第23話:地獄の確定申告(準備編)
木造アパート『コーポ日ノ出』に、初めての冬が到来しようとしていた。
木枯らしが吹きすさび、薄い壁をすり抜けてくる冷気が身に染みる十二月上旬。大家である真木征司(元魔王ヴァルザード)は、六畳の大家部屋で、ホームセンターで買ってきた安物の電気ストーブの前に陣取り、ぬくぬくと温まっていた。
「ふむ……。夏場のエアコン騒動を思えば、冬は着込めばなんとかなる分、電気代の節約がしやすくて良いな。我がコーポ日ノ出の財政も、これで少しは余裕ができるというものだ」
分厚いドカジャンを羽織り、熱い緑茶を啜りながら、真木は平和な大家生活のひとときを噛み締めていた。
だが、資本主義の荒波は、魔王が油断した瞬間に最も鋭い牙を剥くものである。
ピシャァァァァッ!!
大家部屋の襖が、親の仇のような勢いで勢いよく開け放たれた。
「魔王様! 暖をとっている場合ではありません! 我が帝国に、過去最大級の危機が迫っております!」
そこに立っていたのは、黒いビジネススーツの上にグレーのトレンチコートを羽織った、102号室の佐伯凛花(元首席補佐官)であった。彼女の眼鏡のレンズは、外の冷気と部屋の暖気による温度差で真っ白に曇っているが、その奥にある瞳が猛禽類のように鋭く光っているのが真木にははっきりとわかった。
「ど、どうした凛花。勇者の残党でも現れたか!?」
「勇者など比ではありません! それよりも遥かに恐ろしく、無慈悲で、一切の妥協を許さない国家権力の最強機関……『税務署』です!」
「ぜいむしょ……?」
真木が首を傾げると、凛花はドサリと分厚いバインダーをちゃぶ台に叩きつけた。
「現在、十二月。日本の暦において、一月一日から十二月三十一日までの所得を計算し、翌年の二月十六日から三月十五日までの間に国に申告し、税金を納める義務……すなわち『確定申告』の足音が、もうそこまで迫っているのです!」
「かくてい、しんこく」
「はい。真木様はアパート経営による『不動産所得』を得る個人事業主。そして103号室の久世颯太も、フードデリバリーという業務委託で稼ぐ個人事業主です。さらに、日雇いの黒木隊長や、アルバイトの麗華殿や乃愛も、年末調整や源泉徴収の関係で、今年一年の収入と支出を正確に把握し、書類を整える必要があります」
凛花はバインダーをめくり、恐ろしい言葉を次々と並べ立てた。
「もし、この申告を怠ったり、適当な数字をごまかして提出した場合……国家権力は『無申告加算税』や『延滞税』という名の極大魔法を容赦なく撃ち込んできます。悪質な所得隠しと判断されれば『重加算税』が課され、アパートは差し押さえられ、我々は路頭に迷うことになります!」
「さ、差し押さえ……ッ!?」
その言葉に、真木は電気ストーブの温もりも忘れ、顔面を蒼白にさせた。
城を奪われること。それは大家にとって、魔王としてのプライドを粉々に打ち砕かれる以上の、完全なる社会的な死を意味する。
「い、いかん! そんなことは断じて許されん! だが、どうすればいいのだ! 余は毎日家計簿をつけているが、それを国にどう報告すればいいのか全くわからんぞ!」
「ご安心ください。そのために、私という『財務アドバイザー』がいるのです」
凛花は曇った眼鏡をクロスで拭き上げ、冷徹な笑みを浮かべた。
「我がアパートの住人全員を、共用ロビーに招集してください。これより、コーポ日ノ出の存亡を懸けた『地獄の領収書仕分け合宿』を開始します!」
* * *
一時間後。
コーポ日ノ出の一階、大家部屋から続く共用ロビーに、住人全員が正座させられていた。
大家の真木を筆頭に、解体現場から帰ってきた黒木鉄心、深夜コンビニのシフト前の神埼麗華、配達から戻った久世颯太、そしてドッグサロンから帰宅した園田乃愛。
全員の前には、それぞれがこの一年の間に溜め込んでいた(あるいはゴミ箱に捨てようとしていた)レシートや領収書の山が置かれている。
その正面に、凛花がホワイトボードを背にして仁王立ちしていた。彼女は百円ショップで買ってきた長い指示棒を片手に持ち、まるで鬼教官のようなオーラを放っている。
「いいですか、皆さん! これから行うのは、皆さんが今年一年で稼いだお金と、使ったお金の証明である『領収書』を、月別、日付別、そして勘定科目別に仕分けるという、極めて重要かつ精密な軍事行動です!」
凛花が指示棒でホワイトボードをピシッと叩く。
「特に個人事業主である魔王様と久世殿! あなたたちの税金は『売上』から『経費』を差し引いた『所得』に対してかかります。つまり、事業のために使ったお金(経費)を正確に証明できなければ、不当に高い税金を毟り取られることになるのです!」
「け、経費……!」
久世がゴクリと唾を飲み込む。
「そうだ、風の暗殺者よ。我がロードバイクのメンテナンス代や、デリバリー用の防寒具などは、すべてこの『経費』なる防御魔法によって税から控除されるはずだ!」
「その通りです。ただし!」
凛花は鋭い声で久世の希望を打ち砕いた。
「それが『本当に事業のために使われたものか』を証明するのは、一枚のレシートです! それでは、皆さんの持ち寄った領収書をチェックしていきます。まずは黒木隊長から!」
「は、ははっ!」
黒木はガチガチに緊張しながら、自分の前に積まれた、クシャクシャに丸められたレシートの山を両手で押し出した。
凛花はゴム手袋をはめ、ピンセットで一枚のレシートをつまみ上げるようにして確認した。
「……黒木隊長。これは何ですか?」
「はっ! 近所のスーパーで購入した、特売の鶏むね肉二キロと、卵三パックにございます! 我が肉体を維持し、解体現場での労働力を確保するための、必要不可欠な軍事兵糧(経費)です!」
「却下です」
ビリッ!
凛花は容赦なく、そのレシートを『家計費』と書かれたゴミ箱代わりのダンボールに投げ捨てた。
「な、なぜです!? これなくしては、私は柱一本へし折ることもできませんぞ!」
「日本の税法において、個人の食事代が経費として認められるのは、取引先との接待交際費や、特定の出張時などに限られます。あなたが家で食べる鶏肉は、ただの『生命維持費』であり、事業経費ではありません! 次!」
凛花はさらに、ポケットの中で洗濯されて印字が消えかかったクシャクシャのレシートを広げた。
「黒木隊長、これは……『超・極太エキスパンダー』? スポーツ用品店での購入履歴のようですが」
「はっ! 解体現場での筋力トレーニングを効率化するための、最新の修練具にございます! これを経費にできずして、何が経費か!」
「ただの趣味の筋トレ器具ですね。完全なる私物です。経費計上は絶対に認められません」
「そんなぁぁぁぁっ!!」
黒木の提出したレシートは、その九割が「スーパーの食料品」と「筋トレグッズ」であり、凛花の無慈悲な赤ペンチェックによって次々と『家計費』のダンボールへと直行していった。唯一認められたのは、解体現場で使う軍手や安全靴の領収書だけであった。
「次は麗華殿、あなたの番です」
「ええっ!? 私、アルバイトで給料から税金引かれてる(源泉徴収)から、確定申告とか関係ないじゃないのよ!」
麗華が不満げに文句を言いながら、自身のゴスロリ調のバッグから、レシートの束を取り出した。
「関係大ありです。あなたは深夜シフトの他にも、スキマ時間で短期のアルバイトなどをしていると聞いています。複数の収入源がある場合、適切に申告しなければ税務署に目をつけられます。さて、拝見しましょう」
凛花が麗華のレシートの束をめくる。
そこには、恐るべき文字列がズラリと並んでいた。
『Apple Gift Card 10,000円』
『Google Play カード 10,000円』
『Apple Gift Card 10,000円』……。
「…………麗華殿」
「な、なによ! 私の労働の結晶よ!」
「これ、全部ソシャゲの課金ですよね?」
「そうよ! 期間限定の吸血姫様をお迎えするための、神聖なる儀式の供物よ! これが私の生き甲斐なんだから、経費にしなさいよ!」
「バカを言うなこの吸血鬼ィィィッ!!」
スパーーーンッ!
大家の真木が、丸めたチラシで麗華の後頭部を思い切りひっぱたいた。
「あいたっ! また叩いたわね!」
「当たり前だ! ただでさえ我がアパートのWi-Fiをタダ乗りして通信費を圧迫しているというのに、デジタルデータのガチャ代が経費で落ちるわけがなかろう! 税務署の職員が見たら鼻で笑われるわ!」
「ひどいっ! 魔王のくせに、すっかり税制の犬になりやがって!」
麗華の課金レシートは、凛花の手によって文字通りシュレッダーにかけられるかのごとく、容赦なく廃棄されていった。
乃愛の提出した「犬用の高級ジャーキー」や「ペット用おもちゃ」のレシートも同様に、一切の温情なく「私物」として切り捨てられた。
「さて。いよいよ本命です」
凛花が眼鏡を押し上げ、鋭い視線を大家である真木に向けた。
「魔王様。我がコーポ日ノ出の大家として、あなたはアパートの維持管理にかかった正当な費用を、すべて完璧な『領収書』として保管しているはずですね?」
「ふっふっふ……。当然だ」
真木は自信満々に腕を組み、己の前にうず高く積まれたレシートの山をポンと叩いた。
「余を誰だと思っている。魔界の覇王にして、今やこのアパートの絶対的支配者だぞ。この数ヶ月、スーパーで買った電球一個、トイレットペーパー一個に至るまで、すべてのレシートをこの『大家専用クリアファイル』に保管してきたのだ! さあ凛花、余の完璧なる経費の数々を見るがいい!」
真木がドヤ顔でファイルを差し出す。
凛花はそれを受け取り、中身をパラパラと確認し始めた。
「……ふむ。確かに、ホームセンターで購入した共用部の蛍光灯。これは消耗品費ですね。雨漏り修理のためのブルーシートや土嚢袋。修繕費として計上可能です。福引で当たった洗濯機の設置にかかった部品代。これも問題ありません」
「だろう? 余は完璧な大家なのだ」
真木がフンと鼻を鳴らした、次の瞬間。
凛花の手がピタリと止まり、その眉間に深いシワが刻まれた。
「……魔王様」
「な、なんだ。何か不備でもあったか?」
「これは、何ですか?」
凛花がピンセットで一枚のレシートをつまみ上げ、真木の目の前にヒラヒラと見せつけた。
そこには、コンビニエンスストアのロゴとともに、こう印字されていた。
『特盛り・唐揚げ弁当(マヨネーズ付き) 580円』
『ストロング系チューハイ500ml 210円』
『ポテトチップス・コンソメ味 150円』
「…………」
真木はスッと目を逸らした。
「……ああ。それは、その、なんだ。深夜にアパートの巡回警備を行っていた際、どうしてもカロリー(魔力)が足りなくなり、緊急のエネルギー補給として摂取した兵糧だ。我が城の防衛任務における必要経費と言えるであろう」
「言い訳が無用です」
凛花の声は、氷点下まで冷え込んでいた。
「大家が深夜に腹を空かせて食べただけのコンビニ弁当が、どうしてアパート経営の事業経費になるのですか。税務署の調査官に対し、『これはアパートの警備のためのカロリーです』と説明して納得してもらえると本気で思っているのですか?」
「だ、だが! 余が倒れればこのアパートの経営は成り立たないのだぞ! 大家の肉体を維持するための食費は、実質的な修繕費のようなものではないか!」
「詭弁です!」
凛花は指示棒で真木をビシッと指差した。
「この『特盛り唐揚げ弁当』は、事業との関連性が一切証明できません! 完全なる家計費です! こんなものを経費に計上すれば、税務調査が入った際に『経費の私的流用』として厳しく追及され、ペナルティを食らうのは目に見えています!」
ピリッ!
凛花は容赦なく、魔王の提出した唐揚げ弁当のレシートを破り捨てた。
「ああっ! 余の……余の深夜の楽しみ(五百八十円)が……経費で落ちないだと……!」
「さらに! ここにある『ジャンプ(漫画雑誌)』! 『スーパー銭湯の入浴料』! 『ガチャガチャの景品』! 魔王様、あなたはレシートなら何でも経費になると思っているのですか! 公私混同も甚だしい! 経理を舐めるなァァァッ!」
かつて魔界の全軍を率いた覇王が、一介の派遣経理OL(元部下)の前で、完膚なきまでに叩きのめされていた。
容赦のない赤ペンによるチェック。
私的なレシートは次々と弾かれ、ゴミ箱へと放り込まれていく。
「ひぃっ……! 凛花殿、恐るべし……!」
「あんなに怒ってる凛花、魔王軍の軍議の時でも見たことないわ……」
黒木や麗華たちが、隅っこでガタガタと震えながらその光景を見守っている。
およそ二時間に及ぶ、地獄の仕分け作業が終了した。
生き残った「真の経費」として認められたレシートは、全体の三分の一程度にまで激減していた。
真木は燃え尽きた灰のように真っ白になり、畳の上に突っ伏している。
「……これが、日本の税制……。なんという厳格さ、なんという容赦のなさだ……。勇者の聖剣など比べ物にならん、精神を直接削り取ってくる呪いの儀式ではないか……」
「嘆いている暇はありません、魔王様、そして皆様」
凛花は乱れた息を整え、眼鏡をスッと押し上げた。彼女の目の前には、日付順に綺麗に仕分けられたレシートの束が整然と並んでいる。
「領収書を仕分けただけでは、確定申告は終わりません。これらを全て、日付順に台紙に糊で貼り付け、エクセルの帳簿に一件ずつ入力していく作業が残っています」
「な、なんだと……?」
「さあ、糊とノートを用意しました。皆さん、今夜は寝かせませんよ。自らの稼いだ金と税への責任を果たすため、朝まで無心でレシートを貼り続けるのです!」
「「「う、うおおおおおっ……(泣)」」」
深夜のコーポ日ノ出。
ストーブの温もりも虚しく、冷え切ったロビーに集まった魔族たちは、誰一人言葉を発することなく、ひたすらに糊を塗り、レシートをノートに貼り付けるという単純作業(苦行)に従事していた。
ペタッ、ペタッ、という乾いた音だけが響き渡る。
かつて世界を恐怖で支配した者たちが、今や日本の厳格な税制の前に屈服し、完全なる『帳簿の奴隷』と化した瞬間であった。
確定申告という名の魔物は、まだその入り口を見せたに過ぎない。
大家・真木征司の不労所得への道には、越えねばならない法と税の壁が、果てしなくそびえ立っているのであった。




