第21話:不審者情報と婦警の影
警視庁杉並警察署、地域安全課に所属する天野結衣巡査は、警察組織の中でも少しばかり「特異」な体質を持っていた。
彼女には、霊感とも第六感ともつかない、空間の微細な『歪み』や『磁場・霊力の異常』を肌で感じ取る能力が備わっていたのである。
オカルトじみた話ではあるが、この能力のおかげで、天野はこれまで何度も未解決事件の糸口を掴み、地域の治安維持に貢献してきた。路地裏に隠された不法投棄物や、空き家に潜む不審者の気配などを、彼女は「なんとなく空気が気持ち悪い」という直感だけで正確に炙り出してきたのだ。
そんな優秀な若手女性警察官である天野が、ここ数日、杉並区内のある特定の区画をパトロールするたびに、激しい悪寒と胸のざわつきを覚えていた。
「……間違いないわ。この周辺だけ、空気の密度が異常に濃い」
夏の強い日差しがアスファルトを焦がす午後。
制服姿で白い自転車(白チャリ)を押しながら、天野は閑静な住宅街の一角で足を止めた。
彼女の視線の先にあるのは、外壁の塗装が所々剥がれ、赤茶けた鉄骨階段が特徴的な築三十八年の木造アパート――『コーポ日ノ出』である。
天野の目には見えないが、彼女の肌は確かに感じ取っていた。かつて魔界の頂点に君臨した魔王や、大魔獣、吸血鬼たちが日常的に発散している(極限まで抑えられているとはいえ)微弱な魔力の残滓を。
「まるで見えないドームで覆われているみたい。それに、ここ数日、このアパートの周辺でだけ、局地的な落雷や突風みたいな異常気象(※久世の風魔法の余波や、真木たちの防衛戦闘の余波)の報告が相次いでいる……。絶対に何かある。危険なカルト教団の潜伏拠点か、あるいは凶悪なテロリストの隠れ家か……!」
天野はゴクリと唾を飲み込み、手帳に『コーポ日ノ出・要警戒拠点として監視を強化』とペンで力強く書き込んだ。
正義感の強い彼女は、この街の平和を守るため、非番の日や休憩時間を削ってでも、この怪しいボロアパートの内偵調査を行うことを決意したのである。
* * *
数日後の早朝。午前六時三十分。
天野は私服(目立たないグレーのパーカーにジーンズ姿)に着替え、電柱の陰からコーポ日ノ出の入り口を監視していた。手には証拠を押さえるための小型のデジタルカメラが握られている。
(さあ、どんな凶悪犯が出てくるの……。薬物の密売人? それとも過激派の構成員?)
天野が息を殺して見守る中、一階の一番手前の部屋、101号室のドアが重々しい音を立てて開いた。
「……ッ!」
天野は心臓が跳ね上がるのを感じた。
出てきたのは、身長百九十センチを超える、全身の筋肉が岩のように隆起した巨漢の男だった。鋭い眼光、顔や腕に刻まれた無数の傷跡(※魔界での戦傷)。どう見てもカタギの人間ではない。ヒットマンか、裏社会の用心棒に違いない。
(で、でかい……! あんなのに見つかったら、私なんて一捻りだわ。やっぱりこのアパートは危険な犯罪の温床……)
天野が冷や汗を流しながらカメラを構えた、その時である。
「にゃあ」
アパートの敷地の隅から、一匹の薄汚れた野良猫が姿を現した。
巨漢の男――元重装歩兵隊長の黒木鉄心は、野良猫を見るなり、その恐ろしい顔を限界までだらしなく崩し、しゃがみ込んだ。
「おお……我らが領地を巡回する気高き獣よ。本日はご機嫌いかがかな?」
黒木は作業着のポケットから、猫用の液状おやつ『ちゅ〜る』を取り出し、野良猫の口元へと優しく差し出した。
「さあ、お食べなさい。タンパク質と水分を摂取し、しなやかな筋肉を保つのだ。よしよし、いい子だなぁ……でゅふふふっ」
巨漢の男が、野良猫相手に裏声で赤ちゃん言葉を使いながら、デレデレに顔を溶かしている。
その後、黒木はアパートの入り口に貼られた町内会の『防犯パトロール実施中』のポスターに向かってビシッと敬礼(最敬礼)をし、「本日も杉並区の解体現場にて、粉骨砕身の労働に励んでまいります!」と誰に言うともなく大声で宣言してから、足取り軽く出勤していった。
「……え?」
電柱の陰で、天野はポカンと口を開けていた。
(な、何なの今の……。ただの、めちゃくちゃ動物に優しくて真面目な肉体労働者じゃない……。あんなに礼儀正しい不良なんているわけないし……)
天野の脳内で、凶悪犯のプロファイリングがガラガラと崩れ去っていく。
だが、まだ安心はできない。あの男がたまたま猫好きだっただけで、他の住人は危険人物かもしれないのだ。
午前七時半。次に二階から降りてきたのは、202号室の女と、102号室から出てきた女の二人組だった。
一人は、ゴスロリ調のドレスに身を包んだ、異様なまでに肌の白い妖艶な美女(神埼麗華)。もう一人は、黒いビジネススーツを隙なく着こなした、冷徹そうな眼鏡の美女(佐伯凛花)である。
(あのスーツの女……目が据わってる。きっと詐欺グループの首謀者か、闇金の経理担当ね!)
天野が身構えていると、二人の会話が風に乗って聞こえてきた。
「ねえ凛花ぁ、聞いてよぉ! 昨日の夜勤、また変なお客が来て、ファミチキの温め時間が十秒短いってクレームつけてきたのよ! マジで血を吸ってやろうかと思ったわ!」
「麗華殿。お客様は年貢の運び手です。コンビニの深夜シフトという貴重な労働環境を失いたくなければ、接客マニュアルを厳守しなさい。それより、今日の退勤時のレジ締めは誤差ゼロでしたか?」
「ぜ、ゼロよ! 私を誰だと思ってるのよ、吸血貴族よ!? 小銭の計算くらい一瞬で……あ、一円だけ合わなくて、自腹でポケットマネーから補填したけど……」
「馬鹿者。一円の誤差は経理の恥です。家に帰ったら反省文のエクセルを作成しなさい」
「ううっ……凛花がすっかり日本の派遣OLの鑑みたいになっちゃって怖い……。もういいわよ、私、疲れたから寝る!」
麗華はあくびをしながら自室へと消え、凛花は「さて、本日は決算資料の提出日。定時までに完璧なマクロを組んでみせましょう」と呟きながら、颯爽と駅の方へ歩いていった。
「…………」
天野の頭の中は、今度こそ完全に「?」マークで埋め尽くされていた。
(深夜コンビニのアルバイトに……派遣の経理事務員……?)
あまりにも。
あまりにも、社会的で、堅実で、模範的な労働者たちの会話であった。
レジ締めの誤差一円を自腹で補填するカルト教団員がいるだろうか。定時までにエクセルのマクロを組むことに命を燃やすテロリストがいるだろうか。
極めつけは、午前十一時。
103号室のドアが開き、黒いパーカーに身を包んだ細身の青年(久世颯太)が飛び出してきた。
彼は顔の半分を覆うスポーツサングラスをかけ、背中には巨大な四角い黒いリュックサックを背負っている。
(で、出たわ! あのリュックの中身はきっと危険物! それにあの目つき、間違いなく逃走中の逃亡犯よ!)
天野が意を決して自転車に飛び乗り、追跡を開始しようとした瞬間。
久世はアパートの駐輪場からロードバイクを引き出し、それに跨った。そして、アパートを出てすぐの十字路(一時停止の標識がある場所)で、ピタリと、ミリ単位の狂いもなくロードバイクを停止させたのだ。
そして、ヘルメットを被った頭を大げさなほど左右に振った。
「右ヨシ! 左ヨシ! 後方気配なし! 歩行者なし! これよりドロップ任務へと向かう!」
久世は指差呼称まで行い、完全な安全確認をした上で、車道の左側の端を、法定速度を完璧に守って滑るように走り去っていった。
その背中の黒いリュックには、『Uber Eats』のようなポップなロゴが輝いている。
「……ただの超絶優良な、フードデリバリーの配達員じゃないのよぉぉっ!!」
天野は電柱の陰で、思わずカメラを地面に叩きつけそうになった。
狂気すら感じるほどの、完璧な交通法令の遵守。あそこまでお手本通りの一時停止をする自転車乗りを、天野は警察学校の教官以外で見たことがなかった。
「どういうこと……? 私の肌が感じるこの不気味な空気の淀みは、一体なんなの……?」
天野は混乱の極みに陥っていた。
この『コーポ日ノ出』に集まる住人たちは、体格やオーラこそ只者ではないが、その実態は「猫に餌をやる解体工」「一円の誤差にこだわる派遣経理」「交通ルールを遵守する配達員」という、杉並区民の鑑のような人間ばかりなのである。
「私の勘違い? 最近、夜勤が続いて疲れてるのかな……。それとも、ここのアパートがたまたま磁場がおかしい場所に建っているだけで……」
天野が胃の痛みを覚え、持参した胃薬の瓶を取り出そうとした、その時。
「――お疲れ様です、お巡りさん」
背後から、不意にかけられた声。
天野の背筋が、ゾワリと凍りついた。
気配など一切なかった。警察官としての厳しい訓練を積んだ自分の背後、わずか一メートルの距離に、いつの間に接近されたのか。
(しまっ……! 背後を取られた!?)
天野は咄嗟に腰の警棒に手を伸ばし、鋭く振り返った。
そこに立っていたのは――麦わら帽子を被り、首にタオルを巻き、手に竹箒を持った、ジャージ姿の爽やかな青年だった。
コーポ日ノ出の若き大家、真木征司である。
「ひっ! あ、あなた、誰!?」
「驚かせてしまって申し訳ありません。私はこのアパートの大家を務めております、真木と申します」
真木は警戒心を微塵も感じさせない、まるで洗剤のCMに出てくるような爽やかで人当たりの良い営業スマイルを浮かべていた。
だが、その内面では、かつて魔王として君臨していた彼自身の脳細胞が、未曾有のパニックを引き起こしていた。
(マズい、マズいマズいマズいッ!! なぜ国家権力たる警察の人間が、我がアパートを数時間も監視しているのだ! 黒木が何かやらかしたか!? 麗華の不法侵入がバレたのか!? ここで職務質問を受け、身辺調査をされれば、偽造した戸籍の綻びから我がコーポ日ノ出が崩壊しかねん!)
真木の心中は、勇者の聖剣を突きつけられた時よりも遥かに切迫していた。不動産経営において、警察のガサ入れが入るような物件は、一瞬で「事故物件・ワケあり物件」の烙印を押され、資産価値がゼロになるからだ。
ここで絶対に、この女性警察官の警戒心を解き、善良なる一般市民であることを証明しなければならない。
「こんな朝早くから、地域のパトロールですか? 本当に頭が下がります。この杉並区の治安が保たれているのも、皆様のような警察官の方々のおかげです」
真木はペコリと深く頭を下げ、手に持っていた小さな冷温バッグから、水滴のついた冷たいペットボトルを取り出した。
「連日の猛暑で大変でしょう。これ、よろしければどうぞ。よく冷えた麦茶です」
「えっ……あ、いえ、職務中ですので、そういうお気遣いは……」
「そう固いことを仰らずに。熱中症で倒れられては、我々区民としても悲しいですから。町内会長の神保さんからも、『警察の方にはいつも感謝するように』と教えられておりますので」
真木は強引に、しかし極めて自然な動作で、天野の手に冷たい麦茶を握らせた。
町内会長の名前を出されたことで、天野の公務員としての警戒ラインが一段階下がる。
「町内会長の神保さんを、ご存知なんですか?」
「ええ、もちろん。うちの住人たちも、神保さんのお店(じんぼ亭)にはよく通っておりますし、先日の町内会の回覧板も私がしっかりと隣に回させていただきましたよ。大家として、地域との連携は何よりも大切だと考えておりますので」
真木の笑顔は、一片の曇りもなかった。
(どうだ! 完璧なまでの「善良な地域住民アピール」! ゴミの分別も、町内会費の支払いも、すべてはこの瞬間のための布石! 法治国家の番犬よ、余の完璧なコンプライアンスの前にひれ伏すがいい!)
天野は、手に握らされた冷たい麦茶の感触と、目の前の青年から放たれる「裏表のない(ように見える)善人のオーラ」に、完全に毒気を抜かれてしまった。
凶悪犯の拠点どころか、地域のコミュニティに積極的に参加し、警察官に麦茶を差し入れてくれる気さくな若い大家さん。
自分の直感が、これほどまでに的外れであったことに、天野は警察官として少し恥ずかしくなってきた。
「……すみません、お気遣いありがとうございます。いただきます」
「いえいえ。うちの店子たちは少し見た目が怖かったり、個性的だったりしますが、根はみんな真面目に働くいい奴らばかりです。ご迷惑をおかけすることはないと、大家の私が保証いたしますよ」
「あ、ははは……そうですね。皆さん、すごく……その、真面目にお仕事に向かわれてましたし」
天野は苦笑いしながら、カメラをこっそりとリュックの奥に押し込んだ。
「では、私はこれでパトロールに戻ります。真木さんも、お掃除中に熱中症にならないようお気をつけくださいね」
「はい、お気をつけて! 今日も一日、街の平和をよろしくお願いします!」
真木が大きく手を振り、天野はペコリと頭を下げて、白い自転車を押しながら路地を去っていった。
その後ろ姿が見えなくなった瞬間。
真木は「ふううううっ……!!」と、肺の中の空気をすべて吐き出すように深い深呼吸をした。
ジャージの背中は、冷や汗でぐっしょりと濡れている。
「……乗り切った。魔王軍の威信に懸けて、国家権力の不条理な内偵を、完璧な接客術で防ぎ切ったぞ……!」
真木はホウキを握りしめ、青空に向かって無言のガッツポーズを決めた。
一方、コーポ日ノ出から少し離れた大通りに出た天野結衣巡査は、貰った冷たい麦茶を一口飲み、小さくため息をついた。
「……やっぱり、私の考えすぎだったみたいね。みんないい人たちじゃない」
彼女の心の中から、アパートに対する警戒心はほぼ完全に消え去っていた。
しかし。
「……でも、真木さんが背後に立った時、私、本当に全く気配を感じなかった……。足音すら、しなかった……」
警察学校で優秀な成績を収めた彼女の背後を、ただの一般人の大家が、あそこまで無音で取れるものだろうか。
天野はアパートの方向を一度だけ振り返り、首を傾げた。
「ただの、気のいい大家さんと、個性的な住人たち……だよね?」
彼女の警察官としての鋭い勘は、完全に騙されつつも、心の奥底でごくわずかな『違和感』をくすぶらせていた。
国家権力と元魔王アパートの奇妙な共存関係は、この日を境に、水面下で静かに結ばれつつあったのである。
大家・真木征司の平穏への道には、常に薄氷を踏むようなスリルが付きまとっている。




