第26話:アパートの年越し蕎麦
大晦日の夜。
杉並区の路地裏にある築三十八年の木造アパート『コーポ日ノ出』は、いつもとは違う、どこか厳かで、しかし異常に騒々しい空気に包まれていた。
外は一年で最も冷え込むと言われる季節特有の、突き刺すような冬の風が吹き荒れている。しかし、そんな寒さを嘲笑うかのように、一階奥にある大家部屋からは、煌々とした光と、賑やかな笑い声、そして鼻をくすぐる香ばしいダシの香りが溢れ出していた。
大家・真木征司(元魔王ヴァルザード)にとって、これは初めて体験する「日本の年越し」であった。
魔界において「年を越す」という概念は存在しない。魔界の時は常に暴力的な闘争と、力による支配の連続であり、季節の移ろいなどという情緒的なものを感じている余裕などなかったからだ。
しかし、現代日本においては違う。この国には、一年という区切りを大切にし、家族や仲間と集まって蕎麦をすすり、除夜の鐘を聞きながら静かに新しい年を迎えるという、なんとも奥ゆかしい文化が存在する。
「……ふむ。これが年越し蕎麦か。シンプルなものだな」
ちゃぶ台の前に座り、真木は神保の店『じんぼ亭』から特注で出前してもらった海老天蕎麦の丼を眺めていた。
湯気と共に立ち昇る、鰹節と醤油が混ざり合った、繊細で心安らぐダシの香り。異世界の野蛮な肉料理とは対極にある、静謐な香りに、真木は魔王としての気配を完全に消失させ、ただの「杉並区のアパート経営者」としての安らぎを感じていた。
「魔王様、そんなに蕎麦を凝視してどうしたのですか。伸びてしまいますよ」
傍らで、すでに自分用の蕎麦を箸で持ち上げているのは102号室の佐伯凛花だ。彼女もまた、今日は派遣の仕事から解放され、珍しく眼鏡を外してリラックスした表情を見せている。
「……いや。この国の人々が、なぜこれほどまでにこの細長い麺をすすり、年の瀬を祝うのかが気になってな」
「それは、蕎麦のように長く細く生きられるよう、長寿を願うという意味があります。また、蕎麦は切れやすいことから『今年の災厄を断ち切る』という意味もあるのですよ」
「災厄を……断ち切る、か」
真木はボソリと呟き、箸を手に取った。
今年一年。勇者に敗れ、命からがらこの地にたどり着いた時は、どうなることかと思った。家賃収入を確保するため、住民票の取得から税金の支払い、そして近隣住民との面倒な交際まで、何一つとして魔王の威光が通じない世界で、死に物狂いで足掻いてきた。
だが、今、ちゃぶ台を囲んでいるのは、異世界から引き連れてきた部下たち、そしてこの地に漂着した元勇者パーティーの戦士、さらにはケルベロスまでが混ざり合っている。
荒廃した魔界よりも、今のこの騒々しくも平和な「暮らし」の方が、遥かに守る価値のある帝国だ。真木はそう確信していた。
「――お待たせしました! あ、主君(魔王様)、その海老天は私が先に食べた方が良いのでは……っ!」
襖をガラリと開けて飛び込んできたのは、黒木鉄心だった。
「騒がしいぞ、黒木。お前はもう二杯目だろうが」
「ははっ! 餅つきで消費したカロリーを補充し、今夜の冷え込みに備えての兵糧補充にございます!」
黒木は相変わらずの大食漢ぶりを発揮し、すでに丼を空にしていた。
さらに、ちゃぶ台の端では、202号室の神埼麗華が、コタツの中にどっぷりと下半身を突っ込み、完全に抜け出せなくなっていた。
「あぁ〜……コタツって素晴らしい発明ね。魔界の溶岩風呂よりも、人間界のこのコタツの方が、全吸血鬼のQOL(生活の質)を向上させるわ……。もう出られない……ここから一生出られない……」
昼夜逆転生活がようやく改善されつつある麗華だが、コタツという魔力(魔導具)の引力には抗えないらしい。彼女は手にした蕎麦をふーふーしながら、テレビ画面に釘付けになっている。
テレビの中では、紅白歌合戦が絶賛放映中だった。
有名歌手たちが歌い踊り、きらびやかな照明が交差するステージ。異世界の殺伐とした戦場しか知らなかった魔王軍の幹部たちは、その華やかな光景を、まるでおとぎ話でも見るかのような好奇の目で眺めていた。
「……信じられん。あの光の演出……。あれほどの規模の照明を維持するためには、どれだけのエネルギーが必要なのだ? 魔力がないこの国で、これほどの文明を維持しているとは……」
久世が目を丸くして感嘆する。彼はフードデリバリーの任務で東京の街並みを隅々まで走破しているが、このテレビという窓の中に広がる、日本全土を巻き込んだエンターテインメントの巨大なパワーに、いまだに圧倒されていた。
「これを見ろ! この勝敗の決着! 紅か、白か! この不確定要素を全国民が同時に見守るという熱狂……! 魔界の殺し合いとは比較にならぬ、純粋な『祭り』の情熱よ!」
朝比奈が警備員の制服を脱ぎ捨て、半纏を羽織ってテレビに向かって絶叫している。元勇者パーティーの戦士であった彼にとって、今は敵対していたはずの魔族たちと共に同じ番組を見て、あーだこーだ言い合う状況そのものが、奇跡のような時間であった。
「……乃愛ちゃん、お餅はまだある?」
「あ、黒木さん! 今、お醤油で焼いてきますねー!」
乃愛が尻尾をパタパタと振りながら、お餅を抱えてキッチンの方へ駆けていく。
――この光景。
一年前に真木が想像していた、この世界での「敗戦後の暮らし」は、もっと孤独で、荒んだものだった。
敗残兵として追われ、薄暗い路地裏で細々と隠れ住む、そんな未来を想像していた。
だが現実は、どうだ。
家賃収入で食う蕎麦は美味く、仲間たちの話し声は心地よく、テレビから流れる音楽は、一年間の疲れを優しく癒やしてくれる。
「真木様。顔が、少しだけ笑っておりますよ」
凛花が、小さく微笑んで真木に囁いた。
「……そうか? ただ、少しばかり満腹なだけだ」
「ふふっ。素直ではありませんね。……ですが、本当によかったです。こうして、皆様と無事に年を越せること。……魔界にいた頃は、こんな時間は永遠にやってこないと思っていました」
凛花の瞳に、一瞬だけ、かつて魔王軍の過酷な戦場を駆け抜けていた頃の、影のような寂しさがよぎった。彼女たちもまた、魔王と共に数多の戦いをくぐり抜けてきた、帰る場所を失った者たちなのだ。
「ああ。……礼を言うぞ、凛花。お前が日本という国の税制と労働環境を完璧に攻略してくれたおかげだ」
「いえ、私はただの経理OLですから。……ですが、もしまた来年も、こうして皆で蕎麦を食べられるのなら、どんな税務調査も、どれだけ複雑な確定申告も、この命に代えても乗り切ってみせます」
その言葉は、凛花なりの最大級の忠誠の誓いだった。
魔界の覇王への忠誠ではない。この、杉並区の路地裏にある、築三十八年の木造アパート『コーポ日ノ出』という名の、彼女たちにとっての新しい「城」への誓いだった。
夜が更け、時計の針が十ニ時に近づくにつれて、テレビの中のカウントダウンが始まった。
住人たちは、全員がコタツの周りに集合し、テレビの数字と自分たちの鼓動を同調させていく。
十年、二十年、いや数百年分もの濃密な戦いの歴史を背負ってきた彼らだが、今この瞬間、ただの「東京で暮らす住人たち」として、その数字を見つめていた。
『――五、四、三、二、一……ハッピーニューイヤー!!』
テレビの向こう側からあがる歓声とともに、アパートのすぐ近くの寺院から、除夜の鐘の音が低く、重厚に響き渡った。
ゴォォォォォン……。
その厳かな音色は、杉並の夜空を震わせ、静かに、しかし力強く人々の心に届く。
異世界では聞いたこともない、日本の年越しの、独特の静寂と情緒。
真木は、その鐘の音を聞きながら、湯呑みに注いだ茶を静かに置いた。
「……さて。今年もいろいろあった」
真木がそう切り出すと、皆が一斉に彼を見た。
「魔界での敗北、この地への転移、アパートの購入。そして、お前たちとの再会。どれもこれも、計画外の出来事ばかりだった」
真木はコタツを挟んで座る住人たちの顔を、一人ずつゆっくりと見回した。
元魔王の自分を慕い、共に家賃を稼ぎ、税金と戦い、こうして同じ屋根の下で笑い合っている彼ら。
「だが、悪くない。これからの、この先の未来がどうなるのかは分からん。追跡者が来るかもしれんし、あるいは、もっと別のトラブルが降りかかるかもしれん。……だが、今、この城にいる者たちとなら、たとえどんな困難があろうとも、乗り越えていける気がする」
それは、魔王としての傲慢な支配の言葉ではない。
苦労を分かち合い、同じ釜の飯を食う、新しい家族としての約束の言葉であった。
「皆。今年も……いや、来年も、我がアパートのために働け。家賃を納めろ。ルールを守れ」
真木はそう言って、最後の一滴までビールを飲み干した。
「……そして、共にこの街で、最高に幸福な『大家生活』を満喫しよう。新年、明けましておめでとう!」
「「「明けましておめでとうございます!!」」」
コーポ日ノ出に、新たな年が訪れた。
窓の外では、まだ風が冷たく吹き荒れている。しかし、アパートの中は、明日への希望と、ささやかな日常の温もりで満たされていた。
元魔王の、満室への、そして平和な日常への道は、まだまだ続く。
しかし、今の彼らには、どんな荒波が来ようとも、この城を守り抜く強さがある。
二階から響く誰かの笑い声と、遠くで鳴り止まない鐘の音を聴きながら、真木は、コタツの中で完全に眠り込んでいる麗華の足元にそっと毛布をかけ、自分もまた、一年の疲れを癒やすために目を閉じた。
杉並の空に、初日の出の光が届くまで、あとわずか。
木造アパートの歴史において、もっとも騒がしく、そしてもっとも平和な夜が、こうしてゆっくりと更けていった。




