第18話:路地裏のケルベロス
しとしとと降り続く冷たい雨が、東京・杉並区の住宅街を濡らしていた。
梅雨特有の、空気が重くまとわりつくような火曜日の早朝。木造アパート『コーポ日ノ出』の大家である真木征司(元魔王ヴァルザード)は、ジャージの上下に透明なビニール傘という出で立ちで、アパート横のゴミ集積所の前に立っていた。
「よし、黒木。今日の可燃ゴミの分別は完璧だな。プラごみやペットボトルは一切混入していないな?」
「ははっ! ご安心くだされ、真木様! この黒木鉄心、杉並区の『資源とごみの分け方・出し方』教典を脳髄に刻み込んでおります。我が軍の供物に、一分の隙もございません!」
真木の横で、雨合羽を着込んだ巨漢の元重装歩兵隊長・黒木鉄心が、半透明の指定ゴミ袋を両手で恭しく掲げていた。
かつてゴミ出しのルールを知らず、近所の主婦たちに包囲されて真木に土下座までさせた彼だが、今ではすっかり地域社会に適応し、アパートのゴミ出し番長としての地位を確立している。
「うむ。雨の日はカラスの動きも鈍いが、油断せずネットをしっかりと被せておくのだぞ。ゴミ集積所の美化は、我がコーポ日ノ出の資産価値と近隣トラブル防止に直結するからな」
「御意!」
黒木が青いカラス避けネットを持ち上げ、ゴミ袋を丁寧に指定の場所へと置いた。
任務を完遂し、二人がアパートへ戻ろうと踵を返したその時だった。
「……くぅん」
雨音に混じって、微かな、ひどく弱々しい鳴き声が真木の耳に届いた。
「む? なんだ、今の声は」
「真木様、あちらです。集積所の脇に、不法投棄されたと思しきダンボール箱が……」
黒木が太い指で示した先。電柱の陰に隠れるようにして、雨に濡れてひしゃげたミカン箱程度の大きさのダンボールが置かれていた。
真木は眉をひそめた。
「子猫か子犬か? まったく、この令和の時代に動物をダンボールで捨てるなど、なんという時代錯誤で無責任な人間がいるものだ。だが、保健所に通報するにしても、我が領地のすぐ脇で命を落とされては寝覚めが悪いな」
真木は傘を傾け、ダンボールの中を覗き込んだ。
そして、息を呑んだ。
ダンボールの中で雨露をしのぐように丸まっていたのは、子猫でも子犬でもなかった。
ボロボロに汚れた大きめのTシャツを一枚だけ羽織り、膝を抱えてガタガタと震えている、見た目は二十歳前後の小柄な『人間の少女』だった。
いや、ただの人間ではない。
雨に濡れて顔に張り付いたショートカットの栗色の髪、その頭頂部からは、ピンと尖った『犬の耳』が生えており、お尻のあたりからは立派な尻尾が力なく垂れ下がっている。
「こ、これは……獣人族の生き残りか!?」
黒木が驚愕の声を上げる。
しかし、真木はかつて魔界の頂点に君臨していた覇王の嗅覚で、少女から微かに漏れ出している『魔力の残滓』を瞬時に嗅ぎ取った。
「いや、違う。この猛烈な獣の匂い、そして微量ながらも重く禍々しいエーテルの波長……間違いない。こいつは獣人などではない。魔界の冥府の門を護っていた上級魔獣、『ケルベロス』だ!」
「ケ、ケルベロス!? あの、三つの頭と灼熱の牙を持ち、一鳴きで大地を割ると恐れられた魔界最強の番犬ですか! しかし、いかに見てもただの小柄な少女にしか……」
「この世界には魔力が存在しないからだ。魔力を失った上位の魔獣は、己の生命エネルギー(カロリー)の消費を極限まで抑えるため、最も燃費の良い人型のサイズまで肉体を圧縮・退化させる性質がある」
真木が説明している間にも、犬耳の少女は「お腹……すいた……」と掠れた声を漏らし、白目を剥いて完全に意識を失ってしまった。
大魔法が使えないこの現代日本において、カロリーの欠渇は即ち『死』を意味する。
「いかん、このままでは餓死するぞ! 黒木、箱ごと担げ! ひとまず大家部屋に収容する!」
「ははっ!」
かくして、雨の日の朝、コーポ日ノ出に新たな(そして極めて厄介な)居候が転がり込むこととなった。
* * *
コーポ日ノ出、一階。大家の六畳間。
「……また厄介なものを拾ってきましたね、大家」
出勤前のビジネススーツ姿の佐伯凛花(元首席補佐官)が、呆れたようにバインダーで額を叩いた。
彼女の視線の先には、真木から渡されたバスタオルにくるまり、大家用の座布団の上に丸くなっている犬耳の少女の姿があった。黒木がドライヤーを使って、不器用ながらも必死に彼女の濡れた髪と耳を乾かしてやっている。
「ペット不可の物件において、獣の類を部屋に入れるのは契約違反です。しかも相手はケルベロス。食費という名のランニングコストがどれだけ跳ね上がるか、計算するのも恐ろしいですよ」
「そう言うな、凛花。腐ってもかつての我が軍の同胞だ。それに、このまま路上で死なれて警察の捜査でも入れば、身元のない不法滞在者として我々のアパートの信用に傷がつく」
真木は言い訳をしながら、台所の古ぼけたガスコンロの前に立っていた。
彼の手には、使い込まれた鉄の中華鍋が握られている。
「カロリーだ。魔力のないこの世界で、消えかけた命の火を燃え上がらせるには、油と炭水化物の暴力的なまでの結合が必要だ」
真木は冷蔵庫から、昨日スーパーの特売で買っておいた冷やご飯、卵二個、ネギの端くれ、そして細切れの豚バラ肉を取り出した。
カンカンカンッ!
お玉で中華鍋を叩く小気味良い音が六畳間に響く。
多めのごま油を熱し、溶き卵を流し込んで瞬時に火を通す。そこに冷やご飯を投入し、米粒の一つ一つを卵のコーティングで包み込むように、魔王の強靭なリストを駆使して鍋を豪快に振る。
「ふんっ! はっ! 勇者の剣戟をいなすかのごとく、鍋肌に米を打ち付ける!」
パラパラになったご飯に、刻んだネギと豚肉を加え、最後に醤油を鍋肌に沿って回し入れる。
ジュワァァァァァッ!!
焦げた醤油の香ばしい匂いと、豚肉の脂の甘い香りが、爆発的に部屋中に充満した。
『大家・真木征司の特製チャーハン(原価約八十円)』の完成である。
「できたぞ。さあ、食え……って、うおっ!?」
真木がチャーハンを皿に盛り付け、ちゃぶ台に振り返った瞬間。
座布団の上で死にかけていたはずの犬耳少女が、猛烈なスピードでちゃぶ台に飛び乗り、よだれを滝のように流しながら目をギラギラと輝かせていた。
「にぐ! あぶら! おこめ!!」
「待て、熱いぞ! スプーンを使え!」
真木の忠告など聞く耳を持たず、少女は皿に顔を突っ込むような勢いで、特製チャーハンを文字通り「貪り食い」始めた。
ハフッ、ガツッ、ムシャムシャムシャムシャムシャムシャッ!!
かつて魔界の冥府の門前で、亡者たちを骨ごと噛み砕いていた三つ首の魔獣の面影。それが今、わずか八十円の冷やご飯と卵のチャーハンに対して、全力で発揮されている。
わずか十秒。
文字通り十秒で、大盛りだったチャーハンは皿から消え失せ、米粒一つ残さず綺麗に舐め回されていた。
「ぷはぁぁぁぁぁっ!! いきかえったぁぁぁぁっ!!」
少女は満面の笑みを浮かべ、ポンポンに膨れたお腹をさすりながら、満足げに特大のゲップを放った。
その後ろで、パタパタパタッ!と、犬の尻尾が千切れんばかりの勢いで左右に振られている。
「……食ったな」
「見事なまでの吸引力でした。しかし、これでは我がアパートのエンゲル係数が崩壊しますよ」
真木と凛花が呆気にとられていると、食事を終えて正気を取り戻した少女が、真木の顔をじっと見つめ、ピンと犬耳を立てた。
「あ、あれ……? その匂い、その魂の波長……。もしかして、ヴァルザード様!?」
「うむ。久しいな、ケルベロスよ」
真木が腕を組んで頷くと、少女は感動のあまりポロポロと涙を流し始めた。
「ヴァルザード様ぁぁっ! よかったですぅ! 勇者たちの攻撃で吹き飛ばされて、気がついたら魔力すっからかんの状態でこの変な街に落ちてて! 三つの頭も一つになっちゃうし、言葉は通じないし、道端のゴミ箱漁ってたらカラスに突っつかれるしで、もう死ぬかと……ううっ!」
彼女が名乗ったところによれば、彼女は現代日本に転移する際、無意識のうちに人間社会に適応するための概念を拾い上げたらしく、『園田乃愛』という人間の名前と戸籍の概念を(宝田不動産の志乃の遠隔サポートの介入もあったようだが)なんとか取得していたらしい。
「そうか、苦労したのだな」
真木が声をかけると、乃愛は「くぅ~ん」と甘えた声を出して、大家部屋の座布団の上に器用に丸まった。
「ここ、あったかいし、ご飯美味しいし、最高です。私、ずっとここにいますぅ……」
完全に野生を失い、人間に飼いならされた駄犬のポーズである。魔界を震撼させた上級魔獣の威厳は、特製チャーハン一皿の前にあっけなく崩れ去っていた。
「おおお……! なんという愛らしさ……!」
その光景を見て、背後で限界まで顔をニヤけさせていた男がいた。黒木鉄心である。
解体現場で丸太のような腕を振り回す大男は、実は大の動物(特にモフモフしたもの)好きという隠れた一面を持っていた。
「真木様、よろしいでしょうか! この者の頭部を、少しだけ撫でてみても!?」
「構わんが、噛みちぎられても労災は出んぞ」
黒木は恐る恐る、自分の顔ほどもある巨大な掌を伸ばし、丸まっている乃愛の頭にそっと触れた。
なでなで。
「……んぁ。もっとぉ」
乃愛は全く警戒する素振りを見せず、むしろ黒木の分厚い手に頭をこすりつけ、気持ちよさそうに喉をゴロゴロと鳴らし始めた。尻尾が再びパタパタと小気味良い音を立てて畳を叩く。
「おおおおおっ! 撫でさせてくれましたぞ、真木様! この柔らかさ、温かさ! 我が重装歩兵の鋼の鎧など、このモフモフの前では無力も同然! 日々の労働の疲労が、一瞬にして浄化されていくのを感じます!」
「ふふっ、おっきいお兄さん、手があったかいねー」
完全に黒木の巨体に懐き、へそ天のポーズで無防備にお腹を見せる元・魔界最強の番犬。
その光景は、もはや恐怖など微塵も感じさせない、ただの微笑ましい「大型犬と飼い主の触れ合い」の映像であった。
だが、このアパートの大家である真木征司の目は、そんな温かい光景を前にしても決して曇ることはなかった。
彼は静かに、しかし絶対的な威厳を持って、分厚いバインダーをちゃぶ台の上に置いた。
「……さて、乃愛」
「はーい、魔王様? おかわりありますか?」
「おかわりはない。代わりに、これにサインしろ」
真木が差し出したのは、コーポ日ノ出の『建物賃貸借契約書』であった。
「え? なんですか、これ」
「お前の入居契約書だ。部屋は現在空いている201号室。家賃は月額五万二千円とする。初期費用の敷金礼金は特別に分割払いにしてやろう。電気とガス、水道の契約は凛花が代行してやる」
キョトンとする乃愛に対し、真木は冷徹な資本主義の現実を突きつけた。
「いいか、ケルベロスよ。この日本という国には、『働かざる者食うべからず』という絶対の法則が存在する。余はお前に衣食住の環境を提供するが、それは慈善事業ではない。対価として、お前には家賃(年貢)を納めてもらう」
「や、やちん……? 私、お金なんて持ってませんよぉ?」
「ならば稼げ! 人間の社会に溶け込み、その獣の特性を活かして労働力を提供し、合法的な日本円をもぎ取ってくるのだ!」
真木の説教に、乃愛はピクリと犬耳を立てた。
魔獣としての誇りは消え失せても、主君に対する絶対の忠誠心(と、ご飯への執着)はしっかりと残っている。
「労働……! つまり、働けばまたあの美味しいご飯が食べられて、雨に濡れないお部屋で寝られるんですね!」
「そうだ。家賃を滞納すれば、即座に荷物をまとめて河川敷に放り出すからな。家賃滞納はギルティ(重罪)だ!」
「やります! 私、働きますぅ!」
乃愛は勢いよく立ち上がり、右手でビシッと敬礼を決めた。
「なんでもやります! 噛みつけって言われたら敵の喉笛でも噛みちぎります!」
「人間を噛むな! 傷害罪で警察が来たらアパートが事故物件になるだろうが! もっと平和的で、お前の特技を活かせる仕事を見つけるのだ!」
凛花がすかさずスマートフォンを操作し、近隣の求人情報を検索し始めた。
「犬の特性、嗅覚、聴覚、そして動物とのコミュニケーション能力……。大家、駅前の商店街に『ペットサロン兼ドッグカフェ』のアルバイト募集が出ています。トリマーの補助スタッフのようですが、彼女なら適性があるかもしれません」
「ほう、ドッグカフェか。動物相手の商売なら、こいつの右に出る者はいまい」
真木はニヤリと笑い、乃愛の頭にポンと手を置いた。
「決まりだな、乃愛。明日はさっそくその『ペットサロン』とやらに面接に行け。履歴書の書き方は凛花に教われ。そして、必ず採用を勝ち取ってくるのだ」
「はいっ! 任せてください、大家さん!」
パタパタパタパタッ!
乃愛の尻尾が、まるで扇風機のように高速回転して喜びを表現している。
こうして、コーポ日ノ出の四人目の店子が決まった。
元・冥府の番犬、現・犬耳フリーター。
彼女が人間社会のペット業界に旋風を巻き起こし、マダムたちの愛犬を次々と平伏させる『カリスマトリマー補助』として覚醒するのは、もう翌日のことであった。
大家・真木征司の満室経営への道は、雨上がりの空のように、また一歩明るく開けつつあった。




