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第17話:最速ピックアップと交通ルール

風属性魔導暗殺者、久世颯太くぜ・そうた

彼がフードデリバリーという現代日本の「暗殺任務ドロップ」に就いてから、一週間が経過していた。

彼の配達能力は、まさに異次元の領域に達していた。風を読み、路地裏を最短距離で駆け抜けるそのスピードは他の配達員の追随を許さず、保温バッグを背負ったまま全くブレない体幹によって、汁物の一滴すらこぼさない完璧な状態を維持する。

アプリの評価は常に満点。チップの獲得率も異常な数値を叩き出していた。


「素晴らしい……。一日に四十件以上の配達キルをこなし、稼いだ報酬はすでにこれまでの魔界での生涯年収を上回る勢いだ」

夏の強い日差しが照りつける杉並区の路上。

ロードバイクに跨った久世は、ハンドルのスマートフォンに表示された本日の売上画面を見て、一人ニヤリと笑った。

「しかし、まだいける。人間の配達員どもが休憩を取るこのアイドルタイムこそが、真の暗殺者が稼ぐ時間帯。この調子で件数を稼げば、今月の家賃どころか、真木様からお借りしているロードバイクの代金すら一括で返済できるはずだ!」

ピロリンッ!

スマートフォンが新たな配達リクエストを告げた。

ピックアップ先は駅前のファストフード店、ドロップ先はここから二・五キロ離れた隣町のアパート。制限時間は厳しめだが、久世の脚力なら余裕で間に合う。

標的ターゲット、補足! これより最速でのドロップ任務に移行する!」

久世はペダルを強く踏み込み、風となった。


しかし、成果を焦るあまり、彼はある重大な事実を軽視しつつあった。

彼が今走っているのは、魔界の荒野でもなければ、敵軍の陣地でもない。法とルールによって極めて厳格に統制された、現代日本・東京の公道であるという事実を。


「ショートカットだ。この先の細い路地を抜け、十字路をそのまま直進すれば、大通りを回避して三十秒は短縮できる!」

久世は裏道の迷宮へとロードバイクを滑り込ませた。

両脇を住宅のブロック塀に挟まれた見通しの悪い細い道。前方に十字路が見えてきた。地面には『止まれ』の白い文字と、赤い逆三角形の標識が立っている。

本来であれば、ここで確実に一時停止し、左右の安全を確認しなければならない。

だが、配達件数に憑りつかれ、スピード至上主義に陥っていた久世の脳内に、「停止」という文字はなかった。

(私の気配察知能力が、左右からの車両の気配はないと告げている! ならば、減速など無用ッ! そのまま突破する!)

久世はブレーキレバーから指を離し、時速三十キロ近いスピードのまま、十字路へと突っ込もうとした。


その瞬間である。

ピィィィィィィィィッ!!

耳をつんざくような、鋭く、そして絶対的な権力を伴った笛の音が路地に鳴り響いた。

「なっ!?」

久世は反射的に急ブレーキをかけた。

キキィィィッ!と甲高い摩擦音を立ててタイヤがロックし、ロードバイクの後輪がわずかに浮き上がる。なんとか十字路の手前で完全停止した彼の目の前に、白い自転車に乗った制服姿の男性が立ちはだかっていた。

白と黒の制服。腰には警棒。胸には輝く旭日章。

杉並区をパトロール中の、地域警察官である。

「そこのウーバーのお兄さん! ちょっと止まりなさい!」

警察官は厳しい顔つきで久世に歩み寄ってきた。

「ヒッ……! き、騎士団の巡回部隊……!」

久世の暗殺者としての本能が、瞬時に「逃走」の二文字を脳内に弾き出した。

(魔力を使えば……いや、路地裏の塀を三角飛びで越えれば、この程度の包囲網など一瞬で突破できる!)

久世の筋肉が爆発的なバネのように収縮し、今まさに空高く跳躍しようとした、その直前。


『――いいかお前たち。警察沙汰は前科になる。我がコーポ日ノ出から犯罪者を出せば、アパートの資産価値は地に落ちる。警察を怒らせた者は、家賃滞納以上のギルティとしてベランダで直射日光の刑に処すからな』


大家である真木征司の、絶対零度の脅し文句が久世の脳裏にフラッシュバックした。

「……ッ!」

跳躍しかけた足の力を無理やりねじ伏せ、久世はガタガタと震えながらロードバイクの横に直立不動で立った。

「お兄さん、今、一時停止の標識、完全に無視して突っ込もうとしたよね? ここは出会い頭の事故が一番多い交差点なんだよ。左右確認もしないで、もし子供でも飛び出してきてたらどうするつもりだったの?」

「も、申し訳ありませぬっ!!」

久世は勢いよく頭を下げた。

「配達を急ぐあまり、安全確認を怠りました! 決して、騎士団に歯向かう意思など微塵もございません!」

「騎士団? まあいいや。最近、自転車の配達員による危険運転がすごく問題になっててね。一時停止無視は、自転車でも立派な交通違反なんだよ。赤切符(交通切符)を切られてもおかしくない行為だからね」

「あ、赤切符……! 切腹の宣告ですか!?」

「なんでそんな物騒な言葉が出てくるの。まあ、今回はギリギリ手前で止まったし、素直に反省してるみたいだから厳重注意にしておくけど。次やったら本当に違反切符切るからね。安全運転でお願いするよ」

「ははぁっ! 海よりも深きご慈悲、生涯忘れません! 以後、絶対に法令を遵守いたします!」


警察官が去っていった後、久世はその場にへたり込み、大量の冷や汗を拭った。

「あ、危なかった……。配達の件数に目が眩み、あやうく我がアパートの存亡を揺るがす大罪を犯すところであった……」

その後、すっかり肝を冷やした久世は、人が変わったように超安全運転(時速十キロ以下、全交差点で三秒停止)で配達を終え、逃げ帰るようにコーポ日ノ出へと帰還したのである。


* * *

「――というわけで、貴様は一時停止標識を無視し、あやうく警察にしょっ引かれそうになったと。そういうことだな、久世」

その日の夜。

コーポ日ノ出の一階、大家部屋。

六畳間のちゃぶ台の前に正座させられた久世は、雷に打たれたカエルのように縮こまっていた。

彼の前には、腕を組み、仁王立ちになった大家の真木が、地獄の底から響くような声で威圧感を放っている。

「も、申し訳ありません、真木様! すべては私の驕りと、現金の魔力に目が眩んだ結果……! いかような処罰も受ける覚悟です!」

「馬鹿野郎! 処罰で済む問題か!」

真木がバンッとちゃぶ台を叩いた。

「いいか久世! 我がコーポ日ノ出の店子が交通違反で捕まり、もしそれが新聞やネットのニュースに『杉並区の配達員、悪質運転で書類送検』などと載ってみろ! アパートの住所が特定され、『あのアパートには交通ルールも守れないならず者が住んでいる』とレッテルを貼られるのだぞ! そうなれば、新たな入居者はおろか、大家である私の社会的信用まで完全に崩壊するわ!」

「ひぃっ……! 真木様の不労所得生活の根幹を揺るがす大罪……! 腹を切ってお詫びを!」

「腹は切るな! 事故物件になって資産価値が落ちるだろうが!」


真木の怒声が響く中、部屋の襖が開き、101号室の黒木鉄心と、102号室の佐伯凛花が顔を出した。

「真木様、大声が聞こえましたが、久世の奴が何かやらかしたのですか?」

プロテインのシェイカーを振りながら入ってきた黒木が問う。

「ああ。こいつが自転車で交通ルールを無視し、警察からイエローカードを食らったのだ」

それを聞いた瞬間、凛花が極めて冷徹な声で言った。

「……愚かですね、久世殿。自転車事故の恐ろしさを全く理解していない」

凛花はバインダーを開き、冷ややかな視線を久世に向けた。

「自転車と言えど、歩行者とぶつかって相手に重傷を負わせた場合、損害賠償額が数千万円から、場合によっては一億円近くにのぼるケースもあります。あなたは『自転車保険』には加入していますか?」

「じ、じてんしゃほけん……? そのような防御魔法シールドは展開しておりませんが……」

「無保険で爆走していたと!? 万が一事故を起こせば、あなたの数千万円の負債は、最悪の場合、大家である真木様にも管理責任として火の粉が降りかかりかねないのですよ!」

「い、いちおくえん……ッ!?」

真木が白目を剥いてよろめいた。

「いかん! そんな爆弾を抱えたまま、この馬鹿を公道に放つわけにはいかん! 凛花、今すぐ私のスマートフォンで、久世名義の最も保証の厚い自転車保険を契約しろ! 保険料はこいつの家賃に上乗せだ!」

「承知いたしました、大家マスター。即座に手続きを行います」

カタカタと凄まじいスピードでスマートフォンの画面をタップする凛花。


真木は息を整え、部屋の隅からホワイトボード(ゴミ捨て場で拾ってきたもの)を引っ張り出してきた。

「いいか久世。お前は現代の『道路交通法』という絶対のルールを根本的に勘違いしている。今夜は朝まで、徹底的に交通安全講習を行ってやる! 黒木、お前もそこに座れ!」

「はっ! 私は自転車には乗りませぬが、真木様の教えとあらば!」

黒木はプロテインを飲み干し、久世の隣に正座した。

真木は赤いマジックペンを握り、ホワイトボードに大きな『逆三角形』のマークを描いた。

「まずこれだ、久世。今日お前が無視した標識。これが何を意味しているかわかるか?」

「はっ!」

久世が自信満々に答える。

「赤い血の色で塗られた、鋭い三角形! これは明らかに『この先、敵の移動阻害結界あり。侵入すれば呪いを受ける』という警告マークかと存じます!」

「違うわボケェッ!!」

真木の丸めたチラシが久世の頭に炸裂した。

「これは『止まれ』の標識だ! 結界でも呪いでもない、ただ物理的に『自転車を完全に停止させろ』という国家の絶対命令なのだ! ここで止まらなければ、横から突っ込んできた鉄の塊(自動車)に跳ね飛ばされてお前がミンチになるのだぞ!」

「な、なんと……。呪いではなく、即死の物理トラップであったとは……」

「さらにだ!」

真木はホワイトボードに、道路の図を描いた。

「自転車は軽車両だ! 原則として『車道の左側』を通行しなければならない! お前、まさか歩道を猛スピードで爆走したりしていないだろうな!?」

「えっ? い、いや、歩道の方が障害物が少なく、風を読みやすいので、つい……」

久世が口籠もると、横に座っていた黒木が突然カッとなって立ち上がった。

「久世ッ! 貴様、恥を知れ!」

「く、黒木隊長!?」

黒木は解体現場で鍛え抜かれた胸板を叩き、暑苦しいまでの正義感で叫んだ。

「歩道とは、歩行者……すなわち非戦闘員(老人や子供)が安全に通行するための『絶対不可侵の聖域』である! 重装歩兵たる我らが命を賭して守るべき民草の領域に、鉄の車輪に乗って高速で突っ込むなど、魔王軍の軍規に照らしても言語道断の恥知らずな行為だ!」

「聖域……! 歩行者の領域……!」

「そうだ! いかなる理由があろうとも、弱者を脅かすような真似をする者は、この黒木鉄心が解体現場のバールで貴様の自転車ごと粉砕してくれるわ!」

「黒木、お前は少し黙ってろ。話がややこしくなる」

真木が黒木を座らせ、再びホワイトボードに向き直った。


「いいか久世。お前は暗殺者として最速を目指すあまり、最も重要なことを見失っている。フードデリバリーにおける最高の評価とは、ただ早いことではない。『安全に、周囲に恐怖を与えず、確実に商品を届けること』だ。お前が歩道で歩行者をヒヤリとさせれば、それはアパートの信用低下に直結する。我が城の平穏を乱す者は、家賃をいくら払おうが即刻退去だ」

真木の静かで、しかし重い言葉が、久世の胸に深く突き刺さった。

ただの運び屋としてしか仕事を見ていなかった己の浅はかさ。

大家である真木に、一億円という途方もない賠償リスクを背負わせようとしていた無責任さ。

「……真木様」

久世は深く、畳に額を擦り付けた。

「私が愚かでございました。風を読むことに夢中になり、社会のルールという最も強固な結界を見落としておりました。二度と、絶対に二度と、交通違反はいたしません!」

「わかればいい。お前は優秀な配達員になれる素質がある。それを無駄にするな」

真木はそう言うと、傍らに置いてあったダンボール箱から、一つの丸い物体を取り出し、久世の前に置いた。

「こ、これは……?」

「安全第一の証だ。明日から配達に出る時は、必ずこれを装備しろ」

それは、真っ黒な『自転車用のヘルメット』であった。

「努力義務とはいえ、万が一転倒した時にお前の命を守る防具だ。ヘルメットを被らずに戦場に出るなど、三流の兵のやることだぞ」

「兜……!」

久世はそのヘルメットを両手で恭しく受け取り、胸に抱いた。

「ありがたき幸せ……! この久世颯太、真木様から賜りしこの黒き兜を生涯の相棒とし、模範的なサイクリストとして杉並の街にその名を轟かせてみせます!」


* * *

翌日の昼下がり。

杉並区の交差点に、一台のロードバイクがゆっくりと近づいてきた。

乗っているのは、黒いパーカーに、頭にはしっかりと黒いヘルメットを装着した久世颯太である。

前方に『止まれ』の赤い逆三角形の標識が見えた瞬間。

久世は余裕を持ってブレーキレバーを握り、停止線の完全に手前で、両足をしっかりとアスファルトにつけて完全停止した。

「……右、ヨシ! 左、ヨシ! 後方、気配なし! 交差点、完全クリア!」

声出し確認まで行うその完璧な一時停止っぷりに、横の歩道を歩いていた老婦人が「あら、最近の自転車の配達員さんは礼儀正しいわねえ」と感心して微笑んだ。

「お褒めに預かり光栄です、ご婦人! では、これよりドロップ任務に復帰いたします!」

久世は爽やかな笑顔を残し、安全確認を終えてから、車道の左側を滑るように走り出していった。

歩道は絶対に走らない。一時停止は三秒止まる。歩行者がいれば必ず譲る。

暗殺者としてのスピード狂から脱却し、『安全第一の優良配達員』へと見事な更生を遂げたのである。


その様子を、アパートの二階の共用廊下から、真木は満足げに見下ろしていた。

「ふっ。あいつめ、すっかり模範的なサイクリストの顔になりおって。まあ、これなら警察の厄介になることもあるまい」

真木は手元のスマートフォンを開き、凛花が設定してくれた『自転車保険(賠償責任一億円・月額数百円)』の契約完了画面を見て、ホッと胸を撫で下ろした。

店子たちが起こす様々なトラブルと、それに伴う法的なリスク。

大家の仕事は、ただ家賃を待つだけではない。彼らを社会のルールに適応させ、アパートという共同体の平穏を守り抜くことこそが、真の不労所得への道なのだ。

「さて、次はどんな問題が起きるやら……」

真木が呟いたその時、アパートの敷地のすぐ外にあるゴミ集積所から、微かな「クゥーン」という鳴き声が聞こえてきた。

新たな厄介な店子トラブルが、もうすでにそこまで迫っていることを、大家の魔王はまだ知る由もなかった。

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