第20話:夏場のエアコン争奪戦
日本の夏。それは魔界の灼熱地獄とはまた違った、ねっとりとした湿気と肌にへばりつくような不快感を伴う、極めて物理的かつ精神的な拷問である。
七月下旬。気象庁が「災害級の猛暑」と警告を発するほどの記録的猛暑日が東京を直撃していた。杉並区の路地裏にある築三十八年の木造アパート『コーポ日ノ出』もまた、容赦のない直射日光にジリジリと焼かれ、トタン屋根からは陽炎が立ち上っていた。
「……暑い。なんだこの空気の重さは。呼吸をするだけで、肺の中に熱湯を流し込まれているかのようだ」
午後二時。コーポ日ノ出の一階奥、大家部屋にて。
ジャージの裾をまくり上げ、首にタオルを巻いた真木征司(元魔王ヴァルザード)は、六畳間に置かれた旧式の扇風機の前で、あえぐように息を吐いていた。
「魔力が存在しないこの世界では、氷の魔法で室温を下げることもできん。ただひたすらに、耐え忍ぶしかないのか……」
真木が扇風機の「強」の風に顔を近づけていると、隣の102号室から、元首席補佐官の佐伯凛花が分厚いバインダーを抱えて入ってきた。彼女もまた、ワイシャツの第一ボタンを開け、額に汗を浮かべている。
「大家、氷の魔法が使えなくとも、現代日本には『エアコン』という極めて優秀な空調魔導具が存在します。ですが……問題はそれを作動させるための『電気代』と『契約アンペア数』です」
凛花はバインダーから、東京の電力会社からの請求書と、アパートの図面を取り出した。
「コーポ日ノ出は古い物件であるため、前のオーナーが初期費用をケチり、アパート全体の電気を『一括の六十アンペア契約』で受電して、各部屋に小分けする方式をとっています」
「一括契約? それがどうしたというのだ」
「現在、我がアパートは五室が稼働中です。六十アンペアという数字は、一般家庭一つなら十分ですが、五世帯が一斉に電力を消費するにはあまりにも脆弱すぎる防衛ラインなのです。特に、夏場のエアコン起動時に発生する消費電力は桁違いです」
凛花が冷徹な事実を突きつけた、まさにその時であった。
――バツンッ!!
突如、扇風機の羽が回転を止め、六畳間を照らしていた蛍光灯が消えた。
いや、大家部屋だけではない。アパート全体から、一斉に機械の稼働音が消え失せたのである。
『キャアアアアアッ!? 暗い! 暑い! エアコンが止まったわよぉぉっ!』
『敵襲か!? 敵の雷撃魔法による施設破壊工作か!?』
『ハッ……風が、止まった……』
二階から202号室の神埼麗華(元吸血貴族)の悲鳴が上がり、101号室の黒木鉄心(元重装歩兵隊長)が怒鳴り、103号室の久世颯太(元風属性暗殺者)がうわ言のように呟く声が響き渡る。
「……落ちたか。これが、アンペア数の限界突破というやつか」
真木はため息をつき、引き出しから百円ショップで買ったLED懐中電灯を取り出した。
「凛花、全員を大家部屋に招集しろ! 緊急サミットを開くぞ!」
* * *
数分後。
窓を全開にし、わずかな風を入れようとしている大家部屋のちゃぶ台を囲んで、コーポ日ノ出の住人たちが集結していた。
真木、凛花、黒木、久世、麗華、そして201号室の園田乃愛(元魔獣ケルベロス)の六人である。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
乃愛に至っては、完全に犬の習性が出てしまっており、舌をだらりと出しながら荒い息を繰り返していた。犬耳はへたりと垂れ下がり、今にも熱中症で倒れそうな限界の表情である。
「暑いですぅ、魔王様……。毛皮がないのに、毛皮を着ているみたいに暑いですぅ……」
「耐えろ乃愛! 黒木を見ろ、文句一つ言わずに正座しているぞ!」
真木が指差した先では、巨漢の黒木が、滝のような汗を流しながらも微動だにせず、武人のような顔つきで耐え忍んでいた。ただし、その足元には汗の水たまりができている。
「いいかお前たち。我がアパートの電力供給の心臓部であるメインブレーカーが落ちた理由は明白だ。貴様らが一斉に、エアコンの温度設定を極限まで下げてフル稼働させたからだ!」
真木が懐中電灯で照らしたホワイトボードには、『設定温度28度推奨!』という文字がデカデカと書かれていた。
「余と凛花は、環境省が推奨する『設定温度二十八度』の教えを忠実に守り、電力をセーブしていた。だというのに、貴様らと来たら……!」
「ふざけないでよぉぉぉっ!!」
突如、麗華がちゃぶ台をバンッと叩いて立ち上がった。
彼女の目からは、汗と混じって赤い涙――吸血鬼特有の『血の涙』がツーッと流れ落ちている(暑さとストレスによる生理現象である)。
「二十八度!? そんなの、ただの生ぬるい温風じゃない! 私は吸血貴族なのよ!? 日光にも熱にも極端に弱いの! 十八度! 『設定温度十八度の強風』じゃなきゃ、私の肌は溶けてドロドロになっちゃうわよぉぉっ!」
「馬鹿野郎! 十八度などという極寒の暴風を発生させたら、一瞬でコンプレッサーの消費電力が跳ね上がり、ブレーカーが悲鳴を上げるだろうが!」
「知るか! 家賃を払ってるんだから、快適な居住空間を提供するのが大家の義務でしょ! すぐに電気を復旧させなさいよ!」
「大家の義務だと!? ならば言わせてもらうが、契約アンペアの範囲内で工夫して暮らすのも店子の義務だ! だいたいお前は深夜のコンビニバイトで昼間は寝ているだけだろうが!」
血の涙を流して十八度を要求する吸血鬼と、電気代とアンペア数の死守を掲げる大家の、醜くも熱い激論が交わされる。
その横で、暗殺者の久世が、うちわをパタパタと仰ぎながら口を開いた。
「……真木様。私も、できれば二十五度以下にはしていただきたい。風の暗殺者として、ある程度の冷気がなければ、室内の気流を読む訓練ができませぬ」
「デリバリーの仕事で日中外を走り回っているお前が、今更数度の違いで何を言うか! 外の三十五度に比べれば二十八度でも天国だろう!」
「そ、それはそうですが……」
凛花が電卓をカチャカチャと叩き、冷徹な結論を告げた。
「結論から申し上げます。現在の六十アンペアの契約では、五台のエアコンを同時に起動すること自体がギリギリのラインです。全員が二十八度の『弱』で運転し、かつ電子レンジやドライヤーなどの高出力家電の使用を控えれば、なんとか落ちずに持ち堪えます。しかし、一人でも麗華殿のように『十八度の強風』を設定すれば、起動時の突入電力で確実にブレーカーは落ちます」
「そんなぁっ!」
麗華が絶望の声を上げる。
「じゃあどうしろっていうのよ! 私にこの蒸し風呂の中で干からびて死ねってこと!?」
「我慢だ。魔界の厳しい環境を生き抜いた貴様なら、この程度の日本の夏など気合いで乗り切れるはずだ!」
真木はそう言い放つと、立ち上がり、廊下にある配電盤へと向かった。
「今からメインブレーカーを上げる。いいか、全員ただちに自室に戻り、エアコンの設定温度を『二十八度』に固定しろ! それ以下の数字にした者は、容赦なくベランダに放り出して直射日光の刑に処す!」
「「「は、ははぁっ!」」」
渋々といった様子で、店子たちがそれぞれの部屋へと戻っていく。
真木は懐中電灯で配電盤を照らし、ガチャン!と重いレバーを押し上げた。
ブゥゥゥン……と、アパート全体に再び電気が通い、各部屋のエアコンが室外機を回し始める音が聞こえてきた。
「ふぅ……。やれやれだ。夏場のアパート経営が、これほどまでに電力との戦いになるとはな」
真木が額の汗を拭い、大家部屋に戻ろうとした、そのわずか十秒後であった。
――バツンッ!!
再び、静寂と暗闇がアパートを包み込んだ。
「なっ……!?」
『キャアアアアアッ! また消えたぁぁぁっ!』
二階から麗華の悲鳴が聞こえる。
真木のこめかみに、ブチッと青筋が浮かんだ。
「あの吸血鬼……ッ! 絶対に部屋に戻ってすぐ『十八度』のボタンを連打しやがったな!!」
真木は暗闇の中を猛ダッシュで二階へと駆け上がり、202号室のドアをバンバンと力一杯叩いた。
「開けろ麗華! 貴様、設定温度を誤魔化したな!」
「ち、ちが……っ! 私はただ、ちょっとだけ! 一瞬だけ二十度にしただけよ!」
ドアの向こうから、泣き声混じりの言い訳が聞こえてくる。
「二十度でもアウトだと言っただろうが! 起動時の消費電力を舐めるな!」
真木が配電盤に戻って再びブレーカーを上げる。
しかし、五分後にはまたしても――バツンッ!!
「ああああああっ! 今度は誰だ!!」
真木が発狂して叫ぶ。
「も、申し訳ありませぬ、真木様! 私です!」
一階の101号室から、黒木が申し訳なさそうに顔を出した。
「汗をかいたので、冷蔵庫で冷やしておいた特大のペットボトルを一気飲みしようと、冷蔵庫のドアを長く開けすぎてしまい……コンプレッサーが急稼働したようです!」
「冷蔵庫の開けっ放しで落ちるほど限界ギリギリなのか、我が城の電力網はッ!!」
ブレーカーを上げる。落ちる。
上げる。落ちる。
そんなスラップスティックな攻防が、その後一時間の間に四回も繰り返された。
暗闇の中で悲鳴を上げる魔族たちと、懐中電灯を片手に汗だくになって配電盤と部屋を往復する魔王。
かつて世界を恐怖に陥れた存在たちが、東京電力のアンペア制限という絶対的な物理法則の前に、完全に敗北し、翻弄されている姿であった。
* * *
「……もう、ダメだ」
夕方四時。
ブレーカーとの無限の戦いに疲弊しきった真木は、大家部屋の畳の上に大の字になって倒れ込んでいた。
横には、熱中症寸前でピクピクと痙攣している乃愛と、血の涙を流しすぎて干物のようになっている麗華が転がっている。黒木と久世も、壁にもたれかかって虚ろな目をしていた。
「大家。このままでは、アパート全体の不満が爆発し、暴動が起きます。熱中症による人的被害が出れば、大家としての安全配慮義務違反を問われかねません」
唯一、比較的冷静さを保っている凛花が、うちわで真木を扇ぎながら進言した。
「わ、わかっている……。すぐに電力会社に電話して、アンペアの増設工事、および各部屋の契約の個別化を手配する。初期工事費はかかるが、この命の危機には代えられん……」
真木は震える手でスマートフォンを操作し、電力会社のカスタマーセンターへと連絡を入れた。
事情を説明し、大家権限での契約変更とアンペア増設工事を依頼する。
「……はい。はい。なるほど、工事の空き状況が……最短で三日後?」
真木の顔が引きつった。
「た、頼む、もっと早くならないか! このままでは我が城の店子が干からびて死んでしまう!」
『申し訳ございません。現在、夏場のエアコン使用に伴うアンペア変更の依頼が殺到しておりまして……三日後が最短となります』
無情なオペレーターの声に、真木は絶望とともに電話を切った。
「……工事は、三日後だそうだ」
「三日後ぉぉぉっ!?」
麗華が悲鳴を上げて跳ね起きた。
「無理よ! 三日もこの蒸し風呂で十八度が使えないなんて、私、灰になっちゃう!」
「わふぅ……もうだめですぅ……三途の川が見えますぅ……」
乃愛が白目を剥いてパタリと倒れる。
この極限状態を、いかにして三日間乗り切るか。
魔王の脳細胞が、フルスピードで回転を始めた。
(各部屋でエアコンを使うから、電力が分散してブレーカーが落ちるのだ。ならば……電力を一点に集中させ、人間の知恵である『涼』をとる方法を併用すれば……!)
真木はガバッと起き上がり、全員に向かって力強く宣言した。
「総員、聞け! これより三日間、アンペア増設工事が完了するまでの間、我がコーポ日ノ出は『緊急避暑体制』に移行する!」
「き、緊急避暑体制……?」
「そうだ! 各部屋のエアコンはすべて電源を落とせ! その代わり、この一階の大家部屋と、共用ロビー(玄関から続く廊下の少し広いスペース)の間の襖とドアを全開にする! 稼働させるエアコンは、この大家部屋の一台のみとする!」
真木の提案に、凛花が目を見開いた。
「なるほど。一台のみの稼働であれば、設定温度を十八度の強風にしても、ブレーカーが落ちることはありません。その冷気を、扇風機を何台も使って共用ロビー全体に循環させるわけですね」
「その通りだ! 昼間は全員、この大家部屋からロビーに続く空間に集まり、一つの冷気を分け合って過ごすのだ! 幸い、一階は風の通りが良い。久世、お前の風読みの力で、外からの自然の風を最も効率よく取り入れる窓の開け方を指示しろ!」
「ははっ! 気流の制御、お任せを!」
「黒木! お前は近所のスーパーに走り、一番デカい『スイカ』と、氷を大量に買ってこい!」
「スイカ……でありますか?」
「日本の夏において、水分と糖分を同時に補給し、かつ内臓から身体を冷やす最強の果実だ! 経費で落としてやるから、急げ!」
「うおおおおっ! 直ちに調達してまいります!」
真木の指示のもと、コーポ日ノ出の住人たちは一丸となって動き出した。
* * *
一時間後。
コーポ日ノ出の一階、大家部屋から共用ロビーにかけての空間は、さながら『田舎のおばあちゃん家の縁側』のような光景と化していた。
大家部屋のエアコンが「十八度強風」でパワフルに冷気を吐き出し、それを三台の扇風機(各部屋から持ち寄ったもの)がリレー形式でロビー全体に行き渡らせている。
久世の絶妙な窓の開け閉めにより、外からの熱風は遮断され、日陰の涼しい風だけが通り抜ける快適な空間が完成していた。
「あぁ〜……涼しい……。生き返るわぁ……」
麗華がロビーの床(タイル張りで冷たい)にペタンと座り込み、扇風機の風を直接浴びながら幸せそうに目を細めている。
「はっ、はっ……冷たくてきもちいいですぅ……」
乃愛も床にべったりとお腹をつけ、犬のように完全にリラックスした体勢で寝そべっていた。
「大家。見事な危機管理能力です。一台のエアコンに集約することで、電気代の大幅な削減にも繋がります。これなら三日間、十分に凌げるでしょう」
凛花が麦茶を飲みながら、満足げに頷く。
「うむ。だが、ただ涼むだけではないぞ。黒木、持ってきたか!」
「はっ! こちらに!」
黒木が抱えてきたのは、直径三十センチはあろうかという、見事な大玉のスイカであった。
真木はそれを包丁で見事な三日月型に切り分け、全員に配った。
「食え! これが日本の夏の風物詩だ!」
「おおお……! 赤い果肉に、黒い種! なんという瑞々しさ!」
全員が一斉にスイカにかぶりつく。
シャクッ、という小気味良い音とともに、冷たくて甘い果汁が口いっぱいに広がり、熱気に奪われていた体力を急速に回復させていく。
「あまーい! おいしいですぅ!」
「ふん、まあまあね。血の味には劣るけど、水分補給には悪くないわ」
強がりを言いながらも、麗華の食べるスピードは誰よりも早かった。
「ぷっ、ぺっ!」
久世がスイカの種を吹き飛ばし、それが庭の茂みに見事に命中する。
「こら久世、庭に種を吐き捨てるな! 後で掃除するのは大家の余なのだぞ!」
「も、申し訳ありません! つい、暗器の投擲訓練の癖が……!」
ジリジリと照りつける太陽。けたたましい蝉の声。
しかし、アパートの一階だけは、冷気と笑い声に包まれた、オアシスのような空間となっていた。
かつては殺伐とした魔界の覇権争いをしていた者たちが、今や一つのアパートのロビーに身を寄せ合い、扇風機の風を奪い合いながら、スイカの種を飛ばして笑い合っている。
ブレーカーが連続で落ちるという大ピンチは、結果として、店子たちの奇妙な連帯感と、日本の夏を乗り切るための「共同生活の知恵」を育むこととなった。
「……悪くない夏だな」
真木はスイカをかじりながら、青々と晴れ渡った東京の空を見上げて、小さく微笑んだ。
三日後。アンペア増設工事が無事に完了し、コーポ日ノ出の電力網が近代的な水準へとアップデートされるまで。
魔王と店子たちの、騒がしくも涼しい「夏場のロビー合宿」は、昼夜を問わず続けられるのであった。




