鎧を着ているにもかかわらず、その肉体は中身がスカスカになっているかのように軽い。転移してきてから数日間、文字通り水一滴すら飲まずに彷徨っていたのだろう。
「……はら、が……減った……。死ぬ……」
朝比奈の腹から、雷鳴のような凄まじい音が鳴り響いた。
大気中にエーテル(魔力)が存在しない世界での、極限のカロリー枯渇。それは、魔族だろうと人間の勇者だろうと関係なく、平等に襲いかかる生存の危機であった。
「チッ。仕方ない。ついてこい、人間の戦士よ」
真木はエコバッグを拾い上げ、朝比奈を引きずるようにして、駅前のロータリーから続く小さな商店街の路地へと向かった。
* * *
深夜の駅前。煌々と赤い看板を輝かせる『名代・富士見うどん』。
カウンターだけの立ち食いスタイルのこの店は、深夜の労働者や酔っ払いの胃袋を満たすオアシスである。
真木は朝比奈を店内の隅の丸椅子に座らせると、入り口の券売機で「月見うどん(四百二十円)」のボタンを押した。
食券を厨房の店員に渡し、待つこと一分。
「はいお待ち! 月見うどんです!」
湯気を立てる黒いプラスチックの丼を、真木は朝比奈の目の前にドンと置いた。
「食え。命を繋ぐための特効薬だ」
「…………」
朝比奈は、虚ろな目でその丼を見つめた。
漆黒の醤油ベースのダシ汁の中に、純白のうどんが横たわり、その中央には満月のように黄色い生卵が落とされている。パラパラと散らされたネギの香りが、湯気とともに朝比奈の鼻腔を直撃した。
「……毒は、入っていないのか……?」
朝比奈が震える声で尋ねる。
「馬鹿を言え。そんな暇があるなら、余はお前をロータリーに放置して帰っている。いいから食え、伸びるぞ」
真木は腕を組み、自分用の水だけを飲んで立っていた。自分の分のうどんを買わなかったのは、当然ながらアパートの経費(生活費)を節約するためである。勇者に奢る四百二十円だけでも、彼にとっては血の涙が出るほどの出費なのだ。
朝比奈は震える手で割り箸を割り、うどんを数本すくい上げた。
そして、恐る恐る口に運ぶ。
ズルッ。
「……!」
一口食べた瞬間。朝比奈の両眼がカッと見開かれた。
極限の飢餓状態にあった彼の脳と肉体に、炭水化物と塩分、そして鰹節の濃厚なダシの旨味が、まるで落雷のように直撃したのだ。
「な、なんだこれは……ッ!」
朝比奈はもう一杯、うどんをすする。今度は卵の黄身を崩し、麺に絡めて口に放り込む。
まろやかな卵の甘みが、醤油の尖った塩気を優しく包み込み、モチモチとした麺の食感が満腹中枢を激しく刺激する。
「う……美味い……!」
朝比奈は、もう止まらなかった。
ズズズッ! ズルズルズルッ!
戦場で剣を振るう時以上の猛烈な勢いで、うどんをすすり、熱いダシ汁を喉の奥へと流し込んでいく。
「熱っ……ハフッ! 美味い……! うますぎる……ッ!」
かつて魔王城の城門を単騎で打ち破り、魔族の軍勢を震え上がらせた勇者パーティーの誇り高き戦士が。
今、深夜の立ち食いうどん屋で、四百二十円の月見うどんを啜りながら、ボロボロと大粒の涙をこぼして泣いていた。
「俺は……俺は……魔王に情けをかけられ……こんな、こんな美味いものを……ううっ……!」
屈辱。敗北感。敵に命を救われたというプライドの完全崩壊。
しかし、それらすべての精神的苦痛を、圧倒的な「食欲」と「カロリー」の暴力がねじ伏せていた。彼は泣きながら、最後の一滴までダシ汁を飲み干し、丼をカウンターに置いた。
「……ごちそう、さまでした……」
朝比奈は両手で顔を覆い、男泣きに泣いた。
真木はそんな宿敵の無様な姿を冷ややかに見下ろしながら、ポツリと言った。
「……足りないなら、おにぎりも追加してやるが。どうする?」
悪魔の囁き。
朝比奈はビクッと肩を震わせ、顔を真っ赤にして叫んだ。
「ふ、ふざけるな! 俺は誇り高き戦士だぞ! これ以上の屈辱を……敵からの施しを受けるなど、断じて……!」
「そうか。では、余は帰る」
「あ、待って……」
踵を返そうとした真木のジャージの袖を、朝比奈が震える手でギュッと掴んだ。
「……どうした?」
「その……」
朝比奈は顔を真っ赤に染め、視線を泳がせながら、蚊の鳴くような声で絞り出した。
「……鮭で、お願いします……」
「ハッハッハッハ!!」
真木は深夜のうどん屋に響き渡る声で高笑いした。
「よかろう! 鮭のおにぎり一つだな! 味わって食えよ、勇者殿!」
真木は券売機で百二十円のボタンを押し、おにぎりの食券を買って朝比奈の前に叩きつけた。
もはや朝比奈のプライドは、完全に胃袋の前に屈服していた。彼は渡された鮭おにぎりのフィルムを不器用な手つきで剥がし、再び涙を流しながら齧り付いた。
(……ちょろい。こいつは、あまりにもちょろすぎる。これなら、黒木や久世よりも簡単にコントロールできるかもしれんな)
真木は、おにぎりを頬張る朝比奈を見下ろしながら、大家としての邪悪な計算を頭の中で弾き始めていた。
* * *
食事を終え、人心地ついた朝比奈は、うどん屋の前の歩道で真木と向かい合っていた。
空腹を満たされ、体力をわずかに回復した彼は、敵意と戸惑いの入り混じった目で真木を睨みつけた。
「……魔王。なぜ俺を助けた。俺の弱みにつけ込み、この世界で俺を奴隷にするつもりか」
「自意識過剰だ。ただの気まぐれにすぎん」
真木はエコバッグを提げ直し、冷たく言い放った。
「それより朝比奈よ。お前、この世界での身分証や金は持っているのか?」
「みぶんしょう? 金なら、わずかだが持っているぞ。ほら」
朝比奈が革鎧のポーチから取り出したのは、異世界の銀貨数枚だった。
「馬鹿者。そんな丸い金属片、この日本で使えるのは骨董屋くらいだ。しかも身分証がないなら、家を借りることも、労働して正規の金(円)を稼ぐこともできない。お前はただの不法滞在者として、再び路上で餓死を待つか、警察に捕まって監獄に放り込まれるかのどちらかだ」
「なっ……! なんだその地獄のような世界は! 魔界よりも過酷ではないか!」
「それが資本主義のリアルだ」
真木は一歩、朝比奈に歩み寄り、凄みのある声で告げた。
「だが、お前には一つだけ生き延びる道がある」
「生き延びる道……?」
「そうだ。余は現在、この杉並区で『アパート』という居住施設を所有し、経営している。お前のような身寄りのない無一文の戦士に、雨風をしのぐ部屋と、戸籍を用意する手立てを与えてやってもいい」
朝比奈の目が驚愕に見開かれた。
「ま、魔王が……宿屋を経営しているだと!? しかも俺に、部屋を貸してくれるというのか!?」
「タダではないぞ。対価として、お前には『家賃』という名の年貢を毎月納めてもらう。労働し、現金を稼ぎ、我が不労所得の礎となるのだ。どうだ? 餓死するか、余の店子(奴隷)になるか、選べ」
真木の提案は、朝比奈にとって究極の選択だった。
魔王の軍門に降るなど、勇者パーティーの戦士として絶対にあってはならないことだ。しかし、先ほどの月見うどんと鮭おにぎりの圧倒的な恩義、そしてこの冷酷な現代日本で一人放り出されることの恐怖が、彼の理性を完全に麻痺させていた。
「……くっ、殺せ! と言いたいところだが……」
朝比奈はギリッと奥歯を噛み締め、悔し涙を滲ませながら頭を下げた。
「俺はまだ……こんなところで死ぬわけにはいかない! 魔王よ、貴様のその『あぱーと』とやら、借りてやる! だが勘違いするな、俺は決して貴様に屈したわけではないからな!」
「ふっ、いい覚悟だ。ならばついてこい。我がコーポ日ノ出の最後の空室、203号室が貴様の新たな寝城だ」
真木はニヤリと邪悪な笑みを浮かべ、朝比奈を連れて路地裏へと歩き出した。
これで、コーポ日ノ出の全六室が埋まる。
真木征司の大家としての第一目標である『満室経営』が、宿敵である元勇者の保護という、最も皮肉で喜劇的な形で達成されようとしていた。
元魔王と元勇者の、一つ屋根の下での奇妙な同居生活。
大家の苦労は、まだまだ尽きそうにない。




