第24話:経費で落ちるもの、落ちないもの
ペタッ……ペタッ……。
深夜二時のコーポ日ノ出。冷え込みが厳しさを増す一階の共用ロビーには、乾いた紙が擦れる音と、スティックのりを紙に塗りつける単調な音だけが、まるで念仏のように響き渡っていた。
ストーブの赤い熱線が、車座になって畳(大家部屋からロビーにはみ出している)に座り込む魔族たちの顔を、不気味に照らし出している。
「……ううっ、目が、目がシパシパする……。なんで吸血貴族の私が、真夜中に他人のレシートの束を日付順に並べ替えるなんていう、底辺の拷問を受けなきゃいけないのよ……」
深夜のコンビニバイトから帰還したばかりの202号室・神埼麗華(元吸血貴族)が、ゴスロリドレスの袖をまくり上げながら泣き言を漏らした。
その隣では、103号室の久世颯太(元風属性暗殺者)が、暗殺任務の時のような鋭い目つきで、己の自転車のメンテナンス用品のレシートを睨みつけている。
「集中しろ、神埼殿。この紙切れ一枚一枚が、我々が国家に搾取される税金を減らすための『防壁』となるのだ。一枚でも貼り漏らせば、その分、我が血肉たる日本円が国庫へと吸い上げられる……ッ! これは税務署という名の巨大な敵との、見えない暗殺戦なのだ!」
「はっ、はっ……のり、おいしいですぅ……」
201号室の園田乃愛(元ケルベロス)に至っては、疲労と眠気のあまり、スティックのりの甘い匂いに誘われて先端を舐めようとしており、その度に久世に「食うな!」と叩かれている。
彼らは今、翌年の『確定申告』に向けた準備として、今年一年分の領収書とレシートを台紙に貼り付け、帳簿の基礎となる資料を作成するという、地獄の単純作業の真っ最中であった。
そして、この地獄の総指揮を執るのが、ホワイトボードの前に仁王立ちする102号室の佐伯凛花(元首席補佐官・現派遣経理OL)である。
「皆の手が止まっていますよ! 糊が乾く前に次を貼る! レシートの印字が消えかかっているものは、ボールペンで上からなぞって補強しなさい! 税務調査官は、消えかけた文字を『経費の捏造』とみなして容赦なく突き突いてきますよ!」
凛花の容赦ないゲキが飛ぶ。
その時。
束になったレシートの山と格闘していた101号室の黒木鉄心(元重装歩兵隊長)が、突如として立ち上がり、分厚い拳で畳をバンッ!と叩いた。
「佐伯殿ッ!! 異議を申し立てる!!」
巨漢の怒声が深夜のアパートに響き渡った。
黒木の目は血走り、その手には数枚のレシートが握りしめられている。
「先ほどから貴殿は、私が提出するレシートを次から次へと『家計費』の箱へと放り込んでいる! スーパーの鶏むね肉が経費にならないのは、百歩譲って理解した! だが、これだけは、この数枚のレシートだけは、絶対に『経費』として認められねばならんのだ!」
黒木が鼻息を荒くして突き出したのは、大手スポーツ用品店で発行された、金額にして数万円にも上るレシートだった。
「ほう……」
凛花は眼鏡をくいっと押し上げ、黒木からそのレシートを受け取った。
「……品名『特注アイアン・ダンベル(三十キロ)』二個セット。『ヘビーデューティー・腹筋ローラー』。そして『プロテイン・大容量五キロパック』ですか。……なるほど、合計で約四万五千円ですね」
「いかにも!!」
黒木は胸を張り、大田組の解体現場で鍛え抜かれた丸太のような上腕二頭筋を誇示するようにポーズをとった。
「私が従事している『木造家屋解体』という戦場において、己の筋肉こそが最大の武器であり、重機に勝る最強の資本である! よって、このダンベルと腹筋ローラーは、武器を研ぎ澄ますための『メンテナンス費用』! プロテインは武器の弾薬! すなわち、これらは私の事業(肉体労働)を継続するために必要不可欠な『軍事維持費』である!」
黒木の演説は、異世界の重装歩兵としては極めて論理的であり、熱を帯びていた。
確かに、彼の怪力がなければ大田組での日当一万円は稼げない。筋肉が資本である以上、筋肉への投資は事業投資である。久世も「なるほど、一理ある……」と頷きかけていた。
しかし。
日本の税制を完全にインストールした元首席補佐官の壁は、あまりにも高く、そして冷酷であった。
「却下です」
凛花は一秒の迷いもなく、黒木の熱い思いが詰まったダンベルのレシートを、無慈悲に『家計費(自腹)』のダンボール箱へと放り投げた。
「な、なにィィィィッ!?」
「黒木隊長。あなたの熱い思いは痛いほど伝わりました。魔界であれば、軍から武具の手入れ代として予算が下りたでしょう。しかし、ここは『日本』です」
凛花は指示棒で、ホワイトボードに大きく書かれた『必要経費』の文字を叩いた。
「日本の税法において、必要経費として認められるのは『事業の遂行上、直接的に必要であったことが明確に証明できるもの』に限られます。あなたが購入したダンベルや腹筋ローラーは、確かに筋肉を鍛えるのに役立つでしょう。しかし、税務署から見れば、それはただの『個人の健康維持』や『趣味の筋トレ』の範疇を出ません!」
「しゅ、趣味だと!? この私が、趣味で三十キロの鉄の塊を上げ下げしているとでも言うのか!」
「そうです。あなたがプロのボディビルダーや、スポーツジムの経営者であれば経費として認められる余地もあります。ですが、あなたの職業は『解体作業員』です。解体作業に必要なのはバールやハンマーであり、ダンベルではありません! 『健康な肉体を維持するため』という理屈が通るなら、世の中のサラリーマンのスポーツジム代やサプリメント代がすべて経費になってしまいます!」
「ぐぬぬぬぬっ……!」
黒木は言葉に詰まり、巨大な体をわななかせた。
「プ、プロテインは!? プロテインは私の血肉となり、現場の柱をへし折るエネルギー源となっているのだぞ!」
「食事代と同じ扱いです! 人間が生きるために必要な栄養摂取は、事業経費ではなく個人的な生活費です。よって、ダンベルも腹筋ローラーもプロテインも、すべて経費では落ちません。あなたの所得から一円も引くことはできないのです!」
ドゴォォォン……。
黒木の背後に、目に見えない巨大な雷が落ちたような錯覚が走った。
四万五千円。汗水垂らして稼いだ日当の数日分をつぎ込んだ己への投資が、税制上はまったく「なかったこと(ただの無駄遣い)」にされるという残酷な現実。
「そんな……。我が筋肉への愛は、国家には届かぬというのか……」
黒木は膝から崩れ落ち、うなだれた。
「……おいおい、あまり泣かせてやるなよ、凛花」
その時、ちゃぶ台の奥でストーブに当たっていた大家・真木征司が、ニヤニヤと意地悪い笑みを浮かべながら口を挟んだ。
「お前たちのような末端の労働者(個人事業主)には、経費の概念が少々難しかったようだな。見よ、これが『城を持つ者(大家)』の特権たる、完璧なる経費の束だ!」
真木はドヤ顔で、自分が綺麗にノートに貼り付けた領収書の山を見せびらかした。
「先日、雨漏りが発生した時にホームセンターで買った『ブルーシート』と『土嚢袋』! そして、共用廊下の蛍光灯の『管球』! さらに、大家部屋の畳を直した際の『タッカー』と『い草のござ』!」
真木は一枚一枚を指差し、勝ち誇ったように言った。
「これらはすべて、我がコーポ日ノ出という事業用資産を維持・修復するためのもの! すなわち、税法上も完璧に認められる純然たる『修繕費』および『消耗品費』だ! 余の使った金は、一円残らず経費として所得から控除される! どうだ黒木、悔しいか!」
自分のダンベルが経費にならず、大家のブルーシートが経費になる。
この圧倒的な格差(ルールの違い)に、黒木はギリッと奥歯を噛み締めた。
「おのれ真木様……! 大家という立場を利用し、合法的に税を逃れるとは! なんという狡猾さ!」
「ハッハッハ! これが資本主義のルールを知る者の余裕よ!」
大家の底意地の悪い笑い声が響く中、凛花が再び口を開いた。
「魔王様、あまり黒木隊長をいじめないでください。黒木隊長、落ち込むのはまだ早いです。あなたの提出したレシートの中に、一つだけ、完璧に経費として落とせる『強力な武器』がありましたよ」
「な、なに……?」
黒木が顔を上げると、凛花は一枚のレシートを高く掲げた。
そこには『鉄芯入り・安全靴(プロ仕様) 5,800円』と印字されていた。
「こ、それは! 大田親方に言われて、現場で足の指を潰さないために買った、先端に鋼鉄が入っている靴……!」
「そうです。この安全靴、およびあなたが現場で着ている大田組指定の作業着。これらは、私服として休日に着て出かけるものではありませんよね?」
「当然だ! 泥とホコリにまみれた作業着で、休日に新宿や渋谷を歩くわけがなかろう!」
凛花はふっと微笑み、眼鏡を光らせた。
「そこが重要です。日本の税務において『業務遂行上、明らかにそれ専用であり、プライベートでの使用が困難な衣服や装具』は、立派な経費として認められるのです。つまり、この安全靴と作業着は、あなたの解体業という事業に直接紐づく『消耗品費』として、胸を張って申告できるのです」
「おおおおおっ……!!」
黒木の目に、再び希望の光が宿った。
「なんという奥深さ! 鉄の塊は駄目でも、鉄の靴(安全靴)は認められる! 『私用か、業務用か』というその一点において、経費の境界線が引かれているというのか!」
「その通りです。それが理解できたなら、次回からはレシートをもらう際、それが事業にどう直結するのかを常に意識して行動しなさい」
「ははぁっ! 佐伯殿の深き教え、この黒木鉄心、一生忘れません! 日本の税制、まさに恐るべき論理の迷宮……ッ!」
黒木が感極まって畳に手をついて拝む姿を見て、隣にいた久世も慌てて自分のレシートの山を見直し始めた。
「な、なるほど……。ならば、私が買ったロードバイクの『チェーンオイル』や『パンク修理キット』は……間違いなく配達任務(事業)に直結する消耗品! 経費として認められるということだな!」
「はい、久世殿。それは明確な『車両費』または『消耗品費』です。ただし、あなたが休日にサイクリングに出かけた先で飲んだジュースなどは経費になりませんよ。走行距離の按分計算が必要になる場合もありますから、後で厳しくチェックします」
「ひぃっ! あ、按分計算……!」
凛花の的確かつ冷徹な経理指導により、コーポ日ノ出の領収書仕分け作業は、深夜から明け方にかけて、劇的なスピードで進行していった。
私物は徹底的に弾かれ、真に事業に必要な経費だけが、完璧な証拠とともに台紙へと貼り付けられていく。
大家である真木も、最初は余裕ぶっていたものの、「大家室の電気代のうち、プライベートな生活空間と共用ロビーの照明分を明確に面積按分しなさい」と凛花に凄まれ、電卓を叩き直す羽目になっていた。
* * *
やがて、窓の外が白み始め、スズメの鳴き声が聞こえてくる午前六時。
「……終わりました」
凛花が、高く積み上げられた数冊の『経費帳』の上に手を置き、深く息を吐き出した。
「皆様、お疲れ様でした。これで、我々コーポ日ノ出の住人たちの、一年間の収入と支出の全貌が、法的根拠を伴って完全に可視化されました。どんなに凶悪な税務署の調査官が来ようとも、この完璧な帳簿の前には、一歩も踏み込むことはできないでしょう」
凛花の言葉に、疲れ果てて畳の上に雑魚寝していた真木や黒木たちが、ゆっくりと顔を上げた。
「お、終わったのか……」
「やりましたな、真木様。我々は、国家権力からの不当な搾取(無申告ペナルティ)を防ぎ切ったのです……」
徹夜の作業で目は窪み、指先は糊でカピカピになっていたが、彼らの心の中には、魔界で勇者軍の猛攻を退けた時以上の、不思議な達成感と連帯感が満ち溢れていた。
真木はよろよろと起き上がり、凛花が仕上げた自分の『大家用・経費帳』のページをめくった。
そこには、日付順に美しく並べられたレシートとともに、各項目の金額と勘定科目が、一字一句の狂いもなくボールペンで記されていた。
修繕費、消耗品費、租税公課(固定資産税)、水道光熱費……。
アパート経営のリアルな足跡が、数字という絶対的な事実となって刻まれている。
「……見事だ、凛花」
真木は、心からの賞賛を込めて言った。
「お前の経理能力がなければ、余は春の確定申告で、確実に税務署に城を差し押さえられていただろう。我がコーポ日ノ出の財務大臣としての地位、今ここに不動のものとして認めるぞ」
「もったいないお言葉です、大家」
凛花は立ち上がり、朝日に照らされながら、眼鏡の奥で知的な笑みを浮かべた。
「私はただ、数字の矛盾を正しただけです。これからは、毎月しっかりと帳簿をつけていただきますからね。レシートを財布に溜め込むのは厳禁です」
「う、うむ……わかっている」
木造アパートに差し込む、冷たくも眩しい冬の朝日。
『経費で落ちるもの、落ちないもの』の境界線を叩き込まれた魔族たちは、資本主義の厳しさと、社会のルールという名の新たな防壁の築き方を、その身をもって学んだのである。
確定申告という大ボスとの戦いは、まだ年明けの本番を残しているが、彼らの準備はすでに整っていた。
迫り来る年末、そして新しい年へ向けて。
コーポ日ノ出の住人たちは、また一つ、人間社会への適応レベルを格段に引き上げていくのであった。




