第29話:給湯器の故障と銭湯サバイバル
一年で最も冷え込みが厳しくなる大寒の時期。東京・杉並区は、数十年に一度と言われる記録的な大寒波に見舞われていた。
日中でさえ気温は氷点下すれすれを這いずり回り、夜ともなれば、吐く息は真っ白な霧となって視界を塞ぐほどである。築三十八年の木造アパート『コーポ日ノ出』は、薄い壁と隙間風の多さにより、外の冷気をダイレクトに取り込んでしまい、室内でさえ息が白くなるほどの極寒地獄と化していた。
「……寒い。ストーブをつけているのに、背中から底冷えが這い上がってくるようだ。魔界の『氷結の谷』でも、これほど陰湿な寒さはなかったぞ……」
夜の九時。大家部屋の六畳間で、ドカジャンを羽織り、コタツの中に亀のように丸まっていた真木征司(元魔王ヴァルザード)は、震える手で熱い緑茶を啜っていた。
そんな限界の寒さを耐え忍んでいた時である。
「大家さァァァァんっ!!」
廊下から、悲鳴にも似た絶叫が響き渡った。
バンッ!と大家部屋の襖が開かれ、タオルを片手に持った202号室の神埼麗華(元吸血貴族)が飛び込んできた。彼女は寒さのあまり、顔を真っ青にしてガタガタと震えている。
「ど、どうした麗華。そんな薄着で。深夜のコンビニバイトの前に風邪を引くぞ」
「か、風邪引くわよ! お湯が! お湯が出ないのよぉっ!」
「お湯が出ない?」
「そうよ! バイト前にお風呂に入ろうと思ってシャワーの蛇口をひねったのに、出てくるのは氷水みたいな冷水ばっかりなの! 十五分待っても一向にお湯にならないわ! どうなってんのよこのボロアパート!」
麗華の悲鳴に続くように、今度は102号室の佐伯凛花(元首席補佐官)が、コートを着込んだ姿で顔を出した。
「魔王様。我が部屋の給湯設備も沈黙しています。さらに、一階の共用給湯器の周辺から、異常な水漏れの音が聞こえます」
「なんだと!?」
真木はコタツから飛び出し、懐中電灯を掴んでアパートの裏手へと回った。黒木、久世、乃愛も騒ぎを聞きつけて集まってくる。
アパートの裏手に設置されている、各部屋にお湯を供給するための大型の共用給湯器。
懐中電灯で照らし出されたその姿を見た瞬間、真木は絶望のあまり膝から崩れ落ちた。
「あ、あああ……っ!」
給湯器に繋がる水道管の保温材が破れ、中の金属パイプがパックリと裂けていたのだ。そこから漏れ出した水が、この記録的な寒波によって瞬間的に凍りつき、巨大な氷柱となって配管にぶら下がっている。
「配管が……凍結して破裂している……!」
「ま、真木様! これは敵の氷属性魔法による施設破壊工作ですか!?」
黒木が叫ぶが、凛花が冷徹に首を振った。
「違います。ただの自然現象です。水は凍ると体積が膨張します。築古の劣化した配管が、昨晩からの急激な冷え込みによる内部の凍結膨張に耐えきれず、破裂したのです」
「修理業者は……修理業者は呼べないのか!?」
真木がスマートフォンを取り出して検索するが、凛花が再び残酷な事実を突きつけた。
「この寒波で、杉並区中の古いアパートで水道管破裂が多発しています。業者のホームページはどこも『現在、予約殺到につき対応は数日後になります』とのアナウンスが出ています。それに……深夜の緊急対応となれば、数十万円の出費は免れないでしょう」
「す、数十万……ッ!」
真木は泡を吹いて倒れそうになった。
「ふざけないでよ! じゃあ私、このままお風呂に入れないまま夜勤に行けって言うの!? 吸血鬼の肌は乾燥に弱いのよ! お風呂上がりのお手入れが命なんだから!」
「わふぅ……私も、ドッグサロンで犬の毛まみれだから、綺麗に洗いたいですぅ……」
麗華と乃愛が抗議の声を上げる。黒木と久世も、解体現場や配達の汗を流せず、不快感に顔をしかめていた。
アパートの機能不全。店子たちの不満爆発。
大家としての最大の危機に直面し、真木はギリッと奥歯を噛み締めた。
(ここで「数日我慢しろ」などと言えば、暴動が起きる。我が城の平穏を保つためには、代替案を提示しなければならない……!)
「……ええい、泣き言を言うな! お湯が出ないのなら、お湯がある場所へ向かえばいいだけの話だ!」
真木は振り返り、店子たちに向かってビシッと指を突きつけた。
「総員、洗面器とタオル、着替えを持て! これより我がコーポ日ノ出の全戦力を挙げて、近所の老舗銭湯『日の出湯』へと出撃する!」
* * *
十分後。
商店街の奥にひっそりと佇む、宮造りのレトロな銭湯『日の出湯』。
煙突からは白い湯気が立ち上り、暖簾には大きく『ゆ』の文字が染め抜かれている。
その前に、洗面器を小脇に抱えた六人の集団が立っていた。
「こ、ここが……日本に古くから伝わるという、共同の大浴場『せんとう』ですか」
久世が警戒するような目で建物を睨みつける。
「そうだ。魔界には個別の入浴設備しかなかったが、この国では古来より、地域住民が一つの巨大な湯船を共有し、裸の付き合いを通じてコミュニケーションを図る文化があるのだ」
真木は先頭に立って暖簾をくぐった。
ガラガラッと木枠のガラス戸を開けると、下駄箱が並ぶ土間があり、その奥に『番台』と呼ばれる一段高い席があった。
「いらっしゃい。あら、大家さんのところ、今日はみんな揃ってどうしたの?」
番台に座っていた女将さんが、真木たちの顔を見て驚いたように声をかけた。
「給湯器が破裂しましてな。しばらくこちらでお世話になります。大人六名だ」
真木は財布から、一人五百円(東京都の銭湯入浴料金の相場)の現金を取り出し、合計三千円を番台に置いた。
「大家。もちろん、これはあなたの自腹ですよね? アパートの設備不備による代替措置ですから、経費にはなりませんよ」
凛花がすかさず釘を刺してくる。
「わ、わかっている! 三千円くらい、大家の威厳として余が奢ってやるわ!」
血涙を流しそうになりながら料金を払い、一行は『男湯』と『女湯』に別れて脱衣所へと進んだ。
男湯の脱衣所。
高い格天井に、レトロな体重計、そして壁にずらりと並ぶ木製のロッカー。
「おおお……なんという開放感。魔王城の大広間にも匹敵する天井の高さですな!」
黒木が服を脱ぎながら感嘆の声を上げる。
「うむ。服はそこのカゴに入れ、ロッカーの鍵を確実にかけろ。貴重品の紛失は自己責任だぞ」
真木、黒木、久世の三人は、真冬の寒さに身を震わせながら、ガラガラと引き戸を開けて浴室へと足を踏み入れた。
「――なっ!!」
浴室に入った瞬間、黒木と久世がその場に直立不動で硬直した。
彼らの視線の先、浴室の正面の巨大な壁一面に、雄大なる『富士山』のペンキ絵が描かれていたのだ。青い空と白い雪を頂く霊峰、そしてその麓に広がる松原と静かな海。
「ま、真木様! 壁に巨大な山の幻影が! これはいざという時に召喚される精霊の壁画ですか!?」
黒木が驚愕して叫ぶ。
「馬鹿者、ただの絵だ! 日本の銭湯において、富士山のペンキ絵は心の安らぎをもたらす究極の芸術なのだ! いいから早く洗い場へ行け!」
真木は二人を促し、洗い場のカラン(蛇口)の前に座らせた。
「いいか。銭湯には厳格なルールが存在する。いきなり湯船に飛び込むのは絶対のギルティ(重罪)だ。まずはこの黄色い桶――『ケロリン桶』と呼ばれる伝説の防具を使って、しっかりと全身の汚れと汗を洗い流すのだ」
「はっ! 承知いたしました!」
三人は並んでカランの前に座り、シャワーと石鹸で全身を清めた。
そして、いよいよ巨大な湯船へと向かう。
「ふおおおおおっ……!」
湯船に足を踏み入れた瞬間、黒木の巨体が歓喜に震えた。
「あ、熱い! しかし、なんという心地よさ! 凍てついていた骨の髄まで、一瞬にして熱の魔力が浸透していくのを感じます!」
「うむ……。四十二度から四十三度の、少し熱めの湯。これぞ江戸っ子の好む銭湯の醍醐味だ」
真木も肩まで湯に浸かり、ほうっと深い息を吐き出した。
広い湯船の中で手足を伸ばす開放感。家風呂の狭いバスタブでは決して味わえない、極上の癒やしである。
「真木様。むこうに、ガラス張りの小部屋があります。あれは一体何でしょうか?」
久世が、浴室の隅にあるドアを指差した。ドアの上には『サウナ室』と書かれている。
「ほう、サウナか。高温の熱気で意図的に発汗を促す、人間界の拷問部屋……いや、健康施設だ」
「拷問部屋……! ならば、我らの忍耐力を試す絶好の修練場ですな! 久世、行くぞ!」
「はっ! 風の暗殺者として、いかなる過酷な環境にも適応してみせます!」
黒木と久世は、意気揚々とサウナ室のドアを開けて中へと入っていった。
サウナ室の中は、摂氏九十度を超える灼熱の地獄であった。
木製のベンチに座った瞬間、二人の全身から滝のような汗が噴き出した。
「ぐぬぅぅっ……! なんという熱波! 息を吸うだけで肺が焼かれるようだ!」
「くっ……! 気流が……読めない! 熱気が全方位から私を押し潰してくる!」
十二分計の砂時計を見つめながら、己の限界との戦いを繰り広げる元魔族たち。五分、八分、十分と経過するにつれ、彼らの意識は朦朧とし始めた。
「限界だ……! 退却!」
黒木が叫び、二人は転がるようにサウナ室を飛び出した。
「はぁっ、はぁっ! 死ぬかと思った……!」
「慌てるな、お前たち。サウナの真髄は、その後の『水風呂』にあるのだ」
サウナ室の横で待機していた真木が、並々と冷水が張られた水風呂を指差した。
「汗を流してから、一気にその中へ身を沈めろ。灼熱から極寒への急激な温度変化が、人間の肉体に奇跡を起こすのだ」
「こ、この真冬に、さらに冷水に浸かるというのですか!?」
「ためらうな! 行け!」
黒木と久世は覚悟を決め、手桶で汗を流した後、ザブンッと水風呂に飛び込んだ。
「ひぎぃぃぃぃぃっ!?」
声にならない悲鳴が上がる。
しかし、十秒、二十秒と経過するうちに、彼らの表情に劇的な変化が訪れた。
冷たさによる痛みがスッと消え、体表を覆う薄い水の膜(温度の羽衣)が形成されたのだ。
「……おや? 冷たく……ない? むしろ、心地よい……?」
「よし、そこまでだ。出て、洗い場の椅子に座って休め」
真木の指示に従い、水風呂から上がった二人は、プラスチックの椅子に腰を下ろし、目を閉じた。
その瞬間。
彼らの脳内に、宇宙の誕生と終焉にも似た、圧倒的な多幸感と恍惚の波が押し寄せてきた。
「な、なんだこれは……ッ!」
黒木が目を見開き、わななく声で呟く。
「血流が……全身の血管を猛烈な勢いで駆け巡っている! 視界がぐるぐると回り、重力が消え失せたかのような浮遊感……!」
「ま、魔力が……エーテルが枯渇したこの世界で、まるで全身に魔力が満ち溢れていくような、究極の万能感……!」
久世もまた、半開きの口から涎を垂らさんばかりの恍惚とした表情を浮かべている。
これが、日本のサウナ愛好家たちが追い求める究極の境地――『ととのう』という現象である。交感神経と副交感神経の急激な切り替えにより、脳内にβエンドルフィンなどの脳内麻薬が分泌され、極限のリラックス状態に陥っているのだ。
「ふっ。これが日本のサバイバル術の力だ。魔力などなくとも、人間は己の肉体の構造を利用して、これほどの快感を得ることができるのだ」
完全に放心状態となり、あしたのジョーのように真っ白に燃え尽きている二人を見て、真木は満足げに頷いた。
* * *
一時間後。
脱衣所からロビー(休憩所)へと出てきた男性陣三人は、すでに湯上がりでホカホカになっている女性陣三人(凛花、乃愛、麗華)と合流した。
「あー、気持ちよかった! 広いお風呂最高ですぅ!」
乃愛がタオルで濡れた髪を拭きながら、ニコニコと笑っている。
「ふん。お湯の温度はまあまあだったわね。乾燥しないように、全身に化粧水を塗りたくってきたから、これで夜勤もバッチリよ」
麗華も、なんだかんだで銭湯の広い湯船を満喫したようで、肌がツヤツヤに輝いていた。
凛花は休憩所のテレビでニュース番組を見ながら、すでにいつもの冷静な経理の顔に戻っている。
「よし。全員揃ったな」
真木は休憩所の片隅にある、ガラス張りの冷蔵ケースへと向かった。
ガラッと扉を開け、中から冷えたガラス瓶の飲料を六本取り出す。
「大家たるもの、危機を共に乗り越えた店子たちには、相応の褒美を与えねばなるまい」
真木がちゃぶ台(休憩所のテーブル)に置いたのは、『瓶のコーヒー牛乳』と『フルーツ牛乳』であった。
「こ、これは……!」
「銭湯の湯上がりと言えば、これだ。遠慮なく飲め」
真木は紙のフタを専用の針で器用に開け、皆に手渡した。
「いただきまーす!」
「では、遠慮なく!」
六人は、誰に言われるでもなく、自然と「腰に片手を当てる」という日本独自の銭湯スタイルをとり、瓶に口をつけて一気に喉へ流し込んだ。
「んぐっ、んぐっ……ぷはぁぁぁぁぁっ!!」
黒木が叫ぶ。
「甘い! そして冷たい! 火照った体に、牛乳のまろやかさとコーヒーのほろ苦さが、これほどまでに完璧にマッチするとは!」
「フルーツ牛乳、色んな果物の味がしてとっても美味しいですぅ!」
乃愛も目をキラキラさせて瓶を空にしている。
給湯器が破裂した時は、どうなることかと思った。
しかし、冷え切った冬の夜、こうして大きな湯船を共にし、サウナで極限を体験し、湯上がりに全員で瓶牛乳を飲み干す。
その光景は、ただのアパートの大家と店子という関係を超えた、一つの家族のような温かな一体感を生み出していた。
「……悪くないな。銭湯という文化も」
真木は空になったコーヒー牛乳の瓶を見つめ、フッと微笑んだ。
「大家。お寛ぎのところ申し訳ありませんが、明日の朝一番で、絶対に水道業者を手配してくださいね。修理代の工面のため、大家の生活費をさらに切り詰める計画書を後で提出しますので」
凛花の無慈悲な一言が、真木の背筋に別の意味での冷水を浴びせた。
「わ、わかっている……。夢から覚めるのが早すぎるぞ、凛花……」
外に出れば、再び氷点下の極寒が待っている。
しかし、コーポ日ノ出の住人たちの体と心は、銭湯の湯気と、互いの存在の温もりによって、芯までしっかりと温まっていた。
魔王の銭湯サバイバルは、修理代への憂鬱を残しつつも、大成功のうちに幕を閉じたのであった。




