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第27話:魔王、インフルエンザに倒れる

それは、年が明けてから一週間ほど過ぎた、ある凍てつくような冬の朝のことだった。

木造アパート『コーポ日ノ出』の一階奥。大家部屋の六畳間で、いつもなら朝七時には必ず目を覚まし、ジャージに着替えて共用部分の掃き掃除に向かうはずの真木征司(元魔王ヴァルザード)が、いつまで経っても布団から出てこなかった。


「……大家マスター。もう八時を回っていますよ。寝坊など、あなたらしくもありませんね」

出勤前のビジネススーツ姿の佐伯凛花(元首席補佐官)が、呆れたように襖を開けた。

しかし、彼女の目に飛び込んできたのは、普段の厳格な大家の姿ではなく、布団の中で丸まり、ガタガタと震えながら苦しげな呼吸を繰り返している真木の姿だった。

「はぁ……はぁ……。さ、寒い……。凛花、ストーブの温度を最大まで上げてくれ……」

「魔王様!?」

凛花が慌てて駆け寄り、真木の額に手を当てた。

「熱い! 尋常ではない熱です! 顔色も真っ青ではないですか!」

「わからん……。昨日から、関節という関節が、勇者の聖剣で打ち据えられたように痛むのだ……。魔力が底を突き、生命力カロリーが根こそぎ奪われていくような……ゴホッ、ゲホッ!」

激しい咳き込みとともに、真木は布団の中で丸くなった。

魔界において、病という概念は存在した。しかし、魔王である真木の肉体は強靭であり、あらゆる呪詛や毒を弾き返すほどの耐性を持っていたはずだ。それが、魔力を失った現代日本において、これほどまでに急速に衰弱するとは。

「これは、ただの風邪ではありませんね。直ちに医療機関での診断が必要です!」


* * *

数時間後。

凛花に付き添われ、近所の『杉並北クリニック(内科)』から帰還した真木は、大家部屋の布団に再び倒れ込んでいた。

その枕元には、病院の薬袋と、一枚の紙切れ(診断書)が置かれている。

アパートの住人たち――黒木、久世、麗華、乃愛が、何事かと大家部屋の前に集まっていた。

「佐伯殿! 真木様の容態は!? いったい、いかなる強力な呪いを受けたというのですか!」

黒木が悲痛な顔で尋ねる。

「まさか、私が目を離した隙に、勇者の残党による毒殺工作が……!」

久世が殺気をみなぎらせて周囲を見回す。

凛花は眼鏡をスッと押し上げ、手元の診断書を冷徹に読み上げた。

「静かにしなさい、あなたたち。真木様が受けたのは呪いでも毒殺でもありません。診断結果は……『インフルエンザA型』です」

「いんふるえんざ……?」

「えー型……?」

魔族たちには耳慣れない言葉に、全員が首を傾げる。

「人間の世界において、冬に猛威を振るう非常に感染力の高いウイルスです。潜伏期間を経て、高熱と関節痛、激しい咳を引き起こします。魔力を持たない今の真木様の肉体は、完全にこの人間界のウイルスの前に敗北したのです」

「な、なんという恐るべき目に見えぬ敵! 魔王様の強靭な肉体を、わずか一日でここまで衰弱させるとは!」

黒木が驚愕の声を上げ、乃愛が「魔王様、死んじゃうんですかぁ……?」と涙ぐむ。

「馬鹿な……私が……ただの病ごときで……」

真木が布団の中から、掠れた声で抗議しようとしたが、すぐに「ゲホッ! ゴホッ!」と激しく咳き込んでしまった。

大家マスター、喋らないでください。医者からは、抗インフルエンザ薬を処方され、最低でも五日間の絶対安静を命じられています。栄養と水分を摂り、ひたすら寝て治すしかないとのことです」


その言葉を聞いた瞬間、神埼麗華(元吸血貴族)が青ざめた顔で叫んだ。

「ちょ、ちょっと待ってよ! 五日間も絶対安静ってことは、アパートの管理はどうなるのよ! ゴミ出しとか、共用部の掃除とか!」

「……お前たちが、やるのだ」

真木が布団の中から、呪詛のような声で唸った。

「余が寝込んでいる間、我が城の防衛(管理)を怠ることは許さん。ゴミの分別を間違えれば、近所の主婦からクレームが来る。共用部が汚ければ、資産価値が落ちる。すべて……お前たちの責任で……ゴホッ!」

「無理よ! 私、深夜のコンビニバイトで昼間は寝てるのに、その上アパートの掃除なんてしたら、今度こそ灰になっちゃう!」

「神埼殿、わがままを言うな! 真木様が倒れられた今、我らが団結してこの城を守るのが家臣の務めであろう!」

黒木が熱く語るが、久世が腕を組んで反論する。

「しかし黒木殿、私も『スマイルイーツ』の配達クエストで、日中は街を走り回らねばならん。アパートの管理にまで手を回すのは、物理的に不可能だ」

「わふぅ……私、ペットサロンの犬のお世話で手一杯ですぅ……」

乃愛までが耳を垂れ下げて泣き言を言う。

魔界の元最高幹部たちとはいえ、彼らも今や、現代社会の過酷な労働環境に組み込まれた歯車(フリーターや日雇い)に過ぎない。大家の真木がこれまで一手に引き受けていた「アパートの日常管理」という名のない家事労働が、どれほど膨大で面倒なものであったか、彼らは今更ながらに思い知らされようとしていた。


「ええい、黙りなさい!」

凛花の一喝が、騒がしい大家部屋に響き渡った。

「インフルエンザは飛沫感染します。この狭い空間で大声を出せば、全員にウイルスが蔓延し、コーポ日ノ出の稼働率(労働力)がゼロになるという最悪のパンデミックを引き起こします! 直ちにこの部屋から退去しなさい!」

「ひっ! う、うつるのは嫌よ!」

麗華が真っ先に逃げ出し、他の三人も慌てて廊下へと後ずさった。

「いいですか、皆さん。私が緊急の『看病およびアパート管理シフト表』を作成します。全員、自分の仕事の合間を縫って、真木様の看病とアパートの維持に全力を尽くすのです。これは大家マスターからの至上命令です!」

凛花の鬼気迫る号令により、コーポ日ノ出の「魔王看病サバイバル」が幕を開けた。


* * *

数時間後。昼時。

最初の看病シフトに入ったのは、ドッグサロンが午後から休みの乃愛だった。

彼女は首にタオルを巻き、やる気満々の表情で、小さなキッチン(大家部屋の流し台)に立っていた。

「魔王様! 栄養つけなきゃダメです! 私、ワンちゃん用の回復食を応用して、とっておきのお粥を作りました!」

乃愛が布団の横に持ってきたのは、どんぶり一杯の、異様な色をしたドロドロの物体だった。

「……なんだ、これは。犬のゲロか?」

真木が熱で霞む目でその物体を睨みつける。

「ひどいです! ササミと、細かく刻んだ野菜と、あとはエネルギーになるようにお塩とお醤油を『ドバドバッ』と入れた、特製塩分チャージ粥ですよ! 夏場にバテた大型犬にはこれが一番効くんです!」

「余は大型犬ではない……。それに、匂いだけで血圧が上がりそうなほど塩辛いぞ……」

「さあ、あーんして!」

乃愛がレンゲで強引に口の中に押し込んできた。

「……ッ!!」

一口食べた瞬間、真木の口の中に、海水をそのまま煮詰めたような暴力的な塩気が爆発した。

(か、辛い……! 喉が渇いて死ぬ! これは看病ではなく、明確な暗殺工作だ!)

「どうですか!? 美味しいですか!?」

尻尾を千切れんばかりに振って期待する乃愛の顔を見て、真木はなんとか「……美味い」とだけ答え、その後すぐに枕元のペットボトルの水を半分以上飲み干す羽目になった。


夕方。

現場仕事から早く帰ってきた黒木が、ズカズカと部屋に入ってきた。

「真木様! お体の具合はいかがですか! 私も、現場の親方から『風邪にはこれが一番効く』と聞いて、特効薬を調達してまいりました!」

黒木の手には、スーパーの袋が握られている。中から取り出したのは、一本の立派な『長ネギ(泥付き)』であった。

「ネギ……? それを、どうするつもりだ。まさかそのまま食えと言うのではあるまいな」

「ははっ! これをですね……こうして!」

黒木は長ネギを半分に折り曲げると、いきなり真木の首に、ぐるぐると巻きつけ始めた。

「なっ、貴様、何をする!」

「動かないでくだされ! これを首に巻くことで、ネギの揮発成分が気道から吸収され、ウイルスの増殖を防ぐと親方が言っておられました! これぞ、人間の古き良き民間医療リジェネレイト!」

「馬鹿野郎! ただ泥臭くて冷たいだけではないか! それに、ネギの汁が首筋に垂れて気持ち悪い!」

「我慢です、真木様! 良薬口に苦し、ネギは首に臭し、と言います!」

「言わん!」

熱で抵抗する気力もない真木は、結局、首に太い長ネギを巻かれたまま、ネギ臭い部屋の中で涙を流しながら咳き込むこととなった。


深夜零時。

コンビニの夜勤前に立ち寄った麗華が、ドンッと音を立ててビニール袋を枕元に置いた。

「ほら、買ってきたわよ。感謝しなさい」

袋の中には、コンビニで売られている『特大サイズ(一リットル)のスポーツドリンク』が、なんと五本も入っていた。

「……麗華。水分補給はありがたいが、なぜこんなに大量に。しかも、常温でなくキンキンに冷えているぞ」

「だって、熱がある時は冷たいものを飲んだ方が気持ちいいでしょ? それに、五本もあれば、私が夜勤から帰ってくる朝まで、喉が渇いて死ぬことはないじゃない」

「お前の優しさは、いつもどこか大雑把で暴力的なのだ……。こんな冷たいものを一気に飲んだら、胃腸が冷えて別の病気になるわ」

「なによ、せっかく私の自腹で買ってきてあげたのに! もういいわよ、勝手に干からびなさい!」

麗華はぷいっと顔を背け、そのまま夜勤へと出かけてしまった。


* * *

「……はぁ。どいつもこいつも、看病というものを根本的に勘違いしている」

夜中。一人きりになった大家部屋で、真木は首に巻かれたネギを払い除け、冷え切ったスポーツドリンクを少しだけ口に含んだ。

熱はまだ三十八度後半を推移し、体中の関節が悲鳴を上げている。

(余が倒れたら、このアパートはどうなる。あいつらだけで、本当に管理などできるのか。家賃の回収は。修繕費の積立は……)

インフルエンザの熱にうなされながら、真木の脳裏には大家としての責任と不安ばかりが渦巻いていた。

魔王であった頃は、自分が倒れれば軍は崩壊し、世界は勇者のものになっていた。だが今は、自分が倒れれば、ただの「管理の行き届かないボロアパート」になり、店子たちが路頭に迷うだけだ。

「……情けないな。魔力を失ったとはいえ、ただのウイルスにここまで怯えるとは」

真木が自嘲気味に呟き、重い瞼を閉じようとした、その時だった。


――トントン。


大家部屋の扉が、控えめにノックされた。

「……誰だ。夜中に」

「真木さん、起きてるかい?」

聞こえてきたのは、魔族たちのものではない。もっと年老いた、それでいて温かみのある、嗄れた男の声だった。

「……神保、殿?」

真木が体を起こそうとすると、扉がガラリと開き、大衆食堂『じんぼ亭』の店主・神保康平が、お盆を持って立っていた。

「おう、ごめんな。佐伯さんから、大家さんがインフルエンザで寝込んでるって聞いてさ。若い奴らじゃ看病も手探りだろうと思って、ちょっと差し入れを持ってきたんだ」

神保がお盆をちゃぶ台に置いた。

そこには、湯気を立てる土鍋に入った『たまご粥』と、すりおろしたリンゴ、そして温かいほうじ茶が乗っていた。

「おお……」

「熱で胃が弱ってる時は、こういう消化のいいもんが一番だからな。うちの女房が生きてた頃に、よく作ってやった特製のお粥だ。少しだけでもいいから、腹に入れな」

神保の差し出したお粥。

それは、乃愛の作った「致死量の塩分チャージ粥」とは対極にある、ダシの効いた優しい薄味の、卵とふっくらとした米の甘みが広がる、完璧な『看病食』であった。

「……美味い。五臓六腑に、温かさが染み渡るようです」

真木はレンゲで少しずつお粥を口に運びながら、熱で潤んだ目を伏せた。

「すみません、神保殿。町内会長にまで、こんなご心配をおかけしてしまって。大家たるもの、常に健康で、自立していなければならないのに……」

「馬鹿言ってんじゃねえよ」

神保は笑って、真木の肩をポンと叩いた。

「どんなに丈夫な奴だって、風邪くらい引くさ。大家だからって、一人で全部背負い込むこたぁない。あんたのところの住人たち、みんなあんたのこと心配して、必死になってたぜ?」

「……あいつらが、ですか?」

「ああ。黒木のお兄ちゃんは『ネギが効かないなら、次はニンニクを部屋中に吊るす』って息巻いてたし、久世のお兄ちゃんは『ウイルスを運んできた人間を特定して暗殺……じゃなくてクレームを入れる』って目血走らせてたしな。ちょっとズレてるけど、あんたは良い店子に恵まれてるよ」

神保の言葉に、真木は思わず吹き出しそうになり、また咳き込んだ。

「……ええ。本当に、手のかかる、厄介な奴らです。ですが……悪い気はしませんね」

「だろ? アパートの掃除だって、今日はあのゴスロリのお嬢ちゃん(麗華)が、文句言いながらも共用廊下をモップ掛けしてたぜ。あんたが寝てる間、あいつらなりに、この場所を守ろうとしてるんだよ」

その事実を知り、真木の胸の奥に、お粥の温かさとはまた違う、熱いものが込み上げてきた。


「ゆっくり休みな。アパートのことは、町内会の連中にも少し気にかけておくように言っとくからさ」

「……重ね重ね、感謝いたします。神保殿」


神保が去った後。

真木はすりおろしたリンゴの甘酸っぱさを口に含み、冷たいスポーツドリンクで喉を潤した。

首には泥臭いネギが転がっており、部屋には乃愛のしょっぱいお粥の匂いが残っている。

不器用で、めちゃくちゃで、的外れな看病。

だが、それは間違いなく、彼らが「大家である真木」を必要とし、心配しているという証であった。

(……早く、治さねばな。あいつらにこの城を任せきりにしていては、数日でゴミ屋敷かカルト教団の拠点にされてしまう)

真木は小さく笑い、布団を深く被った。

インフルエンザの高熱はまだ続く。しかし、真木の心の中の不安は、いつの間にか綺麗に消え去っていた。

人間のウイルスの前では無力な元魔王だが、彼の築き上げた「コーポ日ノ出」という絆の結界は、彼が倒れた時こそ、その真価を静かに発揮し始めていたのである。

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