第19話:ペットサロンの神童
東京・杉並区の駅前商店街から、少し入った閑静な路地に、ガラス張りのオシャレな店舗がある。
『ドッグカフェ&サロン ワンワンテラス』
犬連れで美味しいコーヒーが飲めるカフェスペースと、最新の設備を備えたトリミングサロンが併設された、地元マダムたちの憩いの場である。
しかし、その実態は常に慢性的な「人手不足」に悩まされていた。
「はぁ……また応募ゼロか。土日のシフト、どうやって回そう……」
店長である四十代の女性・遠藤は、スタッフルームで頭を抱えていた。動物相手の仕事は見た目以上に過酷だ。大型犬のシャンプーでの体力勝負、噛みつきや引っかきによる怪我のリスク、そして飼い主への気遣い。求人を出しても、すぐに辞めてしまう若者が後を絶たない。
そんな時だった。
「あ、あのー。面接に来ました、園田乃愛です!」
カフェの入り口から、元気いっぱいの声が響いた。
遠藤が顔を上げると、そこにはショートカットの栗色の髪を揺らす、小柄で可愛らしい二十歳前後の少女が立っていた。なぜか頭にはピンと尖った「犬の耳」のようなカチューシャ(?)をつけているが、最近の若い子のファッションなのだろうと遠藤は深く気にしないことにした。
「いらっしゃい! 待ってたわよ、園田さんね!」
遠藤は急いで乃愛をテーブルに案内し、履歴書を受け取った。
履歴書の字は、まるでパソコンで印刷されたかのように完璧で美しい楷書体で書かれていた(※102号室の佐伯凛花が、乃愛の経歴を完全に「現代日本の普通の若者」として偽造し、一字一句代筆したものである)。
「ええと、前職は……大型施設の警備員?」
「はいっ! 暗くて熱い地下の門の前で、三交代制……じゃなくて、ワンオペでずっと見張りに立ってました! 不審者は全員噛み砕……じゃなくて、追い返してました!」
乃愛が明るく答える。かつて魔界の冥府の門を護っていたケルベロスとしての誇らしげな経歴だが、遠藤の耳には「地下駐車場の厳しい警備の仕事を真面目にこなしていたガッツのある子」と都合よく変換されて届いた。
「体力には自信があるのね。動物は好き?」
「大好きです! 犬の気持ちなら、誰よりもわかります!」
乃愛が胸を張ったその時、カフェスペースにいた常連客の飼い犬が、乃愛の匂いを嗅ぎつけてトコトコと足元に寄ってきた。
『クゥ〜ン、クゥ〜ン』
普通なら初対面の人間には警戒するはずの犬が、乃愛の足に顔をすり寄せ、完全に服従のポーズでお腹を見せている。
「あら、珍しい。あの子、すごく人見知りなのに、園田さんには一瞬で懐いたわね」
「ふふっ。おいでー」
乃愛が手を伸ばすと、トイプードルは喜んで乃愛の膝の上に飛び乗った。
乃愛には、犬の鳴き声が完璧な『言語』として脳内に直接聞こえていた。
(お姉ちゃん、お姉ちゃん! お姉ちゃんから、すっごく強くて偉いボスの匂いがする! 僕、お姉ちゃんのこと大好き!)
(うんうん、いい子だねぇ。後でお腹撫でてあげるからね)
言葉に出さずとも、乃愛が眼差しで返答するだけで、犬は嬉しそうに尻尾を千切れんばかりに振っている。
その光景を見た遠藤店長の目の色が、完全に変わった。
「園田さん。明日から……いや、今日の午後から入れる!?」
「はいっ! 大家さんに家賃払わなきゃいけないので、いっぱい働けます!」
「採用! 時給千三百円、シフトはあなたの希望通りに入れるわ!」
こうして、元魔界の番犬・園田乃愛の、人間社会における初めての労働生活が幕を開けたのである。
* * *
乃愛の『ドッグサロン・ワンワンテラス』での働きぶりは、まさに「神童」の二文字にふさわしいものであった。
トリマー補助としての最初の仕事は、犬たちのシャンプーとドライヤーがけだった。通常、水や大きな音を嫌がる犬たちは暴れたり吠えたりして、スタッフの体力を激しく消耗させる。
しかし、乃愛が担当した犬たちは、まるで魔法をかけられたかのように大人しくなった。
「はーい、ジョン君。お湯加減どうかなー?」
『(わんっ! お姉ちゃん、もう少し背中のところ熱くして! そこそこ、あー気持ちいい!)』
「はいはい、背中ねー。ゴシゴシするよー」
乃愛は犬たちのピンポイントな要望(かゆいところ、お湯の温度、触ってほしくない場所)をテレパシーで完全に把握し、完璧なカスタマーサービス(犬向け)を提供した。
ドライヤーの時も同様だ。
『(うぅ〜、その風の音、怖いよぉ!)』
『(大丈夫だよ。私がついているから、全然怖くないよ。じっとしてたら、後で美味しいおやつあげるからね)』
乃愛が優しく念波を送ると、パニックになっていた小型犬もスッと落ち着きを取り戻し、乃愛の手の中でとろけるように目を細めた。
「す、すごい……。あんなにドライヤー嫌いで毎回大暴れしてたマロンちゃんが、園田さんの前だと彫像みたいに大人しい……」
先輩トリマーたちが、ガラス越しにその神業を見つめて言葉を失っている。
開店からわずか数日で、常連客のマダムたちの間でも噂が広まった。
『あのお店に入った新しいアルバイトの子、うちの子の言葉が分かってるみたいに完璧に扱ってくれるのよ』
『シャンプー嫌いのうちのポチが、あの子に会うためにお店に行きたがるのよ!』
乃愛の出勤日には予約が殺到し、彼女は瞬く間に「ワンワンテラスの看板娘」としての地位を確立したのである。
だが、そんな平和なサロンに、ある日、試練が訪れた。
週末の午後。自動ドアが開き、常連のセレブ風マダムが、一台の大型ゲージをスタッフに引かせて入店してきた。
ゲージの中から、地鳴りのような唸り声が響いている。
「グルルルルル……! ガウッ! ガウガウッ!!」
声の主は、マダムの飼い犬である『バロン』。体重四十キロを超える、屈強で筋骨隆々の大型犬(ドーベルマンの血を引くミックス)であった。
「店長さん、ごめんなさいね。バロンったら、また爪切りが嫌で大暴れしちゃって。家じゃ誰も手がつけられないのよ」
マダムが困り果てた顔で言うと、遠藤店長の顔が引きつった。
バロンはワンワンテラスでも有名な「超・要注意犬」であった。極度の神経質で警戒心が強く、過去に二人のトリマーが爪切りの最中に腕を噛まれて大怪我を負い、辞めてしまった原因を作った犬でもある。
「バロン君ですね……。わかりました、なんとか大人数で押さえつけてやってみます」
遠藤店長は覚悟を決め、男性スタッフを含めた三人掛かりでゲージからバロンを引きずり出そうとした。
しかし、拘束器具のリードをかけようとした瞬間。
「ガァァァァァッ!!」
バロンが激しく首を振り、鋭い牙を剥き出しにして男性スタッフの腕に噛みつこうとした。
「うわっ!」
スタッフが間一髪で手を引っ込め、尻餅をつく。
バロンはリードを振りほどき、店内のカフェスペースに向かって威嚇の姿勢をとった。他の小型犬たちが恐怖でキャンキャンと鳴き叫び、マダムたちも悲鳴を上げて壁際に逃げ惑う。
「ダメよバロン! おとなしくしなさい!」
飼い主の制止も全く耳に入っていない。バロンの瞳は恐怖と怒りで血走り、誰かが一歩でも近づけば、確実に喉笛に噛みつく気迫に満ちていた。
「誰か、保健所か警察に……!」
店長が青ざめ、スマートフォンを取り出そうとした、その時だった。
「だーめだよ、バロン君」
静かな、しかし凛とした声が店内に響いた。
バロンの目の前に歩み出たのは、緑色のエプロンをつけた小柄な少女――園田乃愛であった。
「園田さん! ダメよ、近づいたら危ない! 噛まれるわ!」
遠藤店長が叫んだが、乃愛は止まらない。
彼女はバロンの正面、わずか一メートルの距離に立ち、真っ直ぐにその凶暴な目を見つめ返した。
「グルルルルルッ……!」
バロンが低い唸り声を上げ、乃愛に向けて牙を突き出し、今まさに飛びかかろうと後ろ足の筋肉を収縮させた。
その瞬間。
『――――伏せろ。下位の犬よ』
乃愛の口は動いていなかった。
しかし、彼女の深紅の瞳が、一瞬だけ人間のものではなく、魔界の冥府を護る『三つ首の魔獣』のそれへと変化した。
バロンの脳内に直接叩き込まれたのは、単なる命令ではない。
絶対的なまでの『上位捕食者の眼光』。魂の次元が違う、格上の怪物から放たれた、命の限界を知らせるプレッシャー(威圧)であった。
人間たちには、乃愛がただじっと犬を見つめているようにしか見えない。
しかし、バロンの目に映った乃愛の背後には、炎を纏った三つの巨大な狼の頭部が、口からマグマのようなよだれを垂らし、今にも自分を食い殺そうと見下ろしている幻影が視えていた。
「キャイィィィィィィィンッ!?」
飛びかかろうとしていたバロンの巨体が、空中でピタリと硬直した。
次いで、情けない悲鳴を上げながら、その場にベチャッと伏せたのである。
それだけではない。四十キロを超える凶暴な大型犬が、プルプルと全身を震わせながらコロンと仰向けに転がり、四本の足を宙に浮かせて、完全に急所であるお腹を丸出しにした『絶対服従(ヘソ天)』のポーズをとったのだ。
店内が、水を打ったように静まり返った。
さっきまで殺気を撒き散らしていた凶悪犬が、小柄な少女の視線一つで、まるで子犬のように怯えきって降参している。
「はーい、いい子だねぇ。こわくないよ、大丈夫だからねー」
乃愛は元の明るい笑顔に戻り、しゃがみ込んでバロンのお腹を優しくなでなでした。
『(ひぃぃぃぃっ! ボス! 大ボス様! 命だけは! お命だけはお許しをぉぉっ!)』
(よしよし。じゃあ、おとなしく爪切りさせてくれるかな? 暴れたら、お前を骨ごと噛み砕くからね?)
『(わんっ! はいっ! 何でもいたしますぅぅっ!)』
乃愛のテレパシー(という名の究極の脅迫)によるコミュニケーションは完璧に成立した。
乃愛がバロンの太い前足を手に取り、パチン、パチンと爪切りを当てていく。バロンは微動だにせず、ただ涙目で乃愛に撫でられるがままになっていた。
数分後。
「はーい、終わりましたよー。バロン君、とってもいい子でした!」
乃愛が爪切りを終え、バロンの頭を撫でて立ち上がると、店内は数秒の沈黙の後、割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
「そ、園田さん……! あなた、一体どういう魔法を使ったの!?」
遠藤店長が、腰を抜かしそうになりながら駆け寄ってくる。
「あのバロンが、こんなに大人しく爪を切らせるなんて……信じられない! あなた、本当に犬の言葉がわかるのね!?」
「ええっ、まぁ、ちょっとだけコツがあるんですぅ。ワンちゃんは、誰が一番偉いかちゃんと教えてあげれば、みんな良い子になりますから!」
乃愛がてへへと笑うと、バロンの飼い主であるマダムが、涙を流しながら乃愛の両手をがっしりと握りしめた。
「ありがとう……! 本当にありがとう! あなた、犬の神様よ! バロンがこんなに安心した顔を見せるなんて、うちに来てから初めてだわ! チップを受け取ってちょうだい!」
マダムは財布の中から、福沢諭吉の描かれたお札を一枚抜き出し、乃愛のポケットにねじ込んだ。
「えっ、そ、そんなの悪いです!」
「いいのよ! また来週もこの子をお願いするわ! 店長さん、この子の時給、倍にしてあげなさいよ!」
「も、もちろんです! 園田さん、来月からリーダー手当つけるから、できるだけいっぱいシフトに入ってちょうだい!」
店長も涙ぐみながら拝むように言った。
こうして、園田乃愛の「犬の神様(正体は魔界の番犬)」伝説は杉並区のペット業界に瞬く間に広がり、彼女はカリスマトリマー補助として、安定した収入源を確保することに成功したのである。
* * *
数週間後。
コーポ日ノ出の月末、すなわち大家にとっての決戦の夜(家賃回収日)がやってきた。
真木征司は大家部屋のちゃぶ台で、バインダーを前に厳かな顔で待ち構えていた。
そこに、トテトテと軽い足音を立てて、乃愛が笑顔で入ってきた。
「真木様! お家賃、持ってきましたー!」
乃愛は『ワンワンテラス』で受け取った初給料の明細と、真新しい現金の入った封筒を、真木の前に恭しく差し出した。
「おお……乃愛よ。お前が人間の社会で働き、こうして現金を稼いでくるとは。余は大家として、誇らしく思うぞ」
真木は封筒の中身を確認した。
家賃五万二千円、そして分割払いの初期費用分が、一円の狂いもなく収められている。
「はいっ! お店のみんなも、ワンちゃんたちもみーんな良い子で、お仕事とっても楽しいです! これも魔王様が拾ってくださったおかげです!」
乃愛の背後で、見えない尻尾がちぎれんばかりに振られている。
隣で帳簿をつけていた凛花も、満足げに眼鏡を押し上げた。
「素晴らしいですね。201号室の家賃回収により、我がコーポ日ノ出の稼働率は五室に達しました。これで来年の固定資産税の支払いにも、完全な目処が立ちました」
「うむ。よくやった乃愛。お前には労働の対価としての自由がある。残った金は、お前の生活費として好きに使うが良い」
真木がそう言って労うと、乃愛は「えへへっ」と笑い、背中に隠していた小さな紙袋を取り出した。
「実は、今日が初めてのお給料日だったので、自分への『ご褒美』を買ってきたんです! 真木様と凛花様にもおすそ分けしますね!」
「おお、それは気が利くではないか」
真木が期待を込めて紙袋の中身を受け取る。
スーパーの惣菜か、それともケーキか。
しかし、袋から出てきたパッケージを見た瞬間、真木と凛花は完全に固まった。
そこには、金色に輝く高級感あふれるパッケージに、誇らしげなフォントでこう書かれていた。
『最高級・国産黒毛和牛使用! 無添加プレミアムジャーキー(愛犬用・総合栄養食)』
「…………」
「…………」
大家部屋に、重苦しい沈黙が流れた。
「乃愛」
真木が、引きつった笑顔でパッケージを指差す。
「これは、なんだ?」
「えっ? ジャーキーですけど? お店で一番高い、六千円もするやつなんですよ! 私、ずっとこれの匂い嗅いでて、我慢できなくて……!」
乃愛がよだれを拭いながら熱弁する中、凛花が冷酷な声でツッコミを入れた。
「園田乃愛殿。あなたは確かに元・魔獣ケルベロスですが、現在の戸籍と社会的身分は『人間の女性』です」
「えっ、はい」
「人間の女性が、初給料の六千円を『犬用のエサ』に全振りするなど、資本主義における金銭感覚の崩壊も甚だしい! こんなもの、アパートの経費にも、我々の食費にも計上できませんよ!」
「そ、そんなぁっ! だってこれ、すごく美味しいお肉の匂いがするんですよぉ!」
「バカ野郎ッ!」
真木の丸めたチラシが、乃愛の頭にスパーンと炸裂した。
「あいたっ!」
「家賃を納めたのは褒めてやるが、お前はもう少し人間としての生活水準を上げろ! 犬のエサなど食わずに、スーパーで半額の豚肉を買ってきて自分で炒めろ! 余の作った特製チャーハンはどうした!」
「だってぇ、魔王様のチャーハン、ネギしか入ってなくてお肉全然ないんだもん……」
「大家の財布はまだ氷河期なのだ、文句を言うな!」
深夜の六畳間に、大家の怒声と、元魔獣の泣き声が響き渡る。
初給料で犬のオヤツを買ってしまったカリスマトリマー補助の更生への道は、まだまだ前途多難である。
しかし、コーポ日ノ出の家賃収入が確実に増加し、アパートが活気に満ちてきていることだけは、誰の目にも明らかな事実であった。
満室まで、残り一部屋(203号室)。
魔王の不労所得生活の完成は、いよいよ目前に迫りつつあった。




