第22話:職務質問を切り抜けろ
深夜零時過ぎ。東京・杉並区の住宅街は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、街灯の青白い光だけが等間隔にアスファルトを照らしていた。
その静寂の海を、音もなく切り裂いて進む一つの影があった。
風属性魔導暗殺者、そして現在は『スマイルイーツ』のトップ配達員として君臨する久世颯太である。
彼は漆黒のロードバイクに跨り、背中には保温機能付きの巨大なデリバリーバッグを背負い、ヘルメットを目深に被っていた。暗殺者として培った「隠密歩法」をペダリングに応用し、チェーンの駆動音すら極限まで抑え込んだその走りは、もはや芸術の域に達している。
(……ドロップ完了。本日の三十八件目、無事にスープ一滴こぼさず、熱々の深夜ラーメンをターゲット(顧客)の元へ送り届けた)
久世はスマートフォンの画面に表示された「配達完了」の文字と、即座に加算された報酬額を見て、ヘルメットの奥でニヤリと笑みを浮かべた。
かつて魔界で要人の首を狙っていた頃のヒリヒリとした緊張感も悪くはなかった。だが、安全第一で交通ルールを守り、ただ熱い飯を届けるだけで「ありがとう」と感謝され、合法的な金貨(日本円)がチャリンチャリンと口座に振り込まれていくこの快感は、何物にも代えがたい。
(素晴らしい。このペースで稼げば、明後日には真木様への家賃の納入はもちろん、ロードバイクのローンも前倒しで返済できる。私の評価もエリア内トップクラスだ。これぞまさに、資本主義における暗殺者の頂点……!)
すっかり現代社会の労働の喜びに染まりきった久世は、心地よい疲労感とともに、アパート『コーポ日ノ出』への帰路についていた。
大通りを避け、暗く細い路地裏を縫うように進む。風の匂いで地形を把握できる彼にとって、入り組んだ杉並の裏道はもはや庭のようなものだった。
――しかし。
その日の夜は、路地の風向きがわずかに違っていた。
十字路に差し掛かろうとした瞬間、久世の超人的な気配感知能力が、前方の暗がりから放たれる『明確な捕縛の意志』を捉えた。
「――そこの自転車のお兄さん。ちょっといいかな?」
闇の中からヌッと現れたのは、真っ白な自転車(通称:白チャリ)に跨り、片手に赤色灯を持った制服姿の人物だった。
警視庁杉並警察署、地域安全課の天野結衣巡査である。
彼女は先日、コーポ日ノ出の大家である真木から見事な営業スマイルと麦茶で丸め込まれたものの、警察官としての生真面目さから、依然としてアパート周辺の深夜パトロールを強化していたのだ。
(なっ……!? 騎士団の伏兵か!!)
久世の全身の筋肉が、瞬時に爆発的なバネのように収縮した。
暗殺者の本能が「罠だ」「逃げろ」と警鐘を鳴らしている。彼の身体能力をもってすれば、ロードバイクを乗り捨て、横のブロック塀を三角飛びで蹴り上がり、屋根伝いに逃走することなど造作もないことだった。現に、彼の足はすでにペダルから離れ、跳躍の予備動作に入っていた。
しかし。
宙に浮きかけた久世の脳裏に、数日前の『あの夜』の光景が、強烈なフラッシュバックとして蘇った。
『いいか久世! 我がコーポ日ノ出の店子が警察にしょっ引かれでもしてみろ! アパートの住所が特定され、大家である私の社会的信用まで完全に崩壊するわ! 我が城の平穏を乱す者は、家賃をいくら払おうが即刻ベランダで直射日光の刑だ!』
大家・真木征司の、魔王時代よりも恐ろしい絶対零度の怒声。
その記憶が、暗殺者の本能を強引に、そして完全にねじ伏せた。
(い、いかん! ここで逃亡すれば、それは即ち『やましいことがある』と国家権力に認めることと同義! アパートが捜索されれば、真木様の不労所得生活が崩壊し、私はベランダで干物にされてしまう!)
社会的な死(と大家の怒り)への恐怖が、物理的な逃走本能を上回った瞬間であった。
久世は跳躍しかけた体を空中で捻り、何事もなかったかのようにサドルに座り直すと、ブレーキレバーを静かに握った。
キキッ、と微かな音を立てて、天野巡査の目の前で、極めて礼儀正しく停止する。
「は、はい! 何か御用でしょうか、お巡りさん!」
久世はヘルメットを脱ぎ、額に冷や汗を浮かべながらも、無理やり口角を引き上げて直立不動の姿勢をとった。
天野巡査は、細身の青年をジッと見つめた。
(……この顔、間違いない。こないだコーポ日ノ出の監視をしてた時に、ロードバイクで出勤していった住人だわ)
天野は内心の警戒を悟られないように、できるだけ柔らかい声を作った。
「ごめんね、配達中? 深夜のパトロールなんだけど、最近この辺でスポーツタイプの自転車の盗難が相次いでてね。念のため、防犯登録の確認をさせてもらってもいいかな?」
「ぼ、防犯登録……でありますか」
「うん。自転車のフレームに貼ってある黄色いシール、あるよね? そこの番号と、持ち主の身元が一致してるかの確認。一分で終わるから」
久世は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
防犯登録。現代日本において、自転車(乗騎)を所有する者が必ず受けなければならないという、国家による所有者管理の烙印。
彼が乗っているロードバイクは、真木に連れられて中古自転車屋で買ったものだ。購入時、大家である真木が「お前の名前で登録しておくからな」と書類を書いていた記憶がある。
(だが……私の『久世颯太』という戸籍は、宝田不動産の志乃殿が、異世界の技術と裏ルートを駆使して練り上げた『偽造身分』だぞ! 果たして、国家の騎士団が持つ情報網の照会に耐えうるのか……!?)
もしここで「登録なし」あるいは「身元不詳」と出れば、自転車泥棒、最悪の場合は密入国者として署に連行される。
久世の喉がゴクリと鳴った。
「お兄さん? どうかした?」
「あ、いえ! も、もちろんです! どうぞ、私の愛馬の刻印をご確認ください!」
久世はロードバイクのフレームを指差した。天野は懐中電灯でその黄色いシールを照らし、無線機(ポリス無線)を口元に寄せた。
「警視庁から杉並。自転車照会願いまーす」
『……杉並、どうぞ』
「防犯登録番号、東京……」
天野が番号を読み上げている間、久世の心臓は早鐘のように打ち鳴らされていた。暗殺任務で敵の寝首を掻く直前よりも、遥かに心拍数が上がっている。
数十秒の、永遠にも感じられる沈黙。
やがて、無線機からガサッというノイズとともに、オペレーターの無機質な声が返ってきた。
『杉並、照会結果。該当なし(盗難届なし)。所有者は、クゼ・ソウタ。住所、杉並区……コーポ日ノ出103号室』
「……了解。ありがとう」
天野は無線機を下ろし、久世に向き直った。
「うん、確認取れたよ。久世颯太さんだね」
(通った……! 志乃殿の完璧な戸籍偽造工作、そして真木様が正規ルートで踏んでくれた手続き……! 国家のデータベースを完全に欺ききったぞ!)
久世は内心でガッツポーズを決め、崩れ落ちそうになる膝を必死に保った。
「はいっ! 私が久世颯太に間違いありません!」
「念のため、身分を証明できるもの、持ってる?」
「身分証……免許証などは所持しておりませんが、これならば!」
久世は震える手で財布を開き、一枚のプラスチックカードを取り出した。
それもまた、宝田不動産の志乃が住民票とともに用意してくれた、現代日本最強の身分証明アイテム――『マイナンバーカード』であった。顔写真付きで、偽造防止のホログラムまで完璧に輝いている。
天野はそれを受け取り、懐中電灯の光で顔写真と久世の顔を見比べた。
(……完璧だわ。何も怪しいところはない。コーポ日ノ出の住所も、堂々と記載されている。本当にただの善良な区民……なの?)
天野はカードを返し、深く息を吐いた。
「ご協力ありがとう、久世さん。配達、大変だね。コーポ日ノ出に住んでるんだ?」
「はい! 真木大家の海よりも深い慈悲により、快適な居住空間を提供していただいております!」
「そっか。真木さん、いい大家さんみたいだもんね」
天野は探りを入れるように微笑んだ。しかし、ここで久世の脳裏に、もう一つの『教え』が閃いた。
102号室の佐伯凛花から叩き込まれた、現代社会における『接客術』である。
(不審に思われているなら、こちらから愛想を振りまき、圧倒的な『社会人オーラ』で相手の毒気を抜けばいい!)
久世はヘルメットを小脇に抱え、配達先の顧客に向けるのと同じ、さわやかな百点満点の営業スマイル(暗殺者の殺気を完全に消し去った極上の笑顔)を天野に向けた。
「お巡りさんも、こんな深夜までパトロール任務、本当にお疲れ様です!」
「えっ、あ、うん……」
「夜遅くの激務、さぞかしカロリーを消費されることでしょう。もし小腹が空くようなことがあれば、ぜひ我らが『スマイルイーツ』をご利用ください! 私が風よりも早く、熱々のハンバーガーでも牛丼でも、署までお届けに上がりますよ!」
久世は深々と、美しい角度でお辞儀をした。
「この街の治安が保たれているのも、お巡りさんたちのおかげです。お腹が空いたら、いつでも呼んでくださいね!」
その言葉は、連日の深夜パトロールで疲労が溜まっていた天野の心に、クリティカルヒットした。
警察官という仕事柄、深夜に不審者から暴言を吐かれたり、酔っ払いに絡まれたりすることは日常茶飯事である。しかし、目の前の青年は、防犯登録の確認という煩わしい作業に快く応じたばかりか、自分の仕事を気遣い、こんなにも爽やかな笑顔で労いの言葉をかけてくれているのだ。
(……なんて、なんて好青年なの……!)
天野の頬が、わずかにポッと赤く染まった。
「あ、ありがとう。でも、警察署にデリバリーは頼めない規則だから、お気持ちだけ受け取っておくね」
天野の口調から、警察官としての鋭いトーンが完全に消え去り、年相応の女性の柔らかな声になっていた。
「久世さんも、夜間の配達は車から見えにくいから、交差点では絶対に一時停止して気をつけてね。それじゃ、お仕事頑張って!」
「ははっ! お巡りさんも、夜道にはお気をつけて!」
天野が白い自転車に乗って去っていくのを、久世は深々とお辞儀をしたまま見送った。
彼女の姿が完全に闇に紛れたのを確認した瞬間。
「……ふぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!」
久世はその場にへたり込み、地面に手をついて荒い息を吐いた。
背中を流れる汗は、真夏の夜の暑さによるものだけではない。国家権力による絶対的な検問(職務質問)を、己の機転と用意された偽造書類で完全に切り抜けたのだ。
「勝った……! 私は、暗殺の技術ではなく、社会人としての対話術で、騎士団の目を欺き切ったぞ……!」
* * *
「――というわけで、真木様! この久世颯太、深夜の街角にて国家権力(警察)の検問に遭遇するも、完璧な書類提示と笑顔の接客術により、一切の嫌疑をかけられることなく生還いたしました!」
その直後。
コーポ日ノ出の一階、大家部屋。
六畳間のちゃぶ台の前で、久世は胸を張り、これ以上ないほどの『ドヤ顔』を決めていた。
ちゃぶ台の向こう側では、大家の真木が、百円ショップの急須で淹れた安物の緑茶をズズッとすすっていた。その横では、凛花がノートパソコンで何やら入力作業を続けている。
「……つまり、お前はただ普通に職務質問を受けて、防犯登録を確認されて帰ってきただけだろう?」
真木がジト目で突っ込む。
「ただの職質ではありませぬ! 相手は先日アパートの前をうろついていた、あの天野という女騎士(巡査)でしたぞ! 私の完璧な受け答えに、彼女は疑うどころか、頬を染めて労いの言葉をかけてきたのです! これで我がアパートへの嫌疑は完全に晴れたと言っても過言ではありません!」
「ふん。まあ、逃げ出さずに堂々と対応したのは褒めてやる」
真木は湯呑みを置き、ニヤリと口角を上げた。
「宝田不動産の志乃が作った偽装身分が、警察のデータベースにも通用すると実証されたのはデカいな。それに、お前が交通ルールを守り、模範的な配達員として立ち振る舞っている証拠だ。大家として、その対応は評価しよう」
「ありがたき幸せ……!」
久世が感極まって頭を下げる。
しかし、凛花がパソコンの画面から目を離さずに、冷ややかな一言を投下した。
「ですが久世殿。そもそも『職務質問』を受けるということ自体、まだあなたの服装や立ち振る舞いに、一般人とは違う『不審なオーラ』が漏れ出ている証拠ですよ。真っ当な社会人は、深夜の住宅街で警察に呼び止められたりしません」
「ぐっ……! な、なんという鋭い指摘……!」
「浮かれるのは早いぞ、久世」
真木も畳み掛けるように言った。
「社会に溶け込むには、まだまだ修行が足りんということだ。明日からも気を引き締めてペダルを回せ。そして、今日の売上の中から、きっちりと家賃の分割分をここに置いていけ」
「ははぁっ! ご指摘、肝に銘じます! 本日の報酬、こちらに!」
久世は少しだけシュンとしながらも、財布から千円札を数枚取り出し、大家の前に恭しく差し出した。
深夜の木造アパートに、現金が擦れる生々しい音が響く。
国家権力の目をすり抜け、彼らはまた一つ、現代日本における『合法的な存在』としての地盤を強固なものにした。
魔王の不労所得への道は、店子たちの涙ぐましい社会適応の努力によって、今日も一歩ずつ、確実に前進しているのである。




