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第30話:第2章総括・平穏な日常の陰り

厳しい冬の寒さも底を打ち、東京・杉並区の住宅街にも、少しずつだが確かな『春の気配』が漂い始めていた。

朝の冷気の中にもどこか柔らかな日差しが混じり、ごみ集積所の脇にある小さな梅の木が、ポツポツと可憐な花をほころばせている。

築三十八年の木造アパート『コーポ日ノ出』の朝は、今日も活気に満ちていた。


「真木様! おはようございます! 本日は隣町のビル解体という大規模な戦場に赴いてまいります! 親方から『黒木がいねえと現場が回んねえ』とお褒めの言葉をいただき、日当が五百円アップいたしました!」

101号室の黒木鉄心(元重装歩兵隊長)が、大田組の作業着姿でビシッと敬礼をキメる。彼の丸太のような腕は、日々の労働でさらにビルドアップされているようだった。

「おお、それは重畳(ちょうじょう)だ。日当が上がったからといって、無駄にプロテインを買うなよ。貯金に回すのだぞ」

「ははっ! 肝に銘じます!」

黒木がドスドスと足音を立てて出勤していくのと入れ替わりに、103号室のドアから、黒いロードバイクを担いだ久世颯太(元風属性魔導暗殺者)が現れた。

「私もこれより、昼のピークタイムのドロップ任務に入ります。真木様、ご覧ください。私の配達員(配達パートナー)としての評価が、ついにエリア内で『ゴールドランク』に達しました!」

久世がスマートフォンの画面をドヤ顔で見せつけてくる。そこには、顧客からの「温かいまま届いた」「対応が最高だった」という絶賛のレビューが並んでいた。

「うむ、流石は風の暗殺者だ。だが交差点での一時停止は絶対に忘れるなよ。ゴールドランクでも交通違反一発でアカウント停止(死)だからな」

「御意! 安全第一で風を切ってまいります!」

久世が風のように走り去ると、今度は二階から「わふぅ、遅刻しちゃいますぅー!」と、201号室の園田乃愛(元ケルベロス)が、食パンを咥えたまま階段を駆け下りてきた。彼女はすっかりペットサロン『ワンワンテラス』の看板娘として定着し、毎日犬たちに囲まれて幸せそうに働いている。

そして、202号室からは、夜勤明けの神埼麗華(元吸血貴族)が、フラフラとゾンビのような足取りで帰還してくる。

「あー……今日の客、千円札出す時に指舐めてから渡してきやがって……マジで呪い殺してやろうかと思ったわ……。でもレジの誤差はゼロだったから、大家、後で褒めなさいよ……」

麗華はそのまま自室へと吸い込まれ、バタンとドアを閉めた。


ジャージ姿で竹箒を持った真木征司(元魔王ヴァルザード)は、それぞれの「戦場」へ向かう、あるいは帰還する店子たちを見送り、深く、そして穏やかなため息を吐き出した。

「……平和だ。実に平和だ。誰も血を流さず、誰も勇者の聖剣に怯えることなく、ただ自らの汗水で正当な金貨(日本円)を稼いでくる。これぞまさしく、余が思い描いていた究極の帝国(アパート)の姿ではないか」

真木は共用廊下の掃き掃除を終え、満足げに大家部屋である102号室へと戻った。


* * *

「大家(マスター)。お掃除ご苦労様です。お茶が入っていますよ」

大家部屋の六畳間では、出勤前の佐伯凛花(元首席補佐官)が、スーツ姿でちゃぶ台の前に正座し、ノートパソコンと電卓を広げていた。

「おお、凛花。今日は月末の決算報告だな。我が軍の財政状況はどうなっている?」

真木が熱い緑茶を啜りながら尋ねると、凛花は眼鏡のブリッジを中指でくいっと押し上げ、自信に満ちた笑みを浮かべた。

「結論から申し上げましょう。魔王様、我がコーポ日ノ出は、現在極めて健全な黒字経営を実現しております」

凛花がノートパソコンの画面を真木に向けた。

エクセルのスプレッドシートには、青色で塗られた美しい右肩上がりのグラフが表示されていた。

「現在、アパート全六室中、五室が稼働中。黒木隊長、久世殿、乃愛、麗華殿、そして私。この五名からの家賃収入により、毎月の固定収入は二十六万円を超えています」

「おおお……!」

「ここから、アパートの共用部電気代、水道代、そして魔王様の生活費と私の生活費を差し引いても、毎月十万円以上の『純利益(キャッシュ)』が残る計算になります。そして、その純利益を数ヶ月間、一切の無駄遣いをせずにプールし続けた結果……」

凛花は、机の引き出しから一冊の通帳を取り出し、真木の前に差し出した。

『修繕積立金専用口座』とテプラで貼られたその通帳の最新ページには。


『残高:2,150,000円』


その数字を見た瞬間、真木の目からブワッと大粒の涙が溢れ出した。

「に、にひゃくじゅうごまんえん……ッ! た、貯まったのか! アパートの外壁塗装工事と、屋根の本格的な防水工事を行うための、あの大金が……ッ!」

「はい。皆様の血の滲むような労働と、一円単位のレシートにまでこだわった経費削減。そして何より、魔王様が大家としての威厳をもって、家賃の滞納を一切許さなかった結果です。これで、いつ大規模修繕の時期が来ても、銀行から借金をすることなく、我々の自己資本だけで城の防壁を修復することが可能です」

凛花の言葉に、真木は通帳を胸に抱きしめ、畳に顔を擦り付けんばかりに男泣きした。

「うおおおおおっ……! 長かった! 冬場の雨漏りで死にかけ、ブレーカーが落ちて冷や汗をかいた日々が、ついに報われたのだ……! 我が不労所得生活の基盤が、今ここに完成したのだ!」

「魔王様、泣くのはまだ早いです。まだ我々には、やらねばならないことが一つ残されています」

凛花がホワイトボードを指差した。

アパートの平面図。101、102、103、201、202と書かれた部屋には、それぞれ入居者の名前のマグネットが貼られている。

しかし、二階の角部屋。

『203号室』の枠だけが、ぽっかりと空白のままであった。

「全六室中、五室が稼働。つまり、まだ一部屋だけ『空室』が残っているのです。不動産経営において、稼働率一〇〇パーセント、すなわち『満室御礼』の看板を掲げてこそ、真の成功者と言えるのではないでしょうか」

「満室……御礼……」

その四文字の響きは、魔界で「世界征服完了」の報告を受けるよりも、今の真木にとって甘美で魅力的なものであった。

「そうだ。あと一部屋。この最後のピースが埋まれば、我がコーポ日ノ出は完全体となる。毎月の収入は三十万を超え、税金対策も完璧。余はついに、平日の昼間から公園で鳩にエサをやるだけの、真の大家(支配者)になれるのだ!」

「はい。そろそろ、満室経営の看板を発注する準備をしても良い頃合いかと存じます。つきましては、宝田不動産の志乃殿のところへ行き、春の引っ越しシーズンに向けた最後の客付けの相談をしてきてください」

「承知した! 至急、向かってくる!」

真木は涙を拭い、意気揚々とジャージの襟を正してアパートを飛び出していった。


* * *

駅前の裏路地にある『宝田不動産』。

幻惑種族の末裔である若女将・宝田志乃は、カウンター越しに真木の話を聞き、クスリと笑って湯呑みをおいた。

「へえ、すごいじゃない。家賃滞納ゼロで、修繕費までしっかり貯めたのね。最初は右も左も分からない元魔王様だったのに、すっかり立派な大家さんになったわね」

「ふん。資本主義の荒波を泳ぎ切るには、魔王のプライドなど捨て去る必要があったからな。それで、志乃。最後の空室である203号室だが、そろそろ入居希望者は現れそうか?」

真木が身を乗り出して尋ねると、志乃はパソコンの画面を操作しながら頷いた。

「ええ。もう三月に入るし、春の引っ越しシーズン真っ只中だから、問い合わせはいくつか来てるわよ。コーポ日ノ出は築古だけど、駅からの距離も悪くないし、何よりあなたが福引で当てた『ドラム式全自動洗濯機完備』っていうのが、若い単身者にはかなり魅力的に映ってるみたい」

「おお! あの時の余の豪腕(ガラポン)が、ここで生きてくるとは!」

「で、どんな店子を入れたいの? 大家さんとしての希望条件はある?」

志乃に聞かれ、真木は腕を組んで天を仰ぎ、呑気に妄想を膨らませた。

「そうだな……。今いる店子たちは、筋トレ狂いの筋肉ダルマに、深夜徘徊する吸血鬼、路地裏を爆走する元暗殺者に、犬語を喋るケルベロスと、あまりにも個性が強すぎる。せめて最後の人間(店子)くらいは、極めて真っ当で、無害で、静かな普通の人間が良いな」

「普通の人間ねえ」

「うむ。例えば、地方から上京してきたばかりの真面目な大学生とか。あるいは、毎日決まった時間にスーツで出社する、礼儀正しい新社会人とか。毎月必ず親からの仕送りや給料で家賃を払い、夜は静かに本でも読んで過ごすような……そんな絵に描いたような模範的市民(モブ)を所望する!」

真木の力説に、志乃は苦笑いした。

「真木さん、大家としては正しい希望だけど、賃貸経営ってそんなに理想通りにはいかないものよ。一見真面目そうな学生が、夜中にサークルの友達を呼んでドンチャン騒ぎして近隣トラブルになったり、エリート風の社会人が急に会社を辞めて家賃を滞納したり。見かけじゃ判断できない厄介事がたくさんあるのよ」

「む……確かに。一理あるな」

「まあ、入居審査は私がきっちりやるから安心して。保証会社も通すし、変な人間は絶対に入れないわ。もうそろそろ、『満室御礼』の木の看板、墨で書いて用意しておいたら?」

「ふふっ、そうさせてもらおう。頼んだぞ、志乃」

真木は心からの笑顔で宝田不動産を後にした。


帰り道。

杉並の商店街を歩きながら、真木は足取り軽く、鼻歌すら歌い出しそうな気分だった。

すれ違う近所の主婦から「あ、大家さん、こんにちは」と挨拶されれば、「こんにちは、奥様。今日は良いお天気ですね」と完璧な笑顔で返す。

肉屋の店主から「おう、真木ちゃん。コロッケ揚がってるよ」と声がかかれば、「一ついただこう。いつも美味いな」と買い食いを楽しむ。

完全に、この街の風景の一部として溶け込んでいる。

魔力を失った時は、すべてを失った絶望しかなかった。しかし、こうして自らの手で一つずつ生活を築き上げ、社会のルールに適応していく喜びは、決して魔界での絶対的な支配に劣るものではなかった。

(……満室御礼。その看板を掲げた時、余の第一の目標は達成される。その後は、店子たちと共に平和に老いていくのも悪くないかもしれないな……)

真木は、沈みゆく夕日を見上げながら、そんな満ち足りた思いに浸っていた。


* * *

その夜。

コーポ日ノ出の大家部屋は、ささやかな宴会のような雰囲気に包まれていた。

修繕積立金が目標額に達したお祝いとして、真木が自腹で(経費ではなく)スーパーの特売品の寿司パックを大量に買い込んできたのである。

「うおおおおっ! スシ! 日本の伝統的祝祭食! 筋肉への極上のご褒美にございます!」

黒木がマグロの握りを次々と口に放り込み、涙を流して喜ぶ。

「サーモン美味しいですぅ! お魚最高!」

乃愛も尻尾を振りながら、サーモンだけを狙い撃ちしている。

「私はイクラとウニがいいわ。あ、大家、ガリもっとちょうだい」

麗華も夜勤前の腹ごしらえとして、容赦なく高いネタから食べていく。

「お前ら、少しは遠慮というものを知れ。余の分が玉子とカッパ巻きしか残っていないではないか……」

真木が文句を言いながらも、その顔はどこか嬉しそうだった。

凛花が、安い発泡酒の缶を真木に差し出す。

「大家(マスター)、お疲れ様です。皆様も、この数ヶ月間、家賃の滞納なくよく働きました。次なる目標は、全室満室の達成と、外壁塗装工事の無事な完了ですね」

「うむ。志乃にも頼んできた。いずれ近いうちに、最後の店子がやってくるだろう。どんな人間が来ようとも、我がアパートの鉄の掟(ルール)に従わせるまでだ」

真木は発泡酒の缶を高く掲げた。

「コーポ日ノ出の平和と、我々の明るい不労所得生活の未来に……乾杯!」

「「「乾杯!!」」」

六畳間に、楽しげな笑い声と、缶がぶつかる音が響き渡る。

外の寒さはまだ残っているが、アパートの中はこれ以上ないほどの温かさと、平穏な日常の空気に満ちていた。

誰もが、この平和な日々がずっと続くのだと信じて疑わなかった。


* * *

深夜。午前二時。

宴会はお開きとなり、麗華は夜勤へ、黒木たちは自室へ戻り、コーポ日ノ出は深い眠りについていた。

真木もまた、布団に入って心地よい疲労感に包まれながら、眠りの淵を漂っていた。

しかし。

不意に、真木の肉体が「ビクッ」と硬直し、閉じていた両眼がカッと見開かれた。

「……ッ!?」

真木は跳ね起き、布団を蹴り飛ばして窓辺へと向かった。

心臓が、早鐘のように打ち鳴らされている。

額からは冷や汗が噴き出し、背筋に強烈な悪寒が走っていた。インフルエンザの時の寒気ではない。もっと根本的で、魂を直接揺さぶるような、生物としての本能的な「恐怖」と「拒絶反応」であった。


真木は震える手で窓を開け、東京の真っ暗な夜空を見上げた。

雲一つない、星の瞬く冬の空。

一見すると、いつも通りの静かな夜景だ。

だが、かつて魔界の頂点に立った魔王の『感知能力』は、大気中の微かな、しかし決定的な異常を捉えていた。


「この……波長は……」


空の一角。はるか上空の空間が、ガラスにヒビが入るように、ミシッ……ミシッ……と嫌な音を立てて『歪んで』いるのを感じたのだ。

大気中にエーテル(魔力)が存在しないこの現代日本において、空間を歪ませるほどの巨大なエネルギー。

しかも、それは真木たち魔族が発する、重く暗い魔力の波長ではない。

全く逆の性質。

鋭く、冷たく、そして魔族の肉体を焼き尽くす絶対的な光の属性。

「『神聖魔法』の……波動……!」

真木はギリッと奥歯を噛み締めた。

間違いない。この波動は、かつて魔王城に攻め込んできた憎き勇者パーティーが発していた、あの不快な光のエネルギーそのものだ。

それが今、この東京の上空で、次元の壁を突き破ってこちら側へ干渉しようとしている。


「……まさか。まさか、あいつまで落ちてきたとでも言うのか?」

真木の呟きは、夜風に吸い込まれて消えた。

もし、勇者パーティーの人間が、魔王を追ってこの現代日本にまで転移してきたのだとしたら。

やっと手に入れたこの平穏な日常は、アパートの満室経営というささやかな夢は、一瞬にして血みどろの戦場へと変貌してしまう。

「ふざけるな……。ここは余の城だぞ。家賃収入を脅かす者は、いかなる理由があろうとも許さん……!」

真木は窓枠を強く握りしめ、歪みゆく夜空を、かつての魔王としての凄絶な眼光で睨みつけた。


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